六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴2

 定説の元となったドキュメンタリー番組のストーリーはどの様な内容だったのでしょうか。「日本赤い靴の会」というサイトにシナリオを再現した物(PDF)が公開されていますので、それを読むとどんなストーリーだったのかよく分かるのですが、長いのと時系列が入り組んでいるので、構成し直して要点を箇条書きにし、岡そのの発言を書き出します。
<<要点>>
●岩崎かよは静岡県不二見村に生まれ、6歳の時に父と死別。その後、母は再婚したが、うまく行かず、遊び人の佐野安吉を家に入れる。
●少女だったかよは山梨県の宿屋へ女中奉公に出され、妊娠して帰って来て(?)、不二見村できみを父を明かせない私生児として出産。かよは未婚の母になる。
●明治36(1903)年冬、かよ19歳と娘きみ1歳が北海道に渡った。渡った後、どの様な生活をしていたのかは不明。
●きみは数え年で4歳の時、函館在住の外国人宣教師夫妻の養女になる。
●これと前後して、かよは鈴木志郎と共に留寿都村の平民農場に入植。
●平民農場で働いていた時に、志郎とかよとの間に女の子が生まれる。
●宣教師に帰国命令が出され、きみは宣教師と共に出国。
●明治40年、平民農場解散
●志郎とかよは札幌に移住する。
●志郎は札幌で北鳴新報社の記者として働き、野口雨情と同僚になる。
●志郎一家と雨情一家は一軒家で同居することになり、かよは雨情の妻に身の上話をし、雨情は妻からきみの話を聞く。
●雨情は十数年後、かよの思い出を童謡(赤い靴)にまとめて発表した。
●宣教師は誰だったのか。明治39年に函館いた外国人宣教師夫妻ということを手掛かりに調べると、ヒュエット宣教師とバーティルス宣教師が候補に挙がる。
●アメリカで調査すると、バーティルス夫人の墓はあったが、バーティルス師の墓は無かった。夫妻に何があったのか分からず、きみに繋がる手掛かりも途切れた。
●一方、ヒュエット師の親族は見つかった。ヒュエット夫妻に子供はいなかったが、甥や姪が健在で、ヒュエット師が3、4歳の少女を養女にしたという証言を得る。岡そのにヒュエットとという名に聞き覚えが無いか確認すると、母からシュミットさんとかいう名前を聞いたことがあるとの返答。きみを養女にした宣教師はヒュエット師だったと確信する。
●ヒュエット夫妻の墓を探し当てるが、きみの墓は無い。ここで、きみへの手掛かりは途切れた。
●清水市役所で戸籍を調べると、意外な事実が判明する。きみは佐野安吉の養子になっており、佐野きみ、明治44年9月19日午後9時死亡となっていた。
●死亡届は麻布区で出されており、青山墓地の台帳にも佐野きみの名があり、戸籍簿と同じ死亡年月日で、死因結核性腹膜炎、満9歳となっていた。きみは鳥居坂教会の共同墓地に眠っていたのだった。
●きみは一度は渡米したが、ヒュエット夫妻が最後に日本を離れる時(ヒュエット師は2度来日している)、きみが病気で船旅に耐えられないと知って、鳥居坂教会の孤児院に預けたに違いない。
<<岡そのの発言部分>>
●「私には父違いの姉がおりまして、生きていると75歳になります。小さいとき養女として貰われていきまして、そのことを野口雨情さんが童謡に、赤い靴の女の子という題で、姉きみのことを書いて下さいました」
●「姉が貰われた方っていのは、函館に住んでいらっしゃった教会の、プロテスタントの教会の牧師さんで、子供のいない方で、ぜひその子供を養女に欲しいと望まれて、そして養女に上げたということを、父母から聞いております」
●「ちょうど父も雨情さんも苦境時代で、大変生活にも困っていたということで、ある大きな一軒の屋敷を借りまして、二人で出し合って同じ家に、その当時八円の家だったそうですが、半分ずつ出し合って、住んだということを聞いております。そこでうちの母と、雨情さんの奥さんと女同士で語ったこと、いろいろな話をして、それを雨情さんがまた奥さんから聞いたと言うことで、そのとき雨情さんも、鈴木君の細君は相当苦労したねと、必ずそのきみさんはアメリカで幸せに暮らしているでしょう、ということを一言言って慰めてくれたということを聞いております。」
●(やっぱり親だし、その、養女に出したってことを、後悔していたんでしょうね)
「まあ、してたでしょうね、と思いますよ。それは若いときと違って、年とともに、それは深く感じてくるでしょうと思いますね。さびしかったんでしょう。誰かに話したかったんでしょう、きっとね」
(なるほどねえ、きみちゃん、アメリカに渡ったかしら)
「わたしはねえ、父母のことを聞きますとね、やはり渡ってると思いますね」
(きみちゃん、幸せになれたかなあ」
「そうですね、私はそう思いたいですね。幸せになったと思いたい」
●「母は亡くなる前に、2、3日前でしたけど、私が枕元に付いておりましたら、ぽっかりと覚めまして、いま国に行ってきたんだよって。山を登ったり、谷を渡ったり、とっても怖かったの、と言って頭が汗でぐっしょりでした。そして、国の人に会って来たよ。きみちゃんにも会ってきたよって、ということを言って、わたしをびっくりさせています。それから2日後でしたか、夕方なくなりました」
●「きみちゃん、復活の日までここに安らかに眠っていてください。必ずまた会えるときが来ます。それまで楽しみにしています」
 
 実は「日本赤い靴の会」という会は「赤い靴の少女のモデルはきみ」という説を否定しています。設立趣意書には2つの目的が書かれています。
*************設立趣意書*************
 テレビ番組の捏造によって汚された、童謡『赤い靴』を元の清らかな姿に戻すために、会は作られました。
 『赤い靴』の女の子だとされる「きみちゃん」は実在しましたが、『赤い靴』とは無関係の少女でした。事実ではないお話によって、この20年間に4体の「きみちゃん」像が建てられました。(静岡県日本平・東京麻布十番・北海道留寿都村・小樽)
 童謡『赤い靴』は近代日本の精神が投影された、文化遺産です。テレビ番組は、この文化遺産を落書きで汚しました。『赤い靴』に塗りつけられた赤ペンキは、ときが経って、落としにくくなっていますが、やはりきれいに洗ってやらなくてはなりません。そのために、当面全国に4体の「きみちゃん像」に付された「これは赤い靴の女の子」という説明プレートを覆う活動を計画しました。これが会の目的です。
 いま北海道などで、さらにいくつかの像が計画されています。像は募金によって建てられます。新たに建てようとしている人々は、募金を集めています。なにも知らない純真な子どものお小遣いや、その親御さんたちの無垢な心とお金が吸い上げられようとしています。
 これは大きな問題です。けれども、見逃してはならない、もっと大きな問題は、偽の歴史が子どもたちに伝えられていくことです。これ以上像が作られるのを防ぐことが、会のもう一つ目的です。
************************************
 
 サイトを見てもらえば分かりますが、「日本赤い靴の会」は史実を細かく掘り起こし、具体的かつ論理的に反論しています。非常に説得力があり、「ドキュメント・赤い靴はいてた女の子」は故意に事実を歪曲し、捏造したと認めざる得ません。
 
 菊地寛氏の経歴を調べてみると、1964年に北海道大学法学部を卒業し、北海道新聞に入社。北海道新聞では社会部記者などを経験。1973年頃(HTBが開局5年目に転職しているので、1972/11/3~1973/11/2の間)に北海道テレビ放送(HTB)に入社し、番組制作にかかわる。HTBではプロデューサーを経て、常務で退社。2002年、北星学園大学文学部心理・応用コミュニケーション学科教授に就任し、2011年3月に退官。
 岡そのさんの投稿が掲載されたのが、1973年11月17日ですから、その時にはHTBの社員だったようです。菊地氏は番組制作に携わっていましたから、日頃から良い題材を探していたのでしょう。そんな時にメジャーな歌の意外な裏話というそのさんの話です。良い題材にめぐり合ったと思ったに違いありません。古巣の北海道新聞には人脈があるでしょうから好都合ということもあったのかもしれません。
 当時は、地方局が今ほど番組制作に力を入れていませんでしたから、菊地氏は4年程かけて、コツコツと調査を続けていたようです。それが、HTBの開局10周年番組になることに決まり、1年足らずで番組に仕上げなければならなくなりました。個人による調査から組織による調査になり、取材はアメリカまでにも広げることに。
 そこまで力を入れて取材したにも拘わらず、岩崎きみが「赤い靴」のモデルだったという証拠はおろか、外国人の養女になったという証拠も、海外に渡ったという証拠も見つけられませんでした。分かったのは孤児院で短い生涯を終えていたという悲しい事実。
 本来なら、岡そのさんが「赤い靴」のモデルは姉のきみだと思っていることを裏付けることは出来ませんでしたが、明治という時代に生きた市井の人々の姿が浮き上がってきましたとでもすべきです。しかし、それでは有名な童謡の知られざるエピソードにはなりません。開局記念番組としては失敗でしょう。それで、強引にきみと「赤い靴」を結びつけた上、短い生涯だったという悲しい意外性で終えることで、ドラマ性を持たせる演出をしたのではないでしょうか。その試みは成功し、話題作になったばかりか、今でも銅像が建てられたりしています。
 菊地氏は初めからドキュメンタリー性よりドラマ性を優先するつもりだったのでしょうか。長い年月を掛けて取材をしていたことから、初めは真面目にドキュメンタリー番組を作ろうとしていたのかもしれません。けれど、開局記念番組になったために、事実を重視するより、人間ドラマを作るという方向性になったのではないでしょうか。そのために様々な歪曲や演出を駆使して、人を引きつけるストーリーに仕上げたのでしょう。
 
 HTBのサイトを見ると、番組名は「開局記念ドキュメントドラマ『赤い靴はいてた女の子』」となっていました。これが正式名称なのでしょう。ドキュメンタリーと思っていましたが、ドキュメンタリードラマだったようです。
 ドキュメンタリードラマとは、一般的に「事実に沿って実写や再現映像を用いながら真実を分かりやすく表現する手法」というくらいの意味でしょう。ドラマとは違い、少なくとも主要部分がフィクションではない物を指すものだと思います。
 ところが、「赤い靴はいてた女の子」はきみについて、「1902年に私生児として生まれた」「佐野安吉の養子になっていた」「麻布区の孤児院で9歳の時に亡くなった」くらいしか判明しなかったのに上記のようなストーリーを作り出しました。はたして、「ドキュメント」という言葉を使うに値するのでしょうか。
 
<・・・続く>
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日本赤い靴の会
http://sky.geocities.jp/akaikutsunokai/index.html
学外広報誌 HOKUSEI@COM | 北星学園大学
http://www.hokusei.ac.jp/site_information/pdf/v9.pdf
HTB沿革
http://www.htb.co.jp/htb/information/history.html

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