六丈記2

備忘録のようなもの

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巌流島の決闘400周年

 丁度400年前の今日、巌流島の決闘があったとされています。
 慶長17年(1612年)4月13日、関門海峡の巌流島(正式名称は船島)で宮本武蔵と佐々木小次郎が一対一の果し合いをし、武蔵が勝ち、小次郎が絶命しました。
 
 映画やドラマ等では遅れてやって来た武蔵に苛立った小次郎が刀を抜き、鞘を捨てた時、「小次郎、破れたり」と武蔵が発し、櫂から削り出した木刀で小次郎の頭をかち割るというストーリーが定番で、武蔵は荒々しい侍、小次郎は美青年として描かれています。
 この様なイメージは吉川英治の「宮本武蔵」によって作られたらしく、吉川英治の小説以前に作られた講談や浮世絵では小次郎を老人としていたようです。
 
 佐々木小次郎については生年や出自が不明で、姓も「佐々木」としたり、「津田」とされたりしています。「巌流」(岩、岸、岸柳、岩龍など様々な表記あり)剣術の創始者で小倉藩剣術師範をしていたのは確かですが、謎の多い人物のようです。
 巌流島の決闘に関する資料は武蔵の著した「五輪書」(1645年)、武蔵養子で小笠原藩家老職の宮本伊織によって建立された手向山の「新免武蔵玄信二天居士碑」(1654年)、細川家家臣の沼田氏が編集した「沼田家記」(1672年)、肥後藩士で二天一流兵法師範の豊田左近右衛門景英が著した「二天記」(1776年)などがあり、内容がそれぞれ異なっています。そのため、現在では諸説が入り乱れている模様です。
 「新免武蔵玄信二天居士碑」には武蔵と小次郎が同時に島に渡ったと刻まれていて、武蔵は遅刻をしていなかったことになっています。また、「沼田家記」では決闘で小次郎は敗北したが、死んではおらず、武蔵の弟子らに殺されたとあります。後世に語られているイメージとは随分かけ離れていますね。その原因を作ったのが「二天記」で、創作が多く史料価値は低かったのですが、読み易かった為、江戸期に武蔵の伝記として普及したようです。明治にはこの「二天記」を用いて、宮本武蔵遺蹟顕彰会が「宮本武蔵」(顕彰会本)を編纂しています。
 
 吉川英治の「宮本武蔵」はこの「顕彰会本」を元に創作され、実在の人物ではないお通も登場します。今ではお通も当たり前のようにドラマ等に出てくるので、架空の人物とは思っていない人も多いのではないでしょうか。
 創作に創作を重ね、史実からどんどん懸け離れ、イメージだけが肥大し、それが史実と受け止められて行く様子は坂本竜馬に似てますね。坂本竜馬も小説を元にした話が史実と受け止められたりしています。
 歴史的ヒーローは作られてヒーローになって行くものなのでしょうね。

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巌流島の戦い
http://www.ysn21.jp/furusato/know/03history/history08.html
巌流 考証 巌流佐々木小次郎
http://homepage3.nifty.com/ganryu/index.htm
「日子の島」巌流島
http://www.hikoshima.com/ganryu/index.htm
「巌流島(舟島)の決闘」 慶長17年(1612年)
http://www.ne.jp/asahi/system/color/kenjyutuiaijyutu_enmei_p12.html
 

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