六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴3

 「童謡・赤い靴にはモデルがいて、その少女は岩崎きみ(佐野きみ)だった」ということを広めたのは菊地寛氏でしたが、元々の切っ掛けは岡そのさんの投稿記事でした。どの様な内容だったのでしょう。当時の新聞を探しました。
 
 
昭和48年11月17日の北海道新聞夕刊に掲載された、岡そのさんの投稿記事。
************ 幻の姉「赤い靴」の女の子<岡その> ***********
 赤い靴
 はいていた女の児
 異人さんにつれられて
 行っちゃった
 横浜の
 波止場から舟にのって
 異人さんの御国に行っちゃった
 詩人野口雨情は私の長姉君子をこのように歌っている。
 彼女は私の父鈴木志郎の長女で明治の末期に、アメリカの宣教師に養女として貰われ、アメリカに渡っている。
 私の手許にある戸籍謄本によれば、父鈴木志郎は、明治13年1月23日鈴木金兵衛の二男として、青森県西津軽郡鯵ヶ沢町に生まれ、母かよは、明治17年1月13日、岩崎清右衛門長女として静岡県安倍郡不二見村に生まれている。婚姻届出は大正4年9月であるが、実際は明治34、5年頃であろう。私は四女であるが長女は養女に行き、三女は小学校時代に病死しているので、この謄本には記載されていないので、長姉の生年月日が判らないのが残念である。また、この謄本が昭和14年4月14日付で樺太豊原市長高橋弥太郎の交付になっているため現在では調査の方法がない。
 父は無口の方で、宗教の話以外は余り言わないので、若い時代を知ることもできなかったが、母から聞かされた断片的な話を総合すると、父は少年時代、母方の叔父で当時積丹の博徒種田幸次郎方に身をよせていたとのことで、毎晩テラ銭の紙幣にアイロンをかけたことや、博徒の生活は講談や浪花節で美化されているがとんでもないことで、この生活だけは入るな、とよく云われていたそうである。その後札幌に出て豊平館のコックになり、当時の北大の佐藤昌介先生や、外人などに接することになり、その影響でキリスト教信者になったらしい。その後函館の近くの大沼に移っているが、何をしていたか聞くことができなかった。母との結婚もその頃であろう。
 明治38年4月、当時の言論界に大きな役割をはたした社会主義者一統の平民新聞の発行所平民社の有志が虻田真狩村に11町歩4反の土地を入手し、共同経営の「新しき村」の理想をもって開拓事業をはじめた人々十余名の中に父の名を見出すことができる。このことに就いては、藤女子大学の山田昭夫教授が、数年に亘り超人的な努力で資料を集められ、昭和43年5月24日からの本紙に「平民農場の興亡・・・北海道の新しき村」という題で2回に亘り発表されているのでここに重複をさける。しかしこの農場も明治40年に解散のやむなきに至っている。この間のいきさつも同教授の記事のなかに詳しく述べられているで一読して頂ければと思う。
 父母はこの解散の前に札幌にでて北門新報に入社している。同僚に、石川啄木野口雨情がおり、父母は、雨情夫妻と同市山鼻に比較的広い借家を借りたので同居していたらしい。母の話によれば野口さんは温厚な人であること、奥さんは郷里の裕福な家庭のお嬢さんで贅沢な衣類を沢山持ってきていたが、新聞社の給料未払のためにほとんど質に入れてしまったこと、生まれて間もない男の児がいて、それが私の姉信と同じ年であるため非常に親しくしていたこと、従ってアメリカに渡った長姉君子のことも話したらしく、それを雨情が童謡「赤い靴」に書いたと思われる。
 明治40年秋には、啄木、雨情らと共に、小樽に創立された小樽日報(出資者山形勇三郎、社長白石義朗)に入社しているが、この新聞も創刊当時から紛糾が絶えず父母の話によれば、啄木の野心から、主筆岩泉江東を排斥して好人物の雨情を主筆に据え、自分が実権を握ろうとしたのであるが、この間の詳しいことは啄木の日誌「小樽のかたみ」に詳細にでているので省略するが、父のことについてはこの文中と、歌集「悲しき玩具」の中に氏名もでているので興味のある方は読んで頂きたい。
 このようないきさつから、同年末から翌41年にかけて3名とも退社、父母は再び帰農したらしい。私の生年については大正2年1月15日、虻田郡真狩村字喜茂別になっているので、荒廃した平民農場の跡か、或いはその近在でないかと思う。私の物心のついてからの思い出は、父は委託の郵便配達、母が一人で畑を作っていた(姉は札幌の修道院に入っていた)農具もなく羊蹄山麓のやせた土地で収穫もほとんどなく、文字通り食うや食わずの生活であった。第一次欧州大戦の軍需景気で、室蘭の製鉄所に作業員として父が採用され、私達家族は輪西に移ったが、終戦と共に大量の人員整理があり、父は職を失い一家はまたドン底生活に陥った。
 大正12年、父はブライトン神父の紹介で樺太豊原のカトリック教会に伝道士として赴任、漸く生活が安定した。
 私は昭和11年樺太で結婚、主人が小樽の商業学校に英語教師として昭和15年着任すると、退職した父母も小樽に渡った。小樽は父の新聞記者時代の土地であるが、街もすっかり変わって当時の面影を偲ぶことができなかった。幼くしてアメリカに渡った長姉君子のことについては、その後風の便りで数年後死亡したとのことであるだけで、永眠の場所、墓地等については知ることができなかった。
 昭和21年、中国から帰国した主人が、復帰するまで札幌のG・H・Qの仕事をしていたので多くの米軍人にあらゆる手をつくして調べて貰ったが、ついに消息を知ることができなかった。
 私の生まれる10年も前に、日本を去った姉の顔を偲ぶよしもないが、瞼をとじると、赤い靴をはいた4歳の女の子が、背の高い眼の青い異人さんに手をひかれて嬉々として横浜の港から船に乗って行く姿を幻の様に思いうかべることができる。
(主婦=上川管内中富良野町在住)
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 「ドキュメント・赤い靴はいてた女の子」(「開局記念ドキュメントドラマ『赤い靴はいてた女の子』」が正式名称なのかもしれませんが以下この様に表記します)では、岡そのさんは「父違いの姉」「きみ」と言っていましたが、投稿記事では「鈴木志郎の長女」「君子」となっています。元々、岡そのさんは姉・きみのことを志郎の実子で君子という名前だと思っていたようです。それが変わったのは、番組プロデューサーの菊地寛氏が事実に沿って台詞を作ったためでしょう。「ドキュメント・赤い靴はいてた女の子」では岡そのさんの発言が幾つかありますが、そのまま受け取らない方がよさそうです。
 「ドキュメント・赤い靴はいてた女の子」では、岡そのさんが「ちょうど父も雨情さんも苦境時代で、大変生活にも困っていたということで、ある大きな一軒の屋敷を借りまして、二人で出し合って同じ家に、その当時八円の家だったそうですが、半分ずつ出し合って、住んだということを聞いております。」と発言していますが、投稿記事では「父母は、雨情夫妻と同市山鼻に比較的広い借家を借りたので同居していたらしい。」となっています。「らしい」と断定を避けたのは、伝聞だからなのか、聞いた昔話からそう印象を受けただけだからなのでしょうか。
 野口雨情の「札幌時代の石川啄木」には、石川啄木の北門新聞(校正係)での月給が9円、啄木が借りた荷馬車曳きの納屋の賃料が月80銭となっています。北鳴新報社での野口雨情の月給は15円。この頃の物価を調べてみると、白米(10Kg)1円19銭 、小学校の先生の初任給10~13円、そば2銭です。困窮生活なのに家賃に8円も出したというのは疑問です。それに、鈴木志郎が北鳴新報社に入社したのは5月。野口雨情が入社したのは7月頃で、9月末まで大通りの下宿屋に一人暮らしでした。10月初めに雨情の妻子が札幌にやって来るのですが、10月中頃に雨情一家は小樽に引っ越しています。ですから、家賃を折半して屋敷を借りたというのはおかしいのです。妻子が札幌にやって来たために雨情一家が鈴木志郎宅に一時、間借りしたかもしれないということではないでしょうか。番組での岡そのさんの発言はもっともらしく見せかけるための台詞だったのかもしれません。
 
 投稿記事の最後の方に「風の便りで数年後死亡した」「私の生まれる10年も前に、日本を去った姉の顔を偲ぶよしもないが、瞼をとじると、赤い靴をはいた4歳の女の子が、」とあります。後に、岡そのさんが菊地寛氏に「数え年4歳の時、函館で子供のいないアメリカ人宣教師の養女に貰われて、アメリカに渡った。」と語ったそうです(この証言を基に番組が作られたのですから本当にそう語ったのでしょう)から、「4歳」というのは「数え年で4歳」のことのようです。
 岡そのさんは1913年生まれですから、10年前は1903年です。この時3歳ですから、逆算したらきみの誕生年は1900年(実際は1902年7月)です。しかし、「10年も前」というのは「10年位」という意味合いでしょうから、8年とするときみは1902年生まれになり、1905年に渡米したことになります。数年後を6年とすると1911年になり、きみの没年と重なります。曖昧な表現ですが、符合するといえば符号します。
  
 また、「多くの米軍人にあらゆる手をつくして調べて貰ったが、ついに消息を知ることができなかった。」ともあります。実際に米軍人がどの様に調べたか知る由もありませんが、アメリカの入国記録くらいは調べたのではないでしょうか。複数の米軍人が色々と調べたというのですから、出国記録、乗船記録、函館や横浜の教会の記録なども調べられたのかもしれません。それでも、きみの記録は見つけることが出来なかったのでしょう。だからといって、渡米していなかったことにはなりませんが、渡米していなかったことが推測される記述です。
 
 冒頭で「詩人野口雨情は私の長姉君子をこのように歌っている。」と断定する一方で、中頃では「母の話によれば野口さんは温厚な人であること、奥さんは郷里の裕福な家庭のお嬢さんで贅沢な衣類を沢山持ってきていたが、新聞社の給料未払のためにほとんど質に入れてしまったこと、生まれて間もない男の児がいて、それが私の姉信と同じ年であるため非常に親しくしていたこと、従ってアメリカに渡った長姉君子のことも話したらしく、それを雨情が童謡『赤い靴』に書いたと思われる。」と断定を避けています。
 中頃の文章の書き方からすると、
●雨情は温厚な人。
●雨情の妻の実家は裕福だが、生活に困窮し、衣類を質に入れしてしのいでいた。
●雨情の男児と志郎の娘・信が同じ年齢だったため、野口家と非常に親しくしていた。
の3つは岡そのさんが母・かよから直接聞いた話ですが、
●きみのことを野口家の誰かに話した。
●きみの身上話を童謡「赤い靴」にした。
というのは、岡そのさんの推定です。
 また、野口家と両親の間に親交があったことを並べて「従ってアメリカに渡った長姉君子のことも話したらしく」と書いていることから、岡そのさんが「かよがきみのことを野口家に伝えていた」とは聞いていないことが分かります。もし、伝えていたと聞いていたなら、「従って・・・話したらしく」とはならないでしょう。
 この部分の文章を素直に読むと、
●母・かよから姉のきみがアメリカの宣教師の養女になって渡米したと聞かされていた。
●雨情と両親が親しくしていた。
●少女が外国人に連れられて異国に行ったという童謡「赤い靴」の内容が、姉・きみの境遇と同じ。
ということから、岡そのさん自身が雨情は姉・きみのことを童謡にしたのに違いないと思い、そう理解するには雨情が姉・きみを童謡にするにはきみのことを知っていなければならないため、それは札幌でのことだろうと推測したと読み取れます。
 かよが、「赤い靴」の女の子がきみのことだと言っていたために、岡そのさんが「赤い靴」の女の子=きみと思ったとしても、「書いたと思われる」と書いているのですから、岡そのさんは母・かよがそう推測していたと理解していたのでしょう。
 「赤い靴」ときみを結びつけたのが、かよなのか、岡そのさんなのか。どちらにしても状況証拠から推測したということでしょう。
 
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札幌時代の石川啄木
http://www.aozora.gr.jp/cards/000286/card4081.html
昔の1円は今の何円?
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J050.htm
 

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