六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴4

 「留寿都と赤い靴3」のエントリーで、岡そのさんの投稿記事を掲載しました。その投稿記事には、「昭和43年5月24日からの本紙に『平民農場の興亡・・・北海道の新しき村』という題で2回に亘り発表されているのでここに重複をさける。しかしこの農場も明治40年に解散のやむなきに至っている。この間のいきさつも同教授の記事のなかに詳しく述べられているで一読して頂ければと思う。」と書かれています。「平民農場の興亡・・・北海道の新しき村」という記事にはどの様なことが書かれていたのでしょう。当時の新聞を探しました。
 

 
***** 北海道新聞夕刊 昭和43年5月24日 *****
平民農場の興亡 <北海道の新しき村> 上 山田昭夫
「半農・半伝道」旗に 明治38年、真狩村に誕生
 
 いわゆる歴史の曲がりかどについて私はこんな空想に誘われがちである。-武者小路実篤の作品『土地』の一節に書かれているように、もしもあの<新しき村>が九州の日向でなく北海道ののどこかに選定されていたならば、その後いかなる運命をたどったことだろうか、と。そしてまた、<新しき村>は狩太の有島農場の一角に出現する可能牲が全くなかったとはいえないのではないか、などと。これは、あながち我田引水の歴史へのないものねだりではない。かくもあり得たかもしれぬ歴史的仮像であり、それによって歴史的事実への脚光度をつよめることもできるのである。だが、いま私のいいたいことはそのことではない。
 
『新しき村』の先例
 
 実は<新しき村>の明治版の先例が北海道にあったのである。しかもそれは有島農場の近接地点に存在していた-それが平民農場だった。
 この風変わりな名称の農場のことは、従来ほとんど不詳だった。たとえば渡辺惣蔵氏の労作『北海道社会運動史』にもわずかな記述しか見られない。四年前に北海タイムスのコラムに中村還一氏が『平民農場』という観測気球的短文を書かれて以来、この農場のことが気にかかっていたが、明治時代の社会主義新聞九種を通覧し、高倉新一郎氏から演歌師・添田唖蝉坊の自伝「唖蝉坊生記」を拝借させていただいて卒読した結果、茫漠(ぼうばく)としたマボロシの平民農場のイメージがかなり鮮明化レてきたのである。私の調査の主目的は、有島農場や社会主義研究会のことだったが、この研究会の主カメンバーの一人、大石泰蔵なる学生が平民農場と接触していたのである。
 
その思想的発想源
 
 平民農場は、明治の言論界に重要な役割りをはたした社会主義者一統の平民新聞の発行所・平民社の有志が、明治三十八年四月に虻田郡真狩村字八ノ原(現在・留寿都町の近在)に十一町歩四反の土地を入手し、開拓事業をはじめた共同経営の<新しき村>のはしりだった。惜しむらくは明治四十年の末に早くも解散のやむなきに至ったが、北海道開発史における記録すべき農場の一ケースであると思う。いわば結社移民の縮小型で、十勝の有名な晩成社のそれにくらべると、はるかに小人数の小規模な実験農場だったといえる。農場の共同経営という着想は、もちろん平民社のかかげていた社会主義的テーゼに基因しているが、そのユートピア思想の実践的情熱にはただならぬ自負が感じられる。私はこの農場の思想的発想源として木下尚江の作品『良人の自白』(明治三十七年-三十九年)の後編・続編に見られる土地私有制否認の構想とをあげておきたい。系譜的に木下尚江は有島武郎の先輩格にあたるが、彼は地主を<神の盗賊>だと指弾し、小作人が地主との腐れ縁から解放されぬかぎり彼らの自由も独立もあり得ないのだと断じていたキリスト教社会主義の先覚者だった。
 
平民社の二人が核
 
 さて、平民農場の中心人物は、平民社の若手の原子基と深尾韶の二人だった。ただし、深尾韶は入地後まもなく家族の始末のために帰京し、そのまま東京に居残って同志の援助をたのむ交渉係ないしは外部からの相談役に終始している。したがって実質上の責任者は原子基だったといわなければならない。深尾は松前の福島村出身だという説がある。だが、それは彼の妻のことで、彼が一時道南地方で小学校の教員をしていたことから生じた浮説である。深尾は静岡県出身だった。ほかの入地者名を列記すれば、岩崎安太郎とその妻子三人、原子基の妹二人、鈴木志郎、豊田道之助、久保田種太郎、日笠与八、佐野安吉、古川啓一郎、以上合計十四名。在場者のもっとも多い時で十名前後、少ない時は五名である。岩崎以外は農業の無経験者、実働者はさらに下回る人数だから、ネコの手も借りたいほどに人手不足に悩んだにちがいない。なかには在場期間半年にみたぬ者もいるし、全員が平民社の同志であったかどうか。おそらく一、二名の季節労働者や流れ者が含まれていただろう。農場経営が順調にいった揚合、彼らの理想とした生活は半農半伝道の生活だったと思われる。また、彼らは東京の同志から相当な援助を受けているので、できれば収穫物を平民社の人々に送り届けたいものだと願っていただろう。だがそれは、いずれもはかない一場の夢でしかなかった。北方開拓の現実は、彼らにとってあまりにも過酷な試練だった。
 
同志的結合にき裂
 
 第一年目(明治三十八年)-最初の入植者たる原子・深尾・岩崎の三人は、事始めにます八坪の笹ぶき小屋を建てた。それから開墾に着手したが、一面樹林地帯なので、第一年目の成墾地は1.5町歩にとどまった。馬はなく、すべて人力による労働である。周辺の農民たちからは<東京からきた百姓でない百姓>だとズブの素人ぶりを笑われ、<主義者の物好き>だと白眼視された。思想伝道など思いもよらない。すでに警察の手が回っていて、近辺の農民たちが信用せず、不都合なことが絶えなかった。しかし、翌年になると<主義者>への誤解もとけ、逆にこんどは同情され、駐在巡査さえなにかと世話をやいてくれた。初年度の収穫は燕麦(エンバク)十俵、馬鈴しょ四俵、その他甘藍(らん)と豆類。しかし、自給自足するには足りなかった。夏場に上京したままていよく農場から逃げ出した深尾は、在場者の越冬用物資を準備するために同志から寄付をつのることに奔走していた。深尾の退場は原子との合意の行動だったが、再三の原子の督促を無視して農場にもどらなかったところを見れば、そこに当初からの同志的結合の亀(き)裂を指摘しないわけにいかない。深尾は中央の第一線で活躍したかったのである。
(藤女子大助教授)
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***** 北海道新聞夕刊 昭和43年5月25日 *****
平民農場の興亡 <北海道の新しき村> 下 山田昭夫
三年でついに解散 不運な失火、重なる借金
 
『討死する覚悟なり』
 
 第二年目(明治三十九年)-前年末に家族持ちは妻子を呼び寄せたので、一月現在の在場者は大沼の同志・鈴木志郎を加えて八名。冬揚はもっぱら伐木してまくら木を作り、それを金に替えて収穫期までの食糧確保につとめたが、資金難が切迫するばかりだった。原子基は<二人を信ずるに足らずとせる者は援助を絶たれよ、二人は甘んじて討死する覚悟なり。>と新聞『光』の一隅(ぐう)に書いた。たとえ平民社という錨(イカリ)が切れても目立してゆかなければならぬと決意していても、頼みの綱は平民社の同志以外にはな
かった。<何のその勇み励みて拓きなば野も 荒山も 明日は花園><うき事の多かる世なり物みなのつれなくばとて我は嘆かじ>この二首は農場の最年長者・岩崎安太郎の感懐の起伏である。この安太郎のむすこで二十一歳の辰三が四月二十日に肺疾で死亡した。
 
災厄に退場者続出
 
 辰三は北海道に死にに来たのも同然だった。<社会主義式>の無宗教の葬式が営まれたが、原子はこの時はじめて村民に社会主義の話をした。といっても、辰三の前歴が奉公人だったので、雇い主の圧制について説いた程度である。在京の深尾は、折りからの東京市電賃上げ反対闘争で〝兇徒聚衆罪〟に問われ、三月中旬いらい入獄していた。それもこれも原子たちの困惑に追い打ちをかけた出来事だった。深尾は六月に出獄して愁眉(び)をひらいたが、八月十日未明、強風下の失火で第二号家屋が丸焼けになってしまった。損害
約四百円。手のほどこしようのない不意の災厄だった。この失火が農場の致命的打撃に思われた。収穫期の十月、農場の再起不能を見越して数名の退場者が続出している。残る者は原子兄妹三人と岩崎夫婦の五名、一時は同志的結合さえ全くくずれてしまったのである。原子は借金と食糧欠乏に窮し、上京して同志の救援を頼まないわけにいかなかった。この年は日照つづきで天侯に恵まれなかったがそれでも燕麦(エンバク)二十五俵、ササゲ十五俵、粟(アワ)五俵、玉菜二千個、エンドウ三俵、麦二十七俵、馬鈴薯(しょ)二百俵の収穫があり、農場財産は千二百円と算出された。どうにか一息つけたのである。
 
ついに処分の決定
 
 第三年目(明治四十年)-四月、原子基は宮川冬子と結婚、岡山からの同志・日笠与八夫婦と獣医経験者の久保田種太郎が入地し、農場員は九名となった。農場の再起・自立可能の線が見えてきたかに思われるが、前年度の痛手が大きすぎた。上京した原子は、十月二十九日、神田三崎町の社会新聞での農場発起人相談会で農場処分の決定に同意せざるを得なかった。原子は十一月十七日に帰道し、一週間後に同志の渡辺政太郎が農揚にやってきた。農場処理に協力するためだった。なお、この年の農場員の動きとして特に注目したいのは、彼らが数次にわたって農場内および近村で幻灯会を開き、その時の篤志の金を足尾銅山の鉱毒被害地・谷中村の救援資金として送っている事実である。この幻灯会の世話役をしたのが大石泰蔵だった。その救援金額は微々たるものでも、自分たちのことをあと回しにした貧者の一灯の美挙だった。また、土地を買いとられた近村の移住者や小作人の無料宿泊を許していたことも、平民農場ならではのことであり、平民社の互助の精神の実践だった。
 
失敗の意識は希薄
 
 以上のごとく、北海道の<新しき村>は、第三年目のピンチを脱することができずに解散したのである。明治四十年十二月某日、久保田種太郎を立ち会い人とし、原子・渡辺の両人は、成墾地2.5町歩を日笠与八に売却、未墾地九町歩は原子・岩崎に分配、日笠の土地代金を出資者・安井有恒への返済にあて、他の逸見斧吉・大滝由太郎の出資金は寄付とすると決定した。
 三年間の成墾地が全面積の四分の一未満にすぎなかったことは、人手不足というより以上に、いかに開拓の事業が困難であるかを推測せしめる。失火とそれに伴う借金、これが致命傷だったのである。演歌師の唖蝉坊が平民農場から引き上げてきた渡辺政太郎と青森であったのは、四十年の歳末だった。原子基は翌年三月中旬に退道しているから、農場は日笠・岩崎両人の私有地と化した。原子は、帰京途中、函館で十四歳の妹・八千代を病で奪われている。原子八千代と岩崎辰三は、平民農場の尊い犠牲者だった。原子は盛岡の岩手平民会の人々と同地に平民農場の再興を企てたが具体化しなかった。さらに明治末年、唖蝉坊の兄とともに渡道し、農民たろうとしてついに土着することができなかったにせよ、この事実から考えて、明治四十一年に退道した時の原子には平民農場が失敗したという意識は希薄であったと思われる。失火と資金難さえなければ平民農場は存続し得たのだ-原子基とともに、私もそう思う。
 
有島とのすれ違い
 
 有島武郎を中心とする社会主義研究会の一員だった逢坂信■(■は「五」の下に「心」)氏によれば、大石泰蔵がいたにもかかわらず研究会で平民農場のことが話題になったことは一度もなかったという。アメリカから帰朝した有島は、明治四十年八月、父に同伴して有島農場にきている。ちょうど平民農場の再起が危ぶまれていた時である。そのころ有島は父に農場放棄の意向をもらして一しゅうされているが、もし平民農場のことを知ったならば、その行く末について無関心ではおられなかっただろう。平民農場がもう一年持ちこたえていたなら、あるいは有島の帰朝がもう一年早かったなら、有島は大石泰蔵を媒介として平民農場の存在を知り得たはずである。そして、きめわて小規僕ながら、自己の抱懐する農場経営の理想的原型をそこに見い出したかも知れないのである。
(藤女子大助教授)
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 この記事からすると、平民農場に入植したことがある者は以下の14名。
深尾韶
原子基とその妹2人
岩崎安太郎とその妻子3人
鈴木志郎
豊田道之助
久保田種太郎
日笠与八
佐野安吉
古川啓一郎
 
 原子基の妹2人とはヒサ(姉)と八千代(妹)です。ヒサと八千代は4歳違いで、八千代は盲目でした。
 平民農場に居たはずの岩崎かよの名前は出ていませんが、岩崎かよの弟・岩崎辰三が岩崎安太郎の息子と書かれているため、岩崎かよは「その妻子3人」の中に含まれているのは間違いありません。ところが、かよ・辰三姉弟の両親は、岩崎清右衛門(父)とせき(母)で、かよらが平民農場に入植する以前に亡くなっているのです。かよらの親とされる岩崎安太郎とその妻とはどの様な人物なのでしょうか。
 「日本赤い靴の会」の資料(シナリオ)によると岩崎安太郎と佐野安吉は同一人物で、妻は佐野安吉が原篤胤の世話で娶った「きん」という女性だそうです。佐野安吉は殺人で北海道の監獄に収監されている時にキリスト教の教誨師だった原篤胤によって導かれ、キリスト教徒になって更生、出所後は入り婿の形で岩崎家に入り、かよと辰三を10年養ったともあります。ただ、根拠が示されていないので真偽の程は分かりません。上記記事では、岩崎安太郎は農業経験者となっています。岩崎安太郎と佐野安吉が同一人物なら、佐野安吉は農業経験者でなければなりません。佐野安吉はどこで農業経験を積んだのでしょうか。岩崎家の家業を手伝っていたということでしょうか。
 ただ、上記記事では岩崎安太郎と佐野安吉を別々に記述してありますし、在場者は合計14名となっています。岩崎安太郎と佐野安吉が同一人物だとすると入植した者の合計は13名でなければなりません。注釈も無しに岩崎安太郎と佐野安吉を別々に記述していること、合計人数が合わなくなることを考えると、岩崎安太郎と佐野安吉を同一人物と安易に判断する訳にはいきません。もしかしたら、岩崎安太郎はかよ・辰三姉弟の親類で、引き取ったのかもしれません。ただ、その場合でも戸籍に痕跡が残っていないようなので、正式な親子関係になった訳ではないでしょう。
 この佐野安吉という人物はきみの養父になっているのですが、よく分からない人物です。菊地寛氏の本では遊び人で、岩崎かよの母・せきと関係を持ちながらも、岩崎かよを妊娠させてきみを生ませた。つまり、きみの実父とされているようです。何を根拠にそう主張していたのか分かりませんが、「日本赤い靴の会」の佐野安吉像とは随分とかけ離れています。
 
 上記記事(下)の冒頭に「前年末に家族持ちは妻子を呼び寄せたので、一月現在の在場者は大沼の同志・鈴木志郎を加えて八名。」とあります。岡そのさんの投稿記事では、鈴木志郎は札幌でコックをした後、大沼に移住したとありました。どうやら、鈴木志郎は札幌→大沼→留寿都と移り住んだようです。岩崎かよと鈴木志郎は函館で出会って共に入植したとの説もありますが、これからすると平民農場で出会ったとするのが正しそうです。
 1906年1月の在場者は8名となっています。記述からするとこの8名は、原子基、原子ヒサ、原子八千代、岩崎安太郎、岩崎安太郎の妻、岩崎かよ、岩崎辰三、鈴木志郎です。佐野きみ(岩崎きみ)は居ません。岩崎かよが入植したのが前年の12月末ですから、初めから留寿都には連れて来ていなかったのでしょう。岩崎かよと娘・きみが別れたのは留寿都ではなく、それ以前のことだったことが分かりました。
 
 岡そのさんは投稿記事で、岡そのさんの出生地が真狩村字喜茂別となっていることから、鈴木志郎が小樽日報社を退職した後、帰農したのではないかと推測しています。
 平民農場は現在の留寿都村にあったのですが、当時は真狩村と呼ばれてました。岡そのさんの出生地と平民農場は同じ村内にあったのです。
 平民農場が解散した後、平民農場跡地は日笠・岩崎両人の私有地化したとありますので、岩崎安太郎夫妻はここで農業を続けていたのでしょう。鈴木志郎が失業したために、鈴木夫妻は岩崎安太郎を頼り、ここに戻ってきたということでしょうか。
 

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