六丈記2

備忘録のようなもの

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後方羊蹄

 
 

 

 

 

 この山の名前は何でしょう?
 答えは「羊蹄山(ようていざん)」。見ての通り富士山とよく似ています。だから、「蝦夷富士(えぞふじ)」と呼ばれることもあります。
 羊蹄山は北海道の後志(しりべし)地方にある標高1898mの活火山(約6000年前以降は活動していない)で、日本百名山の一つです。
 


 

 アイヌ民族はこの山を「マチネシリ」又は「マッカリヌプリ」と呼んでいました。マチネシリは、「マチネ」が女、「シリ」が山ですから「女山」という意味です。「マッカリヌプリ」は、「マク(後ろ)」+「カリ(回る)」+「ヌプリ(山)」となりますが、麓に真狩川(まっかりがわ)が流れていることから、真狩川の「マッカリ」と山の「ヌプリ」を組み合わせたものではないかと思います。ちなみに、真狩川の由来はアイヌ語の「マッカリベッ」で、「ベッ」が川を意味しますから、マッカリベッは「奥で曲がる川」という意味になります。
 明治になり、「後方羊蹄山(しりべしやま)」が正式な表記なりました。しかし、明治20年代になると、「後方羊蹄山」と「マッカリヌプリ」を巡って名称論争が発生します。更に、 明治38年に山麓にある倶知安村(現・倶知安町)に蝦夷富士登山会が発足すると、「蝦夷富士」の名称が一気に広まり、3つの名称が並存する状況になっていました。だけども、後方羊蹄山を「しりべしやま」と読むのは難しいことなどから、結局そのまま音で読んで「こうほうようていざん」、略して「ようていざん」という名称が一般化しました。
 昭和22年の測量時に、一般住民にわかりやすい名称にとの理由で、後方羊蹄山を羊蹄山に地名変更して欲しいという要望が倶知安町から出されます。昭和28年の測量時に調書を提出し、標準地名表は羊蹄山に変更されました。昭和44年には国土地理院の地形図が「羊蹄山(蝦夷富士)」と書き換えられています。日本百名山は未だに「後方羊蹄山」としていますが、現在では「羊蹄山」が定着しています。
 
 ついでながら、「後方羊蹄」は「しりべし」と読みますが、「後方」を「しりべ」と読み、「羊蹄」を「し」と読みます。「後」は「しり」とも読みますし、「方」も「へ」と読めるので分かりますが、「羊蹄」は漢字2字なのに1音。 無茶苦茶です。
 羊蹄とはタデ科の植物の「ギシギシ」の漢名で、和名は「し」です。ですから、「羊蹄」を「し」と読んだようです。
 
◆ギシギシ
学名:Rumex japonicus Houtt
英名:curly dock
日本全土に分布する多年草で、道ばたによく生えている雑草。
 
 

 マッカリヌプリや蝦夷富士は名称理由が分かり易いですが、後方羊蹄山の名称はどこから出てきたのでしょう。実は、後方羊蹄山の名称の由来は日本書紀に端を発しているのです。
 日本書紀には、斉明天皇4年(658年)から3度にわたり、越国守阿倍比羅夫(こしのくにのかみ あべのひらふ)が北方に遠征したと記されています。
 斉明天皇4年、比羅夫は180隻の軍船で齶田(あぎた、現・秋田)、渟代(ぬしろ、現・能代)へ遠征し、蝦夷(えみし)を服属させ、蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領(こおりのみやっこ)に任命しています。更に、有馬浜(ありまはま 青森県の深浦あるいは鯵ヶ沢あたりと推定されている)に進み、渡島蝦夷(わたりしまのえみし)を招集して饗応しました。
 斉明天皇5年、比羅夫は飽田、渟代、津軽、胆振?(いぶりさえ)の蝦夷を集めて饗応し、肉入籠(ししりこ)から後方羊蹄まで攻め入り、政所(郡庁)を設置して帰国。
 斉明天皇6年、比羅夫は陸奥の蝦夷を船に乗せ、大河のそばで1000人余りの渡島蝦夷と合流し、粛慎(みしはせ)と戦って幣賄弁島(へろべのしま)で打ち破ります。そして、捕虜にした粛慎を飛鳥に連れ帰りました。
 
 日本書紀のこの記述は古くから研究されていて、遠征が事実なのか、実際にどこまで軍勢が侵攻したか、多くの学説があるようです。
  遠征の真偽については、近年、奈良県明日香村の酒船石(さかふねいし)遺跡からこれを裏付ける王宮の関連施設が発見されたため、信憑性が増しているようです。比羅夫が粛鎮の捕虜を連れ帰った後、「王宮の池のそばに霊山を造り、捕虜を恐れさせたのちもてなした」とあるのですが、発見された大規模な石垣や石敷きの広場、導水施設(亀形水槽)が前記のもの可能性があるようです。
 次に、「渡島」は北海道のことだと思いますが、戦いの痕跡が北海道内で発見されておらず、大和朝廷の勢力範囲を考慮して、東北とする説もあります。ただ、斉明天皇4年の記述に生羆(いきひぐま)2匹と羆皮(ひぐまかわ)70枚を献上したとありますので、やはり北海道ではないでしょうか。
 この記述には肉入籠、後方羊蹄、幣賄弁島の地名が登場しますが、どこのことか分かっていません。
 ちなみに、粛慎は中国の周の時代の文書に登場する満州東部の民族を指しますが、日本書紀に登場する粛慎とは同一ではないようです。
 
 閑話休題。羊蹄山麓には尻別川が流れていますが、江戸時代には尻別川一帯をアイヌ語でシリベツ(山の川)と呼んでいたようです。このシリベツを日本書紀にある後方羊蹄と考えたのは新井白石です。白石は「蝦夷志」で羊蹄山麓のシリベツを「後方羊蹄」としました。「後方羊蹄」の読みを「しりべし」としたのも白石です。
 幕末に、松浦武四郎(伊勢出身、1818年生まれ)が蝦夷地探検の一環としてこの地を訪れ、羊蹄山を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けました。武四郎は阿倍比羅夫の後裔と信じていたため、富士山を連想させる山があるこの地域が、阿倍比羅夫が政庁を設置した後方羊蹄であって欲しいという心情が働いていたのかもしれません。
 明治2年、戊辰戦争の最後の戦闘である箱館戦争が終結すると、明治政府は蝦夷地に11ヶ国86郡を置くのですが、国名・郡名は開拓判官(従五位)に任命されていた武四郎の原案がほぼ採用されました。この時、余市町や倶知安町、岩内町などを含む地域(現在の後志総合振興局管内とは範囲が異なる)は後志国(しりべしのくに)とされたのです。武四郎は「後方羊蹄」を読み易い漢字に変えたのでした。ちなみに、「北海道」という名も武四郎が提案した「北加伊道」が元になっています。
 後志国は1882年の廃使置県(函館県・札幌県・根室県の設置)にともない函館県と札幌県に分割されます。その後、廃県置庁(1886年)により北海道庁が誕生し、1897年の支庁制移行により19支庁(札幌、函館、亀田、松前、檜山、寿都、岩内、小樽、空知、上川、増毛、宗谷、網走、室蘭、浦河、釧路、河西、根室、紗那)が設置されるのですが、旧国名は反映されませんでした。ところが、1910年の支庁統合により、寿都支庁・小樽支庁・岩内支庁が統合され後志支庁が誕生したことによって「後志(しりべし)」の名が復活するのです。しかも、支庁所在地は他の町と比べ繁栄していなかった羊蹄山麓の倶知安村に置かれました。
 この支庁統合が実施される以前に、比羅夫伝説に基づいて倶知安の初代郵便局長の河合篤叙が「後志地方の中心は倶知安であり、昔から政治はここで行われた」と主張して、3支庁を廃止して統合した支庁を新設することを説いたパンフレットを発行したり、当時札幌で発行していた「北海時事」にも自説を載せていました。また、倶知安初の新聞「新京報」を発行していた山田羊麓(本名実治)も日露戦争と道行政の再検討を結びつけ、「岩内、寿都支庁を廃止し、その中心地である倶知安町に支庁を設けよ」と新京報で主張していました。これらのことが支庁統合にどこまで影響したか定かではありませんが、何らかの形で影響を及ぼしたのかもしれません。
 2010年に後志支庁は廃止(支庁制から振興局に移行)されるのですが、後志総合振興局として今なお「しりべし」の名が続いています。
 
 蛇足ながら、比羅夫伝説は比羅夫神社や後方羊蹄神社を生み出し、遺跡の発掘調査の原動力にもなりました。また、JR函館本線のニセコ駅と倶知安駅の間に比羅夫駅があるのですが、この辺りの地名が「比羅夫」なのは阿倍比羅夫にちなんでいます。比羅夫の乗馬の蹄跡が残っていたと話もあるようです。
 

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