六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴13

 岩崎きみは1911年9月15日に東京市麻布区で亡くなり、鳥居坂教会の共同墓地に埋葬(墓誌に「佐野きみ」の名があります)されました。鳥居坂教会は、カナダメソジスト教会(現・カナダ合同教会)の伝道により1883年に創立された教会で、1941年にプロテスタント諸派が合同して日本基督教団となるまでは「麻布メソヂスト教会」と呼ばれていました。
 カナダメソジスト教会は「永坂孤女院」という孤児院と密接な関係があり、そのために、きみは永坂孤女院に預けられていたと思われています。
 今回はこの辺を探ってみます。

◆メソジスト派
 メソジストは、18世紀のイギリスでジョン・ウェスレーが起こしたプロテスタントの教派です。イギリスではさほどの勢力になりませんでしたが、開拓期のアメリカ大陸で普及しました。ところが、様々な対立で次々と分裂を繰り返し、複数のメソジスト派教会が誕生することになります。
 幕末から明治にかけて様々なキリスト教団体が日本に宣教師を送り込みましたが、メソジスト派も同様でした。メソジスト派からは米国メソジスト監督教会、アメリカ南メソジスト監督教会、カナダメソジスト教会の宣教師が来日し、1907年にこの3派が合同して日本メソヂスト教会を設立するまでバラバラに伝道活動をしていました。米国メソジスト監督教会は東北・関東、アメリカ南メソジスト監督教会は関西、カナダメソジスト教会は東京・静岡を中心に伝道していたようです。
赤い靴 日米メソジスト教会合同図

◆カナダメソジスト教会の伝道
 明治維新後、静岡藩では旧幕臣のための学校である駿府学問所(後に静岡学問所に改称)が設立されます。勝海舟はこの学問所の教師にアメリカ人教師を招聘、牧師でもあったエドワード・ウォーレン・クラークがアメリカから来日(1871年)し、理化学や語学などを教える傍ら、日曜日に自宅でバイブル・クラスを開いていました。1872年、クラークの後任としてカナダメソジスト教会の宣教医デイヴィッドソン・マクドナルドが赴任。同年、静岡学問所は廃止されますが、「賤機舎」と改称して再出発し、マクドナルドも教師を続けます。マクドナルドも英語、化学、歴史などを教える傍ら毎週日曜日に牧師館で聖書講座を開催し、伝道に努めていました。キリスト教の布教は禁止されていましたが、黙認されていた模様です。1874年9月、マクドナルドは11名の学生らを洗礼し、日本における初めてのメソジスト教会となる静岡教会(現・日本基督教団静岡教会 静岡市葵区西草深町)が組織され、受洗した山中笑、土屋彦六、山路愛山、今井信郎らは「静岡バンド」と呼ばれています。この静岡バンドのメンバーらは、静岡教会を中心に精力的な伝道を行い、清水市、浜松市、藤枝市、島田市、川崎町、焼津市、掛川市、沼津市の各地に多数の教会を誕生させたそうです。
 カナダメソジスト教会はマクドナルドともに宣教師のジョージ・コクランも一緒に来日させていました。コクランは横浜で伝道を始めましたが、中村正直の開設した私塾「同人社」の教師になり東京に移動。1876年に牛込教会(現・日本キリスト教団 頌栄教会)を創立しています。
 1876年、チャールズ・イビー宣教師とジョージ・ミーチャム宣教師がカナダメソジスト教会から更に派遣されます。イビーは、甲府の英学塾の教師に就任し、山梨県下を巡回して多数の教会や講義所を設立します。ミーチャムは静岡県沼津で伝道し、沼津教会を設立した後、東京に戻り、下谷メソジスト教会を設立しました。
 カナダメソジスト教会は、この様にして伝道活動を開始し、東京で麻布メソジスト教会(現・鳥居坂教会)、東洋英和女学院と麻布孤女院を、静岡で静岡メソジスト教会、静岡英和女学院と静岡ホームを、山梨で甲府メソジスト教会、山梨英和学院と甲府YMCAを設立することになるのです。

◆東洋英和女学校と永坂孤女院
 メソジスト派は教育事業や社会福祉事業にも熱心で、日本でミッションスクールを開校するのですが、伝道と同様にバラバラに活動していましたので、3教派それぞれがミッションスクールを設立。米国メソジスト監督教会は青山学院、アメリカ南メソジスト監督教会は関西学院、カナダメソジスト教会は東洋英和となる学校を開校しています。

 1882年、カナダメソジスト教会婦人伝道会社から派遣された婦人宣教師マーサ・J・カートメルが学校設立のために来日します。カートメルは翌年に東京の麻布鳥居坂に土地を購入し、麻布メソジスト教会を設立。その翌年の1884年に、男子の東洋英和学校(現・麻布学園)と女子の東洋英和女学校(現・東洋英和女学院)を開校しました。
 東洋英和女学院には、生徒だけで奉仕活動を行う「王女会」(King's Daughter's Society)という1888年に発足した団体がありました。王女会のメンバーは、小学校に通学できない貧民児童の為の日曜学校の教師などをしていましたが、1893年に麻布地域で奉仕活動を始めた卒業生の吉田勇子が、身売りされようとしていた少女に出会ったことが切っ掛けで、この少女を孤児院で養育することをメンバー達が計画しました。これが永坂孤女院の始まりです。この孤女院は麻布一本松に在ったと推測されていて、1894年には13人の少女が収容されていたそうです。
 孤女院設立から約10年後、婦人伝道会社や在校生の父母、卒業生が出資し、麻布本村町に施設を建築(1904年12月)しますが、1908年に麻布永坂町50番地へ移転します。そのため、「永坂孤女院」と呼ばれました。建物はカーマン・ホールと呼ばれ、1階は日曜学校の校舎、2階が孤女院でした。
 永坂孤女院は1928年に「永坂ホーム」と改称しています。
赤い靴 永坂孤女院

 ちなみに、1911年10月4日の「キングスドオターズ会記事」(王女会の会誌?)には、佐野君子の葬儀に花輪一輪を贈ったとの記事があるそうです。佐野君子とは、佐野安吉の養女になった岩崎きみのことで間違いありません。
 王女会は麻布メソジスト教会で葬儀が行われる度に花輪を贈っていた訳ではないでしょうから、王女会がきみと係わり合いを持っていたことが推測されます。静岡出身の9歳の少女が王女会と係わり合いを持つとしたら、それは永坂孤女院しかないでしょう。やはり、きみは永坂孤女院に入居していたようです。
 きみは何故永坂孤女院に入居することになったのでしょうか。きみを養女にした佐野安吉は、北海道の監獄に収監されていた期間を除けば、1905年に平民農場へ入植するまで地元の静岡県で暮らしていました。また、岩崎家は貧農だったと思われ、岩崎家の人々が東京に縁があった様子はうかがわれません。ですから、安吉若しくは岩崎家の人々が、永坂孤女院又は麻布メソジスト教会と直接接点を持っていたとは思えません。安吉と永坂孤女院を仲介した組織や人物がいたと推測するのが妥当でしょう。それは誰でしょうか。

◆静岡ホーム
 カナダメソジスト教会には、静岡県に「静岡ホーム」という孤児院がありました。静岡ホームは、1907年4月に松井豊吉をホーム長にして設立されていますが、その前身は「出征軍人遺家族幼児保管所」でした。出征軍人遺家族幼児保管所は、カナダメソジスト教会の宣教師ロバート・エンバーソンが日露戦争に出征し、戦死した軍人の遺家族を支援するために作った施設で、1905年8月、静岡市鷹匠1丁目に設立されています。
 きみが静岡の岩崎家を離れたのは、1904年9月から間もなく、遅くとも1905年5月までと推測されます。この時期には、静岡ホームはおろか、前身の出征軍人遺家族幼児保管所も出来ていません。ですから、きみが施設に預けられたことに関して、静岡ホームは全く関与していないと判断されます。
 蛇足ながら、ロバート・エンバーソンの経歴は以下の通りです。
●1866年 英領カナダオンタリオ州ベンスフォード村にて生誕。
●1899年 トロント・ビクトリア大学を卒業。文学士、神学士の称号を得る。
●1901年 来日、静岡教会に着任。
●1907年 静岡ホームを創設。
●1910年 帰国。郷里にて永眠(43歳)。

◆江尻教会
 安吉の出身地である庵原郡江尻町(現・静岡市清水区江尻町の辺り)は東海道の18番目の宿場(江尻宿)があった場所で、静岡市と合併する前は清水市でした。岩崎家(有渡郡不二見村)があったのも後の清水市です。カナダメソジスト教会は、静岡教会を拠点に静岡県下で伝道活動を行っていて、清水市でも教会を設立したとあります。しかし、静岡教会や沼津教会(1877年創立)、掛川教会(1886年創立)、浜松教会(1884年創立)などは確認出来るのですが、清水市にカナダメソジスト教会が設立した教会は見つかりませんでした。ただ、「相良教会七十年史」に「三十年七月六日新任小出市太郎牧師を迎え、藤枝教会太田虎吉牧師を部長代理として、臨時四季会を開き予算を議している。小出牧師は江尻教会より来られ、三十一年に甲州河東教会に去られるまで、その間一ヶ年に過ぎなかったが、九月台風の被害のため会堂、牧師館の修理をしている。」との記述があることから、1897年以前に江尻町で江尻教会が設立されていたことは確かでしょう。
 ちなみに、江尻町には1900年に設立された江尻美普教会(現・日本基督教団清水教会)というメソジスト派の教会がありましたが、この教会は日本美普(メソヂスト・プロテスタント)教会が設立した教会ですので、カナダメソジスト教会とは違う系統に属していました。

 安吉は原胤昭の教誨を受け、プロテスタントになりました。原胤昭は教誨師の時、組合教会(日本組合基督教会)の信徒でしたから、安吉も教派的には会衆派ということになるのでしょうが、安吉が教派を重視していたかというと疑問です。原胤昭は東京に戻ってからは、メソジスト派(米国メソジスト監督教会)と大変親密な関係になっています。ですから、安吉が江尻町に帰った後、カナダメソジスト派の江尻教会に出入りしていたとしてもおかしくは無いでしょう。現に、安吉は北海道のメソジスト派教会で懺悔談を語っていたこともあるのですから。
 安吉が江尻教会に関係していたとすると、一つの仮説が出来上がります。岩崎家が生活苦できみを手放さなければならない状況に追い込まれ、養子先を探すことになった安吉は付き合いのあった江尻教会に相談。カナダメソジスト教会の傘下には、永坂孤女院があったので、ここに預けることを提案され、永坂孤女院に岩崎きみを預けた。根拠の弱い仮説ですが可能性はなくはないでしょう。

◆富士育児院
 静岡県には、渡辺代吉が開設した富士育児院という施設もありました。
 代吉は13歳で出家し、日蓮宗久遠寺の住職妙光院月海の下で得度。義海と名乗り、激しい苦行で肢体不自由の身となりました。それでも修行を止めず全国行脚をしていましたが、横浜でキリスト教宣教師のジェームス・バラ博士に出会ったことが転機になりました。代吉はキリスト教を折伏しようとジェームス・バラを訪問したのですが、逆に説き伏せられ、還俗して横浜市山下町のキリスト教伝道学校に入学し、布教に従事します。身体障害者でありながら真摯に求道する代吉の姿に、アメリカから同情金が送られ、それを元手に代吉は、故郷の静岡県に貧困家庭の学校に通えない児童約30人を集めて「子守学校」を設立(1901年)しました。子守学校では、造花の内職をする授産事業も始めたのですが、1年余で失敗に終わります。集まった児童は次々と去ったのですが、身体障害者の孤児が3人が行き場もなく残されました。自らも障害者の代吉は、この子供達を養育するために収容施設を開設させます。これが富士育児院の始まりでした。
 富士育児院は、1903年6月10日に静岡県富士郡吉原町137番地(現・富士市)の空き家を借りて創立され、1904年11月にジェームス・バラの援助によって民家を買収し、富士郡島田村依田原7番地(現・富士市)に移転しました。
 富士育児院の創設には、代吉の友人だった渡辺政太郎も協力していました。政太郎は、原子基を連れて東京から静岡に赴き、富士育児院の仕事を手伝っていましたが、創設から1年足らずで手を引きます。原子の方は、1905年に伝道行商を始めるために退職するまで助務員として働いていました。

 きみを手放すとしたら、養子先や育児施設を探さなくてはなりません。安吉は、刑務所帰りで人々から敬遠されていたようですから、養子先を見つけることは困難だったと思われます。養子先が見つからないとなれば、頼れるのは孤児院などの施設しかありません。
 富士育児院は富士郡長が名付親となるなど、県下では知られた存在でしたので、安吉もその存在を耳にしていたと思います。安吉がいた不二見村(現・静岡市清水区)と富士育児院のあった吉原町(現・富士市)は30km程離れていますが、非常に遠いという程でもありません。もしかしたら、安吉は富士育児院に行って、きみを預かってもらえないか相談していたかもしれません。ただ、富士育児院は「収容児童は主として心身障害児で、特に当時一般孤児院、育児院で収容を拒否された、重症肢体不自由児童を収容し、収容力に余力があれば、一般孤貧児を収容しております。」というスタンスを取っており、各市町村より送りこまれてきた孤児・精薄児の増加により資金や職員が不足していたようなので、安吉が2歳児のきみを引き取って欲しいと願い出ていたとしても断られていたのではないでしょうか。

 安吉が富士育児院を訪れていたとしたら、理由はきみの里子の件以外は考えられませんから、訪れた時期はきみが安吉の養子になる以前のことでしょう。つまり、1904年9月以前ということです。1904年9月には、まだ原子が富士育児院で働いており、9月の数ヶ月前なら政太郎もいたかもしれません。安吉は原子とここで出会ったのではないでしょうか。
 肝心のきみの件は、前述の通り、断られていたでしょう。ただ、原子の妹2人は東京孤児院に預けられていて、政太郎の妻の若林八代は結婚する前は東京孤児院に勤めていたことから、原子と政太郎には東京孤児院とつながりがありました。だから、富士育児院では受け入れられなかったとしても東京孤児院を紹介することも出来たはずです。しかし、そうした様子はみられません。東京孤児院では、1904年2月から始まった日露戦争で孤児や貧児の入居希望者が増え、対応しきれない状況になっていたそうです。もしかしたら、紹介したということもあったかもしれませんが、きみには母親がいてその親代わりの安吉もいたわけですから、断られたのかもしれません。
 安吉が富士育児院を訪れていたか否かは、資料が無いため分かりません。ですが、安吉が富士育児院を訪れていたと仮定すると、静岡三人組と安吉に接点が出来、安吉が平民牧場に入植することになった理由が説明できます。安吉が富士育児院を訪ねたことで原子や政太郎と面識が出来、安吉が新天地でやり直したいとの希望を持っていたことを知っていた原子や政太郎が、平民牧場に入植出来ない政太郎の代役として安吉に声を掛けた。こう考えると、静岡三人組の深尾韶と原子、そして安吉という組み合わせが出来たのが納得できるのですが。


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信 友 会 会 報Vol.61-No.06
http://www.asagaya-church.com/shinyuukai/kaihou201001T1.pdf
日本メソヂスト教会社会事業史の試み
http://wesley-methodism.com/pdf/gakkai2005/gakkai2005c.pdf
日本基督教団静岡教会
http://www.shizuoka-church.jp/guide
静岡バンド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89
社会福祉法人 静岡ホーム
http://www.shizuoka-home.or.jp/page10.html
日本基督教団相良教会七十年略史
http://church.ne.jp/saganan/html/history.html
美普教会史 1―日本におけるもうひとつのメソジスト教会―
http://wesley-methodism.com/pdf/gakkai2003/gakkai2003h.pdf
File03 渡辺 代吉 氏
http://www.shizuoka-wel.jp/michishirube/post-3.php
社会福祉法人 芙蓉会100年の歩み
http://migiwaen.com/public_information/fuyoukai_history_100.pdf
わが国における肢体不自由児施設の歴史的展開(上)
http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/5776/1/20021-8-007.pdf
「東京孤児院月報」復刻版カタログ
http://www.fujishuppan.co.jp/wordpress/wp-content/uploads/2011/11/tokyokojiingeppo.pdf

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留寿都と赤い靴12

 前エントリ「留寿都と赤い靴11」で取り上げた菊地寛氏の著書「赤い靴はいてた女の子」で、菊地寛氏が繰り広げた創作ストーリーには、明らかな間違いが幾つもあります。例えば、佐野安吉が鈴木志郎より後に平民農場に入場したなど。ですが、岩崎せきの再婚話や死亡場所などは具体的に書かれてますから、戸籍の情報を参考にしたのだと思います。ですから、それらの情報と以前調べた情報も加えて戸籍上のことを整理します。

◆岩崎家及び佐野安吉の戸籍上の情報
●岩崎清右衛門
弘化元(1844)年7月13日:誕生。
明治23(1890)年4月10日:死亡。

●岩崎せき<清右衛門の妻>
安政6(1859)年5月10日:誕生。
明治23(1890)年12月:小沢佐七と再婚。
明治24(1891)年:金作を出産(父は佐七)。
明治25(1892)年:佐七と離婚。金作は佐七が引き取る。佐七と金作は除籍。
明治35(1902)年5月:甲府で死亡。
※「赤い靴はいてた女の子」では、「せきもかよがお産をする2ヶ月前に他界」「(せきの)葬儀を済ませてからひと月後、かよは生み月を迎えた」と記述されています。以前のエントリ「留寿都と赤い靴9」では、せきの死を6月頃としましたが、前記述から5月に直しました。

●岩崎かよ<清右衛門の長女>
明治17(1884)年1月13日:誕生。
明治35(1902)年7月15日:きみを出産(私生児)。
大正4(1915)年9月:鈴木志郎と入籍。
昭和23(1948)年:小樽市で死亡。

●岩崎辰蔵<清右衛門の長男>
明治19(1886)年1月18日:誕生
明治23(1890)年:父の死後、戸主となる。
明治39(1906)年4月20日:虻田郡真狩村字八ノ原で肺疾により死亡
※「赤い靴はいてた女の子」には、「三月も半ばを過ぎると、~略~辰蔵は、自らを励ますようにかよや、志郎に言った。~略~早くマチの医者に見せねばと顔を曇らせた。激しい風が吹き荒れた翌朝、辰蔵は冷たい骸に変わっていた。」と記述されていたので、前エントリ「留寿都と赤い靴11」では、辰蔵の死を「3月半ば過ぎ」としました。しかし、「顔を曇らせた」日の翌日が「激しい風が吹き荒れた」日ではないとも読めます。ですから、「平民農場の興亡 <北海道の新しき村> 下」(留寿都と赤い靴4参照)の記述、「明治三十九年二十一歳の辰三が四月二十日に肺疾で死亡した」に従いました。

●岩崎きみ<かよの長女>
明治35(1902)年7月15日:誕生(私生児)。
明治37(1904)年9月19日:戸主・佐野恒吉(安吉の弟)の戸籍に姪として入籍。安吉の養子。
明治44(1911)年9月15日:午後9時、東京麻布区で死亡。

●佐野安吉<佐野菊蔵の長男>
嘉永3(1850)年5月8日:誕生。
明治XX年:結婚。
明治XX年:妻と離婚若しくは死別。
明治15(1882)年1月10日:廃嫡。
明治XX年:戸主が佐野恒吉になり、戸籍に兄として記載される。
明治37(1904)年9月19日:きみを養子にする。
昭和XX年:戸主が佐野静司になり、戸籍に伯父として記載される。
昭和32(1957)年12月25日:年月及ぴ場所不詳死亡の許可が下り、除籍


◆岩崎せきの死について
 「赤い靴はいてた女の子」で菊地寛氏は、せきが安産祈願のために身延山に参拝し、甲府に立ち寄ったところで亡くなったとしていました。身延山というのは、日蓮宗総本山の久遠寺のことでしょう。また、せきが甲府で亡くなったとしたのは、菊地寛氏が創作する意味はありませんから、戸籍にそう記載してあったからでしょう。
 地図で位置関係を確認します。Aは清水、Bは身延(久遠寺)、Cは甲府です。
赤い靴 身延道

 清水-身延間は約50km、身延-甲府間も約50kmです。
 清水からみると、甲府は身延の先にあり、祈願のついでに立ち寄るような距離ではありません。ですから、せきは安産祈願のために旅立ったのではなく、甲府若しくはその先の地に行こうとしていたのです。せきが身延山に参拝したという記録が残っているとは思えませんし、菊地寛氏も調べた様子はありません。身延山に参拝したという話は、せきが甲府で亡くなったことを説明するために創作したのでしょう。
 ちなみに、「赤い靴はいてた女の子」には、岩崎家の菩提寺は清水にある臨済宗の東向寺で、過去帳に清右衛門、せき、辰蔵の名があったと書かれています。岩崎家は日蓮宗ではなく、臨済宗の檀家だったようです。

 せきは何故、かよの臨月近くになって、甲府若しくはその先の地に行こうとし(若しくは目的地から戻る途中で)、43歳で亡くなったのでしょうか。もしかしたら、「子供が産まれるので、かよを妊娠させた相手に会いに行った」「出産費用を親類などに借りに行った」ということだったのかのしれません。
 せきが亡くなった頃の女性の平均寿命は45歳位でしたが、40歳の平均余命は約28歳でした。つまり、せきが平均余命をまっとうしたら、68歳位まで生きる計算になります。清右衛門が45歳で亡くなっていますので、せきが43歳で亡くなっても不思議は無いのですが、死亡原因が気になります。病死や事故死なのか、それとも犯罪死だったのか。
 せきの旅の目的と死亡原因は、今となっては知る由もありませんが、きみの出生と関わり合いがあるような気もします。


◆佐野安吉がきみを養子にしたことについて
 きみは、佐野家の戸籍に入籍していました。入籍日は明治37年ですので、既に明治31年式戸籍(明治31年7月16日から大正3年12月31日)の様式に切り替わっていたでしょう。その様式で戸籍を再現すると下図のような感じになるのではないでしょうか。ただし、佐野恒吉の妻ついては適当に作成し、佐野静司を除く子ついては存在するか分からないので省きました。
赤い靴 佐野恒吉戸籍1

赤い靴 佐野恒吉戸籍2

 きみの養子縁組が行われた時、各人の年齢は以下の通りでした。
●岩崎きみ  2歳
●岩崎かよ 20歳
●岩崎辰蔵 18歳(戸主)
●佐野安吉 54歳
●佐野恒吉 40歳(戸主)

 明治31年に制定された旧民法(明治民法)よって家制度が確立し、戸主が家族の統率のために様々な権利義務(戸主権)が定められました。戸主権には、家族の婚姻または養子縁組に対する同意権(旧民法第750条)や家族の入籍又は去家に対する同意権(旧民法第737条)がありましたから、安吉ときみの養子縁組ときみの佐野家への入籍に関し、岩崎家戸主の辰蔵はもとより、佐野家戸主の恒吉も同意していたのでしょう。また、きみの親権はかよにありましたから、かよも当然同意していたはずです。
 ただ、ここで問題になるのは、辰蔵がまだ未成年(旧民法第3条)だったことです。母のせきが存命中は、せきが代行(旧民法第895条)することが出来たので問題はありませんでしたが、この時には既に亡くなっていました。親権者のいない未成年者には、後見人を定めることになっていました(旧民法第900条)が、辰蔵に後見人はいたのでしょうか。安吉はせきと内縁関係で、せきの死後も安吉はかよと辰蔵に家族のように接していましたから、安吉が後見人になっていたとしてもおかしくはありません。ですが、菊地寛氏の戸籍調査には一切後見人の記述がありませんでした。後見人がいたとしたら、戸籍に記載されているはずです。重要な手掛かりとなる後見人の情報を菊地寛氏があえて無視したとも思えませんので、後見人はいなかったと考えるのが妥当なのかもしれません。しかし、後見人がいなかった場合、養子縁組の手続きや岩崎家の戸籍からきみを除籍する時に問題にならなかったのかという疑問も生じます。この辺のことはよく分かりませんが、実際に養子縁組が行われ、籍が移っているのですから、後見人の有無に関わらず、問題は生じなかったと考えるしかないのかもしれません。

 この年の1月、かよは成人しています。ですから、もし、生活苦できみを育てられなくなり育児院などに預けるとしても、かよが自ら手続き可能でした。それにも拘らず、態々養子縁組をしたのは何故でしょうか。
●きみを施設に預けるに当たって、家族に対する居所指定権(旧民法第749条)を持つ戸主の同意を求められ、未成年の辰蔵では法律行為が行えなえず(旧民法第4条)、養子縁組をすることできみの親権と籍を移すことで問題をクリアした。
●きみを施設に預けるために、若いかよが様々な手続きをするのは困難と安吉が判断し、安吉が一括して手続きをするために養子縁組をした。
●安吉がかよの将来を考え、子持ちでいるよりも身軽になった方がいいと判断し、安吉が自分の子にしてから施設に預けることにした。
 養子縁組をした理由としては以上のようなことが考えられますが、本当の事は分かりません。ただ、安吉とかよが死ぬまで強い絆を結んでいたことを考えると、岩崎一家が困窮してきみを育てられなくなり、姉弟の保護者のような立場だった安吉が孤児院を探し出し、かよの将来を憂慮してきみを自らの子とし、施設に預けたのではないかと思えます。

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●第七百五十条 家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
 2 家族カ前項ノ規定ニ違反シテ婚姻又ハ養子縁組ヲ為シタルトキハ戸主ハ其婚姻又ハ養子縁組ノ日ヨリ一年内ニ離籍ヲ為シ又ハ復籍ヲ拒ムコトヲ得
 3 家族カ養子ヲ為シタル場合ニ於テ前項ノ規定ニ従ヒ離籍セラレタルトキハ其養子ハ養親ニ随ヒテ其家ニ入ル
●第七百三十七条 戸主ノ親族ニシテ他家ニ在ル者ハ戸主ノ同意ヲ得テ其家族ト為ルコトヲ得但其者カ他家ノ家族タルトキハ其家ノ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
 2 前項ニ掲ケタル者カ未成年者ナルトキハ親権ヲ行フ父若クハ母又ハ後見人ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
●第三条 満二十年ヲ以テ成年トス
●第八百九十五条 親権ヲ行フ父又ハ母ハ其未成年ノ子ニ代ハリテ戸主権及ヒ親権ヲ行フ
●第九百条 後見ハ左ノ場合ニ於テ開始ス
 1 未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者ナキトキ又ハ親権ヲ行フ者カ管理権ヲ有セサルトキ
 2 禁治産ノ宣告アリタルトキ
●第四条 未成年者カ法律行為ヲ為スニハ其法定代理人ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス但単ニ権利ヲ得又ハ義務ヲ免ルヘキ行為ハ此限ニ在ラス
 2 前項ノ規定ニ反スル行為ハ之ヲ取消スコトヲ得
●第七百四十九条 家族ハ戸主ノ意ニ反シテ其居所ヲ定ムルコトヲ得ス
 2 家族カ前項ノ規定ニ違反シテ戸主ノ指定シタル居所ニ在ラサル間ハ戸主ハ之ニ対シテ扶養ノ義務ヲ免ル
 3 前項ノ場合ニ於テ戸主ハ相当ノ期間ヲ定メ其指定シタル場所ニ居所ヲ転スヘキ旨ヲ催告スルコトヲ得若シ家族カ正当ノ理由ナクシテ其催告ニ応セサルトキハ戸主ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ離籍スルコトヲ得但其家族カ未成年者ナルトキハ此限ニ在ラス
*************************

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3. 第19回生命表について
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/19th/gaiyo.html#3
家制度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E5%88%B6%E5%BA%A6
旧民法の親権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%A8%A9#.E6.97.A7.E6.B0.91.E6.B3.95.E3.81.AE.E8.A6.AA.E6.A8.A9
民法第四編(民法旧規定、明治31年法律第9号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/m4_o.htm

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洞爺湖のトッシー?

 撮った写真をパソコンに移してチェックしていたら、変な物が写っていることに気付いた。
トッシー1

 何が変なのか、分かるように赤丸を付ける。
トッシー2

 写真は、洞爺湖を黄色の丸の辺りから矢印方向を写した物で、岸と中島の間には何も無いはずなのに黒っぽい物体が写り込んでいる。位置関係からすると、かなり大きい物のようだ。洞爺湖には、大きな遊覧船も就航しているが、白い色で形も違う。すると、これは何だろうか。
トッシー3

 「UMA 洞爺湖」で検索すると、「トッシー」がヒットした。ウィキペデアの「湖の怪物」の項にも出ている。
 「不思議生物・UMAコレクション」というサイトによると、トッシーは、洞爺湖で目撃された海獣UMAだそうだ。このサイトには、以下の情報が記載されている。
◆目撃証言
1946年、国鉄職員の男性が洞爺湖の湖面を遊泳する謎の生物を目撃した。
1978年、湖の中央にある弁天島付近に、人間程の大きさがある丸太のようなものが立っているのが目撃された。その物体は左右にクネクネ動きながら視界から消えたという。
◆「トッシー」の特徴
目撃証言から、丸太が立ったような姿で、クネクネと泳ぐと言われている。
◆正体は?
目撃証言が他の地方のUMAより非常に少なく、誤認説や巨大魚説などが挙げられているよ。

 また、「山口敏太郎のUMA図鑑」には、トッシーは、一時期、屈斜路湖の「クッシー」や池田湖の「イッシー」と並び称された「湖の巨大未確認生物」だったそうだ。だが、最近は目撃されておらず、湖を渡るエゾシカを誤認したとする説、湖底の倒木が天然ガスにより噴き上げられたという説、ウナギなどの魚類が巨大化したものとする説などが唱えられている様だ。ただ、アイヌの神話にも「サスソモアイェプ」という湖沼にすむ大蛇の姿をした邪神が出て来るそうで、大昔にトッシーが目撃され、サスソモアイェプの原形になったとも考えられる。ちなみに、この邪神の姿はヘビのようで、背中には翼を持ち、目と口は赤く縁取られており、この邪神が通った後はひどい悪臭ですべての生物は死に絶え、草木はことごとく枯れ落ちてしまったと伝えられているとのことだ。

 この写真に写っている物体は、はたして「トッシー」なのか。UMAなのであろうか。


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洞爺湖の海獣UMA「トッシー」
http://narimichi.jp/entry/1394
【UMA図鑑(43)】「洞爺湖のトッシー」の正体はアイヌ伝説に残る大蛇の姿をした邪神!?
http://www.tokyo-sports.co.jp/blogtalent-yamaguchi/316/

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