六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴13

 岩崎きみは1911年9月15日に東京市麻布区で亡くなり、鳥居坂教会の共同墓地に埋葬(墓誌に「佐野きみ」の名があります)されました。鳥居坂教会は、カナダメソジスト教会(現・カナダ合同教会)の伝道により1883年に創立された教会で、1941年にプロテスタント諸派が合同して日本基督教団となるまでは「麻布メソヂスト教会」と呼ばれていました。
 カナダメソジスト教会は「永坂孤女院」という孤児院と密接な関係があり、そのために、きみは永坂孤女院に預けられていたと思われています。
 今回はこの辺を探ってみます。

◆メソジスト派
 メソジストは、18世紀のイギリスでジョン・ウェスレーが起こしたプロテスタントの教派です。イギリスではさほどの勢力になりませんでしたが、開拓期のアメリカ大陸で普及しました。ところが、様々な対立で次々と分裂を繰り返し、複数のメソジスト派教会が誕生することになります。
 幕末から明治にかけて様々なキリスト教団体が日本に宣教師を送り込みましたが、メソジスト派も同様でした。メソジスト派からは米国メソジスト監督教会、アメリカ南メソジスト監督教会、カナダメソジスト教会の宣教師が来日し、1907年にこの3派が合同して日本メソヂスト教会を設立するまでバラバラに伝道活動をしていました。米国メソジスト監督教会は東北・関東、アメリカ南メソジスト監督教会は関西、カナダメソジスト教会は東京・静岡を中心に伝道していたようです。
赤い靴 日米メソジスト教会合同図

◆カナダメソジスト教会の伝道
 明治維新後、静岡藩では旧幕臣のための学校である駿府学問所(後に静岡学問所に改称)が設立されます。勝海舟はこの学問所の教師にアメリカ人教師を招聘、牧師でもあったエドワード・ウォーレン・クラークがアメリカから来日(1871年)し、理化学や語学などを教える傍ら、日曜日に自宅でバイブル・クラスを開いていました。1872年、クラークの後任としてカナダメソジスト教会の宣教医デイヴィッドソン・マクドナルドが赴任。同年、静岡学問所は廃止されますが、「賤機舎」と改称して再出発し、マクドナルドも教師を続けます。マクドナルドも英語、化学、歴史などを教える傍ら毎週日曜日に牧師館で聖書講座を開催し、伝道に努めていました。キリスト教の布教は禁止されていましたが、黙認されていた模様です。1874年9月、マクドナルドは11名の学生らを洗礼し、日本における初めてのメソジスト教会となる静岡教会(現・日本基督教団静岡教会 静岡市葵区西草深町)が組織され、受洗した山中笑、土屋彦六、山路愛山、今井信郎らは「静岡バンド」と呼ばれています。この静岡バンドのメンバーらは、静岡教会を中心に精力的な伝道を行い、清水市、浜松市、藤枝市、島田市、川崎町、焼津市、掛川市、沼津市の各地に多数の教会を誕生させたそうです。
 カナダメソジスト教会はマクドナルドともに宣教師のジョージ・コクランも一緒に来日させていました。コクランは横浜で伝道を始めましたが、中村正直の開設した私塾「同人社」の教師になり東京に移動。1876年に牛込教会(現・日本キリスト教団 頌栄教会)を創立しています。
 1876年、チャールズ・イビー宣教師とジョージ・ミーチャム宣教師がカナダメソジスト教会から更に派遣されます。イビーは、甲府の英学塾の教師に就任し、山梨県下を巡回して多数の教会や講義所を設立します。ミーチャムは静岡県沼津で伝道し、沼津教会を設立した後、東京に戻り、下谷メソジスト教会を設立しました。
 カナダメソジスト教会は、この様にして伝道活動を開始し、東京で麻布メソジスト教会(現・鳥居坂教会)、東洋英和女学院と麻布孤女院を、静岡で静岡メソジスト教会、静岡英和女学院と静岡ホームを、山梨で甲府メソジスト教会、山梨英和学院と甲府YMCAを設立することになるのです。

◆東洋英和女学校と永坂孤女院
 メソジスト派は教育事業や社会福祉事業にも熱心で、日本でミッションスクールを開校するのですが、伝道と同様にバラバラに活動していましたので、3教派それぞれがミッションスクールを設立。米国メソジスト監督教会は青山学院、アメリカ南メソジスト監督教会は関西学院、カナダメソジスト教会は東洋英和となる学校を開校しています。

 1882年、カナダメソジスト教会婦人伝道会社から派遣された婦人宣教師マーサ・J・カートメルが学校設立のために来日します。カートメルは翌年に東京の麻布鳥居坂に土地を購入し、麻布メソジスト教会を設立。その翌年の1884年に、男子の東洋英和学校(現・麻布学園)と女子の東洋英和女学校(現・東洋英和女学院)を開校しました。
 東洋英和女学院には、生徒だけで奉仕活動を行う「王女会」(King's Daughter's Society)という1888年に発足した団体がありました。王女会のメンバーは、小学校に通学できない貧民児童の為の日曜学校の教師などをしていましたが、1893年に麻布地域で奉仕活動を始めた卒業生の吉田勇子が、身売りされようとしていた少女に出会ったことが切っ掛けで、この少女を孤児院で養育することをメンバー達が計画しました。これが永坂孤女院の始まりです。この孤女院は麻布一本松に在ったと推測されていて、1894年には13人の少女が収容されていたそうです。
 孤女院設立から約10年後、婦人伝道会社や在校生の父母、卒業生が出資し、麻布本村町に施設を建築(1904年12月)しますが、1908年に麻布永坂町50番地へ移転します。そのため、「永坂孤女院」と呼ばれました。建物はカーマン・ホールと呼ばれ、1階は日曜学校の校舎、2階が孤女院でした。
 永坂孤女院は1928年に「永坂ホーム」と改称しています。
赤い靴 永坂孤女院

 ちなみに、1911年10月4日の「キングスドオターズ会記事」(王女会の会誌?)には、佐野君子の葬儀に花輪一輪を贈ったとの記事があるそうです。佐野君子とは、佐野安吉の養女になった岩崎きみのことで間違いありません。
 王女会は麻布メソジスト教会で葬儀が行われる度に花輪を贈っていた訳ではないでしょうから、王女会がきみと係わり合いを持っていたことが推測されます。静岡出身の9歳の少女が王女会と係わり合いを持つとしたら、それは永坂孤女院しかないでしょう。やはり、きみは永坂孤女院に入居していたようです。
 きみは何故永坂孤女院に入居することになったのでしょうか。きみを養女にした佐野安吉は、北海道の監獄に収監されていた期間を除けば、1905年に平民農場へ入植するまで地元の静岡県で暮らしていました。また、岩崎家は貧農だったと思われ、岩崎家の人々が東京に縁があった様子はうかがわれません。ですから、安吉若しくは岩崎家の人々が、永坂孤女院又は麻布メソジスト教会と直接接点を持っていたとは思えません。安吉と永坂孤女院を仲介した組織や人物がいたと推測するのが妥当でしょう。それは誰でしょうか。

◆静岡ホーム
 カナダメソジスト教会には、静岡県に「静岡ホーム」という孤児院がありました。静岡ホームは、1907年4月に松井豊吉をホーム長にして設立されていますが、その前身は「出征軍人遺家族幼児保管所」でした。出征軍人遺家族幼児保管所は、カナダメソジスト教会の宣教師ロバート・エンバーソンが日露戦争に出征し、戦死した軍人の遺家族を支援するために作った施設で、1905年8月、静岡市鷹匠1丁目に設立されています。
 きみが静岡の岩崎家を離れたのは、1904年9月から間もなく、遅くとも1905年5月までと推測されます。この時期には、静岡ホームはおろか、前身の出征軍人遺家族幼児保管所も出来ていません。ですから、きみが施設に預けられたことに関して、静岡ホームは全く関与していないと判断されます。
 蛇足ながら、ロバート・エンバーソンの経歴は以下の通りです。
●1866年 英領カナダオンタリオ州ベンスフォード村にて生誕。
●1899年 トロント・ビクトリア大学を卒業。文学士、神学士の称号を得る。
●1901年 来日、静岡教会に着任。
●1907年 静岡ホームを創設。
●1910年 帰国。郷里にて永眠(43歳)。

◆江尻教会
 安吉の出身地である庵原郡江尻町(現・静岡市清水区江尻町の辺り)は東海道の18番目の宿場(江尻宿)があった場所で、静岡市と合併する前は清水市でした。岩崎家(有渡郡不二見村)があったのも後の清水市です。カナダメソジスト教会は、静岡教会を拠点に静岡県下で伝道活動を行っていて、清水市でも教会を設立したとあります。しかし、静岡教会や沼津教会(1877年創立)、掛川教会(1886年創立)、浜松教会(1884年創立)などは確認出来るのですが、清水市にカナダメソジスト教会が設立した教会は見つかりませんでした。ただ、「相良教会七十年史」に「三十年七月六日新任小出市太郎牧師を迎え、藤枝教会太田虎吉牧師を部長代理として、臨時四季会を開き予算を議している。小出牧師は江尻教会より来られ、三十一年に甲州河東教会に去られるまで、その間一ヶ年に過ぎなかったが、九月台風の被害のため会堂、牧師館の修理をしている。」との記述があることから、1897年以前に江尻町で江尻教会が設立されていたことは確かでしょう。
 ちなみに、江尻町には1900年に設立された江尻美普教会(現・日本基督教団清水教会)というメソジスト派の教会がありましたが、この教会は日本美普(メソヂスト・プロテスタント)教会が設立した教会ですので、カナダメソジスト教会とは違う系統に属していました。

 安吉は原胤昭の教誨を受け、プロテスタントになりました。原胤昭は教誨師の時、組合教会(日本組合基督教会)の信徒でしたから、安吉も教派的には会衆派ということになるのでしょうが、安吉が教派を重視していたかというと疑問です。原胤昭は東京に戻ってからは、メソジスト派(米国メソジスト監督教会)と大変親密な関係になっています。ですから、安吉が江尻町に帰った後、カナダメソジスト派の江尻教会に出入りしていたとしてもおかしくは無いでしょう。現に、安吉は北海道のメソジスト派教会で懺悔談を語っていたこともあるのですから。
 安吉が江尻教会に関係していたとすると、一つの仮説が出来上がります。岩崎家が生活苦できみを手放さなければならない状況に追い込まれ、養子先を探すことになった安吉は付き合いのあった江尻教会に相談。カナダメソジスト教会の傘下には、永坂孤女院があったので、ここに預けることを提案され、永坂孤女院に岩崎きみを預けた。根拠の弱い仮説ですが可能性はなくはないでしょう。

◆富士育児院
 静岡県には、渡辺代吉が開設した富士育児院という施設もありました。
 代吉は13歳で出家し、日蓮宗久遠寺の住職妙光院月海の下で得度。義海と名乗り、激しい苦行で肢体不自由の身となりました。それでも修行を止めず全国行脚をしていましたが、横浜でキリスト教宣教師のジェームス・バラ博士に出会ったことが転機になりました。代吉はキリスト教を折伏しようとジェームス・バラを訪問したのですが、逆に説き伏せられ、還俗して横浜市山下町のキリスト教伝道学校に入学し、布教に従事します。身体障害者でありながら真摯に求道する代吉の姿に、アメリカから同情金が送られ、それを元手に代吉は、故郷の静岡県に貧困家庭の学校に通えない児童約30人を集めて「子守学校」を設立(1901年)しました。子守学校では、造花の内職をする授産事業も始めたのですが、1年余で失敗に終わります。集まった児童は次々と去ったのですが、身体障害者の孤児が3人が行き場もなく残されました。自らも障害者の代吉は、この子供達を養育するために収容施設を開設させます。これが富士育児院の始まりでした。
 富士育児院は、1903年6月10日に静岡県富士郡吉原町137番地(現・富士市)の空き家を借りて創立され、1904年11月にジェームス・バラの援助によって民家を買収し、富士郡島田村依田原7番地(現・富士市)に移転しました。
 富士育児院の創設には、代吉の友人だった渡辺政太郎も協力していました。政太郎は、原子基を連れて東京から静岡に赴き、富士育児院の仕事を手伝っていましたが、創設から1年足らずで手を引きます。原子の方は、1905年に伝道行商を始めるために退職するまで助務員として働いていました。

 きみを手放すとしたら、養子先や育児施設を探さなくてはなりません。安吉は、刑務所帰りで人々から敬遠されていたようですから、養子先を見つけることは困難だったと思われます。養子先が見つからないとなれば、頼れるのは孤児院などの施設しかありません。
 富士育児院は富士郡長が名付親となるなど、県下では知られた存在でしたので、安吉もその存在を耳にしていたと思います。安吉がいた不二見村(現・静岡市清水区)と富士育児院のあった吉原町(現・富士市)は30km程離れていますが、非常に遠いという程でもありません。もしかしたら、安吉は富士育児院に行って、きみを預かってもらえないか相談していたかもしれません。ただ、富士育児院は「収容児童は主として心身障害児で、特に当時一般孤児院、育児院で収容を拒否された、重症肢体不自由児童を収容し、収容力に余力があれば、一般孤貧児を収容しております。」というスタンスを取っており、各市町村より送りこまれてきた孤児・精薄児の増加により資金や職員が不足していたようなので、安吉が2歳児のきみを引き取って欲しいと願い出ていたとしても断られていたのではないでしょうか。

 安吉が富士育児院を訪れていたとしたら、理由はきみの里子の件以外は考えられませんから、訪れた時期はきみが安吉の養子になる以前のことでしょう。つまり、1904年9月以前ということです。1904年9月には、まだ原子が富士育児院で働いており、9月の数ヶ月前なら政太郎もいたかもしれません。安吉は原子とここで出会ったのではないでしょうか。
 肝心のきみの件は、前述の通り、断られていたでしょう。ただ、原子の妹2人は東京孤児院に預けられていて、政太郎の妻の若林八代は結婚する前は東京孤児院に勤めていたことから、原子と政太郎には東京孤児院とつながりがありました。だから、富士育児院では受け入れられなかったとしても東京孤児院を紹介することも出来たはずです。しかし、そうした様子はみられません。東京孤児院では、1904年2月から始まった日露戦争で孤児や貧児の入居希望者が増え、対応しきれない状況になっていたそうです。もしかしたら、紹介したということもあったかもしれませんが、きみには母親がいてその親代わりの安吉もいたわけですから、断られたのかもしれません。
 安吉が富士育児院を訪れていたか否かは、資料が無いため分かりません。ですが、安吉が富士育児院を訪れていたと仮定すると、静岡三人組と安吉に接点が出来、安吉が平民牧場に入植することになった理由が説明できます。安吉が富士育児院を訪ねたことで原子や政太郎と面識が出来、安吉が新天地でやり直したいとの希望を持っていたことを知っていた原子や政太郎が、平民牧場に入植出来ない政太郎の代役として安吉に声を掛けた。こう考えると、静岡三人組の深尾韶と原子、そして安吉という組み合わせが出来たのが納得できるのですが。


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信 友 会 会 報Vol.61-No.06
http://www.asagaya-church.com/shinyuukai/kaihou201001T1.pdf
日本メソヂスト教会社会事業史の試み
http://wesley-methodism.com/pdf/gakkai2005/gakkai2005c.pdf
日本基督教団静岡教会
http://www.shizuoka-church.jp/guide
静岡バンド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89
社会福祉法人 静岡ホーム
http://www.shizuoka-home.or.jp/page10.html
日本基督教団相良教会七十年略史
http://church.ne.jp/saganan/html/history.html
美普教会史 1―日本におけるもうひとつのメソジスト教会―
http://wesley-methodism.com/pdf/gakkai2003/gakkai2003h.pdf
File03 渡辺 代吉 氏
http://www.shizuoka-wel.jp/michishirube/post-3.php
社会福祉法人 芙蓉会100年の歩み
http://migiwaen.com/public_information/fuyoukai_history_100.pdf
わが国における肢体不自由児施設の歴史的展開(上)
http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/5776/1/20021-8-007.pdf
「東京孤児院月報」復刻版カタログ
http://www.fujishuppan.co.jp/wordpress/wp-content/uploads/2011/11/tokyokojiingeppo.pdf
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