六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴7

 平民農場関係の資料を探していると、平民農場に関わった人々を取り上げた本が30年以上前に出版されていることが分かりました。下記の本がそれです。静岡三人組や久保田種太郎などに比重が置かれているのですが、鈴木志郎・かよ夫婦や佐野安吉に関することも書かれていますので、この本を基にし、補足を加えながら考察してみます。
 
平民社農場の人びと―明治社会主義者のロマンと生きざま
 小池喜孝 (著)  現代史出版会 1980/12
http://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B3%E6%B0%91%E7%A4%BE%E8%BE%B2%E5%A0%B4%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%B3%E3%81%A8%E2%80%95%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%81%A8%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%96%E3%81%BE-%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E5%96%9C%E5%AD%9D/dp/4198020965/ref=sr_1_9?ie=UTF8&qid=1375030950&sr=8-9&keywords=%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E5%96%9C%E5%AD%9D
 
 著者は道東の高校に社会科教師として勤務しながら、民衆史運動を始め、秩父事件や足尾鉱毒事件、タコ部屋労働者などに関する研究をし、「谷中から来た人たち―足尾鉱毒移民と田中正造」、「秩父颪―秩父事件と井上伝蔵」、「常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑」などの著作を残しています。
 
◆平民農場と岡そのとの出会い
 著者が平民農場を知ったのは、足尾鉱毒事件の被害者の帰郷運動に取り組んでいた時でした。留寿都にも足尾鉱毒事件の被害者がいたと知り、留寿都村を訪ねています。この時、平民農場に一時入植していた久保田種太郎の住居も見学しています。見学したのは、種太郎が田中正造と親しい関係にあり、鉱毒事件で運動した人物だったからです。ちなみに、種太郎が平民農場に来たのは、「種太郎は弾圧の手をのがれて北海道へ逃げようとしていたとき、平民農場の広告を見て留寿都に行ったんです」(著者が種太郎の義理の姉と甥から聞いた話)とのこと。
 1977年、北海道放送(HBC)で「常紋トンネルのタコ労働者の手記」が放送され、著者も出演していました。放送後、視聴者から10件あまりの電話が寄せられ、その中の一つに樺太のカトリック教会の無料宿泊所でタコ労働者の世話をしたことがあるとの話がありました。岡そのさんでした。著者が岡さんを訪ね、インタビューをしている内に岡さんから「平民農場」という言葉が出てきて、著者は岡さんが鈴木志郎の娘だと偶然知ったということです。
 
 著者は岡さんを伴い、鈴木一家のゆかりの地である留寿都、室蘭、夕張を巡り、岡さんから様々なことを聞き出しました。鈴木一家は苦難の道を歩んだようです。
 本書は著者が岡さんから聞き取ったことと資料から抜き出したことを明確に分けていません。それが残念なことなのですが、岡さんが語った思われることをピックアップします。
●岡さんが生まれた大正2年にはすでに、鈴木一家は、平民農場があった場所から8km程倶知安駅寄りの真狩村喜茂別番外地にいた。
●喜茂別で父・志郎は郵便配達夫をし、母・かよは農業をやっていた。志郎には尾行の刑事が付いていて、刑事は「俺もこんたことはいやなんだが、職務だから仕方ねえんだ」と言っていたと聞いている。
●岡さんは生まれて直ぐに洗礼を受け、両親も一緒に洗礼を受けたようだ。
●1919年、志郎は3カ月分の給料を貰い、輪西製鉄所を解雇される。社員住宅を出て、室蘭のイタンキ浜に近い八丁平に一軒家を買ったが、志郎が無職だったために、小学2年の岡さんが学校にも行かずにミガキ粉売りをしなければならなかったような困窮生活を強いられる。志郎の失業生活は3年間続く。
●志郎は雨情の歌のような童謡を作っていた。
●1923年4月、志郎は夕張炭鉱の炭鉱夫に応募し、一家は夕張に移住することになる。夕張に発つ日の朝、生後10ヶ月の妹「静」が死亡した。死亡した静を母が背負い、集団就職列車に乗って夕張に到着すると、静をウドン箱に入れ、志郎と岡さんが末広墓地に埋めた。
●夕張では両親とも働き、長屋暮らしが5ヶ月程続いた。
 
 郵便配達や洗礼について、著者は資料で確認しています。
○喜茂別郵便局の書類には、大正2年10月1目から3年12月1目まで、鈴木志郎が集配人として勤めていた記録がある。保証人は「小山内千代続」となっていた。
○留寿都郵便局にも、明治43年5月3目から44年4月21日まで、鈴木志郎が集配人として勤めていた記録がある。
○倶知安のカトリック教会の「洗礼台帳」には、「1914年7月30日、喜茂別にて受洗、幼児その。生れ、1922年1月15日。鈴木志郎とかよの娘。下記の私によって付げられた名、アンナ。これらのことを信仰のうちに署名する。ア・フランシスコ・ベルガット」とある。
○「鈴木志郎の堅信は、1914年11月2日で、『臨終に際して喜茂別の自宅で受けた』とあり、志郎この時瀕死の状態であったことがわかります」との一節がカトリック教会の沢田神父の書簡にある。
 
◆佐野安吉
 岡さんは佐野安吉について以下の通りに語っています。
 「関東大震災直後に、私たち一家は樺太の大泊に行ったんですが、間もなくしてよれよれ姿の老人が、フラッとあらわれたんです。大正13年の秋ごろでした。この老人は一週間もするとボケてしまったんです。娘の所に来たから安心だったのでしょうね。それから一年半位たって亡くなりました」。
 「私の母、岩崎かよの義理の父だったんです。義父は母が静岡にいたころ、祖母のせきと結婚したんですが、祖母が亡くなったので、平民農場に母とその弟を連れてきたんです。本当の名は佐野安吉っていうんですが、岩崎かよの父ということで岩崎老人と呼ばれたんではないんですか。この人、とても背が高くて、顔のきれいな人でした。死んでから母が教えてくれたんですが、若い頃は『天竺安』とか『静岡小僧』とかいわれた『義賊』だったんですって。刑務所暮らしが長かったようですよ。
 あとで知ったのですが、樺太で義賊の実演をしてまわってたんですって、見たという人からのちに聞きました。大方年をとって働けなくなり、義理の娘のところに来たんでしょうね」。
 「安吉さんはクリスチャンだったそうです。何でも原胤昭という偉い人に救われて、プロテスタントになったそうです」。
 
 岡さんによると、岩崎安太郎と佐野安吉は同一人物で、母・かよの義父だったとのことです。この岡さんの証言を裏付けるようなことが、平民農場の処分について報じた新聞から読み取れます。
 「佐野安吉、日笠与八二君は北海道の同志たるが、近々一種の農場を設立すべしと」(社会新聞 明治41年1月19日)
 「<平民農場の解散>
 原子基君の経営し来りし北海道平民農場整理の任を帯びて旧冬渡道せし渡辺政太郎君は、久保田種太郎君立会の下に左の如く土地を処分して一旦解散に決したり。
 土地4分の3(未成墾)原子・岩崎に分配
   4分の1(既墾)日笠与八に売却
 日笠君に売却したる土地代金を以て、安井有恒君(同志)出資金に弁済し、他の出資者逸見(斧吉)、大滝(由太郎)二君は全然出資金を寄附したるわけなり」(社会新聞 明治41年2月9日)
 平民農場の跡地を受け継ぐ者が、一方は佐野と日笠、もう一方は日笠と原子、岩崎と記載されています。ここからも岩崎安太郎と佐野安吉が同一人物であることが推定でき、岩崎安太郎と佐野安吉は同一人物で間違いないでしょう。
 ちなみに、平民農場の跡地は3人が引き継ぐのですが、原子は解散してから3ヵ月後(1908年3月中旬)に北海道から去っていますので、原子の権利は佐野が譲り受けたのでしょう。佐野は土地を1912年夏まで所有していましたが、虻田村の土地会社に売却した模様です。その売却された土地を1916年に日笠が購入したようですので、最終的に平民農場全体を日笠が所有しました。しかし、1917年12月に留寿都を出て上湧別村字社名淵(現・遠軽町)に行き、留岡幸助(クリスチャンで原胤昭の推薦で空知集治監の教誨師になった経験あり)の設立した留岡農場の自小作になり、そこで亡くなりました。
 鈴木一家はクリスチャンになりましたが、日笠もクリスチャンになっていました(1910年の大逆事件が転機になり、留寿都時代に入信したようです)。上湧別に行ったのは、留岡と同県人であり、クリスチャンという縁があったからでしょうか。
 
 岡さんは佐野安吉が原胤昭によってクリスチャンになったと言っています。
 原胤昭は明治時代のキリスト教慈善事業家で、自由民権運動に連座して入獄体験をしたことから、監獄改良のために教誨師になった人物です。1888年に釧路集治監に赴任し、樺戸集治監を経て、1895年まで北海道の囚人教化に尽力していました。
 月刊誌に「安吉翁はおきんという婦人を原胤昭氏の媒介にて娶りたり」(光 明治39年10月5日)との記述があることから、原と佐野が親しい間柄であったことは確かでしょう。原と佐野は何処で出会ったのでしょうか。
 岡さんの証言には、佐野が義賊で刑務所暮らしをしていたともありますから、原が釧路か樺戸の監獄で教誨師をしていた時に囚人だった佐野と出会い、佐野を改心させてキリスト教に入信させた可能性が高いと思われます。
 静岡の岩本教会の「教会日誌」(明治38年12月3日)には「・・・説教あり。閉会後、富士根村字天間の渡辺君、一人の改罪者を伴い、氏は岩崎要吉とす。現今北海道にて原子氏らとともに計り、目下開墾地のために熱心に働きおる由なり。氏の恐るべき履歴を語れたり」(※渡辺君とは渡辺政太郎、要吉は誤字で安吉のことと思われます。)との記録があります。佐野がクリスチャンで、「恐るべき履歴」というのが犯罪歴のことだと推定されます。
 
 安吉の犯罪に関する記録は他にもあります。
 「美以教会の懺悔談・・・美以教会にては、明十日午前九時より、強盗犯特赦出獄者、岩崎安吉の懺悔談ある由」(小樽新聞 明治40年3月9日)
※美以教会とはメソジスト教会のこと。
 「北海道の未墾地が内地の農地よりも安いので、虻田郡留寿都に1戸分半の未墾地を買い、深尾韶、原子基の両人と殺人犯で悔い改め出獄した五十年配の岩崎某の3人が開墾に当ることになった」「妻が他の男と情を通じていたのを怒ってのこと」(北海道史研究七号 大滝由太郎)
※1戸分半は約7町歩、後の記述は殺人の動機についてのこと。
 記録以外に佐野の犯罪に関する証言もあります。佐野の懺悔談について、留寿都在住農家の田中豊吉氏(1896年生まれ)が覚えていました。以下は、著者が聞き取ったものです。
 「父とここに入植したのが明治35年だった。3、4年たってから原子や日笠が入ってきた。留寿都劇場で2回やった講演会に父が出かけた。大勢入って盛会だったそうだ。
 父から聞いた話があんまりすごいんで、子どもだったがおぼえている。何しろ、人を殺しておいて、警察が探しにくると、殺した当人が『犯人は向うへ行った』って嘘しゃべって、警察をまいちまったちゅう話だった。子ども心に、どうしてつかまんなかったのか、不思議でならなかった」
 
 安吉が犯罪者だったことは間違いないでしょう。1850年生まれの安吉は1882年に廃嫡され、弟が家督相続しています。たぶん、この時に犯罪を犯し、投獄されたのではないでしょうか。

 以上の記録や証言から著者は「強盗殺人の罪を犯した安吉は、警察の追及の手を逃れて逃走し、なかなかつかまらないので『静岡小僧』の異名をとった。やがて獄中で原胤昭にめぐり逢って改俊し、出獄後、岩崎せきに入婿したが、せきの死後は再出発の機会を考えていたのであろう。安吉が参加したのは、農業経験者を必要とした『静岡三人組』から要請されてのことだろう。安吉と三人組が知り合ったのは、静岡県下の教会か、あるいは原胤昭の紹介によるのであろう。」と推測しています。
 
◆鈴木志郎と岩崎かよ
 著者は菊地寛氏の「赤い靴はいてた女の子」を紹介し、野口雨情の童謡「赤い靴」は岩崎かよの娘がモデルだったとしています。著者は菊地寛氏の著作を参考にしているため、鈴木志郎と岩崎かよについての記述の多くは、菊地寛氏の見解そのままです。ですから、その様な部分はなるべく省きます。
 
 鈴木志郎は1880年1月、青森県西津軽郡鯵ヶ沢町の船大工・鈴木金兵衛とその妻たけの間に生まれています。生誕地の鯵ヶ沢に近い五所川原教会や弘前教会がありましたが、受洗者名簿には志郎の名はありません。キリスト教に入信したのは、やはり大逆事件以降のことで間違いなさそうです。
 志郎は青森を出て北海道に渡っていますが、何時の頃か分かっていません。ただ、岡さんが父から聞いたところによると、志郎が17歳の頃、母方の叔父で積丹半島に縄張りを持っていた博徒の親分だった種田幸次郎に厄介になっていたとのことがあり、後に札幌の豊平館でコックの手伝いをしていたとのこと。ちなみに、幸次郎は床屋の頭をたたいた(殺した?)ことで入獄し、獄死したということです。
 
 月刊誌「光」(明治39年1月1日付)に原子基が書いた文章が掲載されています。
 「ここにわれわれは第一回の新年を迎えて感慨無量、ただ感謝の念に満たさるるのであります。戒厳令、平民杜、直言、光、うき事のみ多かりし世を、わが平民農場は徐々として進み来ったのであります。熱心なる同志諾君の助けなくば、如何にしてこの至幸を見る事が出来ましょうや。
~略~
 平民農場は近頃大分大きな家族になりました。まず北海道大沼の同志鈴木志郎氏が入場し、原子生の妹の二人と岩崎安太郎老人の妻、娘、息の三人も来り、都合八人で楽しくその日を暮らしているのであります。この内の六人は労働に堪えるので、これから追々仕事もはかどることになります。
~略~
 岩崎翁近詠あり『何のその勇み励みて拓きなば、野も荒山も明日は花園』『うき事の多かる世なり物みなの、つれなくばとて我は嘆かじ』」
 鈴木志郎は「大沼の同志」と紹介されています。大沼は函館から27kmの景勝地で、函館の生活圏にありました。函館には函館平民倶楽部があり、志郎は同志と紹介されていますからそこの会員だったのではないかと思えますが、確証はありません。
 函館平民倶楽部は、函館の平民新聞の購読者を篠崎清次が組織化したもので、篠崎宅で毎月例会が開かれていました。篠崎清次は北海道聾唖教育の父と呼ばれる人物です。清次は幼少の頃の眼病が原因でほとんど盲目になり、函館訓盲会で学びそのまま同会の教師となりました。この教師の時にキリスト教に入信し、後に函館訓盲院の3代目院長になっています。社会的弱者に心血を注いだ清次は、社会主義運動の実践家でもあり、社会主義者を支援していました。平民農場の中心的支援者でもあり、平民農場の火災で焼け出された原子基の妹を訓育院に引き取ってもいます。
 
 岩崎かよは1884年1月、静岡県有渡郡不二見村(現・静岡市清水区宮加三)の農家に生まれました。父・清左衛門はかよが5歳の時に死亡。母・せきは30歳の時に同じ村の農民を婿に迎えましたが、1年で離別しました。かよは多くの村の娘と同様に奉公に出ましたが、18歳の時に妊娠して帰郷しています。せきが急死して間も無く、かよはきみを出産。その後、かよは弟・辰蔵と共に、佐野安吉に連れられて渡道しました。きみは養子に出されているいるのですが、岡さんは母から聞いた話として、「きみをあずけた先は、函館のヒュエットさんという神父さんでした。養父の安吉が新教の人でしたから、新教の人にあずけたんだと思います」と語っています。
 
 平民農場に共に入植した志郎とかよは恋愛関係になりました。
 新聞「光」(明治39年10月5日付)に「僅か一年半ばかりの日子なれども、平民農場は浮世の一通りの様々な変化を経験したり。農場員たりし岩崎辰造氏(十九歳)は肺病にて死去したり。佐野安吉翁はおきんという婦人を原胤昭氏の媒介にて娶りたり。鈴木志郎氏は佐野翁の義理の娘岩崎かよ子と結婚して樺太に行けり。豊田道之助君と古川啓一郎君とは入場して間もなく退場したり。かくて今農場は原子君とその可憐なる幼妹二人、佐野翁夫婦の五人暮らしなり」と、深尾詔が出筆した記事が掲載されています。原子が9月に上京していますので、その時に原子から聞いた話を深尾が書いたようです。
 この記事からすると、志郎とかよは明治39年9月までに平民農場を去り、樺太に向かったようです。明治38年(1905年)9月に結ばれたポーツマス条約で樺太の南半分を日本領にしたことで、この頃、大勢の人々が樺太に押し寄せたそうですから、志郎夫妻も時流に乗り樺太へ行ったのでしょう。しかし、志郎夫妻は1年足らずで北海道に帰っています。平民農場の北方にある倶知安の市街(2条通り2丁目)に住み、明治40年2月7日に長女のぶが生まれました。
 
 明治40年5月、志郎は札幌の「北鳴新聞」(著者はこの様に記述しているが、正しくは北鳴新報社)に入社。この新聞社で志郎は野口雨情と同僚になります。この時期のことを、岡さんは母・かよから聞いた話として「雨情の奥さんは乳母付きでやってきた。乳母が帰ると御飯の炊き方も知らたいほど、お嬢さん育ちの人でした。御飯の炊き方も、母が教えたそうです。またオムツを汚ながって、子どものお尻がただれたそうです。“雨情にだまされた”なんてよく言ってたそうです。雨情が詩の会で話相手にする酒屋の娘のことで、家庭争議もあったそうです。母は函館でヒュエットさんに渡した娘のきみのことを雨情にしゃべったそうで、それがあの童謡になったんですね」と語っています。

 ドキュメントドラマ「赤い靴はいてた女の子」で、岡さんはヒュエットという名に聞き覚えが無いか確認され、母からシュミットさんとかいう名前を聞いたことがあると返答しています。また、岡さんは北海道新聞夕刊に掲載された投稿記事で「従ってアメリカに渡った長姉君子のことも話したらしく」と、童謡「赤い靴」のモデルがきみであるとは断定していません。
 それにも拘わらず、岡さんは著者に「きみをあずけた先は、函館のヒュエットさんという神父さんでした」「母は函館でヒュエットさんに渡した娘のきみのことを雨情にしゃべったそう、それがあの童謡になったんですね」と語っています。ドキュメントドラマ「赤い靴はいてた女の子」が放送されてことで、岡さんの記憶がドキュメントドラマに沿った内容に書き換えられたように思えます。

 

留寿都と赤い靴8へと続く・・・。
 

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