六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴5

 留寿都村に岩崎きみをモデルにした像が建てられることになったのは、きみの母・かよが平民農場に入植したためです。平民農場に入植しなければ、鈴木志郎と結婚することもなく、野口雨情と出会うことも無かったでしょう。
 そもそも、社会主義者だった原子基らが、何故、来道して農場を創めたのでしょうか。その辺の経緯が分かる本を見つけました。
 
大逆事件の周辺―平民社地方同志の人びと
柏木隆法 著  論創社 1980年出版
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E2%80%95%E5%B9%B3%E6%B0%91%E7%A4%BE%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%90%8C%E5%BF%97%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%B3%E3%81%A8-1980%E5%B9%B4-%E6%9F%8F%E6%9C%A8-%E9%9A%86%E6%B3%95/dp/B000J7PTUU/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1373993732&sr=8-1&keywords=%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA
 
 この本の「第二部 静岡県編 Ⅲ静岡の三人組」で平民農場に関与した深尾韶、原子基、渡辺政太郎が取り上げられています。以下、この章を参照しながら3人について記します。
 
 
 週刊誌「直言」(明治38年2月26日付)の「同志の運動」欄に次の文章が掲載されていました。
**********************
■三人組伝道行商
 吾々とても今現に主義のために働きつつあるのである、原子生は富士育児院の為めに各地を遊説しつつ到る処に主義を弘道せんと試み、渡辺生は「平民床」てふ理髪店を開きて昼も夜も絶間なく伝道をなしつつあるのではあるが、併しまだまだかようなマドロい事では到底駄目である、更に活発な更に有功な事業に取り掛らねばならぬ、さらば如何にして働かんか、山口、小田両君の範を示したる彼の伝道行商!彼こそ吾等の行くべき道ではあるまいか、ソコで吾々は将に十五円の資金を以て行商用の車を作り、書類と幻燈器械とを満載して東京の吾党本部を後にしようと目論んで居る、深尾生は現に小学教師であるが、此行商中教員間に勧誘して教員労働組合を作りたいと志して居ります、此際本部から相当の御指揮を仰ぎたく存じます(原子、渡辺、深尾三人組)
**********************
 平民農場に関与した深尾、原子、渡辺の3人の社会主義者は平民農場が設立される前に、静岡で三人組を結成して、伝道行商を始めようとしていました。
 伝道行商とは牛乳配達に用いていた小型の箱車(荷車に箱を取り付けたもの)を赤く塗り、平民新聞や社会主義書籍などを積み込み、「社会主義伝道行商」の幟を立てて、各地を回って書籍などを売り歩きながら、社会主義協会員を募ったり、署名運動を展開したりした宣伝活動です。多くの社会主義青年が試みていました。上記に出ている小田頼造と山口義三は、東京から下関までの1200kmを踏破しています。また、荒畑寒村が「社会主義伝道行商日記」という本を残しています。
 
 この3人はどの様な経緯で三人組結成に至ったのでしょうか。それぞれの人物について、結成に至るまでを書き出してみます。
 
◆渡辺政太郎
 1873年7月17日、山梨県中巨摩郡松島村(現・甲斐市)にて誕生。父は庄三、母はよね。7人兄弟の長男で、弟2人と妹4人がいました。生家は農業と雑貨商を兼業していましたが、生活は苦しかったようです。
 1887年、政太郎は数えの15歳で横須賀の洗濯屋に丁稚奉公に出ます。2年程して帰郷、甲府紡績会社の職工になりました。その後、理髪職人になるべく修業、理髪店を開業し、一家の生計を支えました。
 1894年、22歳の時、商業学校に入る目的で上京します。上京前に父は死亡していたため、政太郎の上京で一家は離散。母と妹は富士郡大宮町の親類(若林家)の世話になりました。
 上京後、政太郎は新聞配達などで収入を得ながら予備学校に通っていましたが、苦学生活に苦悩していました。そんな中、神田の基督教青年会館(東京YMCA)にある煩悶引受所を訪れたことを切っ掛けに熱心なクリスチャンになりました。それから間も無く、青年会館の紹介で岐阜の濃飛育児院に勤めることに。しかし、院長と対立し、数年で退職して東京に戻ったようです。
 1899年7月、青年会館で開催された活版工懇話会の労働問題演説会に参加したことにより、社会主義に目覚め、社会主義協会に入会。政太郎は後に「余が社会主義の戦闘線に入りしは、孤児を世の中から無くす為なり」と述べていることから、動機は孤児救済にあった模様です。
 1900年(若しくは1899年)、東京孤児院(後に東京育成園と改称)に勤めていた従兄妹の若林八代(1873年生まれ)と結婚。八代の実家は政太郎の母らが世話になっていた若林家でした。
 1903年、友人の渡辺代吉が孤児院を創設することになり、静岡県富士郡吉原町(現・富士市)に赴いて富士育児院の創設に協力しますが、1年足らずで育児院から手を引きます。
 育児院から離れた政太郎は、富士郡大宮町山本で山地を借りて農業を始めましたが、畑が大雨で流され失敗。理髪店「平民床」を開業(1904年2月の日露戦争開戦時には既に開業していた模様)し、客に社会主義を説いたり、演説会の開催、伝道行商者の支援など、静岡県で熱心に社会主義運動をしていました。
 
◆原子基(はらこもとい)
 1880年3月9日、青森県中津軽郡弘前駒越町(現・弘前市)にて父・常太郎、母・かねの長男として誕生。弟1人と妹2人がいます。生家は小録の士族でしたが、維新後に刀鍛冶を始め失敗。父・常太郎は寺子屋を開き糊口を凌いでいました。
 基はミッションスクール東奥義塾に在学していたようで、1897年4月に弘前教会(メソジスト系)で洗礼を受けています。
 1900年頃、両親を次々と亡くし、基は兄弟を引き連れて上京。妹2人は東京孤児院に預けました。
 1903年、渡辺政太郎と共に静岡に赴き、富士育児院の助務員になります。
 1905年、伝道行商のために富士育児院を退職。
 
◆深尾韶(ふかおしょう)
 1880年11月12日、静岡県静岡市城内の旗本屋敷にて誕生。父は信四郎、母はひさ。6人兄弟の長男で、弟3人と妹2人がいます。深尾家は旧幕臣で、維新後に徳川家と共に江戸から移住したようです。父・信四郎は県庁の税収吏を勤めた後、小学校教員になり、庵原郡小島村小河内(現・清水市)に転居。信四郎は後に校長になっています。
 韶は小島小学校を優秀な成績で卒業、補習科に進むも、教師になるのを嫌って、数えの13歳で静岡監獄の給仕になりました。給仕を2年程勤めた後、沼津区裁判所熱海出張所雇いになっています。
 1897年9月、庵原郡袖師小学校の代用教員になった後、1899年9月に北海道石狩郡当別小学校、1901年3月に静岡県庵原郡西奈小学校、1901年5月に北海道上川郡東旭川小学校、1903年9月に北海道松前郡福島小学校と、教員として各地の小学校を転々としました。
 1903年8月、理想団に加入していた韶は札幌で幸徳秋水の講演を聴き、社会主義者になったようです。1903年12月22日付の平民新聞で、韶は社会主義運動の高揚を訴えていました。ついでながら、1904年6月19日付の平民新聞では、偶然にも韶の文章と原子基の文章が並んで掲載されていました。
 1904年7月、韶と北海道に渡っていた弟・範二は両親の希望で静岡に戻ました。韶は庵原郡富士川小学校に勤務しながら、遊説に来た社会主義者を支援したり、演説会で弁士をしていたようです。
 
※東京孤児院は、明治29年三陸沖大津波で孤児となった子供達を収容していた孤児教育院を創立者が運営放棄したことから、北川波津が引継ぎ、運営したのが始まりです。北川波津がハリストス正教の信者だったことから、ハリストス正教から支援を受けていました。
 1898年に東京市牛込区原町三丁目に移転し、孤児教育院から東京孤児院に改称。1903年、赤坂区青山南町六丁目に移転。1907年、東京育成園に改称。1914年、荏原郡駒沢村上馬引沢字真中に駒沢分園完成。1925年、本園を駒沢分園に移転。1938年、北川波津死去。戦後、プロテスタント系に変更。
 東京孤児院幹事の桂木頼千代は奈良県の神官の子でしたが、上京して苦学生活をするうちに社会主義者と交流を持ち、東京孤児院に出入りするようになったとのこと。社会主義者と東京孤児院は何らかのつながりがあったようです。
 
※理想団は万朝報の社主黒岩涙香が結成した団体。腐敗・堕落した人心の改良をし、個人の修養を通じて社会改良することを主張していました。 
 
 
 原子と渡辺の接点は東京孤児院です。東京孤児院で出会ったのか、社会主義運動の中で出会ったのかは定かではありませんが、東京で強く結びついたのは確かでしょう。原子と渡辺にはキリスト教という共通点もあります。富士市の岩本教会(日本基督教団)の「教会日誌」には、原子の旧約聖書のスライドショー、渡辺の妻・八代の受洗(1905年4月)などが記録されており、原子と渡辺はこの地のキリスト教伝道にも助力していたことが分かります。
 この二人と深尾が交流を持ったのは静岡に戻ってからです。平民新聞(1904年11月6日付)には「~裾野座で社会主義の演説会を開いた、渡辺政太郎君が開会の辞を述べて~深尾韶君の演説限りで遺憾ながら散会した~」との一節があります。演説会などで顔を合わし、熱心な社会主義者の同志ということで意気投合したのでしょう。
 
※日本基督教団は日本政府の強い要請により、1941年に日本国内のプロテスタント33教派が合同した団体。メソヂスト、バプテスト、ルーテルなどが含まれる。
 
 3人は静岡に伝道行商に来た山口義三と小田頼造に刺激されたのでしょう。三人組を結成して伝道行商に乗り出すことになりましたが、実際に伝道行商を実行したのは原子と深尾の2人だけ。渡辺は母の病気や妻の反対で参加出来ませんでした。
 1905年3月31日、原子と深尾は列車で東京に向かい、平民社へ。原子らは東北北海道へのコースを予定していましたが、荒畑寒村が東北への伝道行商を計画していたことを平民社で知り、八王子→甲府→長野→直江津というコースに変更します。
 1905年4月10日、赤い箱車に幻灯機(スライド映写機)、書籍、檄ビラなどを積み込み、平民社を出発。原子は後々の喧伝活動にも幻灯機を多用していることから、幻灯機を使用するのが原子のスタイルだったようです。
 4月11日に北多摩郡の調布町、12日には府中町に到着します。13日の朝に八王子方面に出発すると、高等視察の巡査に府中警察署へ連れて行かれ、原子らの伝道行商が秩序維持の妨害とされてしまいます。原子と深尾は留置され、幻灯機などが30日間の押収処分になりました。翌14日、2人は警察官に伴われて平民社へ引き返しました。
 原子と深尾の伝道行商はわずか4日で終焉。伝道行商自体も上手く行かなかったようで、幻灯会2回、販売した書籍25冊という結果に終わりました。
 平民社に戻った2人は、平民社の居候になりながら今後のことを模索します。伝道行商の再開は状況的に無理と判断。苦し紛れに屯田事業を思いたち、碧川企救男らの小樽の同志の援助を受けて真狩村字八ノ原に入植地することに。1905年5月23日、2人は平民社を出発しました。
 
 平民農場でのことは概ね以前のエントリー「留寿都と赤い靴4」の記事の通りですが、幾つか補足します。
 記事では「原子基は宮川冬子と結婚」とありますが、原子が結婚したのは虻田郡役所で農業技術関係の仕事をしていた藤原子々松の娘・藤原ユキ(明治18年生まれ)とのこと。子々松が素人農業を見るに見かね、娘のユキを手伝いに行かせたのが切っ掛けとなったそうです。
 記事に「<二人を信ずるに足らずとせる者は援助を絶たれよ、二人は甘んじて討死する覚悟なり。>と新聞『光』の一隅(ぐう)に書いた」とあります。この文章が掲載されたのは1906年1月1日付の新聞「光」です。なので、鈴木志郎ら8名は1905年末にはすでに平民農場に居たということになります。また、「平民社という錨(イカリ)が切れても自立してゆかなければならぬと決意」とも書かれていますが、これは平民社が解散(1905年10月9日)してしまったので平民社を当てに出来なくなったということです。
 記事には無いですが、この本には「岩崎かよが私生児の娘を入植の際に米人宣教師の養女にした」「童謡『赤い靴』は彼女の身の上話を素材にして作られた」「岩崎かよの義父・岩崎安太郎の本名は佐野安吉で、かつて『天竺安』の異名をとった盗賊」との内容が書かれています。参考文献の中に菊地寛氏の「赤い靴はいてた女の子」が挙げられているので、ここから引用したものと思われます。
 
 平民農場の設立は伝道行商が失敗したことにより、苦し紛れに思いたったことでした。綿密な計画があった訳ではなく、行けば何とかなるだろう程度のことだったのでしょう。失敗したのも当然の成り行きだったのかもしれません。
 
・・・「留寿都と赤い靴6」に続く。

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