六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴1

 以前のエントリーで「後方羊蹄山(羊蹄山)」を取り上げました。そこでも書きましたが、「後方」は「しりべ」と読み、たぶん現地での呼び名に漢字を当てたものです。ですから、「後方」は「後の方」という意味ではないのですが、後方羊蹄山の名が広まると、後方があるのに前方が無いのはおかしいという理由で「前方羊蹄」と呼ばれた山があります。羊蹄山の南東方向にある尻別岳(しりべつだけ、アイヌ語でピンネシリ)のことです。
 尻別岳は1町2村にまたがる山で、麓には留寿都村もあります。留寿都村には遊園地、ゴルフ場、スキー場があるルスツリゾートがあり、道民にはお馴染みのリゾート地です。ちなみに、留寿都の由来はアイヌ語の「ル・スツ」で、「道が山の麓にある」という意味になります。
 

 この留寿都村には場違いと思われる「赤い靴公園」という名の公園があり、女の子の像(母思像)が建てられています。童謡「赤い靴」の歌詞にある女の子をイメージして建てられたものだそうです。
 
 
***** 童謡「赤い靴」 野口雨情作詞・本居長世作曲 1922年(大正11年) *****
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
 
横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
 
今では 青い目に なっちゃって
異人さんのお国に いるんだろ
 
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに逢うたび 考える
**********************************************************

 

 歌詞から分かるように横浜港を舞台にした歌です。それが何故、北海道の片田舎の村が銅像を建てたりしているのでしょうか。調べてみると、北海道のテレビマンが関わっていたことが分かりました。
 1973年、北海道新聞夕刊に「赤い靴に書かれた女の子は、会ったこともない私の姉です」との投書が掲載されました。投書したのは「赤い靴の少女」の異父妹と名乗る「岡その」さんでした。
 この投書に注目した北海道テレビ放送の菊地寛氏が調査を開始。5年の歳月を掛けて「ドキュメント・赤い靴はいてた女の子」(1978年 北海道テレビ製作)というドキュメンタリー番組にまとめます。番組では、岩崎かよの娘・きみ(佐野きみ)がその赤い靴の少女のモデルであったと結論づけていました。
 菊地氏はこれを元にしてノンフィクション小説「赤い靴はいてた女の子」(1979年 現代評論社)を出版します。この本やドキュメンタリー番組の内容が世間に受け入れられ、「赤い靴の少女のモデルはきみ」ということが定着し、定説となったようです。
 
 この定説と留寿都村の関わりは、岩崎かよが留寿都村の平民農場で働いていた時期に、きみを養女に出したということです。それで、留寿都村が「赤い靴」のゆかりの地とされ、銅像が建てられることになったようです。
 留寿都村の他に、この定説に基づいて建てられた像が全国に5体あります(横浜の山下公園に「赤い靴はいてた女の子の像」がありますが、きみをモデルとしていませんので除外)。
●静岡県日本平「母子像」 (きみの生誕地)
●東京都港区麻布十番「きみちゃん像」 (きみの死没地)
●北海道留寿都村「母思像」 (きみの母・かよの入植地)
●北海道小樽市「赤い靴 親子の像」 (きみの親の死没地)
●北海道函館市「赤い靴の少女像」 (きみとかよの離別の地)
●青森県鯵ヶ沢町「赤い靴記念像」 (きみの義父・鈴木志郎の出身地)
 
 像が建てられたそれぞれの場所の説明文を読むと食い違いが見られます。
<日本平観光組合>
きみちゃんは赤ちゃんの時、いろいろな事情で母親に連れられて北海道へ渡ったのですが、母親に再婚の話がもちあがり、三才の時にアメリカ人宣教師のチャールズ・ヒュエット夫妻のもとへもらわれて行きました。
<函館市公式観光情報>
1903(明治36)年、きみちゃんは、お母さんのかよさんと一緒に静岡県から函館へと移り住みました。その後、母親は後志管内留寿都村の農場に入植しましたが、病弱だったきみちゃんはアメリカ人宣教師に預けられ、函館が母子の別れの地になったといわれています。
<おたる赤い靴の会>
母「岩崎かよ」の長女として誕生します。しかし貧困や他の事情により、未婚の母「かよ」は3才の娘「きみ」を連れて函館に渡り、そこで鈴木志郎と出会い結婚しました。
やがて夫婦は新天地を求めて開拓地真狩村(今の留寿都町)の平民社農場に入植します。その際に病弱な「きみ」を連れてゆけず、泣く泣く函館にいた外国人宣教師C.W.ヒュエット師夫妻に養女として預けるのです。
<留寿都村碑文>
物語は明治38年、幼い娘を抱いた未婚の母が木枯の吹く函館にたどり着いたことに始まる。母は静岡県有渡郡不二見村(現清水市)出身の岩崎かよ、娘はきみ。
当時台頭しつゝあった社会主義運動の一つ「平民農場」が原子基を指導者として留寿都村八の原に開かれ、運動に情熱を傾けた青森県出身の鈴木志郎がこの農場で岩崎かよと巡り会い、結婚する。厳しい開拓地へ幼な児を連れて行けなかったかよは、この子の養父安吉と相談の上、きみを函館の米人宣教師C・ヒュエット夫妻に預けた。
<麻布十番未知案内>
きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。
 
 相違する部分を比較してみます。
●岩崎かよときみが函館に渡った時期
函館:明治36年
留寿都:明治38年
●岩崎かよと鈴木志郎がであった場所
小樽:函館市
留寿都:平民農場
麻布:平民農場に入植する前にいた場所
●きみを養女に出した理由
日本平:岩崎かよの再婚
函館:きみが病弱だったため
小樽:きみが病弱だったため
留寿都:開拓生活が厳しいため
麻布:厳しい開拓生活にきみが耐えられなかったため?
●きみを養女に出した時期
日本平:岩崎かよの再婚前
小樽:岩崎かよの再婚後
留寿都:岩崎かよの再婚前
麻布:岩崎かよの再婚後?
 
 定説といっても細部になると色々と違いがあるようです。
 
<・・・続く>
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赤い靴はいてた女の子 菊地 寛 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%9F%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AD%90-1979%E5%B9%B4-%E8%8F%8A%E5%9C%B0-%E5%AF%9B/dp/B000J8EUGI/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1371493993&sr=8-1&keywords=%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%9F%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AD%90
赤い靴のふるさと
http://www.nihondairakankou.com/special/akaikutsu.html
赤い靴の女の子 きみちゃん
http://jin3.jp/index.htm
留寿都村の記念碑
http://www.vill.rusutsu.lg.jp/hotnews/detail/00000240.html
留寿都町名所旧跡
http://asobihorokeruyama.hp2.jp/rusuttu.htm
おたる赤い靴の会
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/akaikutu7772007/view/200705
赤い靴の少女像
http://www.hakobura.jp/db/db-view/2013/04/post-228.html
赤い靴記念像建立実行委員会
http://www.town.ajigasawa.lg.jp/akaikutsu/

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