六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴6

・・・「留寿都と赤い靴5」の続き。
 
 平民農場から去った3人は、その後にどの様な道を歩んだのでしょう。簡単に触れてみます。
◆深尾韶
 1905年8月下旬に一時的に帰京したまま、平民農場に戻りませんでした。結局、平民農場には3ヶ月程しかいませんでした。
 1905年秋、由分社入社。「家庭雑誌」の編集者をしながら、活発に文筆活動を始めます。
 1906年1月、堺利彦と共に日本社会党を結成。2月、西川光二郎と樋口伝が結成した日本平民党を合併し、日本初の合法的社会主義政党である日本社会党の評議員の一人となりました。
 3月、電車賃値上げ反対運動の事件(電車事件)で収監され、6月に保釈されます。
 1907年9月、肺結核にかかり、療養のため静岡に帰郷。その際、妻のみち(加瀬沢みち 明治24年生まれ)を実家に帰しました(1908年2月に正式に離婚)。韶の帰郷後、社会主義運動内部では直接行動派と議会政策派の対立抗争が激化していました。そんな中、韶の渡辺政太郎へ宛てた手紙が「社会新聞」で公表され、それが恩師のような存在の堺利彦の怒りを買い、堺から絶交されます。
 1909年2月、電車事件の控訴審で禁固1年6ヶ月、執行猶予5年の判決を受けました。この後、韶は社会主義運動からフェードアウトします。
 療養中、韶はボーイスカウトの存在を知り、ボーイスカウト運動の研究をしていました。「静岡公報」の記者になった韶は、1909年4月に静岡の少年向け投稿誌「少年時報」で少年軍団設立を呼びかけます。しかし、反応は皆無でした。
 「静岡公報」の解散を機に上京(1912年6月)。斯道会(国民道徳運動推進組織)の書記に就任し、文部省や軍に少年軍団の意義を説いて回ります。
 1914年2月、静岡市に戻って設立運動を開始し、8月に「静岡少年団」を結成。韶は「静岡新報」の記者をしながら、「少年軍団教範」を出版(1915年)します。静岡少年団は2年余り活動を続けるも、韶が静岡市を出たことで解散(1916年)しました。
 1917年10月、「万朝報」静岡支局記者として静岡市に戻ると、再建運動を開始。1918年6月に「静岡少年団」を結成して常任理事に就任しています。1922年、「少年団日本連盟」が結成されると理事に就任し、万朝報静岡支局閉鎖を機に上京し、連盟本部に勤務しました。本部では精力的に活動しますが、ベルギー行きを辞退したことにより退職し、1927年3月に静岡に帰りました。
 帰郷後、電力会社設立に動きましたが失敗。製糸製袋物製造卸業を始めて成功を収めます。事業家に転身した韶は、報恩会(小林幸太郎が創設した修養団体)に傾倒。静岡分会長を務め、亡くなるまで会のために尽力しました。
 ボーイスカウトとの関係も続いており、1953年にボーイスカウト日本連盟から「先達」の称号を送られ、ボーイスカウト静岡連盟の相談役も務めていました。
 1963年11月8日、肺炎で死去。84歳でした。
 
◆渡辺政太郎
 1906年、人手不足だった東京孤児院から協力を求められ、上京。東京孤児院に2年程勤めましたが、1908年3月に「東京社会新聞」が創刊するとそちらに移ります。しかし、10月に廃刊。11月には社会主義青年団を組織し、社会主義運動を続けました。
 1910年に大逆事件が起こると、社会主義運動は冬の時代を迎え、社会主義運動から脱落する者が多数出ました。この大逆事件以降、政太郎は無政府主義者になったとされています。
 1913年、中国で辛亥革命に続く第二革命の火の手が上がると、政太郎は5月に上海に渡り、革命軍都督・何海鳴の軍に参加して司令部付佐官待遇になりました。しかし、9月に南京が陥落すると日本領事館に逃げ込み、強制帰国させられます。
 帰国後、政太郎は雑誌「微光」や「近代思想」などに協力したり、足尾銅山鉱毒問題に取り組んだ田中正造に協力したりしていました。また、自宅で無政府主義の研究会を開催し、後進の養成に努めました。ここから、後に無政府主義運動で名を残すことになる人材が多数生まれています。
 1918年5月17日、自宅で病没。終生、貧乏暮らしだった46年の生涯を終えました。
 
※大逆事件(幸徳事件)は明治天皇爆殺計画を切っ掛けに、社会主義者が弾圧された事件。1910年5月に検挙が始まり、1911年1月の大審院で幸徳秋水ら24人に死刑、2人に有期刑判決が下され確定します。 24人の内、12人は特赦で無期に減刑されますが、12人は1週間ほどで死刑が執行されました。戦後、暗殺計画に関与したのは4人だけだったことが判明しています。
 
◆原子基
 平民農場が解散となり、北海道から帰京する途中の1908年3月、盛岡市で岩手平民会を結成。赤沢村に平民農場を作ろうとしましたが、失敗し、東京に戻ります。その頃、社会主義運動は幾つかに分派していましたが、基は特定の派には所属せず、幅広く交流する一方、貧民街の長屋に住み、屑屋などをして生計を立てながら、労働者のための活動を展開していました。
 1917年6月、原子一家は室蘭に渡り、基は輪西製鉄所の雑役夫に就職。同製鉄所に勤めていた鈴木志郎を頼ったものと思われます。原子一家と鈴木一家は隣り合わせの長屋に住んでいたそうです。
 何時の頃かハッキリしませんが、基は江差付近で住職をしていた叔父の寺で得度していたようです。室蘭では法衣を身に付け、経を唱えながら近所の家々を回っていたことがあったとのこと。
 1917年10月、基は家財整理のために一人上京し、半年以上も留ました。製鉄所の仕事に馴染めなかったようです。在京中は渡辺政太郎の会合に出席したり、雑誌に文章を寄せたりしていました。原子一家が何時帰京したか定かではありませんが、1921年末には東京で長屋生活をしていたようです。
 基は石水という僧号を名乗り、宗教活動(曹洞宗)を次第に本格化させます。基の活動は社会主義運動と仏教活動が混ざり合った状態でしたが、徐々に仏教活動に比重が置かれるようになったようです。
 1928年に北豊島郡南千住の中古住宅を買い、本堂(観自在講)を自宅横に建て、信者を集めてキリスト教と仏教を折衷した説教をしていたようです。
 1933年、説教中に倒れ、8月22日に病死。54歳でした。
 
 
 青森、山梨、静岡で生まれた3人の若者が同じ志を持って三人組を結成したにも拘わらず、平民農場入植から三人の歩む道が徐々に分かれて行きました。社会主義の冬の時代を経て、結局、深尾は社会主義から完全に離脱し、渡辺は無政府主義者になり、原子は僧侶になりました。渡辺と原子は死ぬまで貧民と向き合ったのに対し、深尾は貧民とは無縁の世界に生きました。この違いは幼い頃の家庭環境の違いもさることながら、社会主義者になる過程から生じたのではないでしょうか。
 渡辺と原子は貧困生活の中でキリスト教に救いを求め、社会主義に目覚めました。二人にとっては、キリスト教的博愛主義の延長線上に社会主義があったのでしょう。平等な社会を実現することが貧民救済になると信じたのだと思います。社会主義は貧民救済の手段であり、目的はあくまでも貧民救済にあったのではないでしょうか。ですから、形を変えながらも貧民と生涯を通じて関わっていたのでしょう。二人の根底に流れっていたものは、幼少の頃からの苦労に裏付けされた人間主義的なものだったように感じます。
 対して、深尾は教師という保障された生活の中に飽き足らず、理想を求めて社会主義に飛び込みました。アイデンティティの確立にもがきながら見つけたのが社会主義であったのでしょう。若者が青春時代に持つ一時的な理想主義が社会主義を魅力的に見せたのかもしれません。深尾にとって社会主義は目的である反面、頭の片隅には社会主義を世に頭角を現すための手段という考えがあったのかもしれません。だから、平民農場で苦労することに耐えられなかったのでしょうし、社会主義が冬の時代になると早々に見切りを付け、それまで批判してきた相手に取り入ることも出来たのではないでしょうか。深尾の根底に流れっていたものは、強烈な上昇志向だったような気がします。
 
 
 本エントリは「赤い靴」に関する周辺事情を書く予定だったのですが、かなり横道にそれました。なので、少しばかり岩崎きみに関することに触れます。
 岩崎きみは静岡に生まれ、母の平民農場入りには付いて行かず、東京のキリスト教系の孤児院で亡くなっています。「静岡」「平民農場」「キリスト教」「孤児院」というキーワードについては、渡辺と原子にも当てはまります。特に、原子については室蘭で鈴木志郎と再開していることから何らかの形(きみの死を伝えた?)で関与しているのかも知れません。
 最後に、新聞の名前が色々と出てきて分かりづらいと思いますので、参考までにその新聞について書き記します。
 
 
■社会主義系の新聞の変遷
1903年
 日露戦争前夜、日刊新聞「万朝報」が非戦論から主戦論に転向すると、それに反発した幸徳秋水や堺利彦らの記者が退社し、「平民社」を設立(10月23日)。
 11月15日、平民社は週刊「平民新聞」第1号を発行。戦争反対の主張を繰り広げる。
 社会主義協会の片山潜が渡米したことから、協会本部が平民社に置かれ、平民社が社会主義運動の中心組織になる。
1905年
 平民新聞の発禁処分が避けられない状況に追い込まれ、自ら廃刊することになり、1905年1月29日発行の第64号が最終号となった。
 翌月には平民新聞の後継紙・週刊「直言」が発行される。事実上、平民新聞から直言に名を変えただけでだった。
 9月、日比谷焼き討ち事件について政府批判をしたため、直言が無期発行停止になる。これが引き金になり、直言の廃刊と平民社が解散が決定され、10月9日に解散式が挙行された。
 平民社が解散すると木下尚江、石川三四郎らキリスト教社会主義派は月刊誌「新紀元」を創刊(11月10日)し、西川光二郎、山口義三らの唯物論派も月刊誌「光」を創刊(11月20日)した。これら2派に組しない者もいたため、社会主義運動は三陣営に分裂。
1906年
 6月23日、滞米していた幸徳秋水が帰国。幸徳の帰国が切っ掛けになり、日刊新聞を発行する計画が持ち上がり、各派の機関紙の「新紀元」と「光」が統合することになる。
 11月10日、第13号を最後に新紀元が廃刊。12月25日、第31号を最後に光が廃刊。
1907年
 1月15日、平民新聞社より日刊「平民新聞」が創刊される。
 2月19日付けの平民新聞が発売禁止となり、西園寺内閣が安寧秩序を害するとして日本社会党に解散命令を下す。
 日刊「平民新聞」が発行禁止になり、4月14日の第75号で廃刊。4月15日、平民新聞社解散
 6月1日、森近運平が大阪平民社より「大阪平民新聞」(後に「日本平民新聞」と改題)を創刊。6月2日、片山潜、西川光次郎らが社会新聞社より「社会新聞」を創刊。大阪平民新聞は議会政策派、社会新聞は直接行動派の機関紙の役割を果たすことになり、社会主義運動は議会政策派(軟派)と直接行動派(硬派)に再分裂。
1908年
 3月15日、西川らが片山と袂を分かち、東京社会新聞社より「東京社会新聞」を創刊。軟派は分裂した。
 東京社会新聞の中心メンバーの西川と赤羽が投獄され、東京社会新聞は廃刊に追い込まれる。東京社会新聞は9月15日の第15号で廃刊し、10月8日、渡辺政太郎が中心となり廃刊式が行なわれた。
1911年
 8月3日、社会新聞が第80号で廃刊。
 

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東京育成園の歴史・理念
http://homepage3.nifty.com/kyo-do-kodomonosono/toiku.html
回想の松島正儀(一)
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/68/1/shakaifukushi133_181-259.pdf
 

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