六丈記2

備忘録のようなもの

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最終目標は天皇の処刑(4)

最終目標は天皇の処刑(3)の続き。
 
チベット再訪
 ギャロウ・トゥンドゥプ閣下(ダライ・ラマ法王の実兄で、後のチベット亡命政府主席大臣)と鄧小平氏が会談。鄧氏は「独立以外なら何でも話し合う用意がある」と言って、大きく妥協することを示唆した。それで、チベット亡命政府は話し合いと視察のために代表団を派遣することになり、私は第二次代表団の一員として1980年5月からの3ヶ月間、チベットと北京を訪問した。チベット視察で、胡耀邦総書記はその惨状を目の当たりにし、「チベットは1959年より貧しくなっている」と、落涙して共産党の失政を謝罪した月のことだった。
 北京では闊達な議論や意見交換が出来、非常に有意義に過ごした後、チベット本来の領土全てを視察した。出迎えた地方幹部は収穫高を自慢するのだが、実際に国民と話してみると食料が不足していた。チベット史上初めての大規模な飢饉が発生している地域もあった。また、驚いたことに、子供達には「九・二三」「キ・キャ(犬の糞という意味)」など、誕生日や侮蔑の意味を持った名前がつけられていた。チベット名は「反革命」だとして、中国当局が禁止していたのだ。
 バルカムやリタンでは、踏み絵を踏ませるように、お経を刻んだ石の上をチベットの人々に歩かせていた。ラサでは腕や頭を切られた仏像が無造作に積まれていた。しかし、人々の信仰は消えていなかった。ジョカン寺に向かう我々の周囲には4万人の大群衆が集まり、我々が読経を始めると、波が広がるように読経の声が広がった。教典を持つことを禁止されていた民衆は、暗記して守り伝えようとしていたのだ。
 また、故郷にも行ったのだが、緑溢れた光景はどこにも無く、大量の森林伐採によるものか、埃だらけで赤茶けた風景に変わっていた。ガラスの城も無かった。出会った故郷の人々の様子が変だったので話をよく聞くと、下の母が死んだことになっていた。下の母はゲリラ時代の活躍で伝説的な人物になっていたらしく、そこで中国は母の従姉妹を下の母だと称して、公開処刑して晒し首にしたらしい。
 北京に戻ると非公式ながら、中国当局から「我々は連邦制を研究している。新憲法を作るので案を出してほしい」と言われた。私も祖国を何とかしなければいけないと思い、連邦制の素案まで作ったのだが、1982年の憲法改正の時には何の連絡も無く、新憲法に連邦制などという言葉は全く無かった。中越戦争の失敗で、鄧小平の権力が一時低下したという面もあるが、彼らは経済力がついて自信がつくと話がどんどん変わってくるのだ。1990年になると「大チベットなんてとんでもない」と言い出し、2008年になると、「鄧小平同志がそんなことを約束した記録はどこにもない」と言う始末だ。中国人入植者の80%を引き上げるなど、胡耀邦が約束した政策も、彼が失脚すると撤回されてしまった。結局、中国が「微笑外交」を採った本出の理由は、文化大革命という国内混乱から回復するまでの時間稼ぎだったということだろう。
 
◆一国平和主義
 チベットは7世紀のソンツェン・ガンポ大王がチベット高原を統一して強大な帝国(唐朝からは『吐蕃』と呼ばれた)を築いた。吐蕃王朝は42代続いたが、王位継承争いで分裂。
 その後、チベットは地方豪族や仏教宗派の中で、その時々で強かった勢力が権力を握ってきたが、1642年にダライ・ラマ5世によって中央集権的な政府(ガンデンポタン)が成立。その時代からチベットは一国平和主義的な鎖国政策を始める。その頃はイギリスインドに進出し始めた時で、イエズス会も度々宣教師を送り込んできていた。
 西洋の植民地支配とキリスト教の布教は、いわば車の両輪。宣教師達は植民地化を正当化すると同時に、工作員でもあった。祖国への情報提供や土地の領主を懐柔するなど、植民地化の下地作りの役割を果たした。チベットでは異教徒の進出を嫌い、ダライ・ラマ7世の時代に入境者を完全に排除する方針になり、1820年頃まではほとんど外国人が入境することはなかった。
 鎖国政策は、仏画や仏像など宗教美術の発展、高度な仏教文化の成熟に大きく貢献。偉大な学僧が数生まれ、文化遺産として価値の高い寺院も多く建立された。また、天文学や医学などの学問をペルシャを始めとする周辺の国々から盛んに取り入れたりもした。
 帝国主義時代を迎えるまでは、こうした形の繁栄が許されていたが、チベットが外を見ない間に世界は変わりつつあった。日本で明治維新が起きたように、19世紀後半になると中央集権的な国民国家建設が時代の流れになっていた。平和が続くと内向きになるものだ。チベットは国土の大半が4000メートル以上の高地にあり、自然の要塞となって侵略されることが少なかった。国際社会の荒波に揉まれることがなかったことが、チベット社会に「平和ボケ」を生んだとも言える。チベットでは本格的な侵略がなかった分、帝国主義の怖さを実感できず、国内で権力争いを繰り返していたのだ。
 こうした状況が、ダライ・ラマ13世の治世にイギリスや清朝の侵略を受け、法王が亡命を繰り返すという事態に繋がった。ダライ・ラマ13世本人は、周辺状況の変化を鋭敏に読み取り、国民国家の建設、軍備増強、政治制度改革、多極外交など近代化に取り組むが、周囲の意識は低く、旧体制を一代で変革するのは容易なことではなかった。
 
◆シムラ条約
 チベットの鎖国政策は、インド支配を固めたいイギリスにとっても、またチベットを自分達の勢力圏と考える清朝にとっても、相互不干渉の緩衝地帯の役割を果たしていた。20世紀に入ると、南下政策を採るロシア、アジアで急速に力をつけた日本も、チベットに強く関係してきた。チベットヘの影響力を強めようとするイギリスと清を牽制するために、ダライ・ラマ13世も積極的に両国に接近を図った。このような動きを嫌ったイギリスは、ロシアとの協定の中でチベットの宗主権が清にあると言い出した。チベットをあえて哀退して脅威にはならなくなった清に属させることで、今度はロシアとの緩衝地帯としたのだ。
 しかし、1911年に辛亥革命によって清朝が倒れると、パワーバランスが崩れる。建国したばかりの中華民国がチベットにまで手が回らないことを見越し、イギリスは中央チベットにおける権益確保にでてきた。蔵・英・中の三カ国で会議が行われ、1914年にシムラ条約締結。この条約で一番の問題は、チベットを蚊帳の外にし、イギリス中華民国に対する妥協案として「内チベット」「外チベット」という概念を持ちだしたことだ。内チベットにだけ中華民国の宗主権を認め、外チベットはイギリスの勢力下に置く、いわば「チベット分割案」だった。
 これに対し、チベット代表団は本国と連絡を取ることもなく、わずか3日間で譲歩。いずれにしろ不平等条約を押しつけられる身のチベットにとっては、チベット全土の主権を主張する中華民国案よりはマシということだったのかもしれない。内容を不満として中国は最終的に批准せず、条約はイギリスチベットだけで調印。この条約は、他にもマクマホンラインで国土が削られるなど、チベットにとっては全くの不平等条約だが、唯一価値があるのは、この条約によって主権が確認されてことだ。
 しかし、この「内チベット」「外チベット」という概念は現在でも禍根を残している。この区分は現在のチベット自治区とそれ以外のチベット国土に相当し、中国は国際世論の動向により、最悪の場合はチベット自治区だけにダライ・ラマ法王が言うところの「高度な自治」を認め、それ以外は既成事実としてチベットから切り離すという意図があると思う。この案は国際社会で受け入れられる可能性がある。チベットに自立した政府が出来れば、インドは中国と直接国境を接せずに済み、軍事費削減というメリットがある。西欧諸国にとっても、自治区部分だけでも中国から離れることで、多少なりとも中国の力が削がれるならそれに越したことはない。また、アジアに火種を残しておくという目的にもかなっている。
 
国連加盟
 大国の思惑に翻弄されながらも、チベットが自立していくためには、近代国家になることが不可欠だというダライ・ラマ13世の考えは揺るがなかった。近代的軍隊を組織して、チベット全土を一元支配しなければならないと確信し、政府の人材登用も中央チベットだけではなく、広く人材を求めた。清朝が滅びるとモンゴルと同盟を結んだりネパールに同盟を持ちかけたりと、国際的な地位の確立を目指した。日本との仏教徒的な協力関係もその一環だ。
 ところが、1933年に13世が亡くなると、近代化の動きは停滞。例えば、13世の死後、今度はネパールが中心となって「ヒマラヤ王国連邦」の設立を提唱するが、政府は「チベットは大国であり、周辺の弱小国と結んでも何の利益もない」と、提案を蹴った。因果応報なのか、チベットが中国の侵略を受けた際に、それらの国々に助けを求めたが、彼らは支援することは出来なかった。
 近代化への抵抗は貴族、中でも高僧達によるものが大きかったと思う。例えば、20世紀になって風雲急を告げるようになってもなお、僧侶の間には平和志向があって、近代的軍隊の創設に抵抗があった。更に、僧侶達は国連加盟に反対するという大きなミスを犯した。僧侶が反対したことは記録として残されていないのだが、私は10代の頃から当時の情勢を知る関係者に話を聞く機会があり、彼らは具体的に話をしてくれたので間違いないと思う。これはチベットの指導者層にとって、表に出したくないタブーなのだ。
 中国に侵略された後も、チベット政府は独立を維持するための方策を模索していた。法王が亡命する以前の50年代後半、チベット政府はインドに「チベットハウス」という出先機関を持っていて、そこにいたシャガパ(後に外務大臣を務める)が国際社会との窓口役として奔走していた。その時に国連加盟のチャンスがあったのだ。国連加盟には2ヶ国の推薦が必要で、北アイルランドとマライ連邦(マレーシアの前身)の協力をシャガパが取り付けた。加盟合意書に必要事項を記入して、後は政府のサインだけだったのだが、最終段階で待ったをかけたのが三大寺院の僧達だった。国連とはキリスト教国の集団であって、そこに加盟することはキリスト教的価値観に縛られると危倶したのだ。
 1600年代から鎖国政策を続けていたチベットには、中世社会がそのまま残っていた。それはつまり、宗教が政治に強い影響力を持つ神権政治だった。そのため、政府が決めた方針でも、セラ、ガンデン、デプンという三大寺院の承認がないと実施できなかったのだ。
 加盟国が増えた現在は別にして、創設当初の国連の背景には、キリスト教思想があったのは確かだ。その頃は現在のような宗教間の対話も無く、共存共栄の考え方も一般的ではなかった。大航海時代以降の西洋人の目的の一環には、アジア各国の宗教を変えることも含まれ、特に、政教一致のチベット仏教に関しては、市民革命を経て政教分離が確立した西欧社会は、強く警戒心を持っていた。そうした誤解が解けたのは、ダライ・ラマ14世やカルマパ16世が国外に出て対話するようになった近年のことである。
 こうした西欧の思惑に危機感を覚えたことも理解できなくはないが、僧侶達は長らく安寧の時代に暮らして、視野が狭くなり過ぎていた。国難を排除してこそ、初めて仏教が繁栄の時代を迎えられることを忘れて、身の回りの権益だけを守ることに囚われていた。それに加えて、寺院には多数の中国工作員が送り込まれていたから、工作活動によって仏教界がそのように誘導されたこともあったと思う。
 
・・・続く。
 

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