六丈記2

備忘録のようなもの

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英国で散った花が函館近郊で違う実を結ぶ

 この花はある野菜の花ですが、その野菜は何でしょう。
 
 

 

 答え・・・「ジャガイモ」です。北海道は今、ジャガイモの開花時期なのです。
 
 ジャガイモは品種によって花の色が違います。白色系統と紫色系統があり、「紅丸」や「十勝こがね
」は白系で、「男爵」や「メークイン」は紫系です。写真の花は男爵いもの花でした。
 北海道産のジャガイモは全国生産量の8割程度を占めていて、ジャガイモ王国と言ってもいいでしょう。中でも男爵いもは代表的な品種で、明治時代に川田男爵が導入しました。川田男爵が導入したのは「アイリッシュ・コブラー」という品種でしたが、川田男爵にちなみ「男爵いも」と呼ばれるようになったのです。
 
 

 川田男爵こと川田龍吉(かわだ りょうきち)は安政3年(1856年)3月14日、川田小一郎の長男として、土佐の杓田村(ひしやくだむら・現高知市旭元町)に生まれました。川田家は郷士(基本的に農村に居住していた下級武士)の身分であり、藩士とはいえ半農半士の貧困生活だった様です。
 土佐郷士といえば、坂本龍馬や土佐勤王党の武市半平太(白札郷士)、「人斬り以蔵」こと岡田以蔵が有名ですが、岩崎弥太郎も郷士でした。ちなみに、岩崎家は地下浪人(郷士の株を売った者)でしたが、弥太郎が結婚前に郷士株を買い戻しています。
 
 平時ならば、郷士に出世の望みなど無かったのでしょうが、時代は幕末の動乱期。下級武士であっても才能のある若者には無限のチャンスが広がっていました。
 明治3年、岩崎弥太郎は土佐藩経営の海運業社・九十九商会を引き継ぎ、自分の個人企業にします。この時に幹部になったのが川田龍吉の父・川田小一郎でした。九十九商会は明治6年に社名を三菱商会に改め、政府の軍事輸送を一手に引き受けて躍進。三菱財閥へと発展していきます。この三菱の繁栄を支えたのが小一郎でした。
 明治初期、三菱商会は海運業が主要事業でしたので、父が三菱の幹部だった龍吉は造船技術を学ぶことになり、イギリスへ行くことに。明治10年、22歳のことでした。イギリスでは、龍吉はロブニッソ造船所で技術を修得し、グラスゴー大学で機械工学を学ぶかたわら、農村を訪れていたようです。一説にはここでジャガイモに出会ったと言われています。
 明治17年、龍吉は帰国すると三菱製鉄所に入社。日本郵船を経て、明治30年に横浜船渠(後の三菱重工業横浜造船所)の社長に就任しています。
 この間、父・川田小一郎は三菱を退き、第3代日本銀行総裁に就任していました。明治28年には政財界の発展に貢献した功により男爵に叙せられます。その喜びも束の間、爵位拝命の翌年、小一郎は日本銀行総裁のまま急死してしまいます。父の死により龍吉は男爵位を受け継ぎ、川田龍吉男爵となりました。41歳のことでした。
 
 明治36年、龍吉は横浜船渠の社長を辞任。企業経営から離れていましたが、日露戦争後の不況で経営危機に陥っていた函館船渠(後の函館どつく)の再建を財界の大物・渋沢栄一に託されます。龍吉は弟の川田豊吉と共に函館船渠の取締役(龍吉が専務取締役、豊吉が取締役)として、明治39年に函館に渡ってきました。社業のかたわら、龍吉は七飯村(現・七飯町)に9町歩(約9ヘクタール)あまりの農地を購入し、洋式農法を試みました。龍吉が試験農場(清香園)に七飯村を選んだのは、勤務地の函館に近いということが一番の理由でしょうが、明治維新前後にプロイセンの貿易商リヒャルト・ガルトネルが七飯村で開墾事業を行っていて(ガルトネル開墾条約事件)、西洋農業の遺産が残されていたということも理由だったのかもしれません。
 
 龍吉は明治41年から、アメリカイギリスから色々な西洋野菜の種を取り寄せ、試験栽培に着手。海外から取り寄せた種の中には数種類のジャガイモの種芋もあり、試作するとアメリカの「バーバンク種苗会社」より輸入した「アイリッシュ・コブラー」がこの地に最適であると確信します。以後、試作を重ね、普及を図りました。
 明治44年、龍吉は函館船渠の再建に目途をつけて辞任し、弟の豊吉が専務に昇進しました。造船事業から退いた龍吉は、北海道農業の近代化のために、当別(現・北斗市)に120町歩(約1200ヘクタール)の農場を建設し、アメリカから最新式の農機具を多数輸入して機械化農業を試みています。龍吉の努力もあり、男爵いもは北海道の奨励品種に指定(昭和3年)されたり、全道移出農産物品評会(昭和7年)で一位になったりします。昭和22年には、龍吉の偉業を讃えて清香園農場跡地(七飯町鳴川)に「男爵薯発祥の地」記念碑が建てられました。
 
 龍吉は92歳の時にトラピスト修道院で洗礼を受け、3年後(昭和26年)に当別の自宅で生涯を閉じました。龍吉が亡くなった後、金庫を開けると金髪と90通あまりのラブレターが大切に保管されていたそうです。龍吉はイギリス留学中にイギリス人女性で書店員のジェニー・イーディと出会い、恋愛の末、結婚の約束をして帰国。しかし、父・小一郎の大反対に遭い、ジェニーとの結婚は叶いませんでした。
 保管されていたラブレターはジェニーが龍吉に宛てた手紙で、龍吉が英国を離れるまでの物でした。龍吉は、生涯ジェニーのことを忘れることが出来なかったのでしょう。
 
 川田農場の跡地には、昭和58年に男爵資料館が開設され、農機具や生活用品などの資料が展示されています。
 
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じゃがいもの主要品種紹介(北海道)
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ns/nsk/potato/potato-hinnsyu.htm
vol.04 川田小一郎 (上)
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man04.html
ガルトネル開墾条約事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%8D%E3%83%AB%E9%96%8B%E5%A2%BE%E6%9D%A1%E7%B4%84%E4%BA%8B%E4%BB%B6
男爵資料館
http://www.danshakuimo.com/index.html
男爵薯発祥の地記念碑
http://www12.plala.or.jp/k-hirao/kankou/22_15.html
サムライに恋した英国娘[男爵いも、川田龍吉への恋文]
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%81%AB%E6%81%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E5%A8%98%E2%80%94%E7%94%B7%E7%88%B5%E3%81%84%E3%82%82%E3%80%81%E5%B7%9D%E7%94%B0%E9%BE%8D%E5%90%89%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%81%8B%E6%96%87-%E4%BC%8A%E4%B8%B9-%E6%94%BF%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4894344661
 

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コメント


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No title

男爵イモの話、知りませんでした。
何か胸が熱くなるような話ですね。

所で話はかわりますがアシアナ航空事故の話、ボルトさんに指摘していただいた件ですが矢張り私が間違っていました。
訂正をしましたので宜しくお願いします。
何とも汗顔の至りですが、これからも宜しくお願い致します。

短足おじさん | URL | 2013-07-10(Wed)21:42 [編集]


No title

To 短足おじさんさん
>男爵イモの話、知りませんでした。
>何か胸が熱くなるような話ですね。
>
>所で話はかわりますがアシアナ航空事故の話、ボルトさんに指摘していただいた件ですが矢張り私が間違っていました。
>訂正をしましたので宜しくお願いします。
>何とも汗顔の至りですが、これからも宜しくお願い致します。

態々、iZaの過疎地においでいただき恐縮です。(笑

アシアナ航空事故の件。
パイロットが激突する34秒前に「まばゆい光を浴びて前が見えなくなった」と証言しているそうです。
CA達も色々と証言していましたが、果たして本当の事を言っているのでしょうか。どうも信用できません。
真相解明のため、中国人の乗客などにも詳しく事情聴取していると良いのですが。

これからも宜しくお願い致します。

ボルト | URL | 2013-07-11(Thu)23:29 [編集]


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