六丈記2

備忘録のようなもの

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ウクライナで撃墜されたマレーシア航空機はすり替えられた?!

 ウクライナで撃墜されたマレーシア航空機が3月に行方不明となったマレーシア航空機だったという驚くべき言説をネット上で見かけました。検索してみると幾つかのブログ等で取り上げられていて、情報源は一様に「日本や世界や宇宙の動向」というブログの「写真が明かす・・・MH17はMH370だった」というエントリのようです。
 このエントリで、ブログ主はすり替えられた証拠として海外の記事を紹介し、「全てはねつ造だった」と主張しいます。犯人は、世界を支配するエリートら(イルミナティ、世界シオニスト機構、その実行部隊)及び複数の国の政府(マレーシア政府、米政府、イスラエル政府、ウクライナ政府、その他)と思っているようです。
 それはともあれ、証拠として上げられていることを要約すると以下の通りになります。

 ウクライナで撃墜されたマレーシア航空機17便(MH17)の 残骸の写真には、マレーシア国旗の左下の窓が白く塞がれている。しかし、過去に写されたMH17の写真を見ると、その位置の窓は塞がれていない。一方、行方不明となったマレーシア航空機370便(MH370)は塞がれている。よって、ウクライナで墜落した機体はMH370であり、機体がMH17からMH370にすり替えられていた。
●ウクライナで撃墜された航空機の破片の写真
ウクライナで撃墜された航空機の破片の写真
●過去のMH17とMH370の写真を比較した画像
MH17とMH370の比較


 ウィキペデアでマレーシア航空機370便と17便を調べると、どちらも機体は「ボーイング777-200ER」でした。また、MH370の機体記号は「9M-MRO」、MH17の機体記号は「9M-MRD」ということが分かりました。
 そこで、「Planespotters.net」というサイトからそれぞれの写真を探してみると、「9M-MRO」の写真は13枚、「9M-MRD」の写真は18枚ありました。
●9M-MROの写真一覧
mro.jpg
●9M-MRDの写真一覧
mrd.jpg

 それぞれの写真の該当窓部分と機体記号部分を掲載します。
◆9M-MRO
●1枚目
撮影場所:オーストラリア 撮影日時:2014/1/4
mro01.jpg
●2枚目
撮影場所:マレーシア 撮影日時:2014/2/8
mro02.jpg
●3枚目
翼のみのため割愛
●4枚目
撮影場所:オランダ 撮影日時:2013/5/5
mro04.jpg
●5枚目
撮影場所:香港 撮影日時:2008/9/13
mro05.jpg
●6枚目
撮影場所:ドイツ 撮影日時:2012/2/4
mro06.jpg
●7枚目
撮影場所:イタリア 撮影日時:2012/1/15
mro07.jpg
●8枚目
撮影場所:フランス 撮影日時:2011/12/24
mro08.jpg
●9枚目
撮影場所:フランス 撮影日時:2011/10/20
mro09.jpg
●10枚目
撮影場所:イタリア 撮影日時:2011/1/30
mro10.jpg
●11枚目
撮影場所:ドイツ 撮影日時:2008/8/31
mro11.jpg
●12枚目
確認できないため割愛
●13枚目
撮影場所:オーストラリア 撮影日時:2007/12/29
mro13.jpg

◆9M-MRD
●1枚目
撮影場所:トルコ 撮影日時:2014/2/8
mrd01.jpg
●2枚目
撮影場所:トルコ 撮影日時:2013/9/7
mrd02.jpg
●3枚目
撮影場所:トルコ 撮影日時:2013/6/1
mrd03.jpg
●4枚目
撮影場所:ドイツ 撮影日時:2012/2/1
mrd04.jpg
●5枚目
撮影場所:ニュージーランド 撮影日時:2013/2/24
mrd05.jpg
●6枚目
撮影場所:トルコ 撮影日時:2012/7/2
mrd06.jpg
●7枚目
撮影場所:香港 撮影日時:2010/3/6
mrd07.jpg
●8枚目
撮影場所:スイス 撮影日時:2006/9/27
mrd08.jpg
●9枚目
撮影場所:フランス 撮影日時:2010/7/18
mrd09.jpg
●10枚目
撮影場所:マレーシア 撮影日時:2010/2/10
mrd10.jpg
●11枚目
撮影場所:オーストラリア 撮影日時:2009/10/30
mrd11.jpg
●12枚目
撮影場所:イタリア 撮影日時:2006/2/26
mrd12.jpg
●13枚目
撮影場所:中国 撮影日時:2005/12/
mrd13.jpg
●14枚目
確認できないため割愛
●15枚目
撮影場所:マレーシア 撮影日時:2007/4/7
mrd15.jpg
●16枚目
撮影場所:オーストラリア 撮影日時:2006/9/20
mrd16.jpg
●17枚目
撮影場所:イタリア 撮影日時:2006/2/26
mrd17.jpg
●18枚目
撮影場所:オーストリア 撮影日時:2005/7/14
mrd18.jpg


 以上、確認すると、9M-MROの該当する窓は全て塞がっており、9M-MRDも18枚目以外は全て塞がっていました。
 9M-MRDの18枚目は2005年7月14日に撮影されていて、次に撮影されたのは2005年12月の13枚目です。この間に機体のカラーリングが青に変わっていて、窓が塞がれたのが分かります。2009年10月30日に撮影された11枚目からは元のカラーリングに戻っていますが、窓は塞がったままで、以後も塞がったままです。
 「過去のMH17とMH370の写真を比較した画像」に用いられている9M-MRDの写真は、カラーリングが青に変わる前、2009年10月以前のものでしょう。ですから、この画像をもってすり替えられたとは言えません。

 すり替え説は、3月に行方不明となった航空機とウクライナで撃墜された航空機が共にマレーシア航空のボーイング777-200ERだったことから、思いつかれたものでしょう。
 大体、ロシアを追い詰めるために民間機を墜落させるという陰謀があったとしても、すり替える必要性は全くありません。ウクライナの親ロシア派の支配地で墜落させるのが目的なら、マレーシア航空機17便に時限爆弾を積み込むだけで済みます。こんな大掛かりなことを態々することは無いのです。
 ブラックボックスがEU側に渡り、シリアルナンバーが明らかになって、撃墜されたのはマレーシア航空機17便の9M-MRDに間違いないことが確認されるでしょう。でも、海外の陰謀論者はそれも陰謀だと言って、認めることはないのでしょうね。

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日本や世界や宇宙の動向「写真が明かす・・・MH17はMH370だった」
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51933909.html
マレーシア航空370便
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%88%AA%E7%A9%BA370%E4%BE%BF
マレーシア航空17便
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%88%AA%E7%A9%BA17%E4%BE%BF
Planespotters.net 9M-MRD Aviation Photos
http://www.planespotters.net/Aviation_Photos/search.php?tag=9M-MRD
9M-MRO Aviation Photos
http://www.planespotters.net/Aviation_Photos/search.php?tag=9M-MRO

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「わたしたちが正しい場所に花は咲かない」 狂信的にならないための自戒

 2014年7月22日のダ・ヴィンチニュースに以下の記事が掲載されていた。

*****************************
原発、集団的自衛権、ヘイトスピーチ…誰もが成りうる狂信主義とどう向き合えばいいのか?
http://ddnavi.com/news/201315/
~~ 略 ~~
 “わたしたちが正しい場所に花はぜったいに咲かない 春になっても。
  わたしたちが正しい場所は踏みかためられて かたい 内庭みたいに。”
――イェフダ・アミハイ「わたしたちが正しい場所」より

 エルサレム生まれのイスラエルの偉大な作家であり、平和運動団体「シャローム・アクシャヴ(今こそ平和を)」の創設メンバー、アモス・オズ氏の著書『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』(村田靖子:訳/大月書店)を手にしたのは、ちょうどその時期。子ども時代をエルサレムで過ごし、中東をめぐる社会評論で国際的に評価されている同氏は、自らを「比較狂信主義学の専門家」と呼ぶ。同書では狂信主義とは何か、また、それがなぜ起こるかについて書かれてある。

 同氏はアメリカ同時多発テロ事件を例に出し、「これは、狂信者、つまりどんな目的であれ、その目的のためならどんな手段をとってもいいと考える者たちと、一般のわたしたち、つまり生きること、あるいは命がいちばん大切で、命を手段として使おうなどとはさらさら考えない者とのあいだの争いなのです」と言及。「狂信主義者と現実主義者のあいだの古くからある争いです。狂信主義と複数主義の争い。狂信と寛容の争い」。この文節は、そのまま、東日本大震災以降の日本社会にも当てはまるように思われる。

 狂信主義の神髄には、自分の主義・主張だけが正しく、他人をなにがなんでも変えてやりたいという願望がある。狂信者は、同調主義や意見の統一が絶対であるがゆえに、独善的な行動を取ることを厭わないのだ。

 また、狂信主義は伝染しやすく、変する者は裏切り者ととらえる。よって仲間内での分裂を起こしやすい。その紛争が善と悪の戦いではなく、互いが絶対と信じる正義と正義のぶつかりあいであれば、より理解し合うのは難しい。相手を殺してでも自分の主義・主張を飲み込ませたいという者が出てきてしまう。

 狂信主義の治療薬があるとするなら唯一、ユーモアのセンスだとオズ氏は主張する。「ユーモアの一つの要素は自分自身を笑うことです。ユーモアとは相対主義。ユーモアとは人が自分をどう見ているかがわかる力。ユーモアとは、たとえどんなに自分が正しかろうと、どんなに間違っていようと、人生にはいつでも、必ず少しだけ可笑しい面があることに気づく力。自分が正しければ正しいほど、自分が可笑しく見えてくる」。

 狂信者のメンタリティーの根はひどく感傷的で、同時に想像力を欠如しているからこそ、たとえわずかでも希望がもてる。「もしこういう人たちの心に想像力を注ぎ込んでやれば、それが功を奏して狂信者もそうそう自分のいうことがぜったいに正しいとは思えなくなる」。また、大きな夢から生まれたものは、やがて失望や幻滅に変化していくという、夢の特性について知ることも大事だ。

 「よい垣根はよい隣人をつくる」ということわざがあるように、オズ氏はイスラエル対パレスチナ問題についてかたくなに二国家解決法を主張している。異質な者どうしが、どう隣り合わせで暮らすか。決着をつけず、不確実なものをかかえながらどう共存していくか。黒白をはっきりとつけたがるのは、狂信者たちの悪い癖だ。国家の在り方のみならず、夫婦関係、親子関係など、すべての人間関係について考える時、オズ氏の皮肉まじりのユーモアが不思議と心を鎮めてくれる。
*****************************

 人は誰しも何かを信じて生きている。だから、程度の差こそあれ、誰もが狂信者的な部分を持っている。
 自分の意見を否定されれば、反論もしたくなるだろう。特別なことではない。だが、一歩引いて考え直してみることも大切だ。
 自分の意見に矛盾は無いか、固執していないか、感情に支配されていないか・・・等など。反論する前に考えてみる。それを忘れれば、エキセントリックな狂信者への道を歩んでしまい、より良き答えからは遠ざかる。

 自戒の念をこめてこの記事をエントリーした。

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靖国神社の放火犯は中国人? 続報23

 「靖国神社の放火犯は中国人? 続報22」で、サーチナが劉強に関する北京青年報の記事を掲載したことを書いた。折角なので、元記事の内容を探してみると、「火焼靖国神社者帰国無収入 被父母疎遠」と題する記事を見つけた。
 機械翻訳を利用して訳しているので、誤訳が多々あるかもしれないが、和訳を載せる。

****************************
◆火焼靖国神社者帰国無収入 被父母疎遠
(靖国神社を焼いた者帰国して無収入 両親から疎遠にされる)
http://china.haiwainet.cn/n/2014/0707/c345646-20826245.html

 水曜日、劉強の集会は定期的に駐広州日本総領事館の門前に現れる。最近の一回、彼の展示した新作は「日本謝罪」だった。
 靖国神社放火は、劉強の人生の軌道を突然転向させた。この途中にあり、彼はその上偏屈に道程を前進する。
 「私に点火されたのは恨みの野火ではない。 私は利己的で臆病な腐敗しているもの一切を焼却したいと思っている。」と、彼は話す。
 2011年、彼は日本の靖国神社に放火、2012年、彼は駐韓日本大使館に火炎瓶を投げた。1年の入牢後に日本へ引き渡される災禍から逃れ、釈放されて帰国する、ただこの後に予想外の苦境に立たされる。特別な家庭の背景は、彼を一般人に比べてより深く中日関係に巻き込んだ。彼は「二分法」をどんどん活用して、更に寛容な態度をもって日本に接する、ただ40年来、彼の人生の軌道は未だに両国間の渦中から離れられない。彼を愛国の真の勇士と称える者もいるし、彼を非理性的衝動に駆られていると貶す者もいる。ちょうど不惑の年齢の劉強は、今なお独りで右に左に突き進んで意味を求めている。「私に点火されたのは恨みの野火ではない。 私は利己的で臆病な腐敗しているもの一切を焼却したいと思っている。」と、彼は話す。

■文芸的パフォーマンス■

 劉強は独りで人の群れの中に立ち、脇をホテルの警備員に取り囲まれる。派出所の警察官の「交代移動」の切れ目を待ち、劉強は標準語、広東語を代わる代わる用い、そしてたまに英語交えて中止を承諾せず、一般人に向かって是非を声高に訴えた。
 「中国人の醜さをここで振るってはいけない」
 劉強は話をやめると、ガーデンホテルの門前のこの狭い範囲はしばらく静かになり、ただ脇の1名が用心のために手にする小さなカメラが音を立てている、一人のホテル安保要員の右頬が激しく震えていた。
 劉強のホテルに入りを阻止するため、この安保要員は20分前に彼と衝突したばかりであり、今近距離でにらみ合って相手に弱みを見せたくないため、努力して平静を保っている。
 劉強は当初に広州戦士歌舞団のオーダーメイドの07式軍礼服一揃えを身につけ(それの現実的用途は、「新四軍後代合唱団の公演衣装」である)、ちょうど体にまとった1枚の白いワイシャツは広州の6月の天気によって汗で濡れて背中に貼り付き、1週間前に出来上がったばかりの文字「精忠報国」という4文字をかすかに浮かび上がらせた。20分前、彼は上着を脱ぎ捨て、ガーデンホテル門前でこの新作の展示を終え、画仙紙に書かれた何枚かの書道作品は「日本謝罪」「中華崛起」だ。何度か、彼は展示しながら、歌を歌い、近くにある斜めに挿された日本国旗に時々手を拳銃の形にして指差す。
 越秀区華楽路のガーデンホテル、これが駐広州日本総領事館の所在地。上述の一連の行為における、劉強自身による定義は「文芸的パフォーマンス」だ。彼は大勢の人々を集めず、たまに記念のために彼の写真を撮る友人を連れて来る。彼は言う、この事を通じて民衆の国を愛する情熱と自信を惹起したいと思っていると。
 6月11日のこの日は、今年の2月5日以来総領事館の入口で行われた劉強の6回目の「パフォーマンス」だった。自分とここを守る武装警察、従業員および派出所の警察官はお互いに慣れていて、毎回イベント後は警察あるいは関連要員に全て持ち去られ、型通りの公務が行われ登録などをして簡単に処理されると、彼は明言する。
 1人の従業員が劉強と断続的に口論していて眉をひそめて言う「私達はデモ活動に反対しないが、しかし彼の行為はいつも少し極端だ・・・」。
 パトカーがやって来た。 劉強は彼の服と書道作品を集め、自発的に迎えいれ、ドアが開けられると同時に笑って聞く「今日はどちらの警官が来たのですか?」。

北京青年報掲載画像1
劉強が韓国警察署を退出した時にメディアが彼を取材した画面

 1974年6月20日、劉強は上海市で生まれた。父方の祖父は昔の紅軍、新四軍16旅団48団団長の劉別生で、抗日と内乱の激戦をしばしば経験し、1945年に勢力範囲を強奪する国民党軍の銃口の犠牲になった。 父方の祖母もかつて新四軍副参謀長であった周子昆の軍部機密要員だった。
 劉強は幼少の頃に両親が身近におらず、就学前から母方の祖母が大きく養育に係わっていた。1985年12月、母方の祖母の楊英は亡くなる前に自分の身の上を劉強に打ち明けた。彼女の元の名前は李南英、ピョンヤンに生まれ、1942年に日本軍に捕らえられ中国に来て慰安婦として従事し、戦争終結後は中国に残留、結婚して女子を産む。楊英の父、つまり劉強の母方の曾祖父の李勝式は、日本占領期のソウル中学で韓国語の教授を頑なに続けていたため、日本軍に監禁されて拷問により死んだ。
 子供の頃の劉強は別に勇気ある反戦あるいは反日の種を持っていなかった。一族が持つ記憶の中に彼は新しい一つを銘記する。抗日戦争に勝利する前夜、祖父は命を懸けることになる、優れた国民党軍の重機関銃の装備のために。劉強のこれに対する評価は「3発の銃弾を短連射するが、射撃はそれ程正確ではなく、日本人を叩き出せなかった」だ。
 その年に最初の二つを学ぶ、劉強は1人の父親の台湾の友人の横に座って介抱し「イエス・孔子・ビートルズのレノン」のドラマと一言叫んだ、彼はこの場所でご老人が深く賞賛され、人格は温和で謙虚と記憶している。事後にゆっくりと成長するにつれ、彼はこのご老人の著作「醜い中国人」をやっと読んだ。柏楊というこの名前より更に彼が印象に残っているのは、今なお依然として口先で、ご老人が中国人に対して利己的!臆病!内紛!と面子を潰す批判をしたことである。
 18歳の時、劉強は日本語を学び始め、研修セミナーで最初の日本の友人と知り合う。日本人に対し、彼は憎しみでもって恨んではならないという「二分法」を今なおそのまま用いる。憎むのは軍国主義で、しかし現代の日本人を恨んではいけない。
 一つの軍の2世代目の家庭に生まれて時に劉強はある種の重苦しさを感じている。「私の父は私の祖父の威光の裏側に隠れている。ただしあなたがネット上で彼の名字+劉別生と入力しても、関連は見られず、しかしあなたが「劉強+劉別生」と探すと絶対に同じではない。と彼は言う。
 1997年、上海で「重苦しさ」を感じていた劉強は「変化」「向上」が必要と思い広州に向かった。彼は初めに一つの日米合資企業に勤め、「日本人の前で英語を話し、彼はやっと誠実に会う」という経験を初めて体験した。2005年、彼は初めて日本の国土を踏み、東京を歩き回った時に靖国神社の入り口で新四軍の軍歌を一節歌った。
 2007年、劉強は心理療法を勉強し始めていて、ちょうどブン川地震(訳者注:2008年5月に発生した四川大地震のこと)の前に心理療法士の認証を得る、それから彼は川へ行って援助した。
 彼は言う、被災者の目が彼の心を打ったと。これもその後に彼を災害救援に身を投じることを促した。

北京青年報掲載画像2
劉強の日本パスポート(訳者注:原文はパスポートと表記しているがビザの間違い)

 2011年3月、日本の宮城県の東太平洋海域でマグニチュード9の地震が発生、地震は津波を誘発して福島の放射能漏れをもたらした。半年後に、劉強は日本へ行ってボランティアに参加した。友人が「日本人がどんな野郎か分かっているのか、あなたは彼らを手伝いに行くのか?」と反対、劉強は「日本人はすばらしい」と冷ややかに答えた。
 後日、劉強の母は息子の日本行きを総括した、「彼は徳をもって恨みに報いるという心を抱いて行ったのです」と。
 ボランティア従事期間、彼はまず和歌山県YMCA学校の日本語短期コースに行った。和歌山は第二次世界戦争時の日本軍第四師団61連隊の駐屯地で、現地には中国侵略をした日本軍の子孫が多く存在し、その歴史を話しに出して、顔は誇りに満ちていた。劉強はこれに対して憤怒を感じた。
 在学時、彼は1人の校長が日本ばかりでなく韓国と台湾の学生にでさえ全て至極ていねいで、中国大陸の学生に対してはあごで人を使うような態度であり、大陸の学生は唯々諾々としていることに気付いた。劉強は一度校長と言い争いを始めたことがある。
「あなたは中国人に謝罪しなさい!」
「なぜ私が謝罪しないとならないのか?」
「あなたの家族には61連隊だった人がいるか? 中国で焼き殺し略奪して、謝罪しないのか?!」
「無いね、我々は軍の任務を執行したまで。」
 論争で譲らず、劉強は現地の供養塔をまつる神社の一つに駆け寄って小便をまき散らした。彼は「これらの日本人はとても強い心理的優越感があり、敗戦しても、彼らは勇敢で団結していると自認している。歴史について、彼らはアメリカ人に負けたと思っていて、しかしどうして中国人に負けることが出来るのか?」と深く感じた。
 教室での作文の練習の時に、劉強は突然立ち上がり「私達は1小隊の日本鬼子を消滅させた。」、国際的クラス全体が万雷の拍手。学校の親睦会において、劉強は台の上で曲を演奏しながら、南京大虐殺を述べた。翌日彼は強制的に学校を追放された。
 劉強は言う、彼は時折この一つの「最初のとげ」がハッキリしていて、「奴隷根性」の視線で中国を見るような日本人がとても不愉快であることに慣れている。「だから現在日本の記者は私にまだ泥を塗りたいと思っているだろう。」。
 除名させられた後に劉強は「自由旅行」を始めた。目的地の福島へ行く途中、彼は兵庫県で多くの「地元に根ざしている人々」と出会う、彼らは歴史問題をタブーとしない真面目さがあるような感じで、「ただ大都市にいるそれらの人々は、彼らと右翼勢力は接触する機会が多く、同様ではない。」と劉強は言う。福島に到達し、劉強は被災者のためにメンタルケアを行い、無報酬の献血に参加、そこで半月ほど平穏な時間を過ごした。
 平穏は早々に打ち破られた。 2011年12月18日、まだボランティア期間中の劉強は「韓国大統領李明博が訪日し、日本に対して厳粛に慰安婦問題を解決することを要求、しかし日本の首相の野田良彦は強硬に拒絶した。」という政治ニュースを見た。この「双方(指導者)の口論に近い」ニュースを読んだ後、劉強は屈辱と激怒の支配にされ、すぐさま赤いペンで自分の白いTシャツの上に「謝罪」と塗りつぶした。「私はその時すぐに慰安婦の経験をした母方の祖母がいたことを思い出した。」
 怒りは消し難かった。劉強は「日本政界に少しでも警戒心を与える」「右翼分子に警鐘を叩き鳴らす」ともくろんだ。先人を見習い、靖国神社の壁の外側に塗料を吹き付けに行く。臆病を嫌う彼の日本の友人の1人は「あなたは男か?」と問い、一度温泉につかった時、劉強はついに決心しする。この危険な1歩のため、彼はまるまる一週間かけて十分な計画を立て、その上逃亡経路を計画し終えた。
 大事を12月26日に予定。 この日は毛沢東の誕生日であり、さらに重要なのは、劉強の祖母が亡くなった日であった、その上時間まで全て決め、明け方の4時とした。新四軍の「4」、同時に軍国主義の「死」を象徴していた。
 劉強のボランティアは終わった。

北京青年報掲載画像3
劉強の靖国神社放火後に日本テレビが放送した消火活動の画面

 2011年12月25日、劉強はスーパーマーケットから鉄缶に入ったガソリン4つを買い、スーツケースに押し込んだ後に福島から列車に乗って東京に着いた。
 当日の午後、彼は靖国神社の向かい側で現れ、「下見」の時に神社全体が死守的な態勢で厳重に警戒されているのを見た。彼は気づく、「神門」の1ヶ所に突破できる監視の死角があると、即座に神門を襲撃目標に定め、後で迅速にホテルに戻り、行動のための見取り図を制作した。後で3回は舞い戻って実際に調べた。夜、劉強は2時間だけ寝た。
 夜明け方2:00、劉強は黒いダウンジャケットを取り替え、マフラーを買って覆面し、それから神門から歩いて5分の場所まで車で行った。3:50、彼は下見の時に通り過ぎた側門近くに来て、パトロールのパトカーが離れるのを待ち、両手で支え、高さ1メートルの低い壁を飛び越し、勢いに乗って1本の巨木の下に隠れた。3:55、劉強はきちんと準備していたいくつかのマッコリの酒瓶の中にガソリンを注ぎ込み、その後に神門前に来て、基礎とてっぺんの国章に向かってぶち撒いた。4:00、劉強はライターに点火、火炎が燃え上がった。
 放火現場の路上から逃げ出し、世間を欺くため、彼は服装を変え、途中で更にわざわざ別の1台のタクシーに乗り換えた。 成田空港の韓国に飛ぶ便はすぐ前方で待機しており、1人の日本の警官が車を止め繰り返し劉強の証明書を調べた。 とうとう、警官は手を振って通した、「のど元まで出かかった」心は腹の中に戻った。 彼は無事に韓国へ逃げた。
 劉強は韓国ですぐにルーツを探す旅を探しを開始した。彼は祖母が生活したことのある木浦、大邱に行き、また曾祖父が犠牲になった場所であるソウルの西大門監獄博物館を訪問した。親友の雷霆が「私はさながら彼がその年にここで収監された情景を感じた。」との劉強の話を思い出した。
 そこで、劉強はなんと本当に自ら進んで逮捕されてソウルの刑務所に入った。2012年1月8日、彼は駐韓日本大使館前に来て、再度燃えている火炎瓶を過去にぶつけた。 今回彼は逃走せずに、その場所に立っていた。 1人の日本人が側でいななくように怒鳴った「ばか野郎! 歴史の問題が私達にどんな関わりがあるのか?!」。 2分後彼は警察に逮捕されて、後に「放火未遂罪」によりソウル中央地方裁判所で10ヶ月の刑罰が下された。
 これで、日本人は事情を知った。当日警察署で供述を記録している時、メディアの記者の一群はうわさを聞いて撮影のために駆けつけた。ガラス扉の中の劉強は日本のメディアが来ているのを認識し、そこで笑顔を現して迎え、彼は両手を広げ、体の黒いコートを開いて、白いTシャツの上に書いた「謝罪」の2文字を露出させた。この一幕が日本のANNのニュースによってちょうどよく撮影された。
 正門を開け、日本の記者が聞く「靖国神社の事、同じくあなたがやったのか?」。
 「もちろん私がやった!」と劉強は答えた。
 ここから日本のメディアは劉強を「劉被告」、「常習犯」と呼んだ。これから日本側はソウル高等検察庁を通じて韓国側に引き渡しを申し出る、要請は犯人を日本に引き渡し、靖国神社放火についての裁判を受けさせることにあった。日本側が提供した材料を述べる。「靖国神社の幅27.5メートル、高さ14メートルの木製の神門1枚、その計6ヶ所の部分を焼損させ、神門の破損をもたらした。」。
 結局韓国で服役して刑期を満了した後、劉強の以前の一事件について引き渡しの是非を決めるためにソウルで3度開廷され審理された、韓国側は10人の弁護団を派遣して弁護、弁護士の1人の鄭天●(●は女へんに朱)は北京青年報の記者に告げる、法廷での審理期間中劉強の両親もソウルにおり、母は当法廷に劉強の祖父である劉別生の歴史資料を提出、陳述時には劉強の祖母の経歴を泣きながら訴え、人に感動の表情を浮かべさせたと。
 審判の最終判断。ソウル高等裁判所は「日本への犯人引き渡しを不許可」との裁定を下した。この決定文書は明確に書いた。
 1.犯罪動機、日本政府の慰安婦などの歴史事実の認識と関連政策に対しての怒りによって引き起こした。
 2.犯人の政治理念と慰安婦などの歴史事実の見解における対応について、韓国と中国及び国際社会が広く認める見解と一致する。
 3.本件犯罪行為は政治的大義のために実施された。
 最終結論:本件で引き渡し対象とされた犯罪は政治犯罪に属し、引き渡しの条件を備えず、日本への引き渡しを許可しない。
 2013年1月、劉強は自由になった。 東洋で15ヶ月間漂泊した後に祖国の懐に復帰した。
 メディアの報道によると、日本政府はこれに対して大いに怒り、安倍晋三は「非常に遺憾」との声明を発表した。中国の外交官は情勢判断し、劉強を翌日の早朝にソウル発上海行の航空便に搭乗させることを決定する。劉強は搭乗したばかりで、日本が派遣した行動グループはすぐに空港に到着したが、無駄足を踏んだ。

北京青年報掲載画像4
日本テレビの劉強に対する報道 劉強は取調べの時に依然として「謝罪」の字がある服を着ている

 2013年1月、劉強は韓国から釈放されて帰国、その後上海の家で「堪え難い」2ヶ月を過ごした。日本と韓国での行為により、上海外事弁公室などの部門すべてが彼を事情聴取するために探し当て、劉家にいくらかの影響をもたらした。「私の父と母は『恥ずかしい』『面倒を起こした』と一日中話し、私の父は私が親子関係を断絶することを願った。」。劉強言う、「もしも私にこのような息子がいたら、私は間違いなく誇りに思う、愉快にはまだなれない。」。
 これに対し、劉強の両親は取材を受け付けない。
 韓国のソウル高等裁判所は劉強に対して下した判決の中の1部分で、「犯人には躁うつ病症状が存在するが、ただし鑑定結果は軽微とした」と言及していた。
 劉強は以前に韓国の精神病鑑定病院に1ヶ月滞在していたことを認め、司法鑑定に協力するためであるとし、しかし病気が彼に対して影響を生じさせていたとは思っていない。「人は若い時を軽々しく無駄にしない。私はとっくに治療を放棄している。」と彼は自嘲気味に言う。
 その後に彼は彼が多少重苦しい感じを受ける家を離れ、改めて広州に帰る。2014年は日清戦争120周年紀念で、新年の際に彼は新しい形式によって表現する立場を計画した。彼は韓国の「慰安婦対策協会」が毎週水曜日ごとに駐韓日本大使館の門前で抗議しているのを知り、彼は真似することを決めた。「甲午雪辱」のスローガンは彼に異なる場所での奮起を始めさせた。
 2014年の新年を過ぎたばかりの頃、劉強と彼の友人達は討論した。また暴力的形式を取るのはあまり好ましくない、「文芸的パフォーマンス」「彼の気持ちを表明するという側面的方法を用いる」に改める方がいい。
 親友の雷霆はいつも彼の言ったひと言を思い出す、私達は他人を変えられず、自分を変えることしかできない。何時までも自分の体から問題を探す。「放火は間違いなく悪い。彼も更に温和にと考えたことがあり、理性的方法、他の人に呼びかけるため遊説に行く、しかし皆には各自の考えがあったようだ。彼は国民が団結して立ち上がることを望み、再び意気地が無くなったり、内輪もめをしない。このような上演はたぶんすぐに盛んになって民族の自信を惹起し、他人に感染する。」と雷霆は言う。
 劉強会はピアノを弾き、歌を歌い、また大きな字を一人で書く。2月2日、彼は「日本謝罪弁償」と書いた書画及び日本の政治家の靖国神社参拝反対を表明した大きな文字で書かれた手紙1通を書いた。3日後、劉強はこれらの作品を持って駐広州日本総領事館の門外に来て、初めてパフォーマンスをやり遂げた。12日、彼は日本の国旗を背景に際立たせるために「中華崛起(中国の決起)」の書画を高く掲げた。3月19日に再度訪問した時彼は阻止に遭う、しかし「パフォーマンス」を進め続けることを堅持した。

■困窮と堅持■

 身の回りには悪辣な言葉遣いで彼の行為を皮肉る者がおり、彼が「民族の気骨」の代表とみなす者もいる。雷霆が数年前に初めて劉強に出会った時、依然として彼の心理指導課程の学生で、「彼はとても一般とは異なっていた。彼の送り出すあのようなプラスエネルギーは、人に正義感と勇気と感じさせ、人に思い切って自己を打ち破らせる。」。
 しかし一般と異なることは劉強に面倒をもたらした。彼の職業は元々外国語の先生、翻訳、心理療法士であり、しかし以前より彼が協力していた外国語研修機関、心理課程研修クラスが、この時次から次へと彼と連絡を切ち、彼が今なおもう半年も持続的な無収入状態という結果をもたらした、「日本人を用いることなく、私達の身内は私を死んだことにした。」。
 劉強は元々広州の「新四軍後代合唱団」に参加していて、しかし彼は思っていた、彼のこの「子孫」は、他の「子孫」とあまり気が合わないと。劉家の人の紹介によって1人に接近すると、合唱団は以前には韓国から帰って来た劉強に対して尊敬を増し、その上合唱団の芸術総監督を担当させた、ただ「大使館のパフォーマンス」を次第に展開した後から、正副団長は相次いで劉強とけんかをした。
 どこにも行けない時、劉強は思う、髪を剃って監獄に自首して止めにした方が良いのか。彼は速やかに短く友人グループに送信、傍らにふさわしく、「輝く剣」の中で李雲竜の水平にした刃物で馬を止めるイメージの1枚。
 4月19日、強は自分で長年の長髪を一剃りしてきれいにし、ただ頭皮の1枚に貼り残したような短いヘアスタイル、それから軍隊の制服を着て自分にレンズに向けて撮影、そしてそれをマイクロメールヘッダとして今なおそのまま用いているようだ。「靖国神社放火の件がまだ終わっていないため、来週天河区検察院に自首に行く、だからまた投獄されるかもしれない。自分で先に頭を剃り、積極的に準備中だ!」と彼は言う。
 韓国から帰って来た後、劉強は監禁について表明、収監などの形態にもう反抗しない気分と。相反して、彼は依然として上述の形態よって自発的に「監獄を求め」に行く。彼は言う「私はこのような曖昧な自由を望まない。」。
 しかし彼は決して投獄されない。 20日後、天河検察院は公安局を探しに来た劉強に訪問され、それから公安局は彼に派出所へ来るよう指図し、最後の派出所警察官の反応は「フフフと笑う」だった。
 公務や検査を除き、劉強が訪問した領事館。5月、彼は以前に韓国駐広州領事館が行った「セウォル号」の沈没慰霊祭に参加したことがあり、副総領事の鄭載男の「高い格式の接待」に感慨をを受けた。この頃彼はロシア語を学んでいる最中で、またロシア駐広州領事館に来て、副領事のセルゲーエフの目の前で1曲ロシア国歌を歌った。彼の歌声は世俗的ではなく、「歌う」ソフトウェアの中で各種の言語のラブソングの間に、「大刀行進曲」と「万里長城永不倒」を挟み込んだ。く倒がいつまでも倒れない”をはさんでいます。
 これらを除き、更に多い団体や組織と彼が接触することはない。本来は彼と一つの戦線上の「保釣」の人々は一緒に立つべきで、また次々にある種類の微妙な原因と彼によって決裂し、態度を変えて敵となる。ひいては、父母の両親も彼と日に日に疎遠になっている。
 ただ別の1面で、劉強はまた周囲にいる人の「関心」が彼についているといつも感じていて、彼に馬鹿馬鹿しいと感じさせる。彼に連絡するために時々現れる少しばかりの見知らぬ人があり、彼は思い切って彼らを同じ微信(訳者注:スマートフォン向けのコミュニケーションアプリ)グループ内に引き入れた。「(日本)朝日新聞があり、NHKがあり、私達の国家のメディアのがあり、それに関連部門もある。私は話の中あって私を相手にする人はおらず、しかし彼らはグループ抜けないでいて、あなたを見ている。」と彼は言う。日本にいる北京青年報の記者が劉強ついて話し出す時、テレビ東京から来た某記者は評論を行うのを以前拒絶した。
 6月11日の昼食の後、劉強はあの件のアイロンがきいた軍礼服の上着を着て、携帯電話を取り「甲午雪辱媒体群」と打ち込み、音声キーを押し下げて「私は午後にまた文芸的パフォーマンスに行く、見に来るか?」。
 徒歩による駐広州日本総領事館まで道中で、劉強は自嘲して言う「今は彼らさえ来ない。」。

北京青年報掲載画像5
劉強は日本の首相の安倍晋三の靖国神社参拝を「トイレ」で風刺する

 日清戦争120周年が到来した際、中日両国の関係と両国間のいろいろの問題が与える矛盾の存在に益々関心を持つ多くの人がいた。 2年以上前に慰安婦問題の謝罪をすぐにしない日本に不満をつのらせたことが原因で、日本の靖国神社及び駐韓日本大使館に火炎瓶を投げつけた慰安婦の子孫の劉強は、今日の午後に10人の意気投合者と共に駐広州日本領事館前で抗議しようとしていて、彼らは横長の額を長く延ばすことと演説を発表することのために集まり、この喚起によって中国、韓国並びに良識的日本人の注意を引くことを希望し、同時に、中国民間がしている理性的抗議の情報が日本に伝わだろう、それで活動は続く。
 今回の行動を起こした劉強は、紅軍である新四軍の抗日英雄烈士の子孫を自称し、その母方の祖母は韓国人で、1942年に日本軍に強制的に連れ去られて中国南部で慰安婦に従事した。彼は昨日に「5日を選んで駐広州日本領事館に行く、私が2012年に駐韓日本大使館へ火炎瓶を投げつけてから2周年になったため」と本紙に示した。同時に、彼は「以前の行為は過激だった」と認めた。

■横断幕を引き延ばして演説 10人もいないと述べる■

 「今回は温和な方法の表現によって訴え、午後2時半に始めて5時に終わることを予定し、現場には10人もおらず、更にメディアに知らせていない。」。広州政府に一時的に知らせていないが、しかし劉強は言う、現場で摘み出されることを恐れていないと。彼は言う、近頃日本国内の右翼勢力が台頭し、その首相の安倍晋三は去年の12月26日に日本の第二次世界大戦のA級戦犯を奉る靖国神社を参拝し、安倍の「鬼への拝礼」との振る舞いに抗議するため、今日横断幕を引き延ばす以外に、また「日本の軍国主義に反対」とする演説を発表し、その他に歌とダンス等の表現方式を採る。

■去年に過去の事を寛大に許すことが大切と語ったことがある■

 彼はまた示す、政府が追い払うかどうかに関係なく、彼は辻の水曜日に再度駐広州日本領事館で平和的デモをすることになる、それ以後3月に開始してから依然として毎週水曜の午後にここで抗議することを堅持、「中国人、韓国人ばかりではなく良識的日本人の関心をも喚起することを希望し、中国民間の理性的デモの情報が日本国内に伝達したいと思う。」。
 去年の1月4日から事実上、劉強は韓国で10ヶ月間服役した後、中国に送還された。その後、彼はすぐに英語教育と翻訳に専念し、更に去年何度も実名のミニブログ上で「過去に発生した一切に対して、寛大に許すことが大切、寛大な許し、やはり寛大な許し。」と発表した。

■安倍の靖国神社参拝 ミニブログで「中国の最も危険な時」と配布■

 でも去年日本の首相の安倍晋三が12月26日に再度靖国神社を参拝するに至り、彼はミニブログで「中国民族は最も危険な時に至った」と語り、更に日本をからかった自分のトイレでの画像「中国勇士は厠安倍小三の神社参拝をトイレで笑う」を貼り付けた。この類の行為は一つには家族の境遇の影響を受けていて、、二つ目はその母が韓国高等裁判所に証人として出廷した時に「息子の靖国神社放火は日本の植民地支配を心底憎んでいたせいだ」と話した通りだ。
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靖国神社の放火犯は中国人? 続報22

 10日程前、サーチナで劉強の記事が掲載された。北京青年報が報じた記事を新華社などの多くの中国メディアが転載したと報じ、記事の意図を過激な反日運動に対して興ざめさせようとしたのではと推測している。北京青年報が記事を出した7月7日は盧溝橋事件発生日で、中国で反日感情が高まる日に、劉強対して否定的な記事をわざわざ出したことに政治的意図を見たようだ。
 記事によると、「帰国当初は劉容疑者を『英雄視』する人も多かったが、『奇矯な反日行動』を繰り返すため、周囲ももてあまし、次々に離れたという。」とのこと。劉強のミニブログ(微博)「劉恕恩的微博」(「靖国神社の放火犯は中国人? 続報21」参照)からは、あまり賛同者がおらず、悲哀を味わっている様子がうかがわれるので、記事の通りなのだろう。

 サーチナの記事には、北京青年報の記事の要約も書かれており、帰国後の行動も書かれている。その部分を抜き出す。
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◆靖国放火犯のその後=「奇矯な反日行動」繰り返し周囲ももてあます・・・中国で盧溝橋事件の日に掲載◆
http://news.searchina.net/id/1536986
~略~
劉容疑者は上海に住む両親の家に戻った。上海市当局は「日本および韓国における行為」について、事情聴取を行った。両親は次第に劉容疑者を「つらよごし」、「面倒をおこして」とののしるようになった。
 劉容疑者は韓国での取り調べの際、病院に1カ月入院し精神鑑定を受けたという。「軽度の躁鬱症」との診断だったが、劉容疑者は精神状態と犯行の関係を否定した。劉容疑者は両親との折り合いが悪くなったため、広東省広州市に移り住んだ。
 反日運動は継続した。ただし暴力的方法については、2014年初に友人と話しあったことで「好ましくない」と考えるようになった。劉容疑者はピアノを弾け歌も歌える。書もたしなむので「芸術パフォーマンス」で自らの気持ちを表現する方法に切り替えたという。
 帰国してからは外国語教師、通訳、心理セラピストなどの仕事をしたが、劉容疑者の「個性が強すぎる」ため、働き先は次々に、劉容疑者との関係を絶った。そのため、過去半年は無収入という。
 広州市には、革命前の共産軍の理念を高揚する目的をもつ「新四軍後代合唱団」(新四軍は日中戦争時の共産軍部隊のひとつ。『後代』』は『子孫』の意)がある。劉容疑者は同合唱団に加わった。合唱団は当初、劉容疑者を「韓国帰りの英雄」として歓迎し、芸術総監督の地位につけた。しかし劉容疑者が「奇矯な行動」を繰り返すので、合唱団団長や副団長と「ケンカ」をするようになった。劉容疑者は合唱団にも顔を出せなくなった。
 結局は行き場所がなくなった。それでも単独で、「反日パフォーマンス」を続けている。
 背中に「精忠報国」と筆で大書きする。どのような方法かは不明だが、自分で書くので4時間はかかる。パフォーマンス時に着用するのは、広州戦士歌舞団の特製で、新四軍後代合唱団の出演用衣装でもある07式軍礼服だ。日本領事館が入居するホテル前で、自らが書いた「日本謝罪」、「中華崛起」などの文字を広げて見せ、大声で歌を歌う。軍礼服を脱ぎ、背中の文字を披露する。
 その後、ホテル内に「突入」しようとするが、阻止される。警備員らともみ合いになる。そして、やってきた警察官に引き渡される。警察は簡単な調書を作成するが、すぐに釈放する。毎度のことで警備員や警察官らとは「顔なじみになった」という。
 劉容疑者は、「この行動を通じて、民衆の愛国の熱情と自信を奮い起したい」と説明した。ホテル従業員は「私どもも、デモンストレーションには反対しませんがね。彼の行為はいつも、ちょっと過激です」と、眉をひそめた。
 記事は劉容疑者について、「愛国の勇士と強調する人もいる。非理性的な衝動にまかせているだけと非難する人もいる」と紹介。
 劉容疑者は1974年生まれだ。記事は「不惑の歳を過ぎたばかり。いまだ、ひとりで左に右に突き当たりながら、その意義を追い求めている」と評した。
~略~
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 「背中に『精忠報国』と筆で大書きする。」とあるので、調べてみると「中国男子談火焼靖国神社:点燃的不是仇恨的野火」という記事の中に画像が掲載されていた。
劉強の背中の文字

 キャプションには、「6月11日、劉強来到日本駐広州総領事館後脱下外套、亮出自己花4小時文出的『精忠報国』四字」とある。辞書を引くと、「文」の意味として「文字」「文章」「言葉」の他に「入れ墨をする」ともあるので、「文出」が「書いただけ」を意味するのか、「入れ墨を入れた」ことを意味するのか、よく分からない。上記記事からすると「書いただけ」なのかもしれない。
 キャプションを訳してみると、「6月11日、劉強は駐広州日本総領事館へ来た後にコートを脱ぎ、自分で4時間掛けて書いた模様である『精忠報国』の四字を出してみせた」となるだろうか。

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中国男子談火焼靖国神社:点燃的不是仇恨的野火
http://www.yznews.com.cn/news/2014-07/07/content_5289825.htm

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