六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴12

 前エントリ「留寿都と赤い靴11」で取り上げた菊地寛氏の著書「赤い靴はいてた女の子」で、菊地寛氏が繰り広げた創作ストーリーには、明らかな間違いが幾つもあります。例えば、佐野安吉が鈴木志郎より後に平民農場に入場したなど。ですが、岩崎せきの再婚話や死亡場所などは具体的に書かれてますから、戸籍の情報を参考にしたのだと思います。ですから、それらの情報と以前調べた情報も加えて戸籍上のことを整理します。

◆岩崎家及び佐野安吉の戸籍上の情報
●岩崎清右衛門
弘化元(1844)年7月13日:誕生。
明治23(1890)年4月10日:死亡。

●岩崎せき<清右衛門の妻>
安政6(1859)年5月10日:誕生。
明治23(1890)年12月:小沢佐七と再婚。
明治24(1891)年:金作を出産(父は佐七)。
明治25(1892)年:佐七と離婚。金作は佐七が引き取る。佐七と金作は除籍。
明治35(1902)年5月:甲府で死亡。
※「赤い靴はいてた女の子」では、「せきもかよがお産をする2ヶ月前に他界」「(せきの)葬儀を済ませてからひと月後、かよは生み月を迎えた」と記述されています。以前のエントリ「留寿都と赤い靴9」では、せきの死を6月頃としましたが、前記述から5月に直しました。

●岩崎かよ<清右衛門の長女>
明治17(1884)年1月13日:誕生。
明治35(1902)年7月15日:きみを出産(私生児)。
大正4(1915)年9月:鈴木志郎と入籍。
昭和23(1948)年:小樽市で死亡。

●岩崎辰蔵<清右衛門の長男>
明治19(1886)年1月18日:誕生
明治23(1890)年:父の死後、戸主となる。
明治39(1906)年4月20日:虻田郡真狩村字八ノ原で肺疾により死亡
※「赤い靴はいてた女の子」には、「三月も半ばを過ぎると、~略~辰蔵は、自らを励ますようにかよや、志郎に言った。~略~早くマチの医者に見せねばと顔を曇らせた。激しい風が吹き荒れた翌朝、辰蔵は冷たい骸に変わっていた。」と記述されていたので、前エントリ「留寿都と赤い靴11」では、辰蔵の死を「3月半ば過ぎ」としました。しかし、「顔を曇らせた」日の翌日が「激しい風が吹き荒れた」日ではないとも読めます。ですから、「平民農場の興亡 <北海道の新しき村> 下」(留寿都と赤い靴4参照)の記述、「明治三十九年二十一歳の辰三が四月二十日に肺疾で死亡した」に従いました。

●岩崎きみ<かよの長女>
明治35(1902)年7月15日:誕生(私生児)。
明治37(1904)年9月19日:戸主・佐野恒吉(安吉の弟)の戸籍に姪として入籍。安吉の養子。
明治44(1911)年9月15日:午後9時、東京麻布区で死亡。

●佐野安吉<佐野菊蔵の長男>
嘉永3(1850)年5月8日:誕生。
明治XX年:結婚。
明治XX年:妻と離婚若しくは死別。
明治15(1882)年1月10日:廃嫡。
明治XX年:戸主が佐野恒吉になり、戸籍に兄として記載される。
明治37(1904)年9月19日:きみを養子にする。
昭和XX年:戸主が佐野静司になり、戸籍に伯父として記載される。
昭和32(1957)年12月25日:年月及ぴ場所不詳死亡の許可が下り、除籍


◆岩崎せきの死について
 「赤い靴はいてた女の子」で菊地寛氏は、せきが安産祈願のために身延山に参拝し、甲府に立ち寄ったところで亡くなったとしていました。身延山というのは、日蓮宗総本山の久遠寺のことでしょう。また、せきが甲府で亡くなったとしたのは、菊地寛氏が創作する意味はありませんから、戸籍にそう記載してあったからでしょう。
 地図で位置関係を確認します。Aは清水、Bは身延(久遠寺)、Cは甲府です。
赤い靴 身延道

 清水-身延間は約50km、身延-甲府間も約50kmです。
 清水からみると、甲府は身延の先にあり、祈願のついでに立ち寄るような距離ではありません。ですから、せきは安産祈願のために旅立ったのではなく、甲府若しくはその先の地に行こうとしていたのです。せきが身延山に参拝したという記録が残っているとは思えませんし、菊地寛氏も調べた様子はありません。身延山に参拝したという話は、せきが甲府で亡くなったことを説明するために創作したのでしょう。
 ちなみに、「赤い靴はいてた女の子」には、岩崎家の菩提寺は清水にある臨済宗の東向寺で、過去帳に清右衛門、せき、辰蔵の名があったと書かれています。岩崎家は日蓮宗ではなく、臨済宗の檀家だったようです。

 せきは何故、かよの臨月近くになって、甲府若しくはその先の地に行こうとし(若しくは目的地から戻る途中で)、43歳で亡くなったのでしょうか。もしかしたら、「子供が産まれるので、かよを妊娠させた相手に会いに行った」「出産費用を親類などに借りに行った」ということだったのかのしれません。
 せきが亡くなった頃の女性の平均寿命は45歳位でしたが、40歳の平均余命は約28歳でした。つまり、せきが平均余命をまっとうしたら、68歳位まで生きる計算になります。清右衛門が45歳で亡くなっていますので、せきが43歳で亡くなっても不思議は無いのですが、死亡原因が気になります。病死や事故死なのか、それとも犯罪死だったのか。
 せきの旅の目的と死亡原因は、今となっては知る由もありませんが、きみの出生と関わり合いがあるような気もします。


◆佐野安吉がきみを養子にしたことについて
 きみは、佐野家の戸籍に入籍していました。入籍日は明治37年ですので、既に明治31年式戸籍(明治31年7月16日から大正3年12月31日)の様式に切り替わっていたでしょう。その様式で戸籍を再現すると下図のような感じになるのではないでしょうか。ただし、佐野恒吉の妻ついては適当に作成し、佐野静司を除く子ついては存在するか分からないので省きました。
赤い靴 佐野恒吉戸籍1

赤い靴 佐野恒吉戸籍2

 きみの養子縁組が行われた時、各人の年齢は以下の通りでした。
●岩崎きみ  2歳
●岩崎かよ 20歳
●岩崎辰蔵 18歳(戸主)
●佐野安吉 54歳
●佐野恒吉 40歳(戸主)

 明治31年に制定された旧民法(明治民法)よって家制度が確立し、戸主が家族の統率のために様々な権利義務(戸主権)が定められました。戸主権には、家族の婚姻または養子縁組に対する同意権(旧民法第750条)や家族の入籍又は去家に対する同意権(旧民法第737条)がありましたから、安吉ときみの養子縁組ときみの佐野家への入籍に関し、岩崎家戸主の辰蔵はもとより、佐野家戸主の恒吉も同意していたのでしょう。また、きみの親権はかよにありましたから、かよも当然同意していたはずです。
 ただ、ここで問題になるのは、辰蔵がまだ未成年(旧民法第3条)だったことです。母のせきが存命中は、せきが代行(旧民法第895条)することが出来たので問題はありませんでしたが、この時には既に亡くなっていました。親権者のいない未成年者には、後見人を定めることになっていました(旧民法第900条)が、辰蔵に後見人はいたのでしょうか。安吉はせきと内縁関係で、せきの死後も安吉はかよと辰蔵に家族のように接していましたから、安吉が後見人になっていたとしてもおかしくはありません。ですが、菊地寛氏の戸籍調査には一切後見人の記述がありませんでした。後見人がいたとしたら、戸籍に記載されているはずです。重要な手掛かりとなる後見人の情報を菊地寛氏があえて無視したとも思えませんので、後見人はいなかったと考えるのが妥当なのかもしれません。しかし、後見人がいなかった場合、養子縁組の手続きや岩崎家の戸籍からきみを除籍する時に問題にならなかったのかという疑問も生じます。この辺のことはよく分かりませんが、実際に養子縁組が行われ、籍が移っているのですから、後見人の有無に関わらず、問題は生じなかったと考えるしかないのかもしれません。

 この年の1月、かよは成人しています。ですから、もし、生活苦できみを育てられなくなり育児院などに預けるとしても、かよが自ら手続き可能でした。それにも拘らず、態々養子縁組をしたのは何故でしょうか。
●きみを施設に預けるに当たって、家族に対する居所指定権(旧民法第749条)を持つ戸主の同意を求められ、未成年の辰蔵では法律行為が行えなえず(旧民法第4条)、養子縁組をすることできみの親権と籍を移すことで問題をクリアした。
●きみを施設に預けるために、若いかよが様々な手続きをするのは困難と安吉が判断し、安吉が一括して手続きをするために養子縁組をした。
●安吉がかよの将来を考え、子持ちでいるよりも身軽になった方がいいと判断し、安吉が自分の子にしてから施設に預けることにした。
 養子縁組をした理由としては以上のようなことが考えられますが、本当の事は分かりません。ただ、安吉とかよが死ぬまで強い絆を結んでいたことを考えると、岩崎一家が困窮してきみを育てられなくなり、姉弟の保護者のような立場だった安吉が孤児院を探し出し、かよの将来を憂慮してきみを自らの子とし、施設に預けたのではないかと思えます。

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●第七百五十条 家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
 2 家族カ前項ノ規定ニ違反シテ婚姻又ハ養子縁組ヲ為シタルトキハ戸主ハ其婚姻又ハ養子縁組ノ日ヨリ一年内ニ離籍ヲ為シ又ハ復籍ヲ拒ムコトヲ得
 3 家族カ養子ヲ為シタル場合ニ於テ前項ノ規定ニ従ヒ離籍セラレタルトキハ其養子ハ養親ニ随ヒテ其家ニ入ル
●第七百三十七条 戸主ノ親族ニシテ他家ニ在ル者ハ戸主ノ同意ヲ得テ其家族ト為ルコトヲ得但其者カ他家ノ家族タルトキハ其家ノ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
 2 前項ニ掲ケタル者カ未成年者ナルトキハ親権ヲ行フ父若クハ母又ハ後見人ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
●第三条 満二十年ヲ以テ成年トス
●第八百九十五条 親権ヲ行フ父又ハ母ハ其未成年ノ子ニ代ハリテ戸主権及ヒ親権ヲ行フ
●第九百条 後見ハ左ノ場合ニ於テ開始ス
 1 未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者ナキトキ又ハ親権ヲ行フ者カ管理権ヲ有セサルトキ
 2 禁治産ノ宣告アリタルトキ
●第四条 未成年者カ法律行為ヲ為スニハ其法定代理人ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス但単ニ権利ヲ得又ハ義務ヲ免ルヘキ行為ハ此限ニ在ラス
 2 前項ノ規定ニ反スル行為ハ之ヲ取消スコトヲ得
●第七百四十九条 家族ハ戸主ノ意ニ反シテ其居所ヲ定ムルコトヲ得ス
 2 家族カ前項ノ規定ニ違反シテ戸主ノ指定シタル居所ニ在ラサル間ハ戸主ハ之ニ対シテ扶養ノ義務ヲ免ル
 3 前項ノ場合ニ於テ戸主ハ相当ノ期間ヲ定メ其指定シタル場所ニ居所ヲ転スヘキ旨ヲ催告スルコトヲ得若シ家族カ正当ノ理由ナクシテ其催告ニ応セサルトキハ戸主ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ離籍スルコトヲ得但其家族カ未成年者ナルトキハ此限ニ在ラス
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3. 第19回生命表について
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/19th/gaiyo.html#3
家制度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E5%88%B6%E5%BA%A6
旧民法の親権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%A8%A9#.E6.97.A7.E6.B0.91.E6.B3.95.E3.81.AE.E8.A6.AA.E6.A8.A9
民法第四編(民法旧規定、明治31年法律第9号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/m4_o.htm
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