六丈記2

備忘録のようなもの

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長崎清国水兵事件の日

 126年前の今日(1886年[明治19年]8月13日)は「長崎事件(長崎清国水兵事件)」の発端となった事件が起こった日です。事件は清国水兵による乱暴、略奪に発展し、多くの死傷者が出ました。
 
 事件の前年、清はドイツから「東洋一の堅艦」と呼ばれた世界最大級の定遠、鎮遠(姉妹戦艦)を入手し、翌年には親善訪問を名目に朝鮮、ロシア、日本を歴訪して、示威行動を始めました。
 日本にやって来た清国海軍の艦隊(定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻)は修理を名目として、8月1日に長崎に寄港。入港してから2週間弱経過した8月13日、多数の清国水兵が上陸を開始し、長崎の街に繰り出します。数名の清国水兵が丸山遊廓の順番待ちをしていると、後から来た別の水兵が先に案内されます。これに、待たされていた清国水兵達は激怒し、手当たり次第に家財を壊したり、乱暴を始め、大暴れ。夜8時過ぎ、通報受けた丸山町巡査派出所の巡査2名が現場に駆けつけ、2人を逮捕しましたが他は逃亡。しばらくすると、遊郭で巡査に暴行して逃亡した水兵が十数名の仲間を伴って派出所に現れ、罵倒を始めます。巡査がその水兵を捕らえようとしたところ、その水兵は日本刀で巡査の頭を斬りつけました。巡査は手と頭を負傷しながらも、応援の巡査と共に取り押さえ、濱町警察署に連行後、清国領事館に引き渡しています。清国水兵達は逮捕された仲間を助け出そうとして警察署の門前に押しかけたようですが、その日は何事もなく引き上げたようです。
 ちなみに、水兵は非武装で外出するようにと丁汝昌提督から命令されていましたが、水兵は市内の道具屋で日本刀を購入していたようです。
 翌14日、日下義雄長崎県知事が清国長崎領事・蔡軒と会談し、集団で上陸しないこと、上陸する場合には監督として士官を付き添わすことを協定します。
 これで終わったかに見えましたが、15日に再燃します。午後5時頃、清国水兵達は協定を守らず、およそ300人が上陸しました。不穏の挙動に警戒して、常置の巡査1名の外に梅香崎警察署から2名の巡査が出張しています。
 1人の水兵が会話をしている巡査の間を割って通過し、再びその間を通過しようとしたので、両巡査は互いに密着して防いだところ、水兵はその後ろを通過しました。暫くして、1名の巡査がパトロールに出ると、前出の水兵が走って来て故意に巡査に衝突。巡査は耐えましたが、別の水兵がやって来て巡査の顔に向かって脅す態度に出ました。それでも巡査は耐え忍び諭そうとしましたが、水兵は巡査の警棒を奪おうとします。これに他の水兵が加わり、巡査は袋叩きにされました。巡査2名が救助に駆けつけると20数名の水兵に襲われ、巡査1名が殺され1名が重症を負いました。
 1人の巡査が辛くもその場を逃れ、梅香崎警察署に応援を求めました。当日はコレラ予防の為に巡査が各地に出払っていて、人員を集めるのが困難でしたが、それでも警察署から帯剣の監督巡査1名と8名程の警棒巡査が現場に急行。現場に到着した時には既に水兵は200名程に膨れ上がっていて、長崎市内の各地で略奪や暴行の真っ最中でした。駆けつけた巡査らに対して水兵は刀と棍棒で襲い掛かり、帯剣巡査も剣で防戦しましたが、多勢に無勢で重傷(翌日に入院先で死亡)を負います。やがて、追加の巡査が駆けつけて総勢30名程となりましたが、それでも人数的不利は変わらず、巡査らは不利な状況の中、水兵を捕らえ、住民や清国商人を救護し、鎮圧に努めました。この騒動に憤慨した住民の中には投石や刀で応戦する者もいて、住民も加わった大乱闘に。最後は水兵達が清国領事館内に逃げ込んだのでした。
 この暴動で、日本側は巡査が2名死亡し、26名の重軽傷者を出しました。住民も十数名負傷しています。清国側は士官1名が即死し、15名あまりの水兵が負傷しています。ただし、清国側は死亡8名、負傷42名と主張。
 
 8月20日、外交を握っていた李鴻章は天津領事の波多野章五郎を呼びつけ、尋問します。
 李鴻章は詳細を知らないとしながらも、買い物などに上陸した少数の水兵が長崎の巡査の乱暴狼藉によって殺傷されたと決めつけます。更に、水兵達は命令により武器を携帯しておらず、無防備の水兵を巡査が刀で殺傷したから40人あまりの死傷者が出たのだと非難。長崎の兵船帯兵官からは開戦の許可を求められているが、止めているとしながらも、長崎の艦隊の大砲は何時でも使用可能で、自由に開戦することが出来ると恫喝します。また、天津にいる日本人を苦しめるために人民を扇動するのは容易に出来るとも。
 この2日後、李鴻章は態度を一変しました。李鴻章は巡査と水兵の喧嘩だから日本が公平に処するのであれば、清国政府が出るまでも無いと言い出します。おそらく、李鴻章はその後に事件の詳細を知ったのでしょう。それでも、謝罪することはせずに、喧嘩として押し通そうとします。
 
 事件は一地方の出来事と見なして、日下長崎県知事とウィリアム・ラング水師副提督が談判して処理する予定でしたが、8月25日なって清国政府は在上海英国法律家英人ドラモンドを派遣することにしたため、日本政府も外務省雇いの米国人法律顧問のデニソンを派遣しします。
 9月6日、第1回委員会が長崎県庁で開かれましたが、決着しませんでした。日本側は治安を維持する警官の行為を喧嘩とするのは理に合わず、万国公法に準拠して事故の原因を調査し、公正を期すべきであると繰り返し主張。証拠を挙げて追求すると清国側はのらりくらりと逃げ、理論的に追い詰められても全権を委任されていないなどと答えていました。清国側からは見舞金を得ることなく妥協することはできないとか、軍艦を派遣すると脅迫めいた発言も。この様な案配でしたから、会議は40回も開かれましたが妥協は得られませんでした。
 交渉が遅々として進まなかったため、東京において井上外務大臣と徐公使との間で交渉が行われることになり、12月6日に長崎の調査委員会は解散しました。
 清国側は英独露などに働きかけ、日本に対して圧力を掛けて来ます。井上外務大臣は、日清両国の交誼を傷付けることは不本意であるから、英国の「賠償金ということではなく、両国が慈善基金を設立し、見舞い金を出し合い、互いの死傷者の為に配分する」という提案を受け入れ、政治的決着を図る事にしました。これを受け、清国政府では曽紀澤が反対論者を説得し、政治的決着を図ることを承知させます。
 合意に基づき1887年2月8日、井上馨外務大臣と徐承祖欽差全権大臣が条約を締結しました。これにより、清国は銀15500円を、日本は52500円を拠出しました。清国は死傷者を水増していましたから、日本は3.4倍の金を支払わされたのです。
 
 日清間には1871年に日清修好条規(平等条約であった)が結ばれていて、第13条には「両国の人民、若し開港場に於て兇徒を語合い盗賊悪事をなし、或は内地に潜み入り、火を付け、人を殺し、劫奪を為す者有らば、各港にては地方官より厳く捕え直に其次第を理事官に知らすべし。若し兇器を用て手向いせば、何れに於ても格殺して論なかるべし」とあります。
 この条文に依っても巡査の行為は正当なものでしたが、日本は不利な条件を飲み、喧嘩として処理するしかありませんでした。なぜなら、英独仏3国が清国を支援していたことにより、日本は孤立無援でしたし、清国の圧倒的な軍事力に抗えなかったからです。井上外務大臣は清国と事を構えれば、琉球を失ってしまうとの危機感があったそうです。
 所詮、当時の国際法も条約も清国の巨大な軍事力と列強の国益の前では無力でした。理不尽な清国の主張に平伏せざる得なかったことで、交渉によって清国との摩擦を解消しようとしていた日本の方針は揺らぎ、国防の重要さが叫ばれるようになりました。そして、清国は敵国であると認識されていきます。
 
 この事件は清国水兵が些細なことで逆上し、傍若無人の振る舞いをしたことが原因です。当時、清国に限らず、上陸した乗組員が住民や警察と揉め事を起こすという事件は珍しくはありませんでしたが、清国兵が陸海のへだてなく不条理な行動をするのは有名だったようです。清国兵は欧米の兵士にはおもねって無礼を働きませんでしたが、日本人や朝鮮人に対しては侮って我意を通そうとするのが常だったようです。朝鮮人は清国人を怖れて目をつぶっていたため、朝鮮では騒動が起きませんでしたが、日本では清国人の無礼な行為が看過されなかったため、騒動が起こりがちでした。
 だから、事件が起きたのは起こるべくして起きたのです。清国人が日本人を蔑視していたから、遊廓で大暴れしたのに止まらず、巡査を逆恨みし、執拗な嫌がらせした上で手当たり次第に暴行を重ねたのでしょう。華夷秩序意識がこの様な行為をさせたのだと思います。
 
 戦後は明治維新以降の日本が富国強兵に走り、一方的に弱い中国を侵略して中国人を差別的扱いをしたと喧伝されがちですが、日清戦争以前は立場が逆でした。清国は欧米列強の侵食に遭っていましたが、アジアでは依然強大な国で周辺国には横暴な振る舞いをしていたのです。
 
 21世紀になって、また大国になった中国は経済力を背景に海軍力の増強を急速に進めています。南シナ海や東シナ海で執拗な軍事行動を繰り返し、アジアでの海洋覇権を握ろうとして横暴な振る舞いを始めています。中国国内では、中国は強くなったのだから、各国は中国のルールに従うべきだとの声も見受けられるようになりました。また、華夷秩序意識が頭をもたげてきているのです。
 菅政権の時の尖閣沖衝突事件で、強硬姿勢に出れば、日本政府は腰砕けになるという教訓を得た中国は居丈高に振る舞い、自ら引くことは今の状況では無いでしょう。
 長崎事件で福沢諭吉は「軍備増強とは、開戦に備えるばかりでなく、開戦を回避できる抑止力ともなる」と主張しました。翻って、現在の日本を見ると如何でしょうか。日中の軍事バランスを均衡させる重要性を認識しているでしょうか。
 

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