六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴9

 小池喜孝氏の著書「平民社農場の人びと」で、よく分からない人物だった佐野安吉についての情報を多く得られました。ですが、まだ分からないことも多いので、もう少し調べてみます。
 
◆佐野安吉の犯した犯罪について
 小池氏は著書で、安吉が強盗殺人を犯した後、巧みに逃げたため「静岡小僧」と呼ばれたと推測しています。これは適当な推測でしょうか。
 安吉は「天竺安」とか「静岡小僧」と異名をとった義賊と言われていたとあります。ですが、世間からそう呼ばれていたという証拠はありません。安吉は留寿都などで社会主義の宣伝のために懺悔談をしていました。岡さんによると樺太でもしていたようです。安吉にとって懺悔談は人集めのツールだったのでしょう。義賊というのは、安吉が自らそう言っていただけということではないでしょうか。
 安吉が実際にどの様な犯罪を犯したのか判然としませんが、北海道の監獄送りにされたのは確かです。1882年1月に施行された刑法及び監獄則では、「北海道に新設された樺戸集治監には島地監獄として無期及び12年から15年の長期の徒刑囚・流刑囚と旧法の懲役終身囚を収容する」と定められていましたから、安吉は12年以上の長期刑を受けていたはずです。ですから、安吉が重犯罪人であったのは確かでしょう。
 大滝由太郎は安吉の殺人の動機を「妻が他の男と情を通じていたのを怒ってのこと」と書いています。安吉は農業経験者と伝えられていますから、義賊なんかではなく、家業の農業に従事していて、妻が不倫を犯したために激怒して妻か間男を殺害してしまったのではないでしょうか。
 
※大滝由太郎:小樽の雑穀海産物卸商「大滝商店」の三男で、小樽の平民新聞読者会員。原子の依頼を受けて、平民農場の土地探しをしたのは大滝らの読者会でした。大滝は平民農場に出資し、解散にも立ち会うなど、平民農場に深く関わっていました。
 
◆佐野安吉と原胤昭の接点
 原胤昭は安吉に縁談の世話をしており、胤昭と安吉は親密な間柄でした。岡そのさんは、安吉は胤昭に救われてプロテスタントになったと言っています。胤昭は北海道の監獄で教誨師をしていましたので、その時に安吉に出会ったのは間違いないでしょう。安吉は胤昭に感化されてキリスト教に入信したのでしょう。ですから、胤昭の所属していた教派と同じ教派を信仰していたと思われますが、プロテスタントのどの教派に属していたのかは分かりません。
 
 安吉は何処の監獄で胤昭と出会ったのでしょうか。
 北海道の集治監は以下の順で設置されています。
●樺戸集治監1881年9月開庁
●空知集治監1882年7月開庁
●釧路集治監1885年9月開庁
 安吉は1882年に投獄されたと思われますから、樺戸か空知に収監された筈です。
 
 次に、北海道における胤昭の教誨師の経歴を書き出します。
●1888年4月2日、釧路監獄署(87年1月に集治監が北海道庁の管轄になったことで監獄署に名称変更されています)教誨師就任。厚岸や網走へも出張して教誨活動をしていました。
●1891年9月8日、釧路分監教誨師就任。(分監への名称変更によるもの)
●1892年11月28日、樺戸集治監(本監)へ出向。
●1895年11月、連袂辞職。
 胤昭は空知には赴任していません。前述したように、安吉は樺戸か空知に収監された筈ですから、胤昭と安吉の接点は樺戸ではないでしょうか。ただし、樺戸集治監から釧路集治監に囚人が移送された例(1886年3月)がありますので、釧路という可能性も捨て切れません。
 
◆佐野安吉の出獄
 安吉は1882年に投獄されたと思われ、かよの母・岩崎せきが死亡する1902年6月頃には既に出獄していて静岡県にいました。小樽新聞は安吉を特赦出獄者と紹介していますから、恩赦で出獄したのでしょう。それは、何時のことでしょうか。
 明治時代に行われた恩赦は2度あります。
大日本帝国憲法発布(1889年2月11日)
 大赦令:明治22年勅令第12号
●皇太后陛下(英照皇太后)御大喪(1897年1月31日)
 大赦令:明治30年勅令第8号
 減刑令:明治30年勅令第7号
※大赦(恩赦法2条、3条):一定の犯罪者全体について、刑を消滅させるもの。有罪の言い渡しを受けた者についてはその効力が失われ、受けていない者に対しては公訴権が消滅。
※特赦(恩赦法4条、5条):有罪の言い渡しを受けた者の内、特定の者について有罪の言い渡しの効力を消滅させるもの。
 
 1889年に出獄したとすると収監期間は7年。胤昭が釧路に赴任したのが1888年4月ですから、安吉が胤昭の教誨を受けた場所は釧路になり、その期間は1年足らずになってしまいます。胤昭と安吉の親密な間柄を考えると短すぎると思えますし、安吉は樺戸に収監されていた可能性が高そうですので、1889年に釈放された可能性は薄いでしょう。
 1897年の恩赦は大規模なものでした。全国の監獄から15824名(北海道集治監からは2535名)が釈放されています。胤昭はこの時の恩赦について「彼等出獄者は少なくとも十数年乃至二十有余年間鉄窓の下に服従せざるはなし今幸に宥免出獄の身と為りしと雖も社会の事情に通せず」と述べています。北海道の集治監に収監されていた受刑者は、収監期間が十数年から二十数年にも至る長期の受刑者が多かったのです。安吉がこの時出獄したとすると、収監期間は15年になりますからこの記述に合致します。安吉の出獄は1897年で間違いないでしょう。
 安吉が樺戸に収監されていた可能性が高いことを考えると、安吉は樺戸集治監で胤昭と出会い、胤昭が辞職するまでの3年間、胤昭の教誨を受け、胤昭が去った1年数ヶ月後に出獄したのではないでしょうか。
 
◆佐野安吉の出獄後
 胤昭は1895年11月に樺戸集治監を辞職した後、帰郷し、東京市赤坂区青山南町6丁目139番地に居を構え、友人の島田三郎の計らいで毎日新聞社に入社し事務長に就きました。
 
※島田三郎:横浜毎日新聞主筆から文部権大書記官となり、明治14年の政変で下野。1882年、立憲改進党の創立に参加し、同年に神奈川県会議長に就任しています。1886年、植村正久から洗礼を受けて入信、一番町教会(プロテスタント教会 現・富士見町教会)に所属していました。1888年、東京横浜毎日新聞社長に就任。1900年にユニテリアン協会に加わるも、後に植村に謝罪して復帰。
 
 胤昭は教誨師を止め帰京しましたが、北海道で知り合った受刑者達との関係は続いていました。胤昭と文通を続ける者、礼を述べるために上京する者、胤昭に保護を求める者などが少なくなくなかったのです。
 英照皇太后の崩御に伴う恩赦(1897年の恩赦)が決まった後、自宅で出獄人保護を続けていた胤昭に、当局から釈放後に胤昭の保護を受けたいと希望する受刑者が100名以上いると伝えられます。胤昭は彼らを迎え入れるため、急遽新聞社を辞めて受け入れ準備に奔走、神田美以教会(現・九段教会)に東京出獄人保護所原寄宿舎(東京市神田区南神保町八番地)が開設(1897年1月)されました。
 東京出獄人保護所が開設されると、1月31日に東京集治監から30名、2月5日に巣鴨監獄署から86名、2月下旬に北海道集治監から200名以上が訪れます。胤昭は釈放者の親族と連絡を取り、帰郷が可能な者には旅費や着物等を与え、親族が受け入れを拒否した場合は保護所に受け入れました。
 安吉は胤昭から縁談の世話を受けるような間柄でしたから、安吉も東京出獄人保護所を尋ねたことでしょう。そして、胤昭は安吉の実家に連絡し、安吉が実家に戻れるように口添えしたのではないでしょうか。だから、安吉は出獄後に地元静岡で暮らしていたのだと思います。
 
◆静岡に帰郷後の佐野安吉
 安吉が何時静岡県に戻ったのか、正確な年は分かりません。たぶん、出獄したと思われる1897年だったのではないでしょうか。
 静岡県に戻った安吉は、静岡県庵原郡江尻町(現・静岡市清水区江尻町)の実家に身を寄せたものと思われます。しかしながら、家督は弟・恒吉が相続していた上に前科者ですから、肩身の狭い思いをしていたに違いありません。安吉は実家を離れ、静岡県有渡郡不二見村(現・静岡市清水区宮加三)にあった岩崎家に入り、岩崎かよの母・せきと内縁関係(岡さんは結婚と表現していましたが未入籍)になりました。江尻町と不二見村は5km程しか離れていませんので、偶然知り合ったのかしれませんし、中年の独身同士でしたので、誰かが仲介したのかもしれません。
 
 せきは1902年6月頃に亡くなっていますので、内縁関係になった時期は1897年から1902年の間のこと考えられます。1897年だとすると、安吉47歳、せき38歳、かよ13歳、辰蔵11歳です。
 この頃の義務教育は尋常小学校4年(修了時年齢は10歳)までで、貧しい家では、義務教育終了後は奉公に出すのが普通でした。実際、辰蔵も奉公に出ていました。辰蔵が亡くなった時、原子基は月刊誌「光」で「岩崎翁の息辰三(二十一歳)死去しました。社会主義的の葬式を営みまして、村民に社会主義を話しました。もっとも死人の経歴は雇主に圧制せられたる奉公人というので、非常に説き易かったのです。(三月二十八日、原子基)」(注:二十一歳は数え年と思われる)と書いています。
 かよの方は、ドキュメントドラマ「赤い靴はいてた女の子」では山梨県の宿屋へ女中奉公に出されとされ、小池氏の著書「平民社農場の人びと」では甲府の製糸工場に働きに出たとされています。何を根拠に、かよが奉公に出たとしているのでしょうか。かよの奉公のことなど記録に残っているとは思えませんので、たぶん確かな根拠は無いのだと思います。ですが、辰蔵が奉公に出ていますし、口減らしのために子供を奉公に出していた時代ですから、かよも奉公に出されていた可能性は高いと思います。もしかしたら、安吉とせきが内縁関係になった時には、かよと辰蔵二人とも奉公に出ていて家にいなかったかもしれません。
 ちなみに、安吉は平民新聞に岩崎安太郎の名で登場しています。安吉はせきと入籍していませんが、内縁関係になり岩崎家に入ったことで、岩崎安太郎と名のるようになったのかもしれません。前科者でしたから、名前を替えたいという心理があったのではないでしょうか。
 
 1901年の秋、かよは妊娠します。ドキュメントドラマ「赤い靴はいてた女の子」では奉公先で身篭り帰ってきた、小池氏の著書「平民社農場の人びと」では1902年に18歳で身重になって帰郷したとしています。妊娠して帰郷したのか、実家に居た時に妊娠したのか、かよの奉公のこと(有無や期間)が分からないので、本当の事は分かりません。
 母のせきは1902年の6月頃、甲府で急逝したとのことです。その約1ヶ月後の7月15日、かよはきみを出産しました。きみは私生子でしたので岩崎家の戸籍に入るのですが、岩崎家の戸籍はかよの父・岩崎清右衛門が亡くなった後、戸主が辰蔵に変わっていましたので、きみは辰蔵の姪として記載(「きみ 姉かよ私生子女 明治35年7月15日」とのように書かれていたみたいです)されました。
 せきの残した子供達と安吉は血縁関係に無いのですから、安吉が岩崎家を出て行っても不思議は無いのですが、安吉は岩崎家に残りました。この年、安吉は52歳でしたが、かよは18歳、辰蔵は16歳で2人ともまだ成人しておらず、加えて赤ん坊まで出来たのですから、安吉は父としてこの子達の面倒をみることにしたのではないでしょうか。安吉にとっても帰る場所はなかったのですから、そうすることが全員にとって一番良い選択だったのでしょう。
 
 1904年9月19日、安吉はまだ1歳10ヶ月だったきみと養子縁組をしました。佐野家の戸籍(戸主は安吉の弟・恒吉)に安吉と共にきみの名が記載されています。何故、安吉はきみを養子にしたのでしょうか。私生子だったため、世間体を気にしたというのなら、初めから安吉の子供として届け出ればよかったのです。それを2歳近くになってから、態々養子縁組をしているということは、この時期に養子縁組をする必要があったと考えるのが適切でしょう。
 養子縁組をしたのは、安吉が自分の子供として育てようと決心したためではありません。きみを孤児院に預けているのですから、それは確かです。では、どんな理由で養子縁組をしたのでしょうか。
 例えば、かよが結婚するにあたり、相手が子連れを嫌がったために、法的に親子関係を切ったということが考えられます。ですが、かよが静岡で結婚した様子はありませんから、これは違うでしょう。かよが入籍したのは、鈴木志郎が初めてでした。
 次に、生活苦のためにきみを育てるのが困難になり、きみを孤児院に預けることにしたというのはどうでしょう。岩崎家は静岡の農地を捨てて一家ごと北海道の開拓農民になったくらいですから、たぶん、小作だったと思われます。貧困にあえいでいたことは想像に難くありません。貧困のために赤ん坊を孤児院に預けることは十分に有り得ることです。若いかよに代わって、安吉がつてを頼って孤児院を探し、手続きも安吉が行うために、親権を安吉に移したとは考えられないでしょうか。こう考えるのが一番無理が無いように思います。
 ちなみに、ドキュメントドラマ「赤い靴はいてた女の子」では、きみは数え年で4歳の時(1905年)に函館在住の外国人宣教師夫妻の養女になったとしていました。そして、安吉との養子縁組を「きみはヒュエット夫妻の養女になる前に一旦形の上で佐野安吉の養子として入籍されていたのである。」と説明していました。ですが、きみは佐野家の戸籍に入ったまま亡くなっています。安吉の養子になった以後、再び養子に出された法的な事実はありません。また、正式(法的)に養子縁組せずに宣教師夫妻の養女としたなら、安吉が養子縁組をした意味を見出せません。
 
 きみが孤児院に預けられたのは何時頃でしょうか。養子縁組後、早々に預けられたと考えられますが、岡さんの投稿記事には「私の生まれる10年も前に、日本を去った姉の顔を偲ぶよしもないが、瞼をとじると、赤い靴をはいた4歳の女の子が、背の高い眼の青い異人さんに手をひかれて嬉々として横浜の港から船に乗って行く姿を幻の様に思いうかべることができる。」とありました。4歳は数え年のことです。きみの数え年で4歳は1905年です。ですから、きみが孤児院に預けられたのは1904年中ではなく、1905年の早い時期なのかもしれません。
 
 1905年4月、静岡三人組の原子と深尾の伝道行商がわずか4日で失敗に終わり、原子と深尾は苦し紛れに北海道での屯田事業を思い付き、平民農場を開設しました。5月下旬、安吉は原子と深尾と共に平民農場へ入植。最初に入植したのはこの3人でした。平民農場は急遽設立されたのですから、入植するために安吉がきみと養子縁組した訳ではないことが分かります。入植ときみを手放したことも関係ないでしょう。
 
 安吉はどんな経緯で平民農場に参加することになったのでしょう。たぶん、静岡三人組の誰かから話を持ちかけられたのでしょうが、安吉は彼らとどのように出会ったのでしょうか。
 原子と渡辺はプロテスタント系の岩本教会(メソジスト教会)に出入りしていて、安吉もプロテスタントでしたから、教会で出会った可能性が考えられます。しかし、安吉が岩本教会を訪れたのは、12月に渡辺に伴われて行った時が初めてでしたから、静岡三人組と安吉を結びつけたのはこの教会では無いようです。
 渡辺は鷹岡村天間(現・静岡県富士市天間)で「平民床」という理髪店を営んでいました。安吉はそこの店の客だったとも考えられなくはありません。ただ、安吉が住んでいた有渡郡不二見村からは30km以上離れています。客として行くには一寸遠いでしょう。
 静岡三人組は社会主義の演説会を開いたりしていました。安吉は貧農だったため、興味を惹かれて演説を聞きに行っていた可能性も考えられなくはありませんが、どうも安吉と社会主義が結びつきません。
 安吉はきみを預ける孤児院を探していたと思われます。一方、渡辺は、孤児や身障児を収容した富士育児院(富士郡島田村 現・富士市吉原)創設に協力していました。ですから、孤児院を探す過程で渡辺と出会ったことも考えられます。
 また、「平民社農場の人びと」の著者・小池氏は、胤昭の紹介ではないかと推測していますが、静岡三人組と胤昭の間にどのような接点があったのか示されていませんから、小池氏の推測が妥当なものかは判断つきかねます。
 結局のところ、安吉と静岡三人組がどのように知り合ったのかは分かりません。ですが、平民農場入植までには知り合っていました。想像するに、安吉と知り合いだったのは渡辺ではないでしょうか。静岡三人組の伝道行商には、渡辺も参加する予定でしたが、家庭の事情で参加を諦めています。伝道行商はあえなく失敗に終わりましたが、続く平民農場入植にも、渡辺は参加したかったことでしょう。社会主義伝道をするために三人組を結成したのですから。1人だけ参加出来ないことに、渡辺は負い目に感じていたとしても不思議ではありません。それで、渡辺は自分の代わりに平民農場へ行ってくれる人物を探し、安吉に白羽の矢を立てたのではないでしょうか。
 
 1905年12月3日、安吉は渡辺政太郎に伴われて静岡の岩本教会を訪れました。そして、1905年末には妻のおきんとかよ、辰蔵を連れて平民農場に入場、岩崎一家は静岡から北海道へ移住しました。
 原子が、月刊誌「光」(1906年1月1日)に「平民農場は近頃大分大きな家族になりました。まず北海道大沼の同志鈴木志郎氏が入場し、原子生の妹の二人と岩崎安太郎老人の妻、娘、息の三人も来り、都合八人で楽しくその日を募らしているのであります。この内の六人は労働に堪えるので、これから追々仕事もはかどることになります。」と書いていることからして、安吉は家族を迎えに静岡に戻ったのでしょう。原子も姉妹を連れてきているので、平民農場の暮らしに目途がついたのと、労働力確保のために家族を呼び寄せたものと思われます。
 ドキュメントドラマ「赤い靴はいてた女の子」では、1903年冬、19歳のかよが1歳の娘きみを抱えて北海道に渡り、きみが数え年で4歳の時に函館在住の外国人宣教師夫妻の養女になった後、かよと鈴木志郎が共に平民農場に入植したとしていました。上記、月刊誌「光」の記事からすると、鈴木志郎はかよより先に単独で平民農場に入っています。志郎は平民新聞に掲載されていた平民農場入植者募集の記事を見てやって来たのではないでしょうか。また、かよ達岩崎一家は1905年12月まで静岡にいたようです。岡そのさんも「祖母が亡くなったので、平民農場に母とその弟を連れてきたんです。」と証言しています。かよが1903年の冬に渡道したというのは誤りです。
 月刊誌「光」の1906年10月5日号には「安吉翁はおきんという婦人を原胤昭氏の媒介にて娶りたり」と書かれています。しかし一方で、1906年1月1日号には「岩崎安太郎老人の妻、娘、息の三人も来り」との記述もあります。ということは、安吉は静岡に住んでいた時におきんと結婚(内縁を含む)していたか、再渡道する途中におきんと結婚したということでしょう。
 
◆平民農場解散後の佐野安吉
 1906年4月、辰蔵が平民農場で死亡。志郎とかよが結婚(入籍はしていない)し、9月までに平民農場を去りました。残ったのは原子兄妹三人と安吉夫婦の5人。翌年には日笠与八らが加わって9人になりますが、1907年12月に平民社農場は解散しました。
 平民農場の跡地を処分するに当たり、開墾地は日笠与八が譲り受け、未開墾地は安吉と原子が譲り受けました。ところが、原子は翌年の3月に北海道から出て行ってしまいます。原子の土地の権利は安吉が引き継ぎ、夫婦で開墾を続けたようです。
 
 1908年4月に、小樽日報が廃刊していますが、志郎はこれ以前に辞めたようで、平民農場のあった真狩村で郵便配達夫として勤務(少なくとも1910年5月にはこの職に就いていた)し、かよは畑仕事をしていました。安吉を頼って戻り、かよは安吉の農作業を手伝っていたものと思われます。
 
 1912年夏、安吉は分配された平民農場の土地を虻田村の土地会社に売却しました。安吉は何故土地を売ったのでしょうか。
 開拓農民は米、味噌、日用品、農具、種子など多くを町の商人からツケで買い、収穫期に利息をつけて返済するのが普通でした。この利息は非常に高く、返済しきれない場合は抵当の土地を取り上げられ、小作に転落した開拓民が多くいました。安吉も借金が膨らみ、土地を手放さなければならなくなり、小作になったのではないでしょうか。土地売却後も志郎一家が真狩村に残っていることから、安吉も残ったと思われます。
 
 1914年12月、志郎は郵便配達夫を辞めます。1915年、志郎が室蘭の輪西製鉄所で働くことになり、志郎一家は室蘭に移住しました。安吉は付いて行っていないため、真狩村に残ったと思われます。
 
 1923年9月頃、志郎は樺太豊原のカトリック教会に伝道士として赴任し、志郎一家も樺太に移住しました。移住して間もない家に、安吉が一人で訪れます。妻のおきんは付いて来ていなかったようです。亡くなっていたのかもしれません。
 安吉は志郎の家にそのまま居つきました。安吉が志郎宅に来たのは、志郎が安定した職に就いたので、かよが一人身になった安吉を呼び寄せたのかもしれません。
 安吉は樺太に来てからおよそ1年半後にそこで亡くなりました。
 
◆佐野安吉年表
1850年:佐野安吉、駿河国庵原郡の農家の長男に生まれる。
1882年:佐野安吉、廃嫡される。佐野安吉、投獄される(推定)。
1892年:佐野安吉、原胤昭の教誨を受ける(推定)。
1897年:佐野安吉、出獄し静岡に帰郷(推定)。
1902年:岩崎せき死亡。岩崎きみ誕生(7月15日)。
1904年:佐野安吉と岩崎きみが養子縁組(9月19日)。
1905年:静岡三人組の伝道行商失敗、平民社農場開設(4月頃)。佐野安吉ら3人が平民農場入植(5月末頃)。岩崎一家が平民農場入植(12月末)。佐野安吉、おきんと結婚(この年の年末以前であることは確かであるが不明)。
1907年:平民社農場が解散(12月)し、佐野安吉は平民農場の土地を分配される。
1912年:佐野安吉、分配された平民農場の土地を売却。
1915年:鈴木志郎一家、真狩村から室蘭に移住。
1923年:佐野安吉、樺太の鈴木志郎宅に身を寄せる(秋以降のこと)。
1925年:佐野安吉、樺太の鈴木志郎宅で死亡(戸籍未記入)。
※1923、25年については「関東大震災直後に、私たち一家は樺太の大泊に行ったんですが、間もなくしてよれよれ姿の老人が、フラッとあらわれたんです。大正13年の秋ごろでした。この老人は一週間もするとボケてしまったんです。娘の所に来たから安心だったのでしょうね。それから一年半位たって亡くなりました」という岡そのさんの証言に基づいています。ですが、関東大震災は大正12(1923)年9月1日に発生していますから、「間もなくして」と「大正13年の秋ごろ」は矛盾します。ですから、「大正13年の秋ごろ」というのは間違いだと判断しました。
 

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