六丈記2

備忘録のようなもの

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朝日新聞の慰安婦報道検証特集について考える【4】

◆金学順元慰安婦の証言記事
 植村元記者が1991年8月11日朝刊(大阪版)に書いた記事が下記です。
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≪思いだすと今も涙≫
≪元朝鮮人従軍慰安婦 半世紀思い口を開く≫
 【ソウル10日=植村隆】日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊(ていしんたい)」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は10日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。
体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。
≪韓国の団体聞き取り≫
 尹代表らによると、この女性は68歳で、ソウル市内に1人で住んでいる。最近になって、知人から「体験を伝えるべきだ」と勧められ、「対策協議会」を訪れた。メンバーが聞き始めると、しばらく泣いた後で話し始めたという。
 女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳の時、だまされて慰安婦にされた。200-300人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。5人の朝鮮人女性がおり、1人に1室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの4人が一般の兵士200-300人を受け持ち、毎日3、4人の相手をさせられたという。
 「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。また週に1回は軍医の検診があった。数カ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている。
 女性は「何とか忘れて過ごしたいが忘れられない。あの時のことを考えると腹が立って涙が止まらない」と訴えている。
 朝鮮人慰安婦は5万人とも8万人ともいわれるが、実態は明らかでない。尹代表らは「この体験は彼女だけのものでなく、あの時代の韓国女性たちの痛みなのです」と話す。9月からは事務所内に、挺身隊犠牲者申告電話を設置する。
 昨年10月には36の女性団体が、挺身隊問題に関して海部首相に公開書簡を出すなど、韓国内でも関心が高まり、11月に「同協議会」が結成された。10日には、「韓国放送公社」(KBS)の討論番組でも、挺身隊問題が特集された。
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 北海道新聞が報じた金学順氏の単独会見の記事が見つかりませんので、韓国のハンギョレ新聞の記事(8月15日)を載せます。原文は朝鮮語なので「Expose the lies.」というサイトから翻訳文をお借りしました。
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≪従軍慰安婦の惨状を知らしめる≫
≪国内居住者中 初 過去暴露 金学順さん≫
≪いつかは明らかにしなければならない歴史的事実≫
≪未だに日章旗を見ると憤怒する≫
 17歳の花のような歳の5ヶ月間余りの間、日本軍人たちの従軍慰安婦をした金学順(67歳・ソウル鍾路区チュンシン洞1・写真)婆さんが14日午後 韓国女性団体連合事務所に当時の現状を暴露する記者会見を持った。日帝強占下、従軍慰安婦の生活を強要受けた韓国人中、解放以後国内で生活しながら自身の惨憺(さんたん)とした過去を暴露した境遇は金学順さんが初めてだ。
 「これまで言いたくても勇気が無くて口を開くことが出来ませんでした。いつかは明らかにしなければならない「歴史的事実」なので打ち明けることにしました。かえってすっきりしています。」
 しわが深いおばあさんに変わった金さんは50年前の思い出したくない過去が胸を痛むかのように目頭を濡らすと話し始めた。
 「今でも「日章旗」を見ると悔しく、胸がむかむかします。テレビや新聞で近頃も日本が従軍慰安婦を引っ張って行った事実はないという話を聞く時は胸が崩れます。日本を相手に裁判でもしたいくらいの心情です。」
 現在ひと月米10kgと3万ウォンの支給を受け生活保護対象者として生活を延命している金さんの事情は数奇だ。
 24年満州 吉林省で生まれた金さんは父親が生後100日で亡くなられた後、生活が苦しくなった母親のために14歳の時、平壌妓生(キーセン)検番に売られて行った。3年間の検番生活を終え金さんが初就職と思って検番の養父について行ったところが北中国鉄壁の日本軍300余名がいる小部隊前だった。
 「私を連れて行った養父も当時日本軍人たちにお金も貰えず無力に私をそのまま奪われたようでした。その後5ヶ月間の生活は殆んど毎日4~5名の日本軍人達を相手にするのが全部でした。」
 金さんがいた所は小部隊前に建てられた建物で、5名の10代韓国女性が一緒でした。米とおかずは部隊で提供され24時間監視状態で過ごした。何度も脱出を試みた金さんは、その度に日本軍人たちに見つかって叩かれたと打ち明けた。
 当時我が国と中国を行き来し「銀銭」商売をしていた韓国人ジョ・ウォンチャン(31歳)さんがちょうど慰安所に来た時に頼んでようやく逃げ来ることに成功した。その後ジョさんと一緒に満州に行き中国上海などの地を転々としながら住み、解放後ジョさんとソウルに来て定着した。息子と娘1名ずつ産んで住んでいた6・25(朝鮮戦争)直後、息子と娘を失い、53年には夫もこの世を去り女中奉公、日雇いなどをして貧しく生きてきたと喉をつまらせ言った。
 金さんは最近就労事業に出て出会った原爆被害者イ・メンヒ(66歳)さんと韓国挺身隊問題対策協議会の勧めで事実を明らかにする決心をしたという。
 金さんは「政府が日本の従軍慰安婦問題に対して公式謝罪と賠償を要求しなければならない」と力を込めて言った。
 一方、挺対協は「キムさんの証言を契機に生存者、遺族の証言を介して歴史の裏に埋葬された従軍慰安婦実状を明らかにしなければならない」と強調した。
<キム・ミギョン記者>
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 ついでに、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件の訴状から金学順氏の経歴を抜き出します。
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35 原告金学順(キム・ハクスン。軍隊慰安婦)
 原告金学順(以下、「金学順」という。)は、一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国へ渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日閥乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎭」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎭」へは夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。翌日の朝、馬の噺きが聞こえた。隣の部屋にも三人の朝鮮人女性がいた。話をすると、「何とバカなことをしたか」といわれ、何とか逃げなければと思ったが、まわりは軍人で一杯のようだつた。その日の朝のうちに将校が来た。一緒に来たエミ子と別にされ、「心配するな、いうとおりにせよ」といわれ、そして、「服を脱げ」と命令された。暴力を振るわれ従うしかなかったが、思い出すのがとても辛い。
 翌日から毎日軍人、少ないときで一〇人、多いときは三〇人くらいの相手をさせられた。朝の八時から三〇分おきに兵隊がきた。サックは自分でもってきた。夜は将校の相手をさせられた。兵隊は酒を朝から飲み、歌をうたう者もいた。「討伐」のため出陣する前日の兵隊は興奮しており、特に乱暴だった。朝鮮人とののしられ、殴られたりしたこともあった。これらの軍人たちは犬と同じで、とても入間とは思えなかった。部屋の中では、中国人の残した中国服や日本軍の古着の軍服を着させられた。週ないし月に一回位、軍医がきて検診を受けた。同原告は肺病にかかったため、薬をいろいろもらった。六〇六号という抗生物質の注射も打たれた。
 金学順はそこでは、「アイ子」という名前をつけられた。他の四人の朝鮮人女性は、一緒に来た「エミ子」の他、最も年長の「シズエ」(二二歳)と「ミヤ子」(一九歳)「サダ子」(同)という名前だった。シズエは、別室で特に将校用として一室をあてがわれたが、他の四人は一部屋をアンペラのカーテンで四つに区切ったところに入っていた。食事は、軍から米・味噌などをもらって五人で自炊した。
 この鉄壁鎭にいた日本軍部隊は約三〇〇人位の中隊規模で、「北支」を転戦していた。鉄壁鎭には一か月半位いたが、何度か移動した。金学順ら女性たちも一緒に移動させられた。行く先々の中国人の村には、中国人が一人もいなかった。いつも空屋となった中国人の家を慰安所と定められた。
 ある日、兵隊が二人の中国入を連れてきて、みんなの前で目隠しをして後手に縛り、日本刀で首を切り落とすところを見せた。密偵だと言っていたが、おまえたちも言うことをきかないとこうなるとの見せしめだった。
 金学順は毎日の辛さのため逃げようと思ったが、いつも周りに日本軍の兵隊があり、民間人と接触することも少なく、中国での地理もわからず、もちろん言葉も出来ないため、逃亡することはできなかった。ところが、その年の秋になったある夜、兵隊が戦争に行って少ないとき、一人の朝鮮人男性が部屋に忍び込んできて、自分も朝鮮人だというので、逃がしてほしいと頼み、夜中にそうっと脱出することができた。その朝鮮人男性は趙元讃と言い、銀銭の売買を仕事としていた。金学順はこの趙について南京、蘇州そして上海へ逃げた。上海で二人は夫婦となり、フランス租界の中で中国人相手の質屋をしながら身を隠し、解放のときまで生活をした。一九四二年には娘、四五年には息子が生まれた。四六年夏になり、中国から同胞の光復軍と最後の船で韓国に帰った。
 しかし仁川の避難民収容所で娘が死に、一九五三年の朝鮮動乱の中で夫も死に、金学順は行商をしながら息子を育てていたが、その息子も国民学校四年生のとき、水死した。唯一の希望がなくなり一緒に死にたいと思ったが死にきれず、韓国中を転々としながら酒・タバコものむような生活を送ったが、一〇年前頃から、これではいけないと思いソウルで家政婦をしてきたが、今は年老いたので、政府から生活保護を受けてやっと生活をしている状態である。
 身寄りがない金学順にとって、人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。金をいくらくれても取り返しのつくことではない。日本政府は悪いことを悪いと認め、謝るべきである。そして事実を明らかにし、韓国と日本の若者にも伝え、二度と繰り返さないことを望みたい。
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 植村元記者は「女子挺身隊の名で戦場に連行された」と書いていますが、金学順氏は会見でキーセン検番の養父に連れられて行ったと行っています。録音テープに「女子挺身隊」という言葉があったのでしょうか。文章からすると植村元記者は確認を取らず思い込みで書いていたように感じます。
 朝日新聞の記事には「一番年上の女性が日本語を話し」とあります。ここから推測すると金学順氏らは日本語をあまり話せなかったのではないでしょうか。だとすると、細かな状況などは理解できなかったのでは。
 1日の客数は、朝日新聞が「3、4人」、ハンギョレ新聞が「4~5名」、訴状が「少ないときで10人、多いときは30人くらい」と増えています。朝日新聞とハンギョレ新聞では大差ありませんが、訴状では桁違いです。弁護士が調整したのでしょうか。
 慰安所からの逃亡について、ハンギョレ新聞では「銀銭の商売をしていた韓国人(ジョ・ウォンチャン)が慰安所に来た時に頼み込んで逃げた」、訴状では「銀銭の売買をしていた朝鮮人男性(趙元讃)が部屋に忍び込んできたため、頼み込んで夜中に脱出」。銀銭の商売とはどんな職業なのかよく分かりませんが、「銀銭業」「銭荘」(中国における旧式の金融機関)のことでしょうか。小規模の金貸しなのかもしれません。こういう職業の人が慰安所と取引をしていたとは思えませんから、商売で慰安所を訪れたのではないでしょう。日本軍が厳しく監視している慰安所に夜這いをする民間人というのもおかしな話です。そう考えると、朝鮮人男性は客として慰安所を訪れ、身請けしたか、足抜けさせたのではないでしょうか。金学順氏のいた慰安所は軍人専用ではなく、民間人も利用していたのではと思えてきます。


◆慰安婦関係の団体や個人について
 金学順氏に関連して、慰安婦関連団体が登場していますので、団体や個人について調べてみました。
■韓国挺身隊問題対策協議会
 「従軍慰安婦の強制動員」が旧日本軍により行われたと主張し、日本政府に対して公式な謝罪および賠償金を求める運動を行っている韓国の団体。1990年11月に韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合会等16団体が参加して結成され、初代代表は尹貞玉氏。現在の常任代表は尹美香(ユン・ミヒャン)氏。
 1993年に尹美香氏の夫(金三石)とその妹(金銀周)がスパイ事件で逮捕されており、北朝鮮と密接な関係があるとされ、韓国公安当局の捜査対象になっている。
 1992年1月から毎週水曜日、ソウルの日本大使館前でデモを開催。2011年12月には、ソウルの在韓日本大使館の前に少女の座像(慰安婦)を設置している。

■太平洋戦争犠牲者遺族会
 太平洋戦争当時の犠牲者と遺族及び参戦生存者に対する実態調査と権益を擁護すること、また、日韓の過去の歴史を解決して正しい歴史を確立し、国民統合に向けて未来志向的な南北統一意識を広げることを目的としている。具体的には、遺骨の収集返還、現地追悼、未払金返還や日本による戦後補償を求める運動をしている。日本政府を相手取った戦後補償を求める裁判の原告団体で、日本のNGO「日本の戦後責任をハッキリさせる会」と連携関係にある。
 1973年に釜山で発足した「太平洋戦争遺族会」がルーツ。初代会長は朴道鎭(パク・トジン)。
 1988年6月、日本政府を相手に直接裁判をすることを決定し、 第4代会長・裵海元(ペ・ヘウォン)と常任理事・梁順任(ヤン・スニム)を中心にし、「太平洋戦争犠牲者遺族会」として再発足。
 1989年4月、全国5つの日刊紙に戦争被害者と遺族の登録、会員募集をする広告を出す。
 1990年3月、ソウル、全州、釜山、大邱などで、日本を裁判に訴えるための全国巡回裁判説明会を開催。
 1990年6月15日から30日間、5000人以上の会員を動員し、釜山からソウルまでを走破する「戦犯者日本の戦後処理を促す全国徒歩大行進」を実施。
 1990年10月、代理人無しで、軍人、軍属、労働者、遺族など原告22人による国家賠償請求訴訟を日本の裁判所に初提訴。
 1990年12月、フリーランスのジャーナリスト・臼杵敬子が呼びかけで市民団体「日本の戦後責任をハッキリさせる会」(臼杵敬子代表)が東京で発足し、支援を受ける 。
 1991年4月、梁順任氏が共同代表に就任。
 1991年12月6日、日本国を相手に戦後補償請求民事訴訟を東京地裁に提訴。所謂、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」。1次原告35名(うち元慰安婦は金学順ら3人)、2次原告6名(1992年4月に追加)。訴訟原告代理人は高木健一弁護士、林和男弁護士、福島瑞穂弁護士ら11人。裁判は、東京地裁で棄却(2001年3月)、東京高裁で棄却(2003年7月)、最高裁で棄却(2004年11月)となる。
 1992年、社団法人に認可され、韓国政府の「給付」を受けるが、国家財政困難により停止。
 1999年10月、梁順任氏が名誉会長に就任。
 2002年、靖国公式参拝違憲訴訟の原告になる。
 2004年1月、梁順任氏が会長に就任。

■梁順任
●慶尚北道女性経営情報高校(旧スカ女子商業高校)卒業
●テヘラン国立大学美術大学油絵専門課程修了(文学士)
●慶南大学北韓学科大学院北韓学(社会・文化)修士号取得
●社団法人韓民族の統一促進協会初代会長
●強制連行犠牲者の真相究明ソウル特別市実務委員副委員長
●太平洋戦争犠牲者遺族会会長
 2011年5月、ソウル市警察が、日本統治時代の戦時動員被害者から15億ウォン(約1億2千万円)をだまし取っていたとして団体幹部(遺族会会長の梁順任氏ら)など39人を詐欺の疑いで摘発。摘発されたのは「太平洋戦争犠牲者遺族会」「民間請求権訴訟団」など対日要求や反日集会・デモを展開してきた団体だった。梁会長らは遺族会や訴訟団など各種団体を組織して会員を募集する際、「動員犠牲者でなくても当時を生きた者なら誰でも補償を受け取れる」などと嘘を言ったり、会員を集めると手当を支払っていたとのこと。日韓親善サッカー試合で会員を動員し、日本政府に謝罪と補償を要求する横断幕を掲げる偽装活動をしていたともされている。
 チャン某氏(67)が、2010年3月から翌年1月までの間に「家族の中に1900年から1930年の間に生まれた男性がいれば、日本政府を相手に1000万~2000万ウォンの補償金を受け取ることができる」とし、弁護士選任料と加入費の名目で3万人余りから約10億ウォン(1人当たり9万ウォン)を騙し取った疑いで起訴され、梁会長と梁会長の息子のイム氏(44)も詐欺の共謀の疑いで起訴される。
 2014年4月、ソウル中央地裁は、チャン某氏に対して懲役7年6カ月の実刑判決を言い渡すが、梁会長は証拠不十分で無罪、イム氏は暴行罪で懲役1年6カ月となる。地裁は、同様の詐欺で裁判を受けていたチャン某氏が遺族会会長の梁順任氏とその息子のイム氏を引き込んで詐欺犯行を再び犯したと認定。梁会長とイム氏については、犯行について予防措置を取らなければならなかったが、初めから計画的に犯行に加担したとは見られず、刑事的責任を問えないとしながらも、民事的・道徳的責任を負う余地があるとした。

■植村隆
 1958年4月に高知県で誕生。土佐高校から早稲田大学政治経済学部に進学し、卒業。
 1982年、朝日新聞入社。千葉支局、大阪本社社会部、テヘラン支局長、ソウル特派員、外報部デスク、北京特派員、朝日カルチャーセンター札幌教室講師、北海道報道センター函館支局長を務め、2014年3月に朝日新聞を早期退職。
 2014年4月から北星学園大学の非常勤講師。
 朝日新聞入社後、韓国の延世大学へ留学した経験があり、韓国語に堪能。
 太平洋戦争犠牲者遺族会の梁順任会長の娘婿。


◆植村元記者の記事に梁順任氏は関与していたか
 取材過程は月刊誌「MILE」に書いてあり、当時は批判されていなかったと、特集で主張していますが、その時はまだ植村元記者と梁順任遺族会会長の関係が知られていなかったので当然でしょう。元慰安婦を原告として裁判を起こした遺族会の幹部の娘婿が植村元記者だったことが分かり、裁判を支援するために記事が書かれたのではないかと疑惑が持たれたのです。
 特集には、植村元記者の義母が遺族会の幹部ということは書かれていますが、遺族会が金学順氏の裁判の原告団体だったことには触れ手いません。挺対協と遺族会が別団体ということを強調し、遺族会が金学順氏と無関係であるかのように装うことで、記事が書かれた経緯に義母は関与していないとしています。また、植村元記者の「挺対協から元慰安婦の証言のことを聞いた、当時のソウル支局長からの連絡で韓国に向かった。義母からの情報提供はなかった」「戦後補償問題の取材を続けており、元慰安婦の取材もその一つ。義母らを利する目的で報道をしたことはない」との説明を持って、「義母との縁戚関係を利用して特別な情報を得たことはありませんでした。」と結論しています。

 特集の説明からすると、挺対協がソウル支局に慰安婦の取材を持ちかけ、ソウル支局長が大阪本社社会部記者の植村氏に連絡し、植村氏がソウルの挺対協事務所で証言テープを聞き、ソウルで記事を書いたということのようです。
 ソウル支局と挺対協事務所がどの位離れているのか分かりませんが、同じソウル市内なのですからタクシーで行ける距離でしょう。それなのに、ソウル支局長は大阪の記者に連絡したのでしょうか。特集は「植村氏は前年の夏、元慰安婦の証言を得るため韓国を取材したが、話を聞けずに帰国した経緯もあり」と書き、植村元記者が慰安婦問題に熱心で詳しかったからと言いたげです。そうだとしても、証言テープの内容が分からず、価値のあるものなのか判断できない状態で、ソウル支局長がわざわざ大阪から記者を呼び寄せるのは不自然です。支局の記者が取材すれば、旅費も掛からず時間も掛かりません。こういう仕事をしないのであれば、支局を置く意味が無いでしょう。
 特集には、情報提供をしたとされるソウル支局長や出張を許可したはずの社会部長のコメントはありません。植村元記者の証言の裏取りがされていないのです。これだけではありません。特集には「植村氏によると、8月の記事が掲載される約半年前 ~省略~ 娘と結婚した。」とあり、植村元記者が何時結婚したのかでさえ裏取りしていないのです。吉田証言の裏取りが不十分だったと認める一方で、裏取りの無い記事を平気で掲載するとは。裏取り取材は必要ないというのが朝日新聞の企業文化なのでしょう。

 アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件に至るまでを追ってみます。
●1989年5月
「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」(以下、百人委員会)の事務局員の青柳敦子氏が「朝日ジャーナル」に「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式に陳謝せよ」との内容の意見広告を出す。広告は12月まで15回掲載された。
●1989年11月19日~22日
青柳氏が韓国を訪問。日本政府を相手に謝罪と補償を求める裁判を起こすため、裁判の原告になってくれる徴用被害者や元慰安婦などを探すのが訪韓の目的だった。原告は訴訟費用を負担しなくていいという条件で原告募集をしたが、被害者に会えずに帰国。
●1990年の年始前後
青柳氏の訪韓の数週間後、青柳氏に太平洋戦争犠牲者遺族会から裁判の原告になりたいという連絡が入る。
●1990年3月
ソウル、全州、釜山、大邱などで、遺族会が日本政府を裁判に訴えるための全国巡回裁判説明会を開催。
●1990年10月29日
遺族会が元軍人、元軍属、遺族など(元慰安婦は入っていない)を原告にして、東京地裁に日本政府に対する訴訟を起こす。裁判書類の準備は青柳氏らが行い、代理人(弁護士)はいなかった。
●1990年11月
韓国挺身隊問題対策協議会が結成される。
●1990年12月
「日本の戦後責任をハッキリさせる会」が発足し、遺族会の支援を始める 。
●1991年2月
植村元記者が梁順任氏の娘と結婚。
●1991年5月15日
ハンギョレ新聞に元慰安婦(金学順 記事では匿名)のインタビュー記事が掲載される。「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番に売られた。三年間の検番生活を終え、初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」との内容。
●1991年8月11日
朝日新聞に元慰安婦の証言(植村元記者の記事)が掲載される。
●1991年8月14日
金学順氏がソウルで記者会見。
●1991年8月15日
韓国主要紙などが金学順氏の記者会見を報じる。
●1991年12月6日
遺族会が金学順氏らを原告にし、東京地裁に日本政府に対する民事訴訟を起こす(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件)。代理人は高木健一弁護士ら。
※百人委員会は宋斗会氏と大分在住の主婦・青柳敦子氏組んで始めた市民団体。
※宋斗会氏はサハリン在住韓国人問題で日本政府を糾弾していた在日朝鮮人の左翼活動家。弁護士を使わずに日本政府糾弾訴訟をしようとしていたところ、高木健一弁護士が訴訟の手伝いを申し出てきて、サハリン残留者帰還請求訴訟が開始される。ところが、訴訟からは排除される。
※青柳敦子氏は大分在住の主婦。1985年に宋斗会氏と出会い、浮島丸訴訟など在日朝鮮人の戦後補償裁判に取り組む。
※「日本の戦後責任をハッキリさせる会」は、裁判のために来日した遺族会に、臼杵敬子氏が大きく助力をしていたため、臼杵氏が発足させたNGO。高木健一弁護士も参加している。遺族会は青柳氏らの提案に乗り提訴(1990年10月)してみたものの、青柳氏らが弁護士を使わなかったためにつまづいたとみられ、そのために、遺族会は青柳氏らと手を切ったと思われる。遺族会はハッキリ会と手を組み、91年8月には新たな訴訟の準備をしていたと言われている。

 反日活動をしていた在日朝鮮人が、日本人の主婦を巻き込み慰安婦を自身の活動に利用しようとしていたところ、利用される側だった遺族会に見切りを付けられ、高木弁護士にまたしても訴訟活動を乗っ取られた様子が伺えます。
 それはそうと、植村元記者の記事の「尹代表らによると、この女性は68歳で、ソウル市内に1人で住んでいる。最近になって、知人から『体験を伝えるべきだ』と勧められ、『対策協議会』を訪れた。」が本当だとすると、金学順氏が挺対協と関係を持ったのは、1990年12月(挺対協発足)から1991年5月(ハンギョレ新聞にインタビューが掲載)の間だと推測されます。では、遺族会とは何時接触したのでしょうか。8月15日の記者会見の記事には「日本を相手に裁判でもしたいくらいの心情です。」とあることから、この時には裁判に参加することに決まっていて、遺族会はこの時までに接触していたと推し量ることも出来ますが、逆とも取れます。それで、元慰安婦を原告とした訴訟を遺族会が何時頃から計画し、それに金学順氏が何時頃参加したのかということを探ってみました。
 金学順氏が訴訟に加わる過程を探したのですが、その様な情報は見つけられませんでした。しかし、韓国の「日本軍慰安婦被害者e-歴史館」というサイトに韓国紙が掲載した慰安婦関連の記事の見出しを一覧にした資料があることを見つけました。朝鮮語で書かれていますので、一部を和訳して引用します。 
*** 日本軍「慰安婦」関連記事一覧(1990年?2002年12月)から抜粋 ***
1990-04-10【韓国日報】太平洋戦争の責任はまだ終わっていない/対日請求運動の拡散
1990-10-22【韓国日報】挺身隊-無関心引き出す
1991-04-01【東亜日報】「挺身隊」名簿初発見/日本国会図書館で-米軍の「朝鮮人捕虜」に含まれる
1991-07-31【韓国日報】挺身隊員名簿2種類/日本議会図書館で発見
1991-07-31【韓国日報】挺身隊生き証人 日本罪状明らかにする/金学順さん国内被害者で初めての告白
1991-07-31【東亜日報】「挺身隊補償」初めての訴訟方針/被害者50人余り/12月日本政府相手に提訴
1991-08-17【韓国日報】日本人達が「日帝被害」訴訟代行/弁護士7人来韓 証拠収集終える
1991-08-19【ハンギョレ】挺身隊 初の損賠訴訟決定/太平洋遺族会49人と一緒に/日本政府相手に
1991-10-29【韓国日報】挺身隊の実態調査。訴訟支援/在日女性団体発足/作家、教師など中心
1991-12-03【中央日報】挺身隊お婆さん 訴訟渡日/回復者35人 法廷闘争ために5日出国
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 1991年7月31日の東亜日報が、被害者が元慰安婦に対する損害賠償訴訟を12月に起こすと伝えています。この記事から、遺族会が元慰安婦を原告とする訴訟を計画したのは、7月31日以前だったことが分かりました。遺族会は当初、元慰安婦を含む49人を原告にする予定だったようです。この原告予定者の中に金学順氏が含まれていたかはハッキリしません。ですが、49人から35人に減ったのは弁護士が原告予定者をふるいに掛けたためでしょうから、35人の中に残った金学順氏は49人の中にいた可能性が濃厚です。それに、韓国日報の同日(7月31日)の記事は、金学順氏が告白して日本の罪状明らかにしたと受け取れますが、金学順氏が名前を明かして訴訟で日本の罪状を追求するとも取れます。東亜日報の同日の記事が元慰安婦の訴訟のことだったことを考えると、後者だったのではないでしょうか。
 植村元記者が証言テープを聞いた時には、金学順氏は遺族会に参加していたと思われます。その時点ではまだ金学順氏と遺族会が係わっていなかったという証拠も示さず、挺対協と遺族会は別団体だから、植村元記者の義母の梁順任氏は関与していないという理屈は通らないでしょう。
 植村元記者は「義母らを利する目的で報道をしたことはない」と説明していますが、植村元記者が元慰安婦の記事(1991年8月11日)を書いた時には、遺族会は既に元慰安婦を原告とした訴訟準備を具体的に進めていました。金学順氏も参加予定だったことが濃厚です。遺族会の訴訟を有利にするための記事と見られても仕方ありません。植村元記者が遺族会の利益を図る意図があったかは別にして、遺族会が朝日新聞を利用したのは確かです。
 特集は、植村元記者が義母から便宜を図ってもらっていないとしていますが、梁順任氏が遺族会の訴訟に利用するために朝日新聞の記者である娘婿の植村氏へ情報提供し、植村元記者はそういう情報が有るからと社会部部長を説得して出張許可を貰い、ソウルの挺対協で証言テープを聞いたと考えるのが自然でしょう。


◆植村元記者は何故キーセンを記述しなかったのか
 植村元記者は「証言テープ中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」と話しています。本当でしょうか。梁順任氏の証言を並べてみます。
●ハンギョレ新聞の記事(5月15日)
「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番に売られた」「3年間の検番生活を終え、 ~略~ 日本軍300名余りがいる部隊の前だった」
●記者会見(8月14日)
「生活が苦しくなった母親のために14歳の時、平壌キーセン検番に売られて行った」「3年間の検番生活を終え ~略~ 日本軍300余名がいる小部隊前だった」
●訴状(12月6日)
「家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通った」「一七歳(数え)の春、 ~略~ 養父に連れられて中国へ渡った。」
 一貫して「貧乏なために14歳でキーセン検番に行き、17歳の時に中国で慰安婦になった」としています。一方、植村元記者の記事(8月11日)は「中国東北部で生まれ、17歳の時、だまされて慰安婦にされた。」です。キーセンの部分が無い上、だまされたことになっています。同時期に一貫して同様の内容を言い続けているのに、証言テープだけ内容を変えたとは思えません。植村元記者は23年前に聞いたことを正確に覚えているのでしょうか。証言テープを文字に起こしてあり、その資料に基づいて断言しているなら、納得できなくもありませんが、ただ言い張られても納得できるものではありません。取材ノートなどの資料が残っているなら示すべきでしょう。

 植村元記者は、梁順任氏がキーセン検番にいたことが知られた後もキーセンのことを書きませんでした。何故なら、「キーセンだから慰安婦にされても仕方ないというわけではないと考えた」からだそうです。意味がよく分かりません。キーセン検番に売られたなら、遊女になるのは当然の成り行きです。検番の主人にとっては、買い取った女性は遊女ににするための商品なのですから、遊女として働かせるなり、売り飛ばすなりしないと商売にならないのです。
 キーセンであったことを書くと、売春を生業とされた者が、日本軍相手の慰安婦になっただけということが明らかになるばかりではなく、梁順任氏をだました相手が日本の公権力だと臭わせることが難しくなります。だから、植村元記者はあえてキーセンであった経歴を書かなかったのでしょう。
 キーセンの記述をしなかったのは、植村元記者だけではありません。他の記者も書きませんでした。他の記者は何故書かなかったのでしょうか。植村元記者一人に押し付けている観がありますが、朝日新聞の方針だったのではないでしょうか。


・・・続く。
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山際澄夫のブログ
http://minamisanshikata.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html
Expose the lies.初の慰安婦の証人である金学順さんの証言記事。
http://exposethelies.web.fc2.com/news19910815kimhs.html
訴 状 - 慰安婦問題アジア女性基金デジタル記念館
http://www.awf.or.jp/pdf/195-k1.pdf
金学順
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%A6%E9%A0%86
韓国挺身隊問題対策協議会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E6%8C%BA%E8%BA%AB%E9%9A%8A%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%AF%BE%E7%AD%96%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A
止まった時計(5)
http://www.krnews.jp/newnews/print.php?uid=2396
韓国・遺族会 裁判経過
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/izoku_kai.html
日本の戦後責任をハッキリさせる会 主な活動の記録
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/kai_his.html
会長のご挨拶(太平洋戦争犠牲者遺族会)
http://www.victims.co.kr/japanese/main.php?link=document&doc=Introduction&page=20100611004038
「日本から補償金」3万人だます 韓国の団体幹部ら摘発
http://megalodon.jp/2011-0509-1014-24/sankei.jp.msn.com/affairs/news/110509/crm11050909470004-n1.htm
対日賠償詐欺で被告を増長させた民主党の甘さ、ソウル中央地裁も認定
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140403/plc14040314250015-n1.htm
慰安婦裁判煽動者
http://vaccine.sblo.jp/pages/user/m/article?article_id=5224495&page=1
朝鮮人徴兵・徴用に対する日本の戦後責任 戦後日本の二重基準
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031552916&Action_id=121&Sza_id=C0
日本軍「慰安婦」関連記事一覧(1990年?2002年12月)
http://www.hermuseum.go.kr/pgm/download.asp?table_id=docpublish&code=19&seq=17
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