六丈記2

備忘録のようなもの

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最終目標は天皇の処刑(2)

最終目標は天皇の処刑(1) の続き。
 
◆脱出
 我が家の運命を一変する事件が起きたのは、1956年秋のある日の午後のことだった。父と上の母は中国政府の「招待」という名目で、成都においてオリエンテーションという名の思想教育を受けていたので不在(待遇は良かったが、事実上の人質状態)。我が家は下の母と数人のロンポ(直訳すれば大臣だが、家老のような立場の人)が留守を預かっていた。そこへ、人民解放軍の若い将校が通訳と部下を従えてやって来てきた。下の母は神聖な祈祷中で、中国人将校は無礼にも部屋に立ち入り、司令部への同行を求めたが、母は無視してお経を唱え続けていたため、しびれを切らした将校がピストルに手を掛けると、家臣が将校めがけて斧を振り上げたのだった。その気配を感じ、母が一喝すると二人とも引き下がった。それまでは用件があれば、中国の司令官の方が出向いて来ていたため、母が「突然立場を逆にするなど、中国軍に対するチベット人の心証が悪化するだけだ」と言うと、将校は不機嫌そうに帰った。
 後日談によると、駐屯する中国軍に水を届けていた(故郷には水道が無いため、川の水を生活用水に使っていた)若い娘の一人が数人の兵士から乱暴を受けたため、娘達が水を届けることを拒否するようになり、将校が文句を言いに来たのだった。中国軍には若い兵士が多く、このようなトラブルはあちこちで頻発していたようだ。
 この事件によって、村人の怒りに火が付き、銃撃戦が始まった。藩主の家族を守るために、我が家にも武装した村人が続々と集結。夜遅くなっても銃撃戦は終わらず、人民解放軍の反撃に備え、その夜の内に私達は家を脱出した。
 この様に、東チベットの抵抗は計画的というよりも圧政に我慢しきれず、偶発的かつ無計画に始まったものだと思う。中国に対する組織的な抵抗運動はゴンボ・タシが中心となって1958年に中央チベットで「チュシ・ガントゥク」という統一ゲリラ組織を立ち上げた時から始まるのである。このチュシ・ガントゥクは東チベットの人間を中心に組織されていたが、後に全チベットの組織に発展する。チュシ・ガントゥクのゲリラ活動はダライ・ラマ法王が亡命した後もCIAの支援を受けながら、ネパールのムスタンを根拠地として続けられた。しかし、この抵抗運動は米中接近で終焉を迎えることになる。
 
◆逃亡生活
 私達子供が山に隠れている間、下の母はゲリラ指導者や寺院の高僧と連絡を取り合い、中国軍駐屯地などへ攻撃を続けていた。武装した下の母は勇ましく見え、敵に捕まる危機に陥れば、私達と一緒に爆死する覚悟だったそうだ。
 数ヶ月後、下の母を説得させるために中国軍が連れて来た父と上の母も合流。本格的なゲリラ活動に入った。しばらくはニャロン周辺でゲリラ活動をしていたが、勝算が薄いために、中央政府に援助を求めるべくラサを目指すことになった。ただ、中央チベットに向かうと、ゲリラが余計なことをするから中国を怒らせているという雰囲気もあり、同胞といえども皆が協力的とは言えなかった。保護を求めて訪れた地方藩主に中国軍へ通報されることもあった。寺院にも中国軍のスパイが入り込み、味方と敵が分からない状態だったので、私達は集団巡礼者に扮装してラサに向かった。途中から別のゲリラ隊が合流したので最終的に200人以上になっていた。
 ラサヘの旅は想像以上に過酷だった。食糧不足、飲料不足に加え、「月病(吐き気がして痙攣を起こす。一種の高山病と思われる。)」にも悩まされた。
 ポタラ宮が見える峠の手前で、全員が馬から降り(ダライ・ラマ法王を尊ぶチベット人の作法)、ラサの町に入った。ラサは「黄金の都」だと思っていたのだが、町全体が埃っぽく、緑も無く、馬やロバは痩せこけていた。それでも、ポタラ宮の偉容には圧倒され、ダライ・ラマ法王への崇敬の念で「キキソソハギャロー(神に勝利あれ)」と叫んで、五体投地をして拝んだ。
 ラサでは嫌な経験もした。貴族の女性達が私達を見て、小馬鹿にするように笑うのだ。王族の血を継ぐ貴族達は藩主であろうと「田舎大名」くらいにしか思っていなかった。だからこそ、中央チベットの人々は、東チベットが人民解放箪に弾圧されて酷い目に遭っていても、何の痛痒も感じていなかった。それが結果として侵略に対する反応の遅れに繋がったのだと思う。
 私達はラサに長く留まることも出来なかった。一つ目の理由は幼い弟が中国人を見るたびに「キゲンギャミ(中国人の犬野郎)」と叫ぶので、目立ったこと。二つ目の理由は父がラサに潜入していることが中国当局に伝わり、ラジオでも放送されたからだ。
 私達は再び巡礼者となり、母の実家でもあるミンドリン寺に避難するなど、居場所を転々とする生活を送った。1959年のチベット歴での正月が過ぎた頃、ラサに残った偵察隊から「ラサは戦場となり、チベット民衆と中国人が戦っている。ダライ・ラマ法王は脱出し、インドヘ向かった。」と報告が届いた。
 チベットに正統性のある政府は無くり、私達もインドヘ向かう決意をした。父は法王を追う中国軍と戦っているチュシ・ガントゥクに合流するために途中で別れ、目立たないようにと女子供と数人の家来の20人程でインド国境を目指すことにした。法王が数日前に通った同じ道を進み、雪のヒマラヤ山脈を越え、インドまであと一山と迫った時、突然、中国軍機が現れ、しばらく上空を旋回していたが、やがて諦めたように去って行った。その夜の内に国境を越え、インドの地で朝を迎えることが出来た。2年以上に渡る逃避行は終わったものの、国を失い、亡命生活が始まった。
 後から聞いた話では、中国軍機が現れた時、法王も山を越えようとしていて、中国軍機は法王を捜索していたとのこと。また、毛沢東は「逃がしてやれ。どうせ路頭に迷うだけだ。もしそこでダライを殺せば、世界の非難を浴びるだけでなく、永遠にチベット民衆にその心が残ってしまう。」とパイロットに指示していたとも。
 
◆ラサ蜂起
 話しを法王が脱出する少し前に戻す。1959年になると、チベット国内のゲリラ活動は収拾がつかない状況になり、中国側はゲリラ活動封じ込めのために、チベットの最高指導者であり象徴でもあるダライ・ラマ法王の身柄を押さえようと画策する。法王を観劇に招待するという名目で誘い出し、ラサの人民解放軍駐屯地に拉致しようとした。護衡は不要との申し出に、周囲は中国側の意図に気付き、それを知ったラサの民衆は3月10日に立ち上がった。当時の市の人口の半分に相当する3万人が法王の夏の離宮であるノルブリンカ宮殿を取り囲み、法王が招待に応じないように叫びながら「チベット独立」「中国人は帰れ」とシュプレヒコールを続けた。法王は観劇を中止して、民衆に解散するよう説得したが、法王の身を案じて立ち去ろうとはしなかった。市内ではデモ蜂起などもあり、チベット軍及び民衆と中国軍との不穏な睨み合いが数日間続いた。人民解放軍は武力排除を示唆しながら、戦力増強を始め、19日、「血塗られた金曜日」と呼ばれる大虐殺が始まった。人民解放軍はノルブリンカ宮殿に向けて一斉砲撃。数十発の砲弾が撃ち込まれ、宮殿は周囲にいた民衆もろとも完全に吹き飛ばされた。同時に、セラ、ガンデン、デプンの三人寺院も砲撃され、壊滅的なダメージを受けた。この3日間の弾圧で1万~1万5千人のチベット人が殺されたという。
 中国側の攻撃は法王の命をも省みない過酷なものだったが、政府の判断で法王を3月10日に極秘裏に脱出させていた。4月20日、8万人の民衆と共に法王がインドに到着。この9日後にチベット亡命政府を樹立し、17箇条協定の破棄を宣言した。
 この破棄宣言について、国際司法委員会(ICJ)は法学的見地から、「中国が17箇条協定に違反したことで、この協定の拘束力は失効し、チベットは条約下で失われた独立国としての主権を回復したと見なすことができる。」と結論づけている。
 偽の国璽を使って結ばれた17箇条協定は、もともと国際法に照らせば明らかに非合法な条約だが、破棄宣言よって、チベットは法的に再独立したと言えると同時に、中国の完全な軍事占領下に置かれたということでもある。
 今日、アメリカをはじめ、数カ国の議会において、チベットは「occupationed county」あるいは「 nation under occupation」、つまり「占領下の国」であると定義づけられている。
 
・・・続く。
 

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