六丈記2

備忘録のようなもの

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平蜘蛛茶釜 前編

 以前のエントリ「喜左衛門井戸」で茶碗を抱いたまま絶命した男の逸話を紹介しましたが、今回は茶釜を抱いたまま爆死したとされる男の話です。戦国時代に興味がある方なら、既に思い浮かんでいると思います。そう、松永久秀(松永弾正)のことです。
 
 戦国三大梟雄というと斎藤道三、松永久秀、北条早雲(宇喜多直家とする場合もあり)の3人です。中でも松永久秀の評判は非常に悪く、イメージの悪さでは戦国武将一ではないでしょうか。正に梟雄と呼ぶに相応しい人です。
 「常山紀談」(江戸時代に湯浅常山によって書かれた戦国武将の逸話集)には「東照宮信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり。信長、此老翁は世人のなしがたき事三ッなしたる者なり。将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり」と記述されていて、織田信長からも常人では出来ないことを平然と行うことの出来る悪党と思われていたようです。
 
 この様に悪名高い松永久秀ですが、武田信玄や上杉謙信の様なメジャーな大名ではないため、一般にはあまり知られていません。
 松永久秀は1510年に山城国あるいは摂津国に生まれたとされ、当初は藤原姓を名乗っていましたが、血筋は不明です。弟に松永長頼がいます。
 何時ごろ、三好家家臣に取り立てられたか分かりませんが、1529年に三好長慶の父・三好元長に出仕し、12歳年下の長慶の補佐役になったとの話もあります。1540年、長慶の右筆になり、この頃から長慶の武将としても活動していたようです。
 三好長慶は次第に勢力を拡大。管領だった主君の細川晴元を追放し、1549年に京都を支配すると、事実上の三好政権が誕生します。この年、松永久秀は三好家の家宰(家長に代わって家政を取りしきる役職)となり、弾正忠に任官しています。久秀にとっては家宰になったことが飛躍の始まりとなりました。久秀は弟の長頼と共に三好軍の武将として畿内各地で戦い、また、長慶の側近として特に重用され、幕政にも関与して行きます。
 1553年、三好長慶は親族の芥川孫十郎から摂津の芥川城(芥川山城)を奪い返し、長慶と久秀がこの城に居住します。同年、松永兄弟は丹波の八木城を奪回し、松永長頼が八木城主となりました。長頼は後に丹波国守護代・内藤国貞の娘を娶り、内藤氏の名跡を継いで内藤宗勝と改名しています。
 1556年、芥川山城で火災が発生し、久秀は芥川山城を引き上げ、摂津の滝山城主になりました(城主を命ぜられたのは1553年との説もあり)。
 1559年、久秀は大和に攻め入って実質的な大和の支配者であった筒井順慶を含めた国人衆を破り、大和平定の拠点とするために信貴山城を改修して城主になりました。以後、久秀は大和の最大の実力者として台頭していきます。
 1560年には三好義興(三好長慶の嫡男)とともに幕府御供衆となり、弾正少弼に任官。また、同年には大和に多聞山城の築城を開始します。
 1561年になると、久秀は主君の三好長慶と同じ従四位下に叙せられ、将軍・足利義輝から桐紋を下賜されます。久秀は幕府から主君の三好家と同様の扱いを受けるまでになっていたのです。また、この年には久秀と不仲であった十河一存(三好長慶の実弟)が湯治中に急死。その時、久秀が近くにいたことから、久秀による暗殺との噂が流れました。十河一存は讃岐を束ね、「鬼十河」とも呼ばれていた勇将で、兄の長慶を軍事面で支えていたため、この死により三好政権の衰退が始ました。一存の死から間も無く、久秀は長慶の娘、勝姫(久秀より30歳以上年下)を正室に迎え、三好家と縁戚になります。
 十河一存の死が切っ掛けとなったのか、畠山、六角両軍が挙兵。翌1562年、久米田の戦いで三好義賢(三好長慶の実弟)が和泉にて戦死。三好義賢は本国、阿波を統治していた重要な武将でした。京都で六角軍と対峙していた三好前線軍(大将・嫡男の義興、副将・久秀)は義賢の討死が伝わると京都から撤退。畠山軍が長慶の篭る(病だったとの説も有り)居城・飯盛山城を包囲すると、三好各軍は集結し、救援に出ます(教興寺の戦い)。この戦で畠山氏の勢力は瓦解し、六角氏も軍門に降ったため、畿内に三好氏に対抗する勢力はなくなり、大和や河内が三好氏の支配下となりました。この戦を通して久秀は三好宗家の実権を次第にるようになりました。
 1563年、大和では筒井衆の抵抗も残っていましたが、久秀が支配。その様な中、三好宗家の嗣子である義興が居城・芥川山城で突然の急死。享年22歳。義興は教養も武勇も有り、将軍や公家達からの信望も厚かった武将でした。病死になっていますが、一説には久秀による毒殺とも。嗣子が亡くなった為、長慶は十河一存の息子である十河重存(三好義継)を養子に迎えます。また、この年の暮れには久秀の息子・久通が従五位下・右衛門佐に叙任され、松永家の家督を嫡男の久通に譲っています。
 長慶は親族の相次ぐ死で覇気を失くし、心身が衰弱していた模様で、1564年、淡路を束ねていた安宅冬康(三好長慶の実弟)を居城の飯盛山城に呼び出して謀殺しました。「謀反の野心あり」との松永久秀の讒言を長慶が信じたためと語られています。長慶は後に冬康の無実を知って酷く後悔し、病を重くしてしまいます。冬康の死の2ヵ月後、長慶もこの世を去ります。病死でした。享年43歳。これで、三好政権の中枢を担ってていた三好元長の主だった息子達が消え去りました。
 長慶の死により、三好義継(この時15歳)が三好家の家督を相続しますが、重臣達により、長慶の死は2年間隠されます。実権を握っていたのは松永久秀や三好三人衆で、義継は傀儡に過ぎませんでした。三好三人衆とは三好長逸(三好長慶のいとこ?)、三好政康(三好氏分家)・岩成友通(三好氏家臣)の3人のことで、三好家中の重鎮でした。
 1565年、影響力を強める13代将軍・足利義輝に対して、久秀と三人衆は危機感を抱き、義輝の排除に出ます。久秀らは当主の義継を担ぎ出して、二条御所を軍勢で襲撃し、義輝を殺害します(永禄の変)。久秀は義輝の弟の興福寺一乗院覚慶(後の足利義昭)を幽閉しましたが、2ヵ月後に逃げられています。同じ頃、久秀の弟の松永長頼(内藤宗勝)が丹波で戦死。永禄の変の後、主導権をめぐって久秀と三人衆は対立。三人衆は義継を奪取し、阿波本国の重臣の篠原長房らを取り込んだため、久秀は三好家中で孤立しました。更には三人衆に将軍候補として擁立された足利義栄に久秀討伐令を出されてしまいます。
 1566年、久秀は同盟関係であった畠山氏・遊佐氏と合流して堺で義継と激突。この間に隙を突かれて、三人衆と結託した筒井順慶に筒井城を奪還されます。三人衆との争いは久秀が終始不利で、窮地に立たされます。
 ところが、1567年に三好三人衆らが足利義栄を主君として迎えると当主の義継が出奔し、久秀に保護を求めてきました。これが転機になります。義継と三人衆は敵対し、三人衆・池田・筒井連合軍と松永・義継連合軍が大和で合戦を始めます。この戦で松永軍は次々と寺を焼き払い、三人衆軍の本陣がある東大寺を夜襲します(東大寺大仏殿の戦い)。この戦闘で大仏の仏頭、伽監、念仏堂などが焼失(火を放ったのは松永軍とする説や失火説、イエズス会信者説などがあります)。火災により三人衆軍は総崩れになり、撤退しました。
 1568年になると足利義栄が三人衆の推挙により14代将軍に就任。三人衆や筒井順慶の巻き返しに遭い、信貴山城が落城すると久秀は再び窮地に陥ります。ところが、ここでまた転機がおとずれます。足利義昭を擁立して織田信長が上洛を開始したのです。三人衆はかつての宿敵である六角氏などと結んで信長に対立する姿勢を示す一方、久秀らは直ぐに恭順の意を示しました。義昭の反対はあったものの、三好義継は河内上半国の守護に、松永父子は大和一国を安堵されました(ただし、この時点では大和は筒井順慶らの勢力下にありました)。この時、久秀は「九十九髪茄子」を信長に献上しています。久秀は信長の援軍を得て、大和の緒城を次々と攻略、信貴山城も奪回して、筒井順慶を追いやり再び大和を手中にします。方や、三好三人衆は織田軍に敗れて畿内の勢力を失い本国の阿波まで後退、足利義昭が15代将軍に就任しました。翌1569年に久秀は弾正少弼を改め山城守と称します。
 1570年、信長は朝倉討伐に出陣。久秀も従軍しますが、浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされます(金ヶ崎の戦い)。信長が京へ逃げ延びるにあたり、久秀は近江豪族の朽木元綱を必死の決意で説得し、信長の窮地を救います。態勢を立て直した信長は報復のために北近江へ出陣、浅井・朝倉連合軍を姉川の戦いで打ち破ります。摂津では三好三人衆が挙兵、久秀は三好義継らと共に迎え撃ちますが、石山本願寺や四国の三好軍が参戦すると形勢逆転。信長は和睦に動き、反織田勢との間に和議が結ばれました。
 1571年、信長の専横に不満だった将軍の足利義昭は浅井、朝倉、三好、六角、武田、石山本願寺らに信長討伐を命じる御内書を下し、次第に信長包囲網が形成されると、久秀は信長に背いて武田信玄に同盟を持ちかけ、武田に内通します。更に、久秀は仇敵の三好三人衆とも手を結び、三好義継と共に反乱を起こし、河内下半国守護の畠山昭高を攻撃。この隙に大和で力を盛り返しつつあった筒井順慶が久秀の居城・多聞山城を攻撃する動きに出ます。松永軍は義継の援軍を得て、筒井軍討伐に出ますが大敗(辰市の戦い)。順慶に苦労して手に入れた筒井城を明け渡しました。この後、順慶は信長に臣従し、信長を後ろ盾にします。
 1572年になると久秀は反信長の態度をますます顕在化させ、佐久間をはじめとする織田勢と対峙しますが、年末に降伏します。この頃、三河では武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝していました。
 1573年、久秀は正月早々、岐阜城を訪ね信長に恭順の意を示します。3ヵ月後、武田軍の進撃に呼応して将軍・足利義昭自身が二条城で挙兵し、義昭と同盟していた久秀も信長に反旗を翻しますが、義昭はほどなく信長と和睦します。この間に信玄は死去し、武田軍は本国への撤退を始めていました。信玄の死を知らなかったと思われる義昭は7月に再度挙兵するも織田軍に包囲され、半月余りで降伏。義昭は追放され、室町幕府は滅亡しました。三好三人衆の一人の岩成友通は討死、浅井長政、朝倉義景も織田軍に討たれ、三好義継も若江城の戦いで自害し、三好家は崩壊します。久秀は信貴山城に立て篭っていましたが、年末に降伏し、織田軍に多聞山城を明け渡して、織田軍に復帰します。久秀は許されたものの、大和の支配権を信長の腹心である塙直政(原田直政)に奪われてしまいます。
 1576年、大和守護だった塙直政が石山本願寺攻めで討ち死にすると、信長傘下として数々の戦に参戦して活躍していた宿敵の筒井順慶を信長は大和守護に任じます。
 1577年、久秀が心血を注いで築城した多聞山城を順慶は廃城にします。その頃、久秀は石山本願寺攻めに加わり天王寺砦を守っていました。しかし、突如、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力側に寝返り、砦を焼いて撤退。息子の久通と共に信貴山城に立て篭り、謀反を起こしました。信長は3度も裏切った久秀に対して久秀と親交の深かった松井友閑を使者として派遣し、理由と望みを問い質そうとしましたが拒絶されます。憤慨した信長は人質に取っていた久通の二人の子を京都六条河原で処刑し、大和に軍勢を派遣。織田軍は支城を落とし、大軍で信貴山城を包囲します。松永軍は必死に抵抗するも家臣の裏切りに遭い、落城。久秀・久通父子は自害して果てます。久秀、享年68歳。久通、享年35歳でした。
 
 以上、長かったですが前置きでした。次回に本題へ入ります。

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