六丈記2

備忘録のようなもの

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最終目標は天皇の処刑(5)

最終目標は天皇の処刑(4)の続き。
 
チベットの反省点
 大人達はインドに亡命してからも、旧来の社会体制を守ろうとした。しかし、来日して現代社会の在り方を知ると、残念ながら中国の言うことにも一理あると思った。それが他国への侵略を正当化するものではないが、周囲が刻々と変化しているの対し、チベットは変わることができなかった。そこには間違いなく問題があったと思う。
 チベット宗教界のリーダー達の一部は国内の民主化、近代化によって自分たちの既得権益が侵されることを嫌った。1959年に中央政府がインドに亡命することを余儀なくされてから、中央政府や支配層の多くが「自分達が中国の侵略に抵抗した」と主張しているが、本当だろうか。私には自己保身を優先していたように見える。チベット中国に対する抵抗は無計画であり、個々が我慢しきれずに蜂起したことだと私は思う。もし、中央政府がしっかりしていて、チベット国民の意識が一枚岩であれば、中国の侵略を阻止できた筈(中国共産党は日本軍と国民党との連戦で疲弊していて、地の利はチベット側にあった)だが、出来なかった。結局、指導者達は、最終的に自分達の身に危機が降りかかってきて初めて、抵抗せざるを得なくなったのだ。つまり、59年になって、ダライ・ラマ法王が中国に拉致されそうになって、それだけは阻止しなければいけないということで立ち上がった。しかし、それ以前にも東
チベットなどでは武力衝突が起きていたのに対し、有効な手を打てなかった。最終段階で慌てて国連に訴えようとしたり、インドに助けを求めたり、ネパールに相互援助条約を守れと言ったりしますが、その時点では遅すぎたのだ。
 
◆プンツォク・ワンゲル
 元来遊牧民であったチベット人は20世紀になってからも国家という概念が希薄だった。そんな中、1930年代に世界無銭旅行を経験し、ヨーロッパ事情にも精通していたゲンドゥン・チョペル師(チベットを代表する芸術家であり大学者)は前近代的な政治システムに対し、危機感を持ち、帰国後、近代改革の必要性を訴えた。既存の政治体制に不満を持つ下級貴族の子弟達、国外の情勢を知る商人の多くが彼に共鳴し、改革を訴える社会運動が密かに起こる。
 ところが、宗教界の反発を受け、チベット政府はチョペル師を危険人物として投獄。しかし、彼の影響を受けた人達の中からプンツォク・ワンゲルなどのチベット改革派が誕生する。チベット改革派は最初、日本と協力していたが、日本が敗戦すると、改革を嫌った政府や寺院によってチベットを追放された。彼らは中国に向かい、劉少奇や周恩来に面会、共産革命に協力することになった。
 元々、共産主義運動は民族自決という題目を前面に打ち出していたので、中国共産党も、最初は民族自決権を認めていた。1922年の第2回中国共産党大会では「自由連邦制によって中国、モンゴルチベット、回族を統一して中華連邦共和国を建設する」と謳っていたし、1931年に定められた「中華ソビエト共和国憲法」では、各民族は自分達の意志によって参加するのも、分離独立するも構わないとなっていた。この方針を信じたプンツォク・ワンゲル達は、共産主義に最後の希望を託したのかもしれない。近代化から取り残されたチベットを改革したいという熱意が中国に利用されてしまったのである。
 プンツォク・ワンゲル達は民族主義者であり、結果として中国の先棒を担ぐ形になったが、国を裏切ろうと思って中国共産党に手を貸した訳ではないと思う。その表れとして、今も存命であるプンツォク・ワンゲルは、数年前にも胡錦濤に対して17箇条協定を守って欲しいとの嘆願書を提出している。
 もし、チベット政府が彼らを弾圧して追い出すようなことがなければ、彼らが中国共産党に頼るようなことはなかったかもしれない。追放がなければ、今日とは異なる状況があり得たかもしれないと思うと残念だ。チベットの歴史では、このような事実はまだタブー視される傾向にあるが、近代化を求める声をチベット自身が弾圧し、自分達の首を絞めたという面もあるのだ。その反省の意味もあり、法王はインドヘの亡命後、実権を握ると、チョペル師の名誉を回復した。
 
◆ダライ・ラマ法王の理想主義と信念
 法王の暴力を否定する姿勢が、結果として現在のチベットの状況を招いたのではないか、という見方もある。もちろん、当時10代の法王が実権を持っていたかは別として、東チベットで民衆が蜂起した時点で法王が徹底抗戦を呼びかけてくれれば、多少の犠牲者は出ても中国を食い止めて、120万人の人々が亡くなることはなかったかもしれないと考えた時期もあった。
 ただ、法王が語る平和主義は、裏表のない真実の言葉であり、理想的な解決策を提唱しているだけなのだ。その姿勢は「目的が正しいのはもちろん、手段も正しくなければならない」と語ったガンジーとまったく同じだ。法王は政治家である前に宗教者であり、「最後には真実が勝つ」という強い信念を持っているのだ。
 一方で、チベット人やチベット支援者までが法王のマネをすることで、問題の本質を有耶無耶にしている。現在、チベット問題は人権問題のような取り上げられ方になっていて、更に環境問題へと移りつつある。中国の不正を非難することだけを考えれば、人権問題でも環境問題でもいいだろう。しかし、チベット問題の本質は人権や環境を守る以前に、一つの国が他の国によって暴力的に侵略され、そこからあるべき自分達の国を取り戻すという民族自決権の問題なのだ。国際法に照らし合わせても、チベットは「占領下の国家」であり中国の一部ではない。ところが、問題の本質に触れようとすると、「ペマ・ギャルポは右翼だ」などと言われてしまう。それは中国政府や日本国内も含めた親中派平和主義者達が、法王の真の平和主義を逆手に取って、政治的な問題として語れないような空気を作り出しているからだと思う。
 法王は中国政府がチベットを支配することには正統性がないと明言する一方で、「私は防衛と外交を除く高度な政治的自決があれば、中国の一部でもいいと思っている」と語っている。何が何でも国家としての独立を求めている訳ではない。
 チベット人やウイグル人が、お互いのためになると自発的に思うのであれば、中華人民共和国と連邦国家を作っても、おかしなことではない。しかし、それはあくまでも対等と平等原則に基づくべきであり、現在のように中国が一方的に自分達の価値観を押しつけるという形であってはならない。法王の言う「高度の自由」を中国は「偽装独立」と決めつけるが、法王は誠心誠意、今のチベット問題を平和裡に解決しようとしているだけなのだ。
 
 チベットと私の個人史を述べたこの章で強調したいのは次の2点。
 一つ目は、チベットが易々と中国に侵略を許してしまったのは、2度の大戦という激動の時代に「一国平和主義」に陥っていたということ。国家の統治手法は宗教一点に集約されており、国防という概念は真剣に議論されていなかった。最初の侵略地となった東チベットは、日本の戦国時代の野武士のような集団が群雄割拠するだけで、全体の統一も図られず、中央政府の軍隊は装備の面でも兵員数においても、広人な国土を防衛するには不十分だった。段階的に人民解放軍の占領を許し、不平等極まりない「17箇条協定」を飲まざるを得ず、最終的に全土を蹂躙される結果となったのだ。中国は当初の進駐目的を「外国勢力の脅威からチベットを守る」としていた。しかし、当時、チベット国内には数人の外国人しか存在せず、それのどこが脅威なのだろう。いずれにしろ、一国平和主義の弊害は大きかったと言わざるを得ない。
 二つ目は、当時の知識層であった僧達が極端にキリスト教、西洋文明を忌避し、排外思想に走って、国連加盟というチャンスをみすみす逃してしまったこと。
 こうした事実は、現在の日本の「憲法九条」信仰と国防軽視という風潮と重なって見える。
 ちなみに、1997年の香港返還に際しサッチャー英首相と鄧小平が交わした共同声明文は「17箇条協定」そっくりで、「チベット」の文字を「香港」に入れ替えれば、そのまま通用するような代物だった。中国が盛んに喧伝する「一国二制度」なるものは、チベット占領で実験済みだったということだ。
 
・・・要約終わり。
 
 「最終目標は天皇の処刑」には巻末に資料として「日本解放第二期工作要綱」が掲載されているので、ついでにそれを次回エントリーに載せる予定。
 

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