六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴11

 北海道テレビ放送のプロデューサーとして「開局記念ドキュメントドラマ『赤い靴はいてた女の子』」を制作した菊地寛氏は、番組の取材で得られた情報を基に本を書いていました。

◆菊地寛氏の著書
赤い靴はいてた女の子
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%9F%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AD%90-1979%E5%B9%B4-%E8%8F%8A%E5%9C%B0-%E5%AF%9B/dp/B000J8EUGI/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1395584956&sr=8-1&keywords=%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%9F%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AD%90
著 者:菊地寛
出版社:現代評論社
発売日:1979年3月
=目次=
まえがき
私の姉は「赤い靴」はいてた女の子
 海鳴りは出逢いの旋律 11
 雨情忌のざわめきに老女の悲歌 16
十勝の山懐から不二見の里へ
 ひと目逢いたい幻の姉に 23
 村にも残る細い航跡 29
戸籍簿に写し出された明治のドラマ
 η片親ない子は門で泣く 39
 時代に流され海山千里 45
透かし出された母・かよの青春
 謎の男“天竺安”の面影 55
 里の日々に波だつ女の生 62
閉塞の時代を切り拓く魂の槌音
 非戦の願い新天地にも 74
 海渡る津軽青年鈴木志郎 79
よりをなせ、縦横の糸よ
 かよと志郎の出逢い 95
 教誨師・原胤昭と本多庸一と 101
 女か母か、安吉との別れ 108
私生児をもつ母親のせつない想い
 この子は天からの授かりものです 113
 きみのゆき先は決まった 118
平民社一統と開拓移民悲話
 理想郷をめざす小さな群れ 127
 平民農場にみる開拓裏面史 134
鈴木夫妻と雨情、啄木の友情
 一つ屋根の下で育まれたものは 143
 雨情、啄木との別れと放浪 150
札幌、函館、青山、横浜の邂逅
 メソジスト宣教師の軌跡 163
 「赤い靴」取材ロケのスタート 172
アメリカヘ渡った「赤い靴」
 本居姉妹の演奏旅行 179
 里親はヒュエット宣教師夫妻 183
動かすことのできない事実
 妹の願い一片の詩に 194
 幸せ薄かった九歳の生涯 198
※庵点が表示できないため、ηで代用しました。

◆「赤い靴はいてた女の子」について
 この本は菊地寛氏の想像による創作物語の間に取材過程を入れ込むという構成になっています。例えるなら、ドラマの合間に実際の映像を織り交ぜているような感じです。
 「創作物語」と書きましたが、理解し辛いでしょうから、一部を引用して見ます。
*** 「η片親ない子は門で泣く」の節の冒頭部分 ***
 富士山は、その目もどっしりとした雲の彼方に姿を隠していた。かよは街道を小走りに駆け、家路を急いだ。新茶の季節にはまだ間があるが、道端の緑はすでに胸を突くような濃い匂いを漂わせていた。
 おとう、死んじゃいやだ。
 昨夜から、何度この言葉を繰り返しただろう。村の尋常小学校に上がったばかりのかよだったが、今朝方突然倒れた父親の岩崎清右衛門が、もう間もなくこの世の人間でなくなることが、妙によく理解できた。
 「おとうが危いって、江尻の安吉おじさんのところへ伝えにいっておくれ」
 と、母親のせきに言いつけられたかよが、学校を休んで朝早く家を飛び出してから、かれこれ四時間近くもたっていた。目ざす安吉おじさんこと、佐野安吉は、博打に出かけたとかで四、五日前から家には帰っていなかった。
 「あんなひと、どこにいってるかわかったもんじゃないんだよ」
 家人からののしるような声を背に浴びせられ、かよは何も言えずもときた道を引き返すところだった。すり切れた草履は小石を踏むと柔らかい足の裏に堅い痛みを走らせる。チチ、チチと頭の上でさえずる小鳥たちが、別世界の生き物のように見えた。
**************************************************
 この様に見てきたような記述が、この本の多くを占めています。実話を題材にした小説と表現するのが適切なのかもしれません。だからと言って、資料的価値が無い訳ではありません。取材過程で得られた情報が記載されているからです。例えば、戸籍に関しては、菊地寛氏しか調べていなく、その情報が得られるのは貴重だと思います。


◆取材などによる情報
 本書に書かれている証拠や証言を整理してみます。
●菊地寛氏は、岡そのさんの投稿記事を切っ掛けに2年間手紙のやり取りをしていて、岡そのさんから「━お便りうれしく思います 私も姉の事は父母の話でほんのわずかですが覚えています姉は明治時代にアメリカにいった後は便りが一度か二度あったと父母から聞いています でもそれは私の生まれる10年も前のことであり 誰によって何処へ連れてゆかれたのかは知りません━」という葉書を貰っている。

●菊地寛氏が岡そのさん宅を初めて訪ねた時の会話。
-きみについて。
「実はお姉さんのことを詳しく聞かせていただきたいのです」
「はあ。でも父や母が昔話をしていたのを何とはなしに小耳にはさんでいたていどですから、お役に立てるかどうか」
「母には、父と結婚する前に生んだ子が一人いたんです。きみちゃんと呼んでいました」
-父母について。
「父母がどのようにして如り合ったのか。昔はあまりそんなことを両親に聞けなかったのではっきりしたことはわかりません。ただ、ふたりの言葉の端々から考えてみると、函館で知り合っていっしょになったんではないかと思いますよ」
「でも、お父さんは青森の人だし、お母さんは静岡の方ですね。どうして、二人は函館で出逢ったのでしょう」
「さあ、人の縁というものは不思議なものですからねえ」
-父母が札幌の山鼻に住んでいた頃について。
「当時の写真とか、そのことを示す記録なんかは残っていませんか」
「写真なんてありませんよ。とにかく貧乏だったんでしょう。写真を撮ることなんて考えもしなかったでしょうし、たとえ撮りたくてもなかなか撮れなかったでしょうねえ」
「そうですか・・・」
「でも、父母は雨情さんや奥さんとはずいぶん親しくしていただいたようです。よく身の上話をし合ったそうです。そんなおり、母は鈴木と結婚する前に自分のお腹痛めた女の子を外人さんの養女に出した、と問わず語りに話したんでしょう。後になって母は、“雨情さんが、
アメリカ人に貰われていったきみちゃんのことを歌にしてくれたんだよ”とつぶやきながら“赤い靴はいてた女の子”といつも歌っていましたよ」
「なるほど。それではきみちゃんを養女にした外人さんというのはどんな方ですか」
「何しろ昔のことですからはっきり覚えていないのです。でも、これだけは間違いありません。子供のいない新教の宣教師さん夫妻だったそうです。アメリカから手紙がきていたといってましたから、きっとアメリカ人だったんですね」

●菊地寛氏が清水市役所で見つけた戸籍。
 戸主 岩崎清右衛門
    弘化元年七月十三日生
 妻  せき
    安政六年五月十日生
 長女 かよ
    明治十七年一月十三日生
 長男 辰蔵
    明治十九年一月十八日生
※せきは、きみ誕生の2ヶ月前に他界。

 戸主 岩崎辰蔵
 姉  かよ
 姪  姉かよ口□□女(口は白く塗りつぶしてあり、復元すると私生子)
    きみ
    出生明治三十五年七月十五日

 戸主 佐野恒吉
    元治元年四月九日生
 兄  安吉
    嘉永参年五月八日生
※佐野安吉は佐野菊蔵の長男として江尻宿で生まれ、明治一五年一月一〇日付で廃嫡。佐野恒吉は安吉の弟。

 戸主 佐野恒吉
 姪  きみ
    兄安吉養子
 明治四拾四年九月拾五日午後九時死亡東京麻布区届出
※きみの父母の欄は
 父 佐(“佐”と書いたが斜線で訂正)
 母 岩崎かよ
となっていた。

 戸主 佐野静司
 伯父 安吉
 年月及ぴ場所不詳死亡昭和参拾弐年拾弐月弐拾参日附許可を得て同月弐拾五日除籍
※佐野静司は佐野恒吉の長男。

●菊地寛氏が、清水市の調査で老人から佐野安吉について「あん人は、人を殺ったという噂もあった。それで北海道へいったらしい。何でも網走の監獄にもぶち込まれたっていう話じゃ。たまに、村へ帰ってくることもあったが、誰も喜ばんかった。むしろ、迷惑がられたようだなあ」と聞いている。

●菊地寛氏が清水での戸籍調査の結果を報告した時、岡そのさんは姉の名前が平仮名できみと書くことも、明治35年7月生まれであることも、私生児として戸籍に記入されていることも知らなかった。

●菊地寛氏が岡そのさんに清水での戸籍調査の結果を報告した時の会話。
-きみについて。
「きみさんは私生児として届けられていますが、この子の父親はいったい誰だったんでしょう。お母さんのかよさんは、その人の名前を口にしたことはなかったでしょうか」
首を横に振り、「きっと、誰にも言えない事情があったんでしょうねえ」
「そうですか。ところで、きみさんは、2歳になったときに、佐野安吉という人と養子縁組しています。これはどういう意味だと思いますか」
「さあ・・・」
「驚かないでください。実はきみさんは、東京で、佐野きみという名前で死亡届けが出されているんです」
「えっ」
「そんなはずはありません。それは何かの間違いではないでしょうか。姉はアメリカ人の宣教師に貰われて、アメリカヘいったんだと母はいつも言ってました。アメリカから、手紙も二、三度きていたということですし・・・」
「もちろん急には信じられないことと思います。でも、戸籍では、ちゃんとそういう届けが出されているんです」
「でも、母からはそんな話は聞いておりません。昔のことですから、戸籍の方が事実と違っていることだってあるんじゃないですか」
-佐野恒吉について。
「安吉という名前には覚えがありますよ。でも、姉がその人の養女になったとは聞いていませんが」
「母から聞いている安吉という人は、ほれ昔よくいたでしょ、鼠小僧みたいな。ええ、いわゆる義賊ですね。悪徳金持ちから盗みを働いて、貧しい人に施しをした人らしいんです。天竺安とか、静岡小僧とか呼ばれて、そう刑務所暮らしも長かったようですよ」
「そうそう、そう言えぱ安吉さんが刑務所に入ったとき“ハラタネアキ”という人物に世話になったそうだ、と母が言ってましたよ」
「ハラタネアキ。タネアキとはどんな字ですか」
「さあ、そこまでは」
「どこに住んでいた人でしょう」
「それも知りません。ただ熱心なクリスチャンだと聞かされたような気がします」
「確か子供の頃、私も安吉さんに会ってるんです」
「えっ、それはどこですか」
「樺太の豊原にいた頃です。安吉さんの臨終のときに居合わせました」

●父・鈴木志郎についての岡そのさんの発言。
「父・志郎の実家は、漁師か、大工だったらしいです。母方の兄弟を頬って父は、若い頃に北海道の漁場を歩き、札幌では豊平館のコックをしていたこともあったそうです。その後、函館の大沼へ出たと聞いています」

●菊地寛氏が豊平館食堂部の杉山正次社長を取材した時の会話。
「ええ、私がここで初めて仕事についた頃は食堂関係は20人そこそこでしたから、よく覚えていますが、鈴木志郎という名前には記憶がありません。ただ、明治の頃は、人手がなくて、臨時雇いの若い者もずいぶん使われていたらしいです。その中に、鈴木志郎さんという方
がいた、ということも考えられますナ」
「明治の頃の西洋料理のコックというのは、外国航路の船に乗り組んで料理を覚えたり、外人宣教師の家庭に雇われて、宣教師夫婦から、料理を手ほどきされた方が多いんですよ」
「ほう、外人宣教師にですか」
「はあ、明治の30年代には、岩井徳松という人がおりましたが、米人宣教師について横浜や仙台を廻り、札幌にきたところで一本立ちしたそうです」
「岩井さんがついたという宣教師の名前はご存じでしょうか」
「はい、それはヒュエットという名前だったようです。明治32年から37年頃まで札幌にきていた宣教師さんらしいですよ」
※杉山正次は大正8年から豊平館でコックをしていた。

●青山学院の大学宗教主任・佐藤元洋氏の調査により、原子基の名が上原教会の記録に残っていることが判明。

●ヒュエット宣教師について、アメリカのメソジストの本部へ照会したところ「ヒュエット宣教師夫妻には自分たちの子供はいなかったが、日本人の女の子を養女にしたとの記録はない」との回答を得る。

●デンバー大学にヒュエット宣教師の日本でのことに触れた資料は無かった。

●菊地寛氏とヒュエット宣教師の甥・フレッド氏及びその兄妹の間で交わされた会話。
-ヒュエット宣教師の養女について
「ヒュエット宣教師が、日本人の女の子を養女にしたという話を知りませんか」
「オウ、もちろん聞いているさ」
「そうそうヒュエット叔父さんたちは子供が生まれなかったからね」
「養女にしたのは、えーと、三歳か四歳の女の子だったようだ」
「なるほど。それでヒュエット宣教師が養女にした日本の女の子はその後どうしてるでしょか」
「さてと・・・」
「それなんですが、私たちは話には聞いて知っているのだが、その女の子に直接会ったことはない。だから、これ以上は何とも言えない」
-ヒュエット宣教師夫人・エンマについて
「ええ、エンマは日本語が上手で、自分は子供がいなかったが、どこでも子供をよく世話をしたらしいね」
「そうそう、叔父夫婦が日本にいった頃、貧しい人たちが多く、赤ちゃんに乳を飲ませることのできない母親もいた。それを見かねて、アメリカ本国の家庭に呼びかけて、粉乳を集めて日本に送る運動をしたこともあったそうだよ」
「パサディナへいってからは、養老院のお年寄りの世話に精を出していた。と聞いているよ」

●ヒュエット宣教師夫妻が晩年に暮らしたパサディナの養老院にいるメツガーという老婆の話。
「エンマは日本の北の島で暮らしたことがあると言っていたよ。そうそうリンゴがとれるんだってねえ。足を暖めるのに使った、という鉄びんを私にくれたんだけど、いい人だった。年をとってこの養老院にきてからも、からだの不自由な人の面倒をよくみていましたよ。さあ、日本の子供を貰って育てたという話は記憶のないねえ」

●帰国した菊地寛氏が岡そのさんにアメリカでの調査結果を報告した時の会話。
「実は、きみちゃんの行方は結局、はっきりしなかったんです。アメリカで生存していたという証拠はありませんでした」
「やっぱりそうでしたか。古い話ですからねえ」
「でも、でもひとつだけはっきりしたことがあるんですよ。それはチャールス・ヒュエットという宣教師が日本にいるとき、日本人の女の子を養女にしていることなんです。アメリカでその女の子が生活していたかどうかは何ともいえませんが、僕はきみちゃんはおそらくヒュエット宣教師の養女になったのではないか、と思うんです」
「ねえ私、いま大事な事を思い出しました。母が昔、シュミットさんとかいう外人さんの名前を口にしていたことがあるんです。シュミットさんとは、ヒュエットさんのことではないでしょうか」

●青山墓地の埋葬者台帳に記載されている内容。
 佐野きみ 静岡県平民
 明治四十四年九月十五日死亡
 死因 結核性腹膜炎
 墓番号 二等一二ノニニノ三
※墓は鳥居坂教会の共同墓地。


◆菊地寛氏が作り上げたストーリー
 菊地寛氏は取材で得られた情報を十分精査せず、不明なことは想像で補ってストーリーを作っています。詳しくは本書を読めば分かるのですが、既に絶版になっているため、読む機会はなかなか得られないでしょう。なので、そのストーリーを箇条書きで簡単に記すことにします。
●明治時代、静岡県不二見村に貧しい小作の一家が住んでいた。一家は、岩崎清右衛門と妻・せき、長女・かよ、長男・辰蔵の4人。
●岩崎清右衛門は遊び人の佐野安吉と仲が良かった。安吉はきみを可愛がっていた。
●1890年4月10日、清右衛門が死去。
●30歳を過ぎたばかりのせきは、1890年12月に同じ村の農家の次男だった小沢佐七と再婚。佐七は婿養子だった。
●母の再婚に反発するかよは安吉に慰められる。
●1891年の秋、せきと佐七の間に金作という男児が生まれる。
●年が明けた頃から、せきと佐七の仲が悪くなり、佐七は金作を連れて実家に戻る。金作は佐七の実家の養子になった。
●離婚後、せきは懸命に働くが、不作続きで小作料が払えなくなり、地主に畑を取り上げられる。出面仕事や内職で糊口を凌ぐも貧しくなる一方だった。
●かよの成績は良かったが、進学する余裕は無い。小学校を卒業すると甲府の宿屋に女中奉公に出ることになった。
●旅立ちの日、安吉が現れ、かよに餞別を握らせ、はなむけの言葉を掛けて去って行く。1896年の春のことだった。
●1901年の春、成長したかよが甲府の奉公先から不二見村に帰ってくる。実家では、せきと辰蔵が出面仕事に励んでいた。
●かよ実家を離れている間、せきと安吉が夫婦同然の関係になったが、安吉が捕まったらしく、それっきりになった。安吉は北海道の監獄送りになったとの噂だった。
●夏祭りの日、偶然出会ったかよと安吉は肉体関係を持ってしまう。かよは、優しかった安吉を慕っていた。安吉との関係は秋頃まで続く。安吉がまた捕まって北海道の監獄送りになったとの噂話が発っていた。
●かよは安吉の子を身篭った。
●臨月が近づくと、せきは安産祈願のために身延山に参拝し、甲府に立ち寄ったところで亡くなる。
●1902年7月15日、かよは女児を生んだ。「きみ」と名付け、私生児として届ける。
●肩身の狭い思いをしたかよは、1903年の初冬、きみを背負って村を出た。
●鈴木志郎は船大工の二男坊だった。父の金兵衛は船宿の仕事もしていたが、暮らしは辛うじて成り立っているありさまだった。
●少年だった志郎は、近所に住む医者の所に出入りしていたカトリックの神父に感化される。
●志郎には向学心があったが、家が貧しいため、小学校を卒業した後は家を出なければならなかった。
●志郎は北海道の積丹でヤクザの親分をしていた母方の叔父・種田幸次郎を頼り、津軽海峡を渡った。志郎は賭場の手伝いをしていたが、志郎にヤクザは合わなかった。
●1896年、積丹を出て札幌に来た志郎は、豊平館に職を得た。ここで働いている時にメソジスト派の宣教師・ヒュエットを見かける。●豊平館には5年程勤めるが、新聞記者になりたいと思うようになり、故郷に戻って出直すことにする。
●故郷では、新聞記者になることを反対されるが、「平民新聞」の創刊号を読んで意思を固める。1903年、志郎は再び北海道へ渡った。
●函館で荷役の仕事などをしていた12月、開拓移住民達が志郎の前を通り過ぎていった。その中にいた赤子を背負った若い女が転び、志郎は思わず手を差し出した。女と子は不二見村からやって来た岩崎かよときみだった。
●函館に渡ってから10ヶ月になった志郎は、大沼の遠い親戚の商家に住み込み、商売を手伝っていた。
●仕事で函館に来ていた志郎は、偶然、かよを見かける。おもわず声を掛けると、かよも志郎を覚えていた。2人は氷屋で話し込み、かよは、両親が他界していること、今は土産物屋で売り子をしていること、弟もこちらに呼びたいこと、そして子供がいて結婚していないことを打ち明ける。
●店を出て2人で話をしていると、かよに声を男がいた。偶然、かよを見かけた佐野安吉だった。安吉は、かよに何故ここにいるのか尋ね、函館で稼いだら内地に帰るつもりなのだと伝えて去っていった。かよは志郎に親戚みたいな人だと語る。
●志郎とかよが再開したのは8月末のことだった。その数日後、志郎はかよに、仲間と大きな農場を開くために話し合っているので、一緒に来て欲しいと結婚を申し込んでいた。志郎は、きみも一緒に引き取ると言ったが、かよは返事を躊躇う。かよは佐野安吉に相談したかったが、子供が生まれたことを伝えていなかった。
●かよが土産物屋で働いていると、安吉がやって来た。安吉は、志郎が訪ねて来て結婚を申し込んだことを聞かされ、かよに子供がいることを知った。安吉はかよに結婚を勧め、きみのことは任せろと言い、原胤昭に相談するために東京へ向かった。
●かよは、誰に父親のことを聞かれても「この子は天からの授かりものです。わたしが、父親のぶんも面倒をみるつもりです」と言っていた。志郎にも詳しい事情は話していなかった。
●かよが結婚を申し込まれてから半年以上経過し、一冬を越した頃、安吉が函館に戻ってきた。安吉はきみを養女に出すことを考え、原胤昭に養子先を探してもらい、来日して5、6年になるキリスト教のアメリカ人宣教師夫婦の養女にすることにして帰ってきたのだった。
●安吉は、きみが自分の子であることを悟っていた。かよを説得し、養女に出すことを認めさせる。安吉はかよに未練があり、かよも安吉への想いが残っていたが、安吉はかよの幸せのために志郎との結婚を勧め、かよも結婚を決心する。
●安吉はかよに、アメリカ人宣教師が札幌にいることを教えたが、未練が残るといけないからと、名前は教えなかった。また、安吉の養子にしている方が好都合だったので、すでにきみの養子縁組を役場に届けていると伝える。
●翌朝、安吉はきみを連れてアメリカ人宣教師のいる札幌行きの汽車に乗り、志郎とかよが見送った。
●仲間内でささやかな祝言を挙げた志郎とかよは、平民農場への準備をしていた。志郎は、開拓には人手があった方がいいと、静岡で奉公人をしていた辰蔵と定職の無い安吉を同志に迎え入れることをかよに提案。辰蔵と安吉は申し出を受け入れた。
●平民農場に入植した志郎と辰蔵は、原子基らと小屋を建てたり、開墾仕事をするなど、重労働に耐えていた。かよもきみへの想いを断ち切るかのように力仕事もいとわず働いた。
●平民農場は、秋の収穫を終えても金策に走り回る状態だったが、入植者が増え、1906年1月末には8人になっていた。安吉もかよ達を追いかけるように入植した。
●辰蔵が肺を悪くして倒れる。3月半ば過ぎに平民農場で、辰蔵が亡くなる。
●その年の夏、第2号家屋が焼失。農場にとって致命的損失になった。秋になると、平民農場に見切りを付けて出て行くものが続出、安吉も農場を去った。
●年が明けた1907年1月、平民農場には原子基を始め、志郎かよ夫婦らが残っていた。
●2月、かよは女児を出産、「のぶ」と名付ける。
●平民農場の経営は苦しいままで、志郎は平民農場を出て、札幌に行く決心をする。緑の萌え始めた頃、鈴木一家3人は農場を後にした。●この年の暮れ、平民農場は解散した。
●札幌に出てきた志郎は、北鳴新報社の事務の職を得る。志郎が入社して間もなく、野口雨情も入社。
●親しくなった2人は、郊外の山鼻に一軒家を借り、二家族で住み始めた。鈴木一家は志郎、かよ、のぶの3人。野口一家も雨情、ひろ(妻)、雅夫(長男)の3人だった。
●家族ぐるみの付き合いで親密になったひろに、かよはふときみのことを洩らし、志郎の子ではないこと、アメリカ人宣教師へ養女に出したを話す。妻からそれを聞いた雨情は、かよを慰めた。
●1907年10月、志郎と雨情、そして北門新報社の石川啄木の3人が新設された小樽日報へ転職。雨情と啄木は記者として、志郎は事務として働き始める。
●早々に社内の内紛が始まり、雨情が退職した。内紛は続き、主筆の岩泉江東も去った。
●新体制になり、志郎は念願の記者なったが、啄木は事務長と揉めて自ら退職。
●不況で会社の経営も傾いていて、1908年4月18日に発行停止になり、小樽日報は廃刊になる。志郎は職を失った。
●志郎とかよは真狩村に戻り、平民農場近くに再入植。郵便配達をしながら畑を耕すという生活をする。
●1913年、「その」が生まれる。
●志郎は第一次世界大戦の軍需景気で賑わう室蘭の製鉄所に就職する。しかし、終戦と共に行われた人員整理で失職。
●夕張の炭鉱で働くも、志郎は炭鉱の仕事になじめなかった。
●室蘭で知り合いになったカトリック教会のヨセビョ・ブライトン神父の世話によって、樺太の豊原の教会の伝道師として赴任することになる。1923年、鈴木一家は樺太に渡った。
●1925年の秋の夜、豊原の鈴木家に安吉が訪ねてくる。安吉は話をする間もなく倒れ込み、看護の甲斐もなく、1週間後、「かよさん。きみちゃんはなあ・・・」と言葉を残し、安吉は亡くなった。
●ヒュエット夫妻に預けられたきみは、横浜からサンフランシスコヘ向かい異国土を踏んだこともあったかも。
●再来日したヒュエット宣教師が帰国命令を受けた時、きみは結核に罹っていた。ヒュエット夫妻は悩み、同じメソジストの鳥居坂教会の永坂孤児院にきみを預け、治ったらアメリカに来るように言い残して帰国した。
●きみの病状は悪化し、9歳の生涯を閉じた。
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