六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴10

 佐野安吉は、岩崎きみの養父になったり、かよ・辰蔵姉弟を平民農場に連れて行ったり、岩崎家に大きく関わった人物でした。その安吉に影響を及ぼしたのが原胤昭です。胤昭がどのような人物だったのでしょうか。胤昭の人生を振り返ります。
 
◆日本におけるプロテスタントの歴史(大正あたりまで)
 胤昭の人生にはプロテスタントの教派が色々と出てきますので、胤昭の人生を振り返る前に日本におけるプロテスタントの歴史に触れます。
 
 日本最初のキリスト教の伝来はカトリックでしたが、明治にキリスト教の主流となったのはプロテスタントでした。
 幕末、開国した日本にはキリスト教の宣教師達も入ってきました。米国聖公会のジョン・リギンズ、アメリカ合衆国長老教会のジェームス・カーティス・ヘボン、アメリカ・オランダ改革派教会のサミュエル・ブラウン、ジェームズ・バラ、バプテスト教会のジョナサン・ゴーブル、アメリカ伝道委員会(アメリカン・ボード)のダニエル・クロスビー・グリーンらが初期に来日しています。まだ、キリスト教の禁止が続いていた時代ですから、宣教師は外国人達が礼拝出来るように外国人居留地に会堂を建てるといった活動を開始します。宣教師達は外国人居留地で日本人に英語を教えるという活動もしていましたので、日本の若者が居留地に集まり、宣教師の影響を受けてキリスト教に入信する者もいました。宣教師ではないですが、札幌農学校のW.クラークや熊本洋学校のL.ゼーンズは生徒達に影響を与え、感化された生徒達がキリスト教の信者になっています。
 こうして生まれた信者のグループはバンドと呼ばれ、札幌バンド、熊本バンド、横浜バンドは日本のプロテスタントの三大源流とされています。
 
 上記のように、プロテスタント各教派の宣教師が来日していたのですが、初期の宣教師達は独自に教会を設立することを控えました。プロテスタント各教派の宣教師達が話し合い、日本に教会を設立するにあたっては、諸派分立の弊害を避け、伝道の方法を一定にし、名称や組織を同一にすると決議したのです。それで、1872年(キリスト教解禁の前年)に日本基督公会最初の教会として横浜公会が設立されました。続いて1873年に東京公会が、1874年に摂津第一基督公会、大阪梅本町公会が設立されます。
 この様に日本のプロテスタントは無教派主義で出発したのですが、話し合いに参加しなかったバプテスト派や米国監督教会、それにアメリカから帰国した新島襄が公会に反対しました。加えて、各教派の本国の本部も積極的に賛同をしていた訳ではなかったため、1875年頃から各教派は独自に伝道を始めるようになり、公会は衰退しました。
 
 プロテスタント各教派は教会を設立するばかりではなく、学校を設立したり、慈善事業をしたりして、上中流階級に浸透し、信者を増やしました。ところが、明治中期に大日本帝国憲法や教育勅語が発布されると、国家神道が強くなり、キリスト教に対する風当たりが強まります。こうした社会状況のためか、キリスト教的社会福祉事業や社会運動が盛んになりました。
 
◆プロテスタントの主要教派
赤い靴 プロテスタント系統概略図

◆原胤昭のキリスト教入信
 胤昭は嘉永6年(1853年)に江戸町奉行所与力・佐久間長与の四男として生まれ、原家に養子に入った後、江戸南町奉行所与力になりました。明治維新後に東京府職員になりますが、明治2年(1869年)に辞職し、築地でアメリカ人宣教師クリストファー・カロザースらが開いた英学塾(後の築地大学校)で学びました。
 カロザースはアメリカ長老教会(プロテスタント)に所属していた宣教師で、1869年に来日しています。幕末から様々なミッション(伝道局)の宣教師が日本にやって来たのですが、キリスト教は邪教扱いだったため、受け入れられる環境にありませんでした。そのため、宣教師達は医療活動や英語教育を伝道の糸口としていました。カロザースもそれに習って英語塾を開いたようです。
 
 1874年、胤昭はカロザーズから洗礼を受けてキリスト教に入信。胤昭と田村直臣、安川亨がカロザーズを仮牧師にして東京第一長老教会を設立しました。胤昭は、銀座に日本最初のキリスト教書出版社・十字屋を創業したり、カロザース夫人(ジュリア)が1970年に設立したA六番女学校を引き継いで原女学校(1878年に合併により消滅)を設立したりもしています。
 1876年、東京第一長老教会内の対立で、カロザーズが宣教師を辞任すると、胤昭はカロザーズ門下の信徒とともにカロザーズを仮牧師とする日本独立長老教会銀座教会(通称、銀座教会)を設立(1876年4月4日)し、信徒長老に就きました。銀座教会は、東京第一長老教会から分かれた独立教会でしたから、胤昭と戸田欽堂がその財政基盤を支えました。しかし、二人の財力では支えきれず、胤昭は1879年11月に放逐処分を受ける形で銀座教会を去ります。銀座教会は日本基督一致教会に加入し、翌年に田村直臣が牧師に就任しました。
 銀座教会を去った胤昭は、友人の北原義道の自宅に設立された日本基督一致教会に属する日本橋教会(1879年設立)の一信徒になりました。
 
 日本基督一致教会は、アメリカ長老教会の呼びかけで、アメリカオランダ改革派教会(プロテスタント)とアメリカ長老教会、スコットランド一致長老教会が合同し、1877年10月に設立された教会です。日本基督公会の4教会、日本長老公会の5教会が参加しました。1890年12月、日本人信徒の不満が表面化、改革が行われ、日本基督教会に改称しています。
 
◆福島事件
 1882年、福島県令・三島通庸が推進する会津三方道路建設に伴う負担に、住民が反発。自由党員や農民が団結して反対運動を展開しましたが、11月に中心となって活動していた佐治幸平らが逮捕されました。これをきっかけに数千人の人々が喜多方警察署に押し掛け、約2000人が逮捕される大事件になりました。所謂、福島事件(喜多方事件)です。
 
 胤昭はこの福島事件に共鳴し、反対運動の指導者・河野広中を賞賛する出版物を発行(1882年)しました。これにより、胤昭は翌1883年に出版条例違反で石川島監獄に収監されます。獄内で非人間的な扱いを体験し、チフスに罹患して生死の境をさまよったことから、胤昭は監獄改良の必要性を痛感、監獄改良事業を志しました。
 
 胤昭の監獄改良事業に協力したのが小崎弘道、長田時行、阪部寔ら組合教会に関連する人達でした。胤昭が残した文章には、次のように書かれています。「私が筆禍に罹り在獄の日、熱病に斃(たお)れ甦りて暫く此の世の人となり、初めて教有集団の席に臨んだ時、私の痩せこけた腕を擁して席に導き、私を介し且慰められたのは、長田兄であった。次で私は監獄改良を志し、出獄人保護に身を捧げんと決心した。其相談に与って下さったのが小崎兄で、私の当たらんとする仕事の中心人物が小崎兄の教会員阪部寔君であった。私は阪部典獄の下に職を執る獄吏の一員となり囚人教誨の職を任するのである」。
 
※教有集団の席とは、1884年1月に美以女学校で催されたキリスト教徒の親睦会。
※長田は、胤昭が学んだ築地の英学塾の学友で、阪部を紹介したとされます。
※阪部は、兵庫仮留監の初代典獄(現在の刑務所長に相当)であり、胤昭を兵庫仮留監の教誨師に就任させ、胤昭の上司として監獄改良事業を支えました。
※小崎は、1887年5月に設立された日本基督教青年会(YMCA)の前身組織である東京基督教青年会の会長でした。YMCAは1878年に植村正久らが銀座の原女学校(後の女子学院)で結成した「共成社」に由来しますが、その近くにあったキリスト教書店十字屋に集まっていたグループによって1880年5月、東京基督教青年会が結成されたことから始まったのでした。ですから、胤昭と小崎は旧知の間柄でした。この頃、小崎は東京第一基督教会の牧師を務めていました。
 小崎は、1879年6月に同志社を卒業した後、上京。新肴町教会(日本教会とが合併して東京第一基督教会となる)、赤坂霊南坂教会堂(後の霊南坂教会)、番町教会を設立。新島襄の死後に同志社の校長(1890年)ついで同志社第2代社長(1892年~1897年)を務めました。
 
 組合教会(日本組合基督教会)は、アメリカン・ボードから派遣されたアメリカ人宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンや新島襄(同志社大学設立者)らによって1886年に結成されたプロテスタントの会衆派に属した教会です。
 1874年4月に摂津第一公会(1886年に日本組合神戸基督教会に改称)が創立されると、以降、関西を中心として、アメリカン・ボードの宣教師達の影響の下、次々と教会が設立されることになります。この会衆派に連なる教会の信徒たちが自発的に日本基督伝道会社という伝道団体を作り(1877年)、諸教会からの献金によって各地に伝道者を派遣するに至ります。日本基督伝道会社設立後は、同志社の卒業生達が開拓伝道を行い始め、摂津第一公会と摂津三田公会を中心とする信徒は北海道開拓を志す株式会社赤心社を作って(1880年)開拓伝道を行っています。また、摂津第一公会は監獄係を創設し、監獄伝道を始めています(1877年)。
 各教会は自給自治を志向していたのですが、伝道のために集結した組織を設立することになりました。それが日本組合教会(1886年設立)です。
 
 胤昭が監獄改良事業をするにあたり教誨師になったのは、摂津第一公会が早くから監獄伝道を始めていたということが関係しているのでしょう。
 
◆教誨師時代
 1884年7月、胤昭は兵庫仮留監に赴任し、教誨師に就任しました。神戸に移り住んだ胤昭は、神戸公会(前身は摂津第一公会、後に神戸教会)の信徒になり、公私共に同教会の人々の支援を受けます。アメリカン・ボードの宣教師J.C.ベリーは、胤昭に欧米の監獄事情を教えていました。
 神戸での胤昭は教誨を行うだけではなく、山県有朋内務大臣や清浦警保局長の命令により全国の監獄視察をし、監獄の実情を報告していました。その一環として、釧路集治監にも出張し、硫黄採掘現場を視察したところ、現場の悲惨な現状を目の当たりにします。そして、その悲惨な現状を記録した報告は、清浦警保局長の他に釧路集治監典獄・大井上輝前にもされます。大井上釧路集治監典獄は、胤昭に釧路集治監の教誨師に就任することを要請し、胤昭も承諾。1888年4月に釧路監獄署教誨師に就任しました。
 
 標茶の釧路監獄署に赴任した胤昭は、精力的に囚人の処遇改善に取り組み、囚人による硫黄採掘労働を廃止させるという成果を上げ、また、「同情会」という組織を結成し、出版によって監獄改良の必要性と理解を訴えたりしていました。一方で、教誨活動も活発に行っており、釧路だけではなく、厚岸や網走へも足を運んでいました。胤昭の教誨は、大勢の囚人の前で行う時は道義を説き、希望する者に対してだけ、個別に宗教に基づく講話を話すというものでした。キリスト教を押し付けるのではなく、囚人の信教の自由を尊重していたようです。
 大井上典獄が空知監獄署に転任すると、一時的に胤昭が空知分監教誨師も兼務しますが、空知分監にも専任の教誨師を招聘することになりました。人選について大井上典獄が胤昭に相談、番町教会の金森通倫から同志社卒業生の留岡幸助を紹介され、空知分監教誨師に留岡が採用(1891年5月)されます。
 1891年7月に監獄の機構変更が行われると、大井上は北海道集治監(本監)典獄に就任し、教誨師を全てキリスト教徒にすることにしました。そのため、胤昭は同志社校長になった小崎に教誨師招聘のための協力を依頼。阿部政恒、篠宮拯吉、松尾音次郎などの同志社卒業生が次々に就任、北海道集治監の教誨師の多くが同志社卒業生になりました。
 胤昭の赴任地は釧路だったのですが、1892年11月に北海道集治監樺戸本監へ配転されました。その3年後の1895年7月に大井上典獄が退任。背景にキリスト教を元にした教化の施策に対する内部の反発があったといわれています。キリスト教教誨師に対する風当たりが強かったためでしょうか、11月に胤昭を含むキリスト教教誨師が一斉に辞職します。
 
 胤昭が北海道に渡ったのは、教誨師に就任するためですが、目的は他にもありました。
 胤昭は釧路監獄署赴任直後から組合教会の信徒(胤昭は標茶教会が設立されるまで神戸教会の教会員でした。)として伝道活動を開始します。職務の傍ら教会設立に奔走し、シベチャ組合教会(標茶教会)設立に漕ぎ着けました。1889年11月に釧路国上川郡標茶の地に開設された標茶教会の設立には、同志社の新島襄をはじめとする組合教会の人達が協力していましたので、標茶教会は組合教会の一教会として設立されたのでした。
 
◆東京出獄人保護所
 北海道集治監を辞任した胤昭は、1889年末に帰郷、東京市赤坂区青山南町六丁目百三十九番地に移り住み、友人の東京横浜毎日新聞社長・島田三郎によって毎日新聞社の事務長の職を得ました。
 胤昭は帰京した後も北海道の囚人と文通をしたり、出獄して訪ねて来る囚人の世話をしたりしていました。そんな中、英照皇太后の崩御に伴う恩赦で釈放される囚人の中に、胤昭の保護を希望する者が100名以上いると当局から聞かされます。自宅では対応しきれないため、胤昭は毎日新聞社を退社し、受け入れ施設を設立に乗り出します。しかし、元囚人を収容する施設に物件を貸す者などおらず、窮地に陥った胤昭は旧知の間柄だった青山学院院長・本多庸一に相談しました。すると、本多は牧師もしていた神田美以教会(現・九段教会)の建物を寄宿舎に用いることを提案、教会の執事達の反対を押し切って貸すことに決めました。このようにして東京市神田区南神保町八番地の神田美以教会に東京出獄人保護所原寄宿舎が開設されることになったのです。
 保護所設立に当たり、協議員が置かれ、本多庸一、岡部長職、小河滋次郎、清浦奎吾、三好退蔵、島田三郎、土方久元、鈴木眞一が協議員になりました。
 
※本多庸一:明治期のキリスト教指導者で日本メソジスト教会初代監督、教育者。1870年、横浜で英語を学び、アメリカ・オランダ改革派のアメリカ人宣教師ジェームス・ハミルトン・バラが開いたバラ塾に入学(1871年)。1872年、D・タムソンより受洗し、日本初のプロテスタント教会である横浜公会(日本基督公会)に参加。横浜バンド(横浜居留地でキリスト教に入信した人たちの集まりのこと)の一人に数えられています。
 1874年にメソジスト派の宣教師ジョン・イングを伴って弘前に帰郷し、東奥義塾塾頭を務めます。翌1875年10月には、弘前日本基督公会を設立し、初代牧師になりました。弘前公会は、イングの影響もあり、翌1876年12月に弘前美以教会と改名し、メソジスト派の教会に移行しています。
 1878年に府県会規則が制定され、青森県会が解説されると、初代議長に選出されています。1886年に議員を辞し、仙台美以教会に牧師として赴任。翌年、東京英和学校(青山学院の前身)校主兼教授および青山美以教会牧師に就任しました。
 1888年に渡米。列車事故を契機に伝道、教育に専心する決意をかため、ドルー神学校に学びます。1890年に帰国し、東京英和学校の校主(校長)に就任。1894年、東京英和学校が青山学院と改称すると、院長となり、1907年に辞職するまで学校経営に当たりました。この間にあった日清、日露戦争では戦地慰問団を組織するなど、戦争協力に励んでもいます。
 1907年、メソジスト3派が合同し、日本メソジスト教会が設立すると、初代監督に就任。1912年、内務省による神道、仏教、キリスト教の会議(三教会同)にキリスト教代表の一人として出席、進んで協力しました。1912年、死去。
 本多庸一は横浜バンドの一人であったことから、その頃から胤昭と交流がありました。
※岡部長職:和泉岸和田藩の最後の藩主で、明治大正期の外交官、政治家。1875年、留学のために渡米。アメリカでキリスト教信仰を持ち、新島襄らに故郷の岸和田でのキリスト教伝道を依頼している。岸和田教会(組合教会)の誕生(1885年)の切っ掛けとなった。欧米留学から帰国後は、三好退蔵を中心とした聖書研究会に参加し、三好退蔵らと共に東京第一基督教会(現・日本基督教団霊南坂教会)に合流。
 1886年、英国公使館臨時代理公使に就任。1889年、外務次官。1890年、貴族院議員。1891年、大津事件により外務次官辞任。1897年、東京府知事。1908年、司法大臣に就任し、大逆事件を処理。1916年、枢密顧問官に就任し、貴族院議員を辞職。晩年は大正天皇の側近として仕え、1925年に死去。
※小河滋次郎:明治大正期の監獄学者。ドイツ留学後に内務省で監獄行政を担当。1908年より東京帝大監獄学講師。1908年から2年間、清国に獄務顧問として滞在し、制度改革を指導。1917年、国立感化院初代所長に就任。
※清浦奎吾:明治から昭和の司法官僚、政治家。内務省警保局長、司法次官などを歴任。1891年、貴族院議員に勅選。法務大臣、農商務大臣を経験し、1906年に枢密顧問官、1922年に枢密院議長に就任。1924年、総理大臣に就任。
※三好退蔵:明治期の司法官。廃藩置県後にヨーロッパ遊学をし、帰国後は地方官や大蔵省官吏を歴任。1873年、司法省入りして判事となります。1882年、伊藤博文の憲法調査に随行し、渡欧。滞在中にキリスト教(プロテスタント)に入信。帰国後、司法次官に就任し、自宅で聖書研究会を開いていましたが、東京第一基督教会に合流しました。
 1890年、3度目のヨーロッパ遊学中に初代検事総長に任命されます。1891年の大津事件(ロシア帝国皇太子ニコライに対する殺人未遂事件)では、立場上政府の指示に従って職務を遂行しています。1893年、大審院院長となりますが、1896年に辞任。退官後は弁護士となり、東京弁護士会会長も務めました。
 1897年、貴族院議員に勅選されます。1903年に東京YMCAが財団法人になった時には、初代理事長も務めています。
※島田三郎:明治大正期の政治家、新聞人。維新後、ブラウン塾などで英語を学び、1874年に横浜毎日新聞社員総代・島田豊寛の養子となって、同紙の主筆になります。1875年に元老院書記官になり、後に文部権大書記官になるも明治14年の政変で下野。東京横浜毎日新聞社(1879年に買収されて名称変更)に戻り、1882年に立憲改進党の創立に参加し、神奈川県会議長に就任。
 1886年、植村正久から洗礼を受けて入信、一番町教会(プロテスタント教会 現・富士見町教会)に所属します。
 1888年、東京横浜毎日新聞社の社長就任。1890年に衆院議員当選、以降終生連続当選し、議長も務めています。
 1900年にユニテリアン協会に加わるも、後に植村に謝罪して復帰。
※土方久元:幕末の志士、明治の政治家。1868年、東京府判事に任命されます。その後、宮内少輔、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、宮中顧問官、元老院議官などを歴任。1885年、農商務大臣として入閣するも宮内大臣に転じ、11年間その職に留ました。1888年、枢密顧問官に任命されます。1898年、宮内大臣辞任。晩年は皇典講究所長などを経た後、教育関連の仕事に従事。国学院大学学長、東京女学館館長などを務めました。
 
 1897年1月31日に東京出獄人保護所が開設。東京集治監より30名(1月31日)、巣鴨監獄署より86名(2月5日)、北海道集治監より200名以上(2月下旬)の出獄者が訪れました。胤昭は全てを収容したわけではなく、出獄者の親族と連絡を取って、帰郷が可能な者には旅費や着物等を与えて帰し、更生の意志を持っていながらも受け入れ先の無い者を保護所に受け入れました。出獄者の世話は胤昭夫婦がしていましたが、大変だったようで、それを見兼ねて出獄者の世話を手伝ったのが片山潜、伊藤為吉、そして神田美以教会の岡田豊治と生江孝之でした。
 
※片山潜:明治から昭和期の社会主義者。米国留学中にキリスト教に入信。帰国(1896年)後、宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンの支援を受け、労働者のための地域福祉事業の拠点として「キングスレー館」を設立(1897年3月)しました。
 1898年、安部磯雄、幸徳秋水(平民新聞創刊者)らと社会主義理論の研究を目的として社会主義研究会(1900年に社会主義協会へと改組)を結成。1901年、社会民主党の発起者になります。
 1904年、第二インターナショナルの本部員に選出されます。アムステルダムで開催された万国社会党第六回大会に出席し、日露戦争の最中にありながら、ロシア代表のプレハーノフとともに反戦を訴えました。1906年、日本社会党結党に参加するも幸徳秋水らと対立。1914年に渡米し、北米で共産主義活動を行っています。1921年、ソ連に渡ってコミンテルン常任執行委員会幹部となり、コミンテルンの日本共産党指導に関与。1933年、モスクワで死去。
※伊藤為吉:明治から昭和期の建築家、発明家。片山潜とともに渡米後、修道会に住み込み、洗礼を受けました。学費捻出のため、建築設計事務所で働き、建築の実務を学んでいます。帰国後、伊藤組工作所を設立し、教会建築、耐震住宅の設計、建築労働者の教育などを手がけました。
 
 胤昭は保護所が開設にあたり、「長期受刑者は時代の変化に対応できず、社会に出ても生活が困難であり、犯罪を犯しかねないため、寄宿舎で社会生活に徐々に慣れさせると共に悪事に走らないような生活環境を整え、職を持たせて自立できるように支援する必要がある」という内容の保護所設立趣意を新聞や雑誌に発表し、資金援助などの協力を呼びかけたところ、多くの寄付が寄せられました。協議員や神田美以教会、番町教会の他に、福沢諭吉や植村正久も寄付をしていて、福沢諭吉は胤昭と出獄者を招いて供応もしています。
 胤昭の保護事業を支援するための演説会も開催され、協議員の他、留岡幸助、アメリカ総領事マガイヴォルらが協力しました。
 この様に保護所開設には、多くの人々の支援がありました。それは胤昭の人脈によるところが大きいのはもちろんですが、時代背景の後押しもあったようです。
 更生保護事業を最初に行ったのは、胤昭ではありませんでした。1881年の監獄則で定められた「別房留置」の制度が最初だったようです。「別房留置」とは、出獄しても行くあてのない者などに対して、本人の願い出があれば監獄内の別房に留まることを許す制度で、官営の更生保護会のようなものでした。しかしながら、この別房留置制度は、受刑者の急速な増大により監獄維持費が加速度的に膨脹したために、別房留置制度に対する批判的意見も強まり、1889年の改正監獄則によって廃止になりました。以後、政府は更生保護事業をもっぱら民間事業に頼ることとし、有志の慈善者を奨励して民間保護施設の設立を後押していたのでした。
 ちなみに、最初の民営の保護施設は金原明善が発足させた「静岡県出獄人保護会社」(1888年設立)であり、これに刺激されて全国各地に更生保護施設が設立されました。
 
※植村正久:明治大正期のキリスト教思想家、牧師であり、日本のプロテスタントの指導者。横浜でジェームス・バラ宣教師に師事し、横浜公会で受洗。1880年、下谷一致教会牧師。1887年、番町一致教会を設立し、終生その牧師を務めました。
 日本基督教団成立以前の最大教派だった日本基督教会(長老派)の初期の指導者でもあり、神学校の東京神学社を創設して伝道者の養成に尽力してもいました。
※留岡幸助:明治から昭和の牧師、社会事業家。同志社英学校を卒業後、北海道の空知集治監の教誨師。1899年、東京巣鴨に家庭学校を創立。後に北海道の北見にも分校を開設し、非行少年の救護に努めました。
 
 1898年、神田美以教会は九段坂上に新築移転し、九段美以教会と名称を変更、胤昭は借用していた神田美以教会の仮会堂である旧伊藤玄朴邸を安価で譲り受けました。ところが、1903年、九段坂通りの道路拡張により、東京出獄人保護所の敷地が道路用地に掛かり、神田元柳原町の国有地を貸与されて移転することになります。移転先の建物の造営はかつての被保護者達によって担われ、翌年に完成したのですが、多額の建築費が必要でした。その建築費の寄附金集めに協力したのが大隈重信でした。大隈は自邸で非常に高額な入場料を設定した「早稲田観菊慈善会」を開催し、入場料収入を寄附金としたのです。
 
 東京保護会は非常に多くの元受刑者を社会に復帰させました。社会復帰に成功し、保護所を出て行った元受刑者にも、胤昭はフォローアップを続けていました。それは、胤昭の保護の方針が被保護者の全生涯を通して保護するというものだったからです。
 東京保護会は出獄人保護事業に多大な影響を及ぼしましたが、胤昭は1938年10月31日付で解散させました。
 
◆保護所設立以降
 胤昭は1897年に東京出獄人保護所を設立しましたが、それだけに専念していたわけではありませんでした。保護所設立以降に、胤昭が関わった主な活動を並べると以下のようになります。
 1898年、兵庫県出獄者保護会神戸愛隣会の顧問に就任。大日本婦人教育会の賛助者に就任。
 1899年、岡山孤児院東京地方委員に就任。
 1900年、貧民研究会(後に庚子会と改称)に加入。
 1901年、愛国婦人会の設立事務の委託を受ける。
 1908年、中央慈善協会常務幹事に就任。
 1911年、内務省細民調査(貧困層の生活実態調査のようなもの)に調査員として参加。
 1912年、警視庁の委託で浮浪者・浮浪児の保護事業開始。
 1914年、労働者層のための小住宅事業開始。
 出獄人に限らず、困窮者保護について幅広い活動をしていたことが分かります。
 
 兵庫県出獄者保護会神戸愛隣会は、会主が佐久間芳蔵でしたが、実際に同会を設立して保護に携わったのは主事の村松浅四郎でした。村松は、救世軍(プロテスタントの一派)の出獄人保護施設・労作館の責任者を経て、神戸で貧民伝道に携わった後、神戸愛隣会を創立しました。胤昭が顧問に就任したのは、労作館の開所式に来賓として招かれるような立場であったこと、神戸愛隣会監督の長田時行が築地の英学塾の学友だったことが関連していたようです。
 
 大日本婦人教育会は、1886年に華族女学校教授・小鹿島筆子(石井筆子)、棚橋絢子、木村貞子らが女子教育の普及を主唱して組織した東京婦人談話会を、1887年に規模を拡大して発足しました。大日本婦人教育会は目的を「婦人教育ノ普及ヲ計リ其徳操ヲ養成スルコト」とし、総裁に皇族の閑院宮妃、会長に毛利安子が就任、名流夫人達が役員や会員に名を連ねましたが、実際の運営は女性教育家達が担っていました。賛助者には近衛篤麿公爵、毛利五郎男爵(1899年に顧問)、島田三郎、原胤昭が就任していますが、男性はこの4名だけでした。ほとんどが女性で構成されている大日本婦人教育会に胤昭が賛助者として加わったのは、「近衛公の知遇と信頼とを受けてゐた」と大日本婦人教育会の資料にあることから、近衛公爵が引き入れたものと思われます。ただ、胤昭は名目だけの存在では無く、会の運営に直接参画していたようで、後に功労者として称えられています。
 
 岡山孤児院は、石井十次が1887年に前身の孤児教育会を創設したのが始まりです。石井は孤児教育会を創設した翌年、孤児で犯罪を重ねた末に神戸監獄署でキリスト教の教えにより更生した渡辺亀吉を訪ね、教えを受けていました。この亀吉は神戸教会員で、胤昭とは胤昭が神戸に教誨師として赴任した時に出会っています。亀吉の更生の経緯は、胤昭の精神的な支柱になったようで、胤昭が釧路の教誨師に赴任した時には亀吉を呼び寄せ、教誨の補佐役にしていました。胤昭と石井を引き合わせたのは亀吉でした。
 孤児養育事業の重要性を胤昭も理解していました。胤昭が教誨した受刑者の中には孤児だった者が少なくなく、胤昭はその様な者に接する内に孤児の養育環境の悪さが犯罪を犯す主原因だと考えるようになりました。ですから、石井の孤児院にも積極的に協力しました。1899年に寄付金募集のために音楽幻燈隊が東京公演を行った際には、胤昭が教会や大日本婦人教育会の人脈を駆使し、プロモーターの役割を果たしています。この時、胤昭は石井を伴って渋沢栄一を訪ねていて、それが切っ掛けになったのかは分かりませんが、渋沢は1902年に東京出獄人保護所の協議員になっています。
 東京公演が契機となり、胤昭は岡山孤児院東京地方委員に就任、東京出獄人保護所を岡山孤児院支援のための東京における拠点としました。胤昭は東京地方委員として岡山孤児院に対する経済的支援を行う一方で、保護した孤児を岡山孤児院に送致することも行っていました。例えば、孤児になり乞食の手下となっていた6歳の男児を保護し、岡山孤児院に送ったことがありました。
 
※石井十次:明治期の社会事業家。1884年に岡山教会で金森通倫より受洗。1887年、孤児教育会を創設。1889年に医学の道を諦め、孤児教育に専念することを決心し、1890年、孤児教育会を岡山孤児院にします。1891年には濃尾地震による震災孤児を収容。1898年より岡山孤児院の財政安定のために音楽幻燈隊を編成し、全国巡回。1906年の東北大凶作では1000人以上の棄児を収容。1907年に岡山孤児院東京事務所及び大阪事務所を開設し、1909年~12年には院児を宮崎県茶臼原に移住させて理想郷の建設を試みています。
 
 愛国婦人会は、1901年に戦死者の遺族や傷痍軍人の救護を主な目的とし、奥村五百子が近衛篤麿公爵と共に創設しました。皇妃を総裁にいただき、海外にも拠点を持ち、最盛期には700万人の会員を持つ全国的規模の婦人団体でした。
 愛国婦人会は設立に当たり、設立事務を胤昭に委託しました。設立事務をどう進めていいのか分からなかったために、近衛公爵が信頼していた胤昭に白羽の矢が立ったようです。胤昭は2、3年の間、事務を取扱っていました。
 
※近衛篤麿:明治時代の華族、政治家。近衛家の家督を相続後、華族令の制定に伴い公爵となります。1890年に貴族院の公爵議員として政界入りし、1892年から貴族院議長を務めました。1895年に第7代学習院院長、1896年に帝国教育会初代会長に就任。1903年に枢密顧問官に任命され、1904年1月1日に死去。藩閥政治に批判的で、アジア主義を唱え、北海道開拓や教育制度問題など関係しました。
 
 中央慈善協会の始まりは、1903年に慈善事業家約200名が参加した全国慈善大会(大阪開催)でした。ここで、全国的連絡組織「日本慈善同盟会」設立が決定され、設立準備は慈善救済事業の研究会である庚子会に委託されました。庚子会は会の名称を「中央慈善協会」に改めるなど、具体的な検討を進めたのですが、日露戦争により発足は見送られます。しかし、1908年に国学院講堂で中央慈善協会が発会式が行われ、渋沢栄一が初代会長に就任しました。渋沢栄一は日本資本主義の父とも呼ばれる実業家ですが、福祉や教育などの慈善・社会事業にも熱心で、身寄りの無い子供や老人、路上生活者、障害者などを救済する日本初の公立救貧施設「東京養育院」の院長(1885年就任)なども務めていました。ですから、会長に相応しい人物として渋沢がなったのでしょう。
 胤昭は創立委員として中央慈善協会の発足に関わり、発足後は常務幹事に就任しています。中央慈善協会の本部事務所は胤昭の自宅に置かれ、胤昭は庶務や会計等の事務処理の他、機関雑誌「慈善」の編集発行に携わりました。中央慈善協会は僅かな会費以外に財源が無かったため、胤昭は協会のために運営資金調達も行っていて、しばしば胤昭は渋沢に資金を立て替えてもらっていたようです。
 胤昭は他にも協会の地方団体に対する巡回視察を行っていますが、これは渋沢の意向によるものでした。
 中央慈善協会は内務省主導で発足したのですが、民間の私設団体という位置付けでした。そのため、資金は自前で集めねばならず、発足時より運営資金不足に悩まされていました。それを打開するため、1917年から内務省の補助金の交付を受けます。これにより協会の会則が改正され、人事も変わり、本部事務所も胤昭の自宅から内務省地方局別室になりました。胤昭は常務幹事から委員及び評議員という立場になり、第一線から退きました。
 
 胤昭は生涯を通して幅広い活動を行いましたが、東京保護会解散の約3年半後の1942年2月23日、88歳で生涯を終えました。
 

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 胤昭の生涯を調べてみたのは、「平民社農場の人びと」の著者・小池喜孝氏が安吉と静岡三人組を結びつけたのは胤昭だったと推測していたため、その推測が正しいのか判断するためでした。
 胤昭は、福沢諭吉、大隈重信、渋沢栄一、新島襄という有名人から、総理大臣となる清浦奎吾や名門華族の近衛篤麿などの有力政治家、本多庸一、植村正久といったプロテスタントの有力者、社会主義者の片山潜など、プロテスタント関係者や上流階級の人物と関わっていたことが分かりました。ですが、静岡三人組との直接の接点は見つけられませんでした。胤昭と静岡三人組の生涯を見比べてみても、交わる様な点は無いように思えます。ですから、胤昭と静岡三人組の誰かが接触したことは無いのではないでしょうか。
 
 胤昭と関わった人物の中で、胤昭と静岡三人組の橋渡しをした人物がいる可能性を探ってみます。
 社会主義者の片山潜はどうでしょうか。静岡三人組の渡辺政太郎は片山の設立した社会主義協会に入会していましたし、片山は胤昭の東京出獄人保護所を手伝っていました。片山はアメリカから帰国後、キリスト教を基礎にした社会事業の展開を考えていたようで、それで保護所の手伝いをしたのでしょう。ですが、手伝った期間は短く、胤昭との関わりは薄かったように思えます。保護所開設の1ヶ月後には自らのキングスレー館を開設していますし、翌年の1898年からは社会主養に傾倒し、キリスト教会関係者とは疎遠になっていました。それに、平民農場が開設された1905年には、片山は日本にいませんでした。第二インターナショナルのアムステルダム大会に出席するため、1903年12月に出国し、1906年1月に帰国しています。以上のことから、片山が胤昭と静岡三人組の間に介在したということは、ほぼ無いでしょう。
 次にメソジスト派の本多庸一はどうでしょうか。渡辺政太郎と原子基は静岡の岩本教会(メソジスト派)に出入りしていましたし、本多はメソジスト派の有力者でした。それに、本多が塾頭を務めた東奥義塾に原子が在学していたようですし、原子が洗礼を受けた弘前美以美教会は1886年まで本多が在籍していた教会でした。ただ、原子が洗礼を受けたのは1897年4月ですので、面識があったとは言いきれません。原子は1900年頃から1903年まで東京にいました。本多も胤昭も東京にいましたから、本多の紹介で胤昭と原子が会う事は可能です。ですが、その可能性は薄いように感じます。
 小崎弘道についても考えてみます。小崎はYMCAの前身組織である東京基督教青年会の会長で、渡辺政太郎はYMCAを訪れたことを切っ掛けに熱心なクリスチャンになり、YMCAの紹介で岐阜の濃飛育児院に勤めています。ですから、小崎と渡辺に面識があった可能性があります。また、胤昭と小崎は旧知の間柄でした。とすると、孤児に関心があった胤昭と渡辺が小崎を介して接触したと考えることも可能ですが、これも可能性は薄いように感じます。
 胤昭と静岡三人組の原子や渡辺が人を介して知り合いになったと考えることも可能ですが、証拠がありません。それに、胤昭と原子や渡辺が知り合いだったとしても顔見知り程度で、何かを依頼するような間柄ではなかったでしょう。胤昭が安吉を静岡三人組に紹介した可能性は低いように思います。
 
 胤昭の生涯を調べた理由はもう一つありました。胤昭と鳥居坂教会の間に関係が無いか調べるためです。
 岩崎きみは鳥居坂教会の永坂孤女院に預けられていたと推測されますが、それに胤昭が関与していたのではないかと考えていました。ですから、胤昭の生涯を調べれば、鳥居坂教会が出てくるのではないかと思っていたのですが、胤昭と鳥居坂教会の間に直接的な関係は見出せませんでした。接点はメソジスト派ということくらいですが、メソジスト派といっても系統が違っています。
 胤昭が孤児院を世話するとしたら、永坂孤女院ではなく関係の深い岡山孤児院だったでしょう。実際に孤児を岡山孤児院に送っていたのですから。岩崎きみが孤児院に預けられたことについて、胤昭の関与は無かったと思います。
 
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原胤昭の生涯とその事業――中央慈善協会における活動を中心として
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/5790_48762_ref.pdf
岡山孤児院東京地方委員としての原胤昭の活動
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/6038_50030_ref.pdf
釧路集治監教誨師時代の原胤昭 - 関西学院大学
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/5432_45659_ref.pdf
原胤昭の生涯とその事業
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/5587_46637_ref.pdf
日本キリスト教団弘前教会
http://www6.ocn.ne.jp/~akarenga/hirosakikyoukaireihaidou.htm
昭和35年版 犯罪白書 第三編/第一章/六 釈放者の保護
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/1/nfm/n_1_2_3_1_6_0.html
クリストファー・カロザース
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%B9
論文「日本の会衆派教会(組合教会)の歴史 その源流と発展(2)アメリカン・ボードの日本伝道から現代まで」
http://theologie.weblike.jp/jump2%20Theologie2009i.htm
教会の通ってきた道~プロテスタント開教から日本基督改革派教会設立へ~
http://www.calvin.org/rcjway1.htm
東京YMCA歴史130年
http://tokyo.ymca.or.jp/ymca/enkaku.html
日本組合基督教会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%84%E5%90%88%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E4%BC%9A
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