六丈記2

備忘録のようなもの

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函館大火と久慈次郎

 78年前の今日(1934年3月21日)、函館大火がありました。戦争や震災による火災を除くと昭和以降に起きた火災の中では最大級(死傷者の数)の大火災なのですが、知っている人はほとんどいないと思います。
 午後7時頃に出火し、翌日の午前6時に鎮火するまでに函館の市街地のかなりの部分が延焼しました。現代の地図に焼失範囲を重ね合わせると下図のようになります。
 
◆被害規模
●焼失建物:11105棟
●死者:2166人
焼死748人、溺死917人、凍死217人 、窒息死143人、その他29人、その他収容後死亡112
●重症者:2318人
●軽傷者:7167人
 
 強風によって荒れ狂った炎から逃れるために、海岸に避難した人が多く、そこへ、大波が襲い掛かったため、溺死者や凍死者を多数出してしまった模様です。
 函館大火はこのような大災害であったため、直接被災しなかった人々の人生も変えてしまいました。その中の一人が久慈次郎です。

 

 久慈次郎は正力松太郎や沢村栄治らと共に第1回目の野球殿堂に入った名選手なのですが、名前も聞いたことが無い人がほとんどだと思いますので、経歴を簡単に説明します。
 1898年青森市に生まれ、盛岡市で育つ。早稲田大学野球部に在籍。卒業後、引手あまたの名捕手だった久慈は社会人野球の名門「函館大洋倶楽部」に入部。1931年と1934年に来日したアメリカ大リーグ選抜チームとの日米野球大会では両年とも全日本チームの捕手兼主将を務める。34年の時は沢村栄治やスタルヒンとバッテリーを組み、ベーブルースやゲーリックと対戦する。このときの全日本チームが母体となって本格的プロ野球チーム「大日本野球倶楽部」(東京巨人軍の前身)が発足し、主将として参加を要請されるも辞退。この年、周囲に押されて函館市議になる。1939年、選手兼任監督として出場した札幌倶楽部との対戦で、敬遠され、1塁へ向かった際、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、捕手の牽制球が右こめかみの上部分に直撃した。病院に運ばれたが2日後永眠。享年40歳。その死は全国に報じられ、葬儀には1000人を超える参列者が続き、沿道には最後の別れを惜しむ市民が埋めつくした。
 
 

 「大日本野球倶楽部」発足時、三原脩や水原茂が100円代の給料だったのに対して、500円という破格の待遇であったにもかかわらず、久慈は参加しませんでした。なぜなら、この年の春の大火で復旧のめどもつかない函館を見捨てるような真似は出来なかったからです。函館大火が久慈次郎の運命を変えてしまったのです。もし、この時参加していたら早死にすることも無く、プロ野球黎明期の大スターとして名を後世に残していたかもしれません。
 
 野球に人生を捧げ、野球場で死んでいった久慈次郎。その功績を称え、函館市の千代台公園野球場(函館オーシャンスタジアム)にはスタルヒン球場の方向にミットを構えた久慈の銅像が建てられています。

 

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函館大火概要
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/syoubou/w-hakosho/ayumi/w-ayumi-taika.html
久慈次郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%85%88%E6%AC%A1%E9%83%8E

20120321函館大火と久慈次郎

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