六丈記2

備忘録のようなもの

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天下三肩衝 後編

 「天下三肩衝 前編」では天下三茄子と同様に、大名物の肩衝茶入3つを総称して天下三肩衝と呼ばれると書きました。
 今回は天下三肩衝(初花、楢柴肩衝、新田肩衝)がどの様な経過を辿り現在に至ったのか、順を追ってみます。
 
◆足利義政らから流出
 初花(以下、初花肩衝)、楢柴肩衝、新田肩衝とも中国で作られ、日本に輸入された物です。何時ごろ輸入され、どの様な経緯で伝わったか分かりませんが、室町時代中期には初花肩衝と楢柴肩衝を室町幕府第8代将軍・足利義政が所持していて、新田肩衝はわび茶の創始者とされる村田珠光が所持していました。
 
 初花肩衝は足利義政から村田珠光の高弟で茶の湯名人と言われた鳥居引拙(奈良の人とも、堺の商人とも)に渡り、鳥居引拙から京都の豪商・大文字屋の疋田宗観が買い取ります。
 楢柴肩衝は足利義政が村田珠光に下賜し、珠光から鳥居引拙に渡ります。鳥居引拙から直接買ったのかは分かりませんが、堺の豪商・天王寺屋宗伯(津田宗伯)が購入。その後、博多の豪商・神谷宗白が1000貫で宗伯から買い取ります。
 新田肩衝は村田珠光が茶人でもあった武将の三好政長に譲り渡していました。
 
◆信長の名物狩りと本能寺の変
 1568年、信長が上洛すると、松永久秀がつくもを献上、今井宗久からもルソン渡りの茶壷「松島」を献上されます。これが切っ掛けとなり、信長は名物茶道具の価値を思い知らされ、「茶の湯」の利用価値を悟ります。信長は「一国を支配する者は、一国の珍宝をも支配せねばならぬ」と思い定め、丹羽長秀と松井友閑に「京と堺にある名物を徴収せよ」と命じ、名物狩りを始めます。
 名物狩りにより、大文字屋宗観から初花肩衝を召し上げ(1569年)、三好政長(宗三)ゆかりの者から新田肩衝を入手します。
 
 新田肩衝の伝来には三好政長→織田信長となっているのですが、三好政長(1549年没)は名物狩りが始まった頃には既に亡くなっているため、政長から信長が直接入手するのは不可能です。よって、新田肩衝を譲った者は政長ゆかりの者だと推測されます。たぶん、それは政長の子・三好政勝(右衛門大夫)ではないでしょうか。
 政長は茶壷の「松島」も所持していたのですが、政勝はそれを武野紹鴎(政長の茶の湯の師匠)に売り渡しています。だから、政勝は松島だけではなく、新田肩衝も相続していたと思われます。1570年に、政勝は信長に降伏し、織田軍に加わっていますので、その時に献上したのかもしれません。
 
 1577年、信長は初花肩衝を嫡男・織田信忠に三位中将の昇進祝いと家督相続の印として、他の茶道具と共に贈ります。
 信長は3つの内2つを手に入れ、所持したことが無いのは楢柴肩衝だけになりました。
 楢柴肩衝は神谷宗白が所持していたのですが、宗白は事業に失敗して困窮し、楢柴肩衝を所持し続けることが出来なくなりました。そこで、大友宗麟や信長が目を付けだすのですが、それを知った天王寺屋道叱(津田宗室)は堺衆の面目にかけて、大名の手に渡ることを防ごうとします。ただ、道叱が所持すると信長に奪われてしまう恐れがあるため、道叱の弟子だった博多の豪商・島井宗室(宗叱)に買い取ることを勧め、島井が宗白から2000貫で買い取りました。
 
 島井は楢柴肩衝を守り手放さずにいたのですが、ついに信長から声が掛かります。本能寺で催される茶会に正客として招かれたのです。相客は神屋宗湛と数十人の公家達でした。公家を押しのけ、商人が主賓だったのです。
 天正10年6月1日(1582年6月30日)、島井は名物開きの席で披露される道具を記した「御茶湯道具目録」を受け取ります。そこには、つくも茄子、勢高肩衝、珠光茶碗、千鳥の香炉などなど38種の名物道具が記載され、茶壷の三日月や松島は大道具なので安土城に残してきたが、いずれ見せると書いてありました。初花肩衝と新田肩衝は持って来ていなかったのです。信長はあえてこの2つを外したものと考えられます。公家の上座に座らせられ、天下三肩衝が抜けた名物群を見せられる島井はどの様に感じるでしょうか。安土城に天下三肩衝が揃えば、揃った姿を見せてやると信長が暗示し、楢柴肩衝を譲れと遠まわしに迫っていると受け取ったのではないでしょうか。
 実際、この日に茶会があったのかは意見が分かれますが、少なくとも、この日、島井は神屋と共に本能寺に宿泊していたようです。
 翌日の夜明け前、明智軍が本能寺を包囲します。本能寺の変の勃発です。信長は自刃し、本能寺は焼け落ち、名物道具も焼けた灰の中に埋もれてしまいました。本能寺が焼け落ちる前に、島井は「弘法大師真蹟の千字文」を、神屋は「枯木絵」を持ち出したと言われています。
 
 信長の死により、島井は名物狩りをまぬがれ、楢柴肩衝を譲らずに済みました。安土城に残された初花肩衝と新田肩衝はどうなったのでしょうか。
 明智光秀は本能寺を焼き討ちした後、安土城に入り、残された財宝を朝廷や有力寺社に寄進しています。両肩衝も光秀によって誰かに贈答されたのか、混乱のどさくさに紛れて持ち出されたのか、判然としませんが、安土城から消えたのは確かです。
 新田肩衝の伝来は織田信長→大友宗麟となっています。光秀と宗麟には接点は無いので、安土城から流出した後、誰かが九州にいた宗麟に売り渡したのでしょう。実は、島井と宗麟は昵懇の間柄でした。博多の商人として、また、茶人としても親しくしていたようです。この関係を考慮すると、島井が光秀に取り入って新田肩衝を入手し、宗麟に売却したと推測するのが妥当ではないでしょうか。
 一方、初花肩衝の伝来には織田信忠→松平念誓となっています。松平念誓(親宅)は徳川家康の嫡男・信康に仕えていました。信康が切腹した後は出家して、茶の湯三昧の日々を送っていたようです。その念誓が何故、初花肩衝を手にすることが出来たのでしょうか。初花肩衝を贈られた相手から譲られたのか、本能寺の変の時、安土にいて混乱に乗じて奪取したのか。初花肩衝の価値を考えると容易に譲渡するとは思えないため、後者のような気がします
 
◆秀吉の元へ
 本能寺の変後、豊臣秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち取り、清洲会議で主導権を握ると織田家は分裂し、秀吉派と反秀吉派が争いが始まります。最終的に賤ヶ岳の戦い(1583年)で秀吉が柴田勝家に勝利し、秀吉は家臣第一の地位を確立。実質的に織田家中を牛耳ることになりました。
 
 秀吉と勝家が合戦をしている時、三河では初花肩衝を得た松平念誓が徳川家康に召し出されていました。念誓は浜松城で家康に謁見すると初花肩衝を献上します。それにより、念誓は諸役免除の特権を得て、三河額田郡で茶園の経営を始めることになります。
 秀吉勝利の報を聞いた家康は石川数正を使いに出し(1583年5月)、賤ヶ岳の戦いの戦勝祝いとして初花肩衝を秀吉へ贈ります。
 
 名物狩りをまぬがれた楢柴肩衝は依然、島井宗室が所持していましたが、2000貫で買い取ったことを知った宗麟から売却を求められていました。宗麟は島井の師匠である天王寺屋道叱を交渉役に仕立て、「6000貫を出してもよいから譲ってくれ」と頼んでいます。また、家老を遣わし、「いくらでも出す」とも伝えていました。それでも、島井は断り続けていました。
 宗麟が楢柴肩衝に執着していることを知った秋月種実はそれを横取りすることを思い付きます。種実の父や兄は大友軍の攻撃により自害していて、種実にとって宗麟は仇敵だったのです。
 種実は何度も家老を島井の元に遣わし、交渉しますが、断られ続けられました。宗麟でさえ断られているのに、種実に譲る訳はありませんでした。頑なな島井に対して種実はついに強談判に及びました。武力行使してでも強奪する他はないと脅迫。噂は博多中に流れ、商人達を怯えさせます。楢柴肩衝一つのために町を焼かれては商人として立ち行かなくなるため、島井は泣く泣く手放します。それも、無償で。宗麟に売らず、種実に売ったとあっては宗麟の顔に泥を塗ることになり、宗麟の恨みを買わないためにも、無償で譲り渡し、強奪されたことを示さなければなりませんでした。
 ウィキペディアの「楢柴肩衝」の頁には、この取引について「秋月氏から大豆百俵が送られている」と書いてありますが、若し、そうだとしても、楢柴肩衝の価値に見合うものではありません。文禄2(1593)年に名護屋で大豆40升が100文で取引されたという記録から、大豆100俵の価格を試算(1俵=4斗=40升換算)すると、10000文=10貫文になります。島井宗室は2000貫で買い取っているので、大損害です。やはり、強奪されたとするのが妥当でしょう。
 閑話休題。楢柴肩衝が種実に強奪されたことを知った宗麟は烈火のごとく怒りますが、種実を攻めることを躊躇います。秋月種実は龍造寺氏らと結び大友氏に対抗していたのですが、沖田畷の戦いで龍造寺氏に島津氏が勝つと、龍造寺氏と島津氏を和睦させ、島津氏に従属していたのでした。だから、軽々しく種実攻めを行う訳にはいかなかったのです。
 
 島津氏と大友氏の争いの中で種実は領地を広げる一方、大友氏は衰退の一途をたどり、島津氏に対抗する力は大友氏には残っていませんでした。このため、1586年に宗麟は新田肩衝を持参して大坂城の豊臣秀吉を訪ね、秀吉傘下になることと引き換えに軍事的支援を取り付けます。
 1587年、新田肩衝を献上された秀吉はわざわざ新田肩衝を携行し、茶頭の津田宗及をも伴って、九州征伐に出陣。各地で島津軍を撃破し、最後には島津義久の降伏させました。この過程で、島津氏に与していた秋月種実も籠城して抵抗を示しています。秀吉は新田肩衝の焼失を恐れ、城に火を掛けさせませんでしたが、結局、種実は秀吉の大軍を前にして抵抗を諦め、楢柴肩衝を差し出して降伏したのでした。これにより、秀吉はついに天下三肩衝を3つとも手に入れました。
 
◆秀吉から家康へ
 天下人になって栄華を極め、多くの名物を収集した秀吉ですが、1598年、病の床に就きます。余命がいくばくもないことを悟った秀吉は嫡男・秀頼の行く末が心配で、家康らに後見人を依頼して亡くなりました。この時、秀吉は家康に楢柴肩衝を贈ったとされています。残る2つの内、初花肩衝は形見分けで大老の宇喜多秀家に贈られ、新田肩衝は豊臣秀頼が相続しました。
 秀吉死後、豊臣政権内部の対立は激化し、1600年、関ヶ原戦いに至ります。西軍の副大将に就いた宇喜多秀家は敗北し、逃亡の末、八丈島へ島流し。初花肩衝は家康に渡ります。
 
 関ヶ原戦いに勝利した家康は将軍に就任し、江戸幕府を開きますが、大阪の地では依然豊臣家が力を誇っていました。将軍職を早々と嫡男・秀忠へ譲り、大御所として実権を握っていた家康はの幕府安泰のために豊臣家を滅ぼすことを決断。大坂の陣(1615年)で滅亡に追い込みます。大坂城は炎上、秀頼は淀とともに自害し、豊臣家秘蔵の宝物も焼失します。
 新田肩衝はつくも茄子と同様に家康が藤重藤元・藤巌父子に命じ、大坂城の焼跡より回収させ、漆で修復させました。つくも茄子は褒美として藤元に下賜されましたが、新田肩衝は家康が引き取り手元に置きます。これで、秀吉に続き家康も天下三肩衝を3つとも手に入れたのでした。
 
◆家康以降
 豊臣家を滅亡させると、家康は早々に武家諸法度、一国一城令を制定して大名統制を強化し、更に禁中並公家諸法度を制定して朝廷の行動を制約しました。
 信長や秀吉は茶の湯を積極的に政治利用しましたが、家康は茶の湯より法度による支配に重きを置いたようです。
 家康自身、茶の湯を好まなかったようで、茶道具に執着していませんでした。ただ、天下人の家康の元には要求せずとも、名物道具が多数集まり、これらの品は柳営御物と呼ばれるようになります。
 
 話を大坂夏の陣の後に戻します。夏の陣では北庄藩(後の福井藩)2代藩主だった松平忠直(結城秀康の嫡男、家康の孫)が真田幸村を討ち取るなどの戦功を挙げ、初花肩衝を恩賞として与えられました。しかし、忠直は領地の加増がかったことに不満を抱き、後々、幕府と険悪な関係に発展します。
 
 豊臣家を滅亡させた翌年の1616年、家康は駿府城で死去します。
 新田肩衝は家康から11男の松平頼房(水戸徳川家初代・徳川頼房)へ譲られているのですが、その時期までは分かりません。もしかしたら、家康の形見分けで貰い受けたのかもしれません。それとも、頼房が1611年に元服して駿府から水戸に入って家を興した時に譲られたのでしょうか。
 頼房が新田肩衝の所有者となってからは水戸徳川家に代々受け継がれ、水戸徳川家が手放すことはありませんでした。
 
 1623年、2代将軍・徳川秀忠によって、松平忠直が豊後にされて謹慎させられ、翌年に忠直の嫡男・仙千代(光長)が越後高田に国替えとなるという事態が発生。原因は一般的に忠直が幕府に反抗的(病を理由に江戸への参勤を怠る)で、乱行(将軍秀忠の娘だった正室・勝姫の付き人を殺害など)が目に余ったためとされます。このため、現代では忠直の悪行が強調され、日本史上最悪の暴君とまで言われています。ただ、鯖江市では名君として祭られていたり、忠直の乱行が書物(藩翰譜)に現れるのは忠直の死後半世紀も経った後からで、時代が進むにつれ話エスカレートし、側室を笑わせるために人を次々に殺したとか、妊婦のお腹を裂いて取り出した胎児に刀を突き刺したとか、後世に伝えられている乱行の数々は中国の故事を元にした作り話とみられることから、忠直を将軍に据えようとする大掛かりな陰謀を幕府が潰したとする興味深い説(杉原丈夫「忠直配流」)もあります。
 忠直の配流により、初花肩衝の消息は不明になります。忠直が豊後に携えて行き、死後(1650年没)に誰かに渡ったのか、改易の時に福井藩もしくは高田藩に受け継がれたのか、明らかになっていません。
 
 1657年、4代将軍・徳川家綱の治世の時に明暦の大火が起き、江戸城は天守閣を含む大半が焼失しました。将軍家に伝わっていた楢柴肩衝はこの大火の後、焼け跡から探し出され、修復されましたが、消息不明になり、以来不明のままです。
 
 1698年、奏者番の松平備前守(相模国玉縄藩主・松平正久)が初花肩衝を5代将軍・徳川綱吉に献上し、4万両を授かっています。
 松平忠直が所持していた初花肩衝を若年寄から奏者番に降格された小大名の松平正久が持っていたのでしょうか。
 正久の祖父・松平正綱は2代将軍・秀忠に重用され、幕府の財政政策や天領の管理を担当し、権勢を誇っていました。それから想像すると、忠直の嫡男・仙千代(松平光長)が新規に立藩できるよう、正綱に力添えを依頼して初花肩衝を贈り、正綱の家系に代々相続されたのかもしれません。
 それとも、この年、光長の養嗣子・松平長矩(松平宣富)が御家再興が許され、美作に10万石を貰い津山藩を立藩していることから、奏者番の正久を通してお礼として献上されたのでしょうか。ちなみに、忠直配流後、光長は高田藩主に納まっていたのですが、越後騒動で高田藩は取り潰され、光長は伊予松山藩へ配流されていました。
 正久から献上された初花肩衝は綱吉の所有となり、以後、将軍家に受け継がれます。
 
◆近年
 楢柴肩衝は江戸時代に消失してしまいましたが、新田肩衝は水戸徳川家が、初花肩衝は徳川宗家が明治以降も受け継いでいました。
 
 1967年、水戸徳川家13代当主徳川圀順氏が水戸徳川家に伝わる古文書や道具類及び西山荘を寄付し、財団法人水府明徳会を設立。新田肩衝も水府明徳会に寄付されました。
 現在は特例法人から公益財団法人へ移行した公益財団法人徳川ミュージアムに所蔵されてます。
 
 一方、初花肩衝の方は1959年に重要文化財に指定されます。
 その後、江戸開府400年に合わせ、2003年に徳川宗家18代当主徳川恒孝氏が将軍家に伝来した歴史資料を公のものとして一括して永久保存することを目的に、財団法人徳川記念文化財団を設立すると、初花肩衝も納められました。
 こちらも公益法人制度改革に伴い、公益財団法人に移行し、現在では公益財団法人徳川記念財団となっています。

 

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