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六丈記2

備忘録のようなもの

天下三肩衝 前編

 茶道のお茶の入れ方は2通りあり、ドロドロに練って飲む濃茶と泡立てて飲む薄茶があるそうです。格としては濃茶が上で、薄茶が下になるようです。濃茶、薄茶といっても材料は抹茶とお湯だけですから、違いは簡単にいうとお茶の濃度の違いでしょうか。
 濃茶や薄茶という言葉は入れ方の他に、抹茶の種類を表すのに用いられます。濃茶用の抹茶を濃茶、薄茶用の抹茶を薄茶と言います。濃茶と薄茶の違いは味で、濃茶の方が苦味や渋みが少なく上等とのこと。濃茶用の抹茶を薄茶に使うことはあっても、その逆は無いそうです。苦味が強すぎて、飲めないからだとか。
 
 抹茶を入れる容器(茶器)は濃茶と薄茶で分かれていて、濃茶を入れる容器を「茶入」、薄茶を入れる容器を「薄茶器」と呼びます。薄茶器は元々、中に茶入を収める容器で、後に薄茶用の容器に転用されました。だから、茶入と薄茶器では材質が異なります。茶入は主に陶磁器(蓋は象牙など)で、薄茶器は漆器などです。茶入も薄茶器も様々な種類があり、形状などで分類されます。
 
 茶入の形状を色々ある中でいくつか取り上げてみます。
●茄子(なす)   :丸茄子型
●文琳(ぶんりん) :林檎型
●肩衝(かたつき) :肩が張った形
●大海(たいかい) :口が広い平丸型
●内海(ないかい) :口が狭い平丸型
●丸壺(まるつぼ) :甑(こしき、首の部分)が長めの平丸型
●瓢箪(ひょうたん):瓢箪型
●耳付(みみつき) :耳状の突起を持つ形
 
 ちなみに、茶入の各部名称は下の写真の通りです。
 
 

 「九十九髪茄子 前編」のエントリにも書きましたが、茄子には名物である「九十九髪茄子・松本茄子・富士茄子」の3つを天下三茄子と呼んでいました。肩衝も同様で「初花・楢柴肩衝・新田肩衝」の3つを天下三肩衝と呼びます。しかも、「天下三肩衝を私する者は、天下を我がものにする。」と言われていたそうで、名物狩りに精を出していた信長でさえ、3つ揃えることは出来ませんでした。
 
◆「唐物肩衝茶入〈銘初花〉」
所有者_:財団法人徳川記念文化財団
指定__:重要文化財
製作国_:中国
製作年代:南宋
寸法重量:高さ8.8cm 胴径7.9cm 底径4.5cm 胴廻24.8cm 口径4.7cm 甑高1.1cm 肩幅1.4cm 重量139.9g
銘の由来:足利義政が「古今集」の和歌「くれないのはつ花ぞめの色ふかく思ひしこころ われわすれめや」に因んで付けたとも。
伝来__:足利義政→鳥居引拙→大文字屋疋田宗観→織田信長→織田信忠→松平念誓→徳川家康→豊臣秀吉→宇喜多秀家→徳川家康→松平一伯(忠直)→松平備前守→徳川綱吉→徳川美術館。

 

◆「大名物 漢作肩衝茶入 銘 新田」
所有者_:公益財団法人徳川ミュージアム
指定__:重要美術品
製作国_:中国
製作年代:南宋末~元初期
寸法重量:高さ8.5cm 胴径7.7cm 胴廻24.5cm 口径4.5cm 甑高1.4cm 肩幅1.0cm 重量120.0g
銘の由来:新田義貞が愛用していたと言われていることから。
伝来__:村田珠光→三好政長→織田信長→大友宗麟→豊臣秀吉→徳川家康→徳川頼房→水戸徳川博物館

 
◆楢柴肩衝
所有者_:消失
指定__:-
製作国_:中国
製作年代:不明
寸法重量:不明
銘の由来:釉色が濃いアメ色であったことから、「万葉集」の「御狩する狩場の小野の楢柴の汝はまさで恋ぞまされる」の歌に因んで付けたとも。
伝来__:足利義政→村田珠光→鳥居引拙→天王寺屋宗伯→神谷宗白→島井宗室→秋月種実→豊臣秀吉→徳川家康→消失

 

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唐物肩衝茶入〈銘初花/〉
http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=201&item_id=6747
初花
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E8%8A%B1
楢柴肩衝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E6%9F%B4%E8%82%A9%E8%A1%9D
公益財団法人 徳川ミュージアム
http://tokugawa.gr.jp/index.html
公益財団法人 德川記念財団
http://www.tokugawa.ne.jp/index.htm
名物茶入
http://members.ctknet.ne.jp/verdure/cyaire/index.html
 

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九十九髪茄子 後編

 「九十九髪茄子 前編」の続き。
 
 つくも茄子の伝来をみると、室町時代初期から既に貴重品として扱われていたことがうかがわれます。まだ、陶磁器の製作技術が遅れていた日本では、唐物は優れた製品として持て囃されていたようです。16世紀以降のヨーロッパでは「japan」は漆器、「china」は磁器を意味したとのことですから、つくも茄子が製作された頃には、既に中国製陶磁器は世界最高品質だったのかもしれません。
 
 東山御物になった(1480年前後か?)後、売買されたりして値が付いています。現在の金額にするといくら位になるのでしょうか。時代によって価値基準が異なるため、正確な値を出すことはできませんが、一度、米に換算し、その米の現在価格から現在の金額を試算してみます。
※1石=150kg、1貫文=1000文で換算。
※戦国時代は玄米を食べていましたので、取引記録に出てくる米は玄米と推定しました。
※現在の玄米価格を60kg=15075円(2007年)としました。
※現在の白米価格を10kg=3850円(1995年消費者米価)としました。

購入者 :村田珠光(1502年没)
購入額 :99貫文
購入年 :15世紀末
米換算 :23769kg(玄米)
現在価値:597万円
備  考:1496年の京都で米10石6斗7升が6貫666文で取引された記録あるので、それより換算。1.600石/貫文
 
購入者 :朝倉宗滴(1477年~1555年)
購入額 :500貫文
購入年 :不明。1527年に上洛しているので、その時に京都で購入したと推測。
米換算 :120002kg(玄米)
現在価値:3015万円
備  考:1527年の京都で米24石7斗4升2合9勺が15貫464文で取引された記録あるので、それより換算。1.600石/貫文
 
購入者 :小袖屋
購入額 :1000貫文
購入年 :袋屋に預けたのが天文法華の乱(1536年)の前だから、1530年頃に購入したと推測。
米換算 :314046kg(玄米)
現在価値:7890万円
備  考:越前での適当な取引記録が見当たらないので、1530年の京都で米40石9斗8升6合4勺が19貫517文で取引された記録を利用。2.093石/貫文
 
購入者 :松永久秀
購入額 :1000貫文
購入年 :20年間所持し、1568年に信長へ献上しているので、1548年に購入したと推測。
米換算 :285272kg(玄米)
現在価値:7167万円
備  考:1547年の京都で米42石5斗4升3合7勺が22貫370文で取引された記録あるので、それより換算。1.901石/貫文

 

購入者 :岩崎弥之助
購入額 :400円
購入年 :弥之助は兄・弥太郎に購入代金を借りたともあり、だとすれば社長になる前(1885年以前)だと考えられる。三菱商会は西南戦争(1877年)で大きな利益を上げ、1883年から共同運輸とのダンピング競争に突入するので、購入は資金的に余裕のあるこの間ではないだろうか。なので、1880年と推測。
米換算 :11111kg(白米)
現在価値:427万円
備  考:1880年前後は米価に大きな変動があり、いくらに設定するのが適切なのか難しいが、1升(1.5kg)の米価が1877年に5銭4厘、1887年に5銭なので、1.5kg=5銭4厘とした。
 
 ネットを検索していると、歴史雑学本を数多く執筆している小和田哲男・静岡大学教授が織田信長の時代の貨幣価値について「一貫文が今のいくらになるのかは、なかなか難しい質問です。米の値段が変動しているからです。私は低い時に五万円、高い時に十万円として、だいたいの計算はしています。八万円としても良いのではないかと思います。」と発言しているとの書き込みが多数見られました。そうだとしますと、99貫文は495~990万円(8万円で792万円)、500貫文は2500~5000万円(8万円で4000万円)、1000貫文は5000~10000万円(8万円で8000万円)となります。試算は低めの値寄りですが、妥当なところではなでしょうか。
 戦国時代、名物茶器は一国にも匹敵すると思われていたそうです。つくも茄子も多少なりとも歴史に影響を及ぼしたものです。それなのに、8000万円弱程度のの価値しかなかったとは。結局、食料など日常に消費される物と高級品の価格差が現代ほど大きくなかったのでしょうね。だから、米を基準にするとこの程度の価格になるのでしょう。
 
 次に、1880年(明治時代)の現在価値を消費者物価から試算してみます。
1880年の消費者物価指数(日銀)=0.385
1970年の消費者物価指数(日銀)=577.9
1970年の消費者物価指数総務省)=33.0
2008年の消費者物価指数総務省)=101.7
1880年~1970年は1501.0倍、1970年~2008年は3.08倍。よって、1880年の現在価値は4623倍になります。ですから、1880年の400円は、現在では185万円の価値になります。
 427万円と185万円では2倍以上の差がありますが、自動車1台分位(クラウンカローラ位の差はありますが)の価値だったと考えてよさそうです。安過ぎて、一寸以外です。もっとも、この年の大輔(大臣の次に当たる地位)の月収が同じ400円で、現在の副大臣の年収が約2200万円(月割りにすると183万円)ですから、自動車1台分というのは妥当なところなんでしょうけど。
 ちなみに、明治20年の岩崎弥之助(当時社長)の年収は250,664円でした。つくも茄子626個分相当ですね。
 
 つくも茄子はたぶん安土桃山時代に最も高い価値になり、明治には価値が低下していました。低下したのは時代の価値観の変化だけではなく、大破したことも関係してるかもしれません。それでも、現在、つくも茄子をオークションに出品したら、高値が付くと思います。おそらく、億を下ることはないのではないでしょうか。
 けれども、冷静に考えれば、つくも茄子は小さな陶磁器の容器に過ぎません。つくも茄子に似せて作られた写しの茶入なら、24360円で購入できます。本物と写しを見比べてみると、素人目に見ても本物の方が高価そうに見えますが、機能的には何ら変わりませんし、見栄えも大きく違うわけではありません。
 
 つくも茄子の名が無く、唯の古い茶入なら、高値が付くでしょうか。驚く程の値になることはないでしょう。茶道具に限らないことですが、結局、こういう物は物自体の価値より、由来(背景の物語)の方が大事なのでしょうね。
 
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消 費 者 物 価 等
http://chigasakiws.web.fc2.com/ima-ikura.html
明治人の俸給
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J022.htm
1028kaku_kyuyo.pdf
http://www.kantei.go.jp/jp/tyokan/noda/1028kaku_kyuyo.pdf
茶道具・宝雅堂
http://store.shopping.yahoo.co.jp/cyadougu-hougadou/tyaire-tukumonasu.html

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九十九髪茄子 前編

 「平蜘蛛茶釜」のエントリに登場した「九十九髪茄子」は「九十九茄子」、「付藻茄子」、「作物茄子」などとも書かれ、「つくもなす」又は「つくもなすび」と読みます。また、松永久秀が所持していたことから「松永茄子」とも呼ばれることがあります。九十九髪茄子の名の由来は茶匠の村田珠光が九十九貫文で買い取ったことから、「伊勢物語」所収の「百年(ももとせ)に 一年(ひととせ)たらぬ 九十九髪(つくもがみ) 我を恋ふらし おもかげに見ゆ」という和歌にちなみ、珠光が名付けたそうです。
 つくも茄子は丸茄子に似た形の陶器製抹茶(濃茶)入れで、缶詰の6号缶程の大きさです。
 
高さ2寸3分5厘(7.1cm)
胴径2寸4分5厘(7.4cm)
胴廻り7寸6分(22.8cm)
口径9分(2.7cm)
底径9分(2.7cm)~1寸(3.0cm)
甑高3分2厘(0.9cm)
肩幅1分5厘(0.4cm)
重量20匁4分(96.5g)。

 

 つくも茄子は唐物と呼ばれ、12~13世紀の中国(南宋~元時代)で香油や薬の容器として作られた物です。一説には日本に輸入された後、バサラ大名の佐々木道誉が茶入れに転用したとも言われています。
 「天下三茄子」(富士茄子、松本茄子、九十九髪茄子)に数えられ、名品中の名品と評価されていて、20年間所持した松永久秀は「土薬、なり、ころ、口の作り、古人天下一の名物というのは、『つくも』をいうなり」と賛美していました。
 
※「なり、ころ」とは名物道具の要素のことで、「形(なり)」、「比(ころ)」、「様子」を名物道具の3要素と言います。「形」は形の良さ、「比」は使いやすいほ適正な大きさ、「様子」はかもし出す雰囲気と味わいの良さのことです。
 
 この手のひらに乗るほどの小さな茶入れは様々な人達の間を流転して現在に受け継がれ、今は静嘉堂文庫美術館に収蔵されています。ただ、現在の姿は無傷のように見えますが、X線調査を行なったところ、漆で細かい破片を接ぎ合わせて組み立てたことが判明したそうです。表面を覆う部分はほぼすべて色漆で覆われていることも分かりました。この辺りの事情が重要文化財にも指定されていない理由でしょうか。
 
 前述したようにつくも茄子は次々と所有者が移り変わり、波乱に富んだ伝来を持つために「流転の茶器」との戯称もあります。どの様な人達の手に渡って現在に至ったのでしょうか。その伝来をひも解いてみます。

1)佐々木道誉
 洛外大原野の花の下で闘茶会を催すなど、無類の闘茶好きだった佐々木道誉が所有し、3代将軍・足利義満に献上。
2)足利義満
 北山文化を築いた足利義満が愛用し、その後、代々足利将軍家に伝わる。
3)足利義政
 東山文化を築いた8代将軍・足利義政の同朋衆の能阿弥が茶事を芸術の域まで高め、「書院台子の茶」として形式化。書院台子の茶は武家貴族の社交と美術品の鑑賞をするための茶であったため、義政は能阿弥に所持していた多数の宝物の中から優れた物を選定させ、正倉院御物にまねて「東山御物」とした。つくも茄子も東山御物に含まれる。
4)山名政豊
 足利義政は寵臣・山名政豊(山名宗全の息子)に下賜し、政豊は誇りに思い戦場に持参する程だったが、茶の師であった村田珠光に売却する。
5)村田珠光
 99貫で購入した珠光は「九十九髪茄子」と命名。
6)朝倉宗滴(教景)
 入手経路は不明だが、500貫で購入。
7)越前の呉服商「小袖屋」
 小袖屋が宗滴から1000貫で購入。越前一向一揆の難を避けるため、又は仕覆を作らせるため、小袖屋は京都の豪商「袋屋」に預ける。
8)松永久秀
 入手方法は不明ながら、久秀が袋屋から手に入れる。久秀が言葉巧みに奪い取ったとか1000貫で買い取ったとも言われている。
9)織田信長
 信長が上洛すると、久秀が恭順の印として献上。今井宗久からも名物を献上されていた信長は「茶の湯」の利用価値に目を付け、名物狩りを始める。
 つくも茄子は本能寺の変の時も信長の側にあり、焼失したとも(山上宗二記)。
10)豊臣秀吉
 焼失したはずだったが、秀吉に渡る。理由は諸説あり、同じ茶器があったとする説 、本能寺焼け跡から掘り出したとする説 、何者かが本能寺の変の前に持ち出したとする説などがある。
11)有馬則頼(刑部卿法印)
 秀吉の御伽衆として仕えていた有馬則頼が秀吉から拝領する。
12)豊臣秀頼
 どの様な経緯があったか不明だが、秀頼が所持する。
 大坂の夏の陣で大坂城が炎上し、大破。
13)徳川家康
 大坂城の焼け跡の灰の中から破片を回収させ、奈良の塗師の藤重藤元・藤厳父子に漆で修復させる。
14)藤重藤元
 見事な修復ぶりに驚嘆した家康は褒美として藤元に下賜し、以後、藤重家の家宝として代々伝えられる。
15)岩崎弥之助
 藤重家から直接購入したのかは分からないが、岩崎弥之助(三菱第2代社長)が400円で購入。
16)岩崎小弥太
 弥之助の子・小弥太(三菱第4代社長)が相続。
 1940年に財団法人静嘉堂を設立。
17)静嘉堂文庫美術館
 1945年、小弥太が死去すると、生前の遺志により、静嘉堂に寄贈される。
 1992年、静嘉堂文庫美術館が開館し、美術館が収蔵する。
 
※佐々木道誉以前の所有者や村田珠光から朝倉宗滴までの間の所有者は不明。
 
  現在のつくも茄子の姿を見てもバラバラに壊れたとは思えない見事な修復ぶりですが、藤重父子は壊れる前のつくも茄子を見ていたとは思えず、壊れた破片から元の姿を想像して修復したものと思われます。そうなると、現在のつくも茄子は本来の姿とは多少違うのかもしれませんね。
  
 

 「喜左衛門井戸」の所有者・竹田喜左衛門は落ちぶれても手放さず、茶碗を抱きしめながら絶命しました。また、「平蜘蛛茶釜」の所有者・松永久秀は手放すことを拒み、茶釜もろとも爆死したと言われています。
 それに比べ、「つくも茄子」は大名物なのに所有者が所持し続けることに強い執着心をみせていません。久秀はつくも茄子を手放しても平蜘蛛茶釜は手放していません。家康にいたっては折角修復させたのに直ぐに手放しています。この違いは何故でしょうか。憧れの物を手にしてみると想ったほどでもなかったということなのでしょうか。
  
つづく。
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静嘉堂文庫美術館
http://www.seikado.or.jp/030100.html
九十九髪茄子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D%E9%AB%AA%E8%8C%84%E5%AD%90
ひめの倶楽部美術館
http://w2352.nsk.ne.jp/himeno/museum/museum022-3.htm
 

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平蜘蛛茶釜 後編

 前エントリ「平蜘蛛茶釜 前編」の続きです。
 
 松永久秀の主君、三好長慶は山城、摂津、河内、大和、和泉、丹波、阿波、淡路、讃岐の9ヵ国を支配した優れた武人でありながら、文化人でもありました。特に連歌を好んでいましたが、茶の湯にも通じていました。
 長慶だけではなく三好氏には文化に勤しむ気風がありました。中でも、弟の三好義賢(実休)は茶の湯に深く傾倒し、武野紹鴎、千利休、今井宗久、津田宗達などの著名な茶人と交流を持ち、高価な「名物」(茶器や茶道具)を50点あまりも所持していたといわれています。
 長慶自身も茶の湯と深い関係がありました。長慶の腹違いの妹のお稲(宝心妙樹)は千利休の妻でしたし、長慶が深く帰依していた禅師の大林宗套(大徳寺90世)は茶人でもあり、武野紹鴎を始めとする名立たる茶人から尊崇されていた人物でした。
 三好氏が茶の湯と深い関係になったのは三好氏に文化を尊重する気風があったためだけではなく、莫大な経済力を持っていた商業自治都市「堺」を運営する「会合衆」とよしみを通じるため、堺で盛んだった茶の湯を取り込んだという面もあると思います。三好氏により茶の湯は政治と関係を持ち、その後、その関係は織田信長に積極的に利用されて「御茶湯御政道」と呼ばれるようになり、豊臣秀吉に受け継がれます。
 
 この様に茶の湯をたしなむ事は政治・経済力に関係し、三好氏が茶の湯に勤しんでいたため、久秀は武野紹鴎に師事して茶の湯を身に付け、一流の茶人の仲間入りをしています。当時は名物を所持していることが一流の茶人として認められる条件でしたので、久秀も数々の名物を所持していましたが、中でも大切にしていたのは「九十九髪茄子」と「古天明平蜘蛛(平蜘蛛茶釜)」でした。「九十九髪茄子」は信長に献上しましたが、「平蜘蛛茶釜」は生涯手放しませんでした。
 広く流布している説では、信長が信貴山城に立て篭る久秀に「平蜘蛛茶釜」を差し出せば助命すると伝えたにも拘らず、久秀は拒絶し、織田軍の総攻撃が始まると「平蜘蛛茶釜」を天守で叩き割って爆死(または茶釜に火薬を詰めて自爆)したとなっています。「信長公記」では「天守に火を放ち焼死」と書かれていますので、本当に爆死したのかは分かりませんが、久秀の死後、「平蜘蛛茶釜」が行方不明になっているのは事実です。
 
 この様に消失したと思われていた「平蜘蛛茶釜」ですが、驚いたことにこの茶釜が静岡県に現存するというのです。
 
 この「平蜘蛛茶釜」を所有しているのは静岡県浜松市西区舘山寺町の「浜名湖舘山寺美術博物館」で、信貴山城跡から出土し、織田信長が愛用したと伝えられているそうです。
 
 この美術博物館は温泉ホテルの「時わすれ開華亭」(館山寺興業株式会社 代表者 金原 貴)の付属施設で、「徳川家の名品を中心に、近世に活躍した東洋の代表される作品・絵画等世界が認める最も美術的な日本美術品が館蔵されております」とのこと。主な館蔵品は、尾形光琳の十二ヶ月図屏風、戸田半右衛門宛織田信長書状、小出吉政宛徳川家康書状、谷文晁の百花百鳥図、渡辺崋山の商山四皓図、武具、茶道具等江戸時代の美術品だそうです。
 

 浜松市西区舘山寺町は堀江城があった場所で、鎌倉時代に丹波国大沢村から藤原基秀が移住して城主となり、大沢氏の祖となりました。以後、明治になるまでの約500年間、大沢氏の領地でした。大沢家は江戸時代に高家旗本になった家格の高い家柄で、大沢基宿は徳川家康の征夷大将軍宣下の式典作法を取り仕切っています。
 

 大沢家はこの様な家柄でしたから、数々の宝物を所蔵していたことでしょう。もしかしたら、オーナーの金原氏は大沢家の子孫で、受け継いできた家宝を元にして美術博物館を開設したのかもしれません。そうだとすると、「平蜘蛛茶釜」も大沢家が秘蔵していたのでしょうか。信長から流出した「平蜘蛛茶釜」が人づてに天下人の家康へ渡り、徳川家から大沢家に下賜されたことも考えられます。
 ただ、千利休の高弟である山上宗二が記した「山上宗二記」には「平蜘蛛 松永の代に失す。宗達平釜、藤波平釜、弐つ。但し此の三つ釜は、当世在りても用いず。」と書かれていて、「平蜘蛛茶釜」は消失したことになっています。それに、この茶釜に執着していた信長が入手していたとすれば、何らかの記録に残っていたはずで、それが無いのは信長が入手していなかった可能性が高いと言わざるを得ません。更に「平蜘蛛茶釜」が後世に伝えられていたとすれば、これ程の逸話を持つ茶釜ですから、存在していた事が記録に残っていなければ不自然です。
 以上のことから、現存する「平蜘蛛茶釜」は松永久秀が所持していた「古天明平蜘蛛」ではないと思われます。
 
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松永久秀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
松永氏諸家系譜
http://www.kakeiken.com/report007.html
古天明平蜘蛛
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E6%98%8E%E5%B9%B3%E8%9C%98%E8%9B%9B
浜名湖舘山寺美術博物館
http://www.imix.or.jp/kinbara/index.html
浜名湖かんざんじ温泉 時わすれ開華亭
http://www.kaikatei.com/artmuseum/index.html
舘山寺美術博物館公式ブログ 武士のたしなみ・・武道
http://hokuryu.blog116.fc2.com/blog-date-20110609.html
堀江城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E5%9F%8E
【静岡】信長ゆかりの『平蜘蛛釜』など展示 浜名湖舘山寺美術博物館で茶道具展
http://tabi.chunichi.co.jp/odekake/0302002shizuoka_tyadogu.html
 

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平蜘蛛茶釜 前編

 以前のエントリ「喜左衛門井戸」で茶碗を抱いたまま絶命した男の逸話を紹介しましたが、今回は茶釜を抱いたまま爆死したとされる男の話です。戦国時代に興味がある方なら、既に思い浮かんでいると思います。そう、松永久秀(松永弾正)のことです。
 
 戦国三大梟雄というと斎藤道三、松永久秀、北条早雲(宇喜多直家とする場合もあり)の3人です。中でも松永久秀の評判は非常に悪く、イメージの悪さでは戦国武将一ではないでしょうか。正に梟雄と呼ぶに相応しい人です。
 「常山紀談」(江戸時代に湯浅常山によって書かれた戦国武将の逸話集)には「東照宮信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり。信長、此老翁は世人のなしがたき事三ッなしたる者なり。将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり」と記述されていて、織田信長からも常人では出来ないことを平然と行うことの出来る悪党と思われていたようです。
 
 この様に悪名高い松永久秀ですが、武田信玄や上杉謙信の様なメジャーな大名ではないため、一般にはあまり知られていません。
 松永久秀は1510年に山城国あるいは摂津国に生まれたとされ、当初は藤原姓を名乗っていましたが、血筋は不明です。弟に松永長頼がいます。
 何時ごろ、三好家家臣に取り立てられたか分かりませんが、1529年に三好長慶の父・三好元長に出仕し、12歳年下の長慶の補佐役になったとの話もあります。1540年、長慶の右筆になり、この頃から長慶の武将としても活動していたようです。
 三好長慶は次第に勢力を拡大。管領だった主君の細川晴元を追放し、1549年に京都を支配すると、事実上の三好政権が誕生します。この年、松永久秀は三好家の家宰(家長に代わって家政を取りしきる役職)となり、弾正忠に任官しています。久秀にとっては家宰になったことが飛躍の始まりとなりました。久秀は弟の長頼と共に三好軍の武将として畿内各地で戦い、また、長慶の側近として特に重用され、幕政にも関与して行きます。
 1553年、三好長慶は親族の芥川孫十郎から摂津の芥川城(芥川山城)を奪い返し、長慶と久秀がこの城に居住します。同年、松永兄弟は丹波の八木城を奪回し、松永長頼が八木城主となりました。長頼は後に丹波国守護代・内藤国貞の娘を娶り、内藤氏の名跡を継いで内藤宗勝と改名しています。
 1556年、芥川山城で火災が発生し、久秀は芥川山城を引き上げ、摂津の滝山城主になりました(城主を命ぜられたのは1553年との説もあり)。
 1559年、久秀は大和に攻め入って実質的な大和の支配者であった筒井順慶を含めた国人衆を破り、大和平定の拠点とするために信貴山城を改修して城主になりました。以後、久秀は大和の最大の実力者として台頭していきます。
 1560年には三好義興(三好長慶の嫡男)とともに幕府御供衆となり、弾正少弼に任官。また、同年には大和に多聞山城の築城を開始します。
 1561年になると、久秀は主君の三好長慶と同じ従四位下に叙せられ、将軍・足利義輝から桐紋を下賜されます。久秀は幕府から主君の三好家と同様の扱いを受けるまでになっていたのです。また、この年には久秀と不仲であった十河一存(三好長慶の実弟)が湯治中に急死。その時、久秀が近くにいたことから、久秀による暗殺との噂が流れました。十河一存は讃岐を束ね、「鬼十河」とも呼ばれていた勇将で、兄の長慶を軍事面で支えていたため、この死により三好政権の衰退が始ました。一存の死から間も無く、久秀は長慶の娘、勝姫(久秀より30歳以上年下)を正室に迎え、三好家と縁戚になります。
 十河一存の死が切っ掛けとなったのか、畠山、六角両軍が挙兵。翌1562年、久米田の戦いで三好義賢(三好長慶の実弟)が和泉にて戦死。三好義賢は本国、阿波を統治していた重要な武将でした。京都で六角軍と対峙していた三好前線軍(大将・嫡男の義興、副将・久秀)は義賢の討死が伝わると京都から撤退。畠山軍が長慶の篭る(病だったとの説も有り)居城・飯盛山城を包囲すると、三好各軍は集結し、救援に出ます(教興寺の戦い)。この戦で畠山氏の勢力は瓦解し、六角氏も軍門に降ったため、畿内に三好氏に対抗する勢力はなくなり、大和や河内が三好氏の支配下となりました。この戦を通して久秀は三好宗家の実権を次第にるようになりました。
 1563年、大和では筒井衆の抵抗も残っていましたが、久秀が支配。その様な中、三好宗家の嗣子である義興が居城・芥川山城で突然の急死。享年22歳。義興は教養も武勇も有り、将軍や公家達からの信望も厚かった武将でした。病死になっていますが、一説には久秀による毒殺とも。嗣子が亡くなった為、長慶は十河一存の息子である十河重存(三好義継)を養子に迎えます。また、この年の暮れには久秀の息子・久通が従五位下・右衛門佐に叙任され、松永家の家督を嫡男の久通に譲っています。
 長慶は親族の相次ぐ死で覇気を失くし、心身が衰弱していた模様で、1564年、淡路を束ねていた安宅冬康(三好長慶の実弟)を居城の飯盛山城に呼び出して謀殺しました。「謀反の野心あり」との松永久秀の讒言を長慶が信じたためと語られています。長慶は後に冬康の無実を知って酷く後悔し、病を重くしてしまいます。冬康の死の2ヵ月後、長慶もこの世を去ります。病死でした。享年43歳。これで、三好政権の中枢を担ってていた三好元長の主だった息子達が消え去りました。
 長慶の死により、三好義継(この時15歳)が三好家の家督を相続しますが、重臣達により、長慶の死は2年間隠されます。実権を握っていたのは松永久秀や三好三人衆で、義継は傀儡に過ぎませんでした。三好三人衆とは三好長逸(三好長慶のいとこ?)、三好政康(三好氏分家)・岩成友通(三好氏家臣)の3人のことで、三好家中の重鎮でした。
 1565年、影響力を強める13代将軍・足利義輝に対して、久秀と三人衆は危機感を抱き、義輝の排除に出ます。久秀らは当主の義継を担ぎ出して、二条御所を軍勢で襲撃し、義輝を殺害します(永禄の変)。久秀は義輝の弟の興福寺一乗院覚慶(後の足利義昭)を幽閉しましたが、2ヵ月後に逃げられています。同じ頃、久秀の弟の松永長頼(内藤宗勝)が丹波で戦死。永禄の変の後、主導権をめぐって久秀と三人衆は対立。三人衆は義継を奪取し、阿波本国の重臣の篠原長房らを取り込んだため、久秀は三好家中で孤立しました。更には三人衆に将軍候補として擁立された足利義栄に久秀討伐令を出されてしまいます。
 1566年、久秀は同盟関係であった畠山氏・遊佐氏と合流して堺で義継と激突。この間に隙を突かれて、三人衆と結託した筒井順慶に筒井城を奪還されます。三人衆との争いは久秀が終始不利で、窮地に立たされます。
 ところが、1567年に三好三人衆らが足利義栄を主君として迎えると当主の義継が出奔し、久秀に保護を求めてきました。これが転機になります。義継と三人衆は敵対し、三人衆・池田・筒井連合軍と松永・義継連合軍が大和で合戦を始めます。この戦で松永軍は次々と寺を焼き払い、三人衆軍の本陣がある東大寺を夜襲します(東大寺大仏殿の戦い)。この戦闘で大仏の仏頭、伽監、念仏堂などが焼失(火を放ったのは松永軍とする説や失火説、イエズス会信者説などがあります)。火災により三人衆軍は総崩れになり、撤退しました。
 1568年になると足利義栄が三人衆の推挙により14代将軍に就任。三人衆や筒井順慶の巻き返しに遭い、信貴山城が落城すると久秀は再び窮地に陥ります。ところが、ここでまた転機がおとずれます。足利義昭を擁立して織田信長が上洛を開始したのです。三人衆はかつての宿敵である六角氏などと結んで信長に対立する姿勢を示す一方、久秀らは直ぐに恭順の意を示しました。義昭の反対はあったものの、三好義継は河内上半国の守護に、松永父子は大和一国を安堵されました(ただし、この時点では大和は筒井順慶らの勢力下にありました)。この時、久秀は「九十九髪茄子」を信長に献上しています。久秀は信長の援軍を得て、大和の緒城を次々と攻略、信貴山城も奪回して、筒井順慶を追いやり再び大和を手中にします。方や、三好三人衆は織田軍に敗れて畿内の勢力を失い本国の阿波まで後退、足利義昭が15代将軍に就任しました。翌1569年に久秀は弾正少弼を改め山城守と称します。
 1570年、信長は朝倉討伐に出陣。久秀も従軍しますが、浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされます(金ヶ崎の戦い)。信長が京へ逃げ延びるにあたり、久秀は近江豪族の朽木元綱を必死の決意で説得し、信長の窮地を救います。態勢を立て直した信長は報復のために北近江へ出陣、浅井・朝倉連合軍を姉川の戦いで打ち破ります。摂津では三好三人衆が挙兵、久秀は三好義継らと共に迎え撃ちますが、石山本願寺や四国の三好軍が参戦すると形勢逆転。信長は和睦に動き、反織田勢との間に和議が結ばれました。
 1571年、信長の専横に不満だった将軍の足利義昭は浅井、朝倉、三好、六角、武田、石山本願寺らに信長討伐を命じる御内書を下し、次第に信長包囲網が形成されると、久秀は信長に背いて武田信玄に同盟を持ちかけ、武田に内通します。更に、久秀は仇敵の三好三人衆とも手を結び、三好義継と共に反乱を起こし、河内下半国守護の畠山昭高を攻撃。この隙に大和で力を盛り返しつつあった筒井順慶が久秀の居城・多聞山城を攻撃する動きに出ます。松永軍は義継の援軍を得て、筒井軍討伐に出ますが大敗(辰市の戦い)。順慶に苦労して手に入れた筒井城を明け渡しました。この後、順慶は信長に臣従し、信長を後ろ盾にします。
 1572年になると久秀は反信長の態度をますます顕在化させ、佐久間をはじめとする織田勢と対峙しますが、年末に降伏します。この頃、三河では武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝していました。
 1573年、久秀は正月早々、岐阜城を訪ね信長に恭順の意を示します。3ヵ月後、武田軍の進撃に呼応して将軍・足利義昭自身が二条城で挙兵し、義昭と同盟していた久秀も信長に反旗を翻しますが、義昭はほどなく信長と和睦します。この間に信玄は死去し、武田軍は本国への撤退を始めていました。信玄の死を知らなかったと思われる義昭は7月に再度挙兵するも織田軍に包囲され、半月余りで降伏。義昭は追放され、室町幕府は滅亡しました。三好三人衆の一人の岩成友通は討死、浅井長政、朝倉義景も織田軍に討たれ、三好義継も若江城の戦いで自害し、三好家は崩壊します。久秀は信貴山城に立て篭っていましたが、年末に降伏し、織田軍に多聞山城を明け渡して、織田軍に復帰します。久秀は許されたものの、大和の支配権を信長の腹心である塙直政(原田直政)に奪われてしまいます。
 1576年、大和守護だった塙直政が石山本願寺攻めで討ち死にすると、信長傘下として数々の戦に参戦して活躍していた宿敵の筒井順慶を信長は大和守護に任じます。
 1577年、久秀が心血を注いで築城した多聞山城を順慶は廃城にします。その頃、久秀は石山本願寺攻めに加わり天王寺砦を守っていました。しかし、突如、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力側に寝返り、砦を焼いて撤退。息子の久通と共に信貴山城に立て篭り、謀反を起こしました。信長は3度も裏切った久秀に対して久秀と親交の深かった松井友閑を使者として派遣し、理由と望みを問い質そうとしましたが拒絶されます。憤慨した信長は人質に取っていた久通の二人の子を京都六条河原で処刑し、大和に軍勢を派遣。織田軍は支城を落とし、大軍で信貴山城を包囲します。松永軍は必死に抵抗するも家臣の裏切りに遭い、落城。久秀・久通父子は自害して果てます。久秀、享年68歳。久通、享年35歳でした。
 
 以上、長かったですが前置きでした。次回に本題へ入ります。

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