六丈記2

備忘録のようなもの

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

【東海併記法案】バージニア州は韓国の属州?中編

*** 「東海」併記、米州議会上院で可決 「我々は韓国人の側に立つ」 ***
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140125/amr14012511560008-n1.htm
【リッチモンド(米バージニア州)=青木伸行】バージニア州上院は23日の本会議で、「日本海」と記載されている州内の公立学校の教科書に、韓国政府が主張する「東海」を併記する法案を賛成32、反対4の賛成多数で可決した。韓国が米国の一地方議会を乗っ取った感すらあり、韓国政府の見解を代弁した一方的な主張がまかり通っている。
 「とてもいい状況だ」。本会議の直前、議場で法案提出者の1人、リチャード・ブラック議員(共和党)が笑みを見せた。可決は間違いないという表情だ。読み通り結果は圧倒的大差だった。韓国系米国人団体などの議会への浸透ぶりを、改めて見せつけた格好だ。
 妻が韓国系のチャップ・ピーターセン議員(民主党)は賛成した。「義理の父は日本の占領下で育ち、当時は地名なども日本語になった。そういう文脈の中に『東海』もある」と強調した。
 ブラック氏は「1929年に、国際水路機関(IHO)が『日本海』と決めた当時は、日本は軍国主義下にあり韓国を強制占領した時期で、韓国に発言権はなかった」と力説した。韓国政府の「日本海の名称は、日本の拡張主義や植民地支配の結果広められてきた」という主張を、代弁したものにほかならない。
 23日の上院本会議では「日本海」と「東海」だけではなく、「南シナ海」と、フィリピン政府が導入した「西フィリピン海」など、係争がある呼称を一括して扱うよう求める修正案も採決された。しかし、反対多数で否決された。
 修正案を提出したドナルド・マキーチン議員(民主党)は「係争がある地名は注意深く扱わなければならない。こうしたすべての地名を一度に集めるべきだ」と力説した。
 これに対し反対理由は、「係争がある地名に関する要求は、韓国系以外からは聞いたことがない」(ジャネット・ハウエル議員=民主党)、「米韓同盟ほど強固なものはない。われわれは韓国系、(在米)韓国人の側に立つ」(ブラック氏)だった。
 米政府は「日本海」の単一呼称を支持している。国家間の係争が一地方議会に持ち込まれた形だ。
 米紙ワシントン・ポスト(23日、電子版)は、在米日本大使館がリッチモンドの法律事務所にロビー活動を依頼し、佐々江賢一郎駐米大使が22日、マコーリフ州知事を表敬したことをとらえ、外国政府が(韓国系)米国人の問題に介入することへの批判的な記事を掲載した。
 だが、併記推進派議員に働きかける韓国系団体などは、韓国政府と結びついているとみられ、日本政府の活動の批判は公平さを欠く。メディアの一部も“洗脳”されているようだ。
*** 産経ニュース 2014.1.25 ****************************************

 バージニア州で審議されている東海併記法案は、上院で可決されたので、後は下院で可決され、州知事が署名をすれば、法案は成立する。上院の採決結果は、賛成32、反対4と日本では伝えられているが、韓国の中央日報と朝鮮日報は賛成31、反対4、棄権3と報じている。日本の各メディアが「賛成32、反対4」と伝えているのは、たぶん時事通信の配信記事を使っているからだろう。関心が高いぶん、韓国側が伝える数字の方が正確なのかもしれない。
 ちなみに、中央日報は、佐々江賢一郎駐米大使がテリー・マコーリフ・バージニア州知事と面談し、法案成立を防いでほしいと要請したため、マキーチン議員が緊急修正案を提出したとしている。一方、 朝鮮日報は、デビッド・マースデン上院議員(民主党)の「どの表記が正しいと判定するのではなく、論争があるという事実を認識させるのが狙いだ」「(法案が発効すれば)教師たちは、なぜ日本人がここを『日本海』と呼び、韓国人が『東海』と呼んでいるのかを生徒たちに教えることになる。これこそが教育」との発言を伝えている。

 上院教育厚生委員会の採決結果が賛成9、反対4だったのに対し、随分と大差がついた結果となった。韓国側のロビー活動は広範囲に及び、議員の多くに侵蝕しているとみて間違いないだろう。下院議員も同様だろうから、法案が成立する可能性は高そうだ。
 記事を読むと議員らは、韓国側の主張を鵜呑みにし、反対意見には全く耳を貸さない、というより拒否しているかのようだ。日本の外務省のホームページを見るなどすれば、韓国側の主張に疑問を持つと思うのだが、調べる気も無いらしい。教科書の問題なのに、学問的検討はなされていない様子だ。多くの議員が韓国側の主張を唯々諾々と受け入れているのは、票と金だけが原因ではないのかもしれない。第2次世界大戦の結果によって生み出された「大日本帝国=悪」という固定概念によって、それを肯定するようなことは受け入れるが、否定につながるようなことは初めから検討に値しないとの偏見があるように思える。だとしたら、偏見の強いアメリカ人に論理的に説明しても受け入れられるのは困難だろう。

 日本海の呼称にアメリカは関係ない。特に、州政府や市などでは。しかし、韓国は地方政府を巻き込んで、アメリカ世論を形成しようとしている。アメリカを動かすことが日本を屈服させる効果的な方法だと考えているのだろう。
 それにしても、何故、韓国は多大な労力と費用を掛けて、日本海の呼称にこだわるのだろうか。
 韓国政府のホームページには以下のことが書いてある。
*** 東海(トンヘ) ***
http://japanese.korea.net/Government/Current-Affairs/Others/view?affairId=130&subId=236&articleId=1116
●2000年の歴史を持つ東海という地名
東海併記法案 三国史記
 韓国人が過去2000年間使って来た地名である「東海」は、その他の多くの国では「日本海」として呼ばれている。しかし三国史記(1145)に詳しく説明されているように「東海」という名前はB.C. 37年に初めて使われ、これは「日本」という名称より約700年も前に登場した名前である。国号の日本は公式的には8世紀に初めて使われた。
●日本の対外的な懐柔
東海併記法案 朝鮮海表記地図
 世界地域の命名作業が行われた20世紀初め、「日本海」という呼称が世界中に知られた。しかし当時韓国は日本の占領の下にあり、意思決定の過程に参加することができなかった。日本の韓国領土侵奪と、当時高まりつつあった日本の国際的プレゼンスが西洋地図の製作者に大きな影響を及ぼしたのである。
●東海、日本海併記の妥当性
 東海は南韓・北朝鮮・日本・ロシアに囲まれており、当該の地名の決定は周辺国家の合意が必ず必要である。命名に対する関係国の意見が一致しない場合、原則的に提起された名前が併記される。国連地名標準化会議は地域の呼称問題をめぐり紛争が生じる場合、併記することを勧告している。
●地域的観点
 通常、海域は左側の大陸を基準として命名するのが慣行である。韓国の主張のポイントは東海は韓国のみならずユーラシア大陸の東に位置するということである。
***********************

*** 歴史的、法的考証資料 ***
http://japanese.korea.net/Government/Current-Affairs/Others/view?affairId=130&subId=236&articleId=1133
●東海を表記した西洋古地図
東海併記法案 東海表記西洋古地図
 朝鮮半島(韓半島)と日本列島間に位置した海を西洋の古地図で東海と表記し始めたのは新大陸発見の航海がされた直後である16世紀の始めである。16世紀から19世紀まで西洋人はこの海を朝鮮海、韓国海、東方海、東洋海、中国海、日本海などと呼んで来たが、一番多く使われた名称は勿論韓国海だった。
 しかし19世紀初めを基点に日本海という呼称が韓国海と同じぐらい頻繁に登場し、19世紀末からは日本海が韓国海より広く使われるようになった。20世紀初めからは「日本海」という呼称が大半の世界地図と出版物に印刷されるようになった。
 フランスの海軍大領ラ・ペルーズが韓国・日本・ロシアの探険を終えて1797年製作した海図とイギリスの地理学者ジョン・エロー・スミスが1798年製作した地図が問題となっている海域を日本海と表記し、韓国海という呼称は以後減少した。
 19世紀後半から大半の地図は日本海という表記を使ってきた。日露戦争が勃発した当時、世界中の大半の新聞が日本海という呼称で記事を載せた上、日本が韓国を占領した後、「日本海」は世界中で最も多く使われる呼称となった。
●韓国の出版物と古地図上の東海表記
 東海という呼称を最初に使った記録は、韓国の最も古い歴史書『三国史記』(1145)中、高句麗の東明王(トンミョンワン)を描く部分に現れる。東海という呼称を使った詩が『三国史記』には、13編載っており、『三国有史』(1281)には15編載っている。
 韓国の歴史上、最も古い地図である『新増東国輿地勝覧』(1530)の慶尚道、咸平道、江原道地図では当該の海域が明確に東抵大海と表記されている。
 東海という呼称を最初に使った地図の一つとして朝鮮の国境保護を担当した備辺司が1740年代に製作した嶺南全図がある。
 日本海が初めて登場した地図は中国で宣教活動をしたイタリア人、マテオ・リッチが1602年に製作した世界地図である『坤輿万国全図』がある。
●国際的な協約
 二国以上の国が地名を巡り意見が一致しない場合、指針を提供する国際機関として国連地名標準化会議と国際水路機構がある。
 ○ 国連地名標準化会議は、決議案 III/20項を通じて、
  「ある一地域が一国家以上の管轄圏にあったり、二国以上により分離されており、また該当の国家間でその地域の呼称において合意されなかった場合、国際地図製作の慣例に従い各当該国が使う呼称が併用されなければならない」と勧告している。
 ○ 国際水路機構は決議案A 4.2.6項を通じて、
  「二国以上が共有する湾、海峡、運河、群島などは当事国が合意して単一呼称を使うように努力しなければならなず、当事国が異なった言語を使ったり、単一地名に合意することができない場合は当事国の言語で表す名称が併記されなければならない」と勧告している。ただ、英仏海峡などのように名称の長さが問題となり併記が難しい場合は例外にしている。
******************************

*** 核心ポイント ***
http://japanese.korea.net/Government/Current-Affairs/Others/view?affairId=130&subId=236&articleId=1141
Q1. 世界地図に東海より日本海が多く登場する理由は何か?
 東海という地名が2,000年以上使われたということと現在5千万人の韓国人が変らず使い続けているという事実に基づき、韓国政府は東海という地名を国際的に認知させるために努力して来たが、日本海が世界的により多く使われているのが現状である。
 日本海という呼称は世界地図の製作が拡大し、日本がアジアの大国として浮上し始めた19世紀末に広まり始めた。
 日本海という表記の使用が増加したきっかけは、1929年国際水路機構が『海洋の境界』という本を出版してからであった。この本には世界中の領土と領海の地名が収録されており、朝鮮半島(韓半島)東側にある問題の海域を日本海と表記していた。韓国は当時日本の植民統治を受けていたため東海という表記の正当性を主張する機会がなかった。韓国に発言権がない状態で国際水路機構は総会で日本海という呼称を決めたのである。
 1937年『海洋の境界』 改訂版が出刊された時、韓国は相変らず日本統治の下にあり、1953年三刷本が出た時、韓国は戦争の最中だった。そのため日本海という表記はより確固たるものになっていた。このような理由により日本海という表記が世界的に多く登場することになる。
 しかしここ15年間韓国の積極的な広報活動により東海という表記が広がり、特に民間出版社とマスコミにおいてそうした流れが強くなっている。東海と日本海を併記した比率は2000年2.8%、2007年には23.8%へと急増した。

Q2. 東海という表記の正当性は何か?
 多くの歴史書を見てもわかるように東海という表記は2000年以上使われてきた。なおかつ東海という呼称は日本という国号が使われる700年前にすでに使われていた。これが東海という表記が歴史的に日本海という表記より妥当性のある根拠である。
 東海は南韓(大韓民国)、北朝鮮、日本、ロシアに囲まれており、この場合4ヶ国全てが呼称に同意しなければならない。合意がされるまでは地図に全ての名称が併記されなければならない。国連地名標準化会議は地形の呼称に異見がある場合、合意に至るまでは全ての当該呼称を併記するよう勧告している。

Q3. 西洋の古地図に日本海という表記が多い理由は何か?
 東海という表記は東洋航路探索が始まった16世紀初めに登場し始めた。16世紀初めから19世紀初めに出版された西洋の地図は韓国と日本間の海域を韓国海、東方海、中国海、日本海など色々な呼称で表記している。
 全般的に、16世紀から18世紀まで韓国海という呼称が、18世紀から19世紀までは日本海という呼称が優勢だった。このような結果に基づき、日本は日本海が19世紀初めにすでに世界的に位置付けられたのであるという論理を展開するのである。しかしある一定期間中、日本海が最も多く使われたからとしてその呼称が国際的に認められたと考えるのは大きな間違いである。

Q4. 東海という表記は一国を基準に設定された呼称ではないか?
 東海という表記は『三国史記』で使われており、また広開土大王碑にも登場する。このため東海という呼称は朝鮮半島(韓半島)の東側という意味というよりユーラシア大陸の東側という意味であると言える。
 東海に関する多くの歴史的資料から考えて見ると、東海とは一国を中心とした観点に基づいた呼称というより、2000年の歴史を通じて終始使われてきたものである考えられる。

Q5. 地域の名称に関する紛争がある場合、適用できる国際的な慣例があるか?
 国連地名標準化会議は、決議案 III/20項を通じて、「ある一地域が一国家以上の管轄圏にあったり、二国以上以上により分離されており、また該当の国家間でその地域の呼称において合意がなされなかった場合、国際地図製作の慣例に従い各当該国が使う呼称が併用されなければならない」と勧告している。
 国際水路機構は決議案A 4.2.6項を通じて「二国以上が共有する湾、海峡、運河、群島などは当事国が合意して単一呼称を使うように努力しなければならず、当事国が異なった言語を使ったり、単一地名に合意することができない場合は当事国の言語で表す名称が併記されなければならない」と勧告している。ただ、英仏海峡などのように名称の長さが問題となり併記が難しい場合は例外にしている。

Q6. 世界的に東海という表記を広げるために、韓国政府はどのような努力をしているのか?
 東海という表記の広報を決めた1992年以後、韓国政府は協議体を構成し、国際機関、政府、学術団体、マスコミ、地図製作会社に広報活動を続けている。
 韓国が国連に加盟した後、政府は東海という表記を継続して国際会議に申し立てており、当事案に関する国際的な関心を高めるために絶えず努力している。
 現在の韓日間の領海呼称に関する論争は公式的に関連国際会議で認識されている。特に第 17回国際水路機関の総会で東海という表記の正当性を支持する意見が増えたという点は意味があることである。また日本海の単独表記を行ってきた出版物『海洋と境界』は暫定的に出版が中断されている。
**********************

*** 日本の主張と韓国の観点 ***
http://japanese.korea.net/Government/Current-Affairs/Others/view?affairId=130&subId=236&articleId=1124
●日本の主張
 日本海は世界中で使っている呼称であり、世界地図の95パーセントが日本海と表記している。そのため呼称を変えることは混乱を招くだけだろう。
 日本海という名称は18-19世紀、西欧の世界で作られたものであり、日本の殖民地支配とは関係がない。
 日本海という名称は地理的側面を考えたものである。日本列島がその海域を太平洋内で区分けしているため日本海と呼ばれるのであり、この呼称を持って日本がその地域の海上領有権を保有していると主張するものではない。
●韓国の観点と努力
東海併記法案 東海併記地図
 韓国政府の最終的な目標は国際社会が東海という名称を公式的且つ歴史的に適切な地名として受け入れることができるように説得することである。「東海」という呼称はその海域が韓国のみならずユーラシア大陸の東にあるということを意味し、このような命名法は世界中で長い使用されてきた。
 しかし現在は「東海」という呼称を単独で表記することが難しい状況である。そうした状況の下、韓国政府は国際的な原則に基づき、当海域の呼称が併記されることができることを支持するのである。
 韓国政府はこの問題の深刻性を国際社会に知らせるために持続的に努力しながら、長期的な観点から交渉を進めている。
 ここ十年間、歴史的に妥当な地名を取り戻すための韓国政府の努力に喜ばしい成果があった。徐々に世界中の地図製作社と出版社が東海と日本海を併記するようになったのである。
********************************

 読んでみても、何故、国際社会が日本海を「東海」と呼ばなければならないのか分からない。韓国の言いたいことをまとめると次のようになるであろうか。
(1)朝鮮では、2000年以上東海という名称を使っていたので、国際的に認知させなければならない。
(2)「東海」という名称は「日本」という言葉より古いので、「日本海」より「東海」の方が相応しい。
(3)日本の韓国領土侵奪を背景に「日本海」という名称は19世紀末に広まり、定着した。韓国には「東海」という表記を主張する機会がないまま、国際水路機構の総会で「日本海」という名称が決まった。
(4)国連地名標準化会議は地形の呼称に異見がある場合、合意に至るまでは全ての当該呼称を併記するよう勧告している。日本海を囲む韓国、北朝鮮、日本、ロシアの全てが同意するまで、全ての名称を併記しなければならない。
(5)日本海の呼称は、16世紀から18世紀までは「韓国海」が、18世紀から19世紀までは「日本海」が優勢だった。日本は日本海が19世紀初めにすでに世界的に位置付けられたと主張するが、それによって国際的に認められたと考えるのは間違い。
(6)「東海」という名称は、朝鮮半島の東側という意味というよりユーラシア大陸の東側という意味である。
(7)韓国は国連加盟後、名称について国際会議に申し立てを継続しており、名称に関する論争は公式的に関連国際会議で認識され、韓国の正当性を支持する意見が増えている。


続く・・・。

スポンサーサイト

PageTop

【東海併記法案】バージニア州は韓国の属州?前編

*** 「東海」併記法案、米州議会で可決 韓国系団体「カネと票」惜しまず提供 ***
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140118/amr14011810090006-n1.htm

慰安婦像と車の両輪/中国系との連携拡大/傍聴席で採決見守る

 米バージニア州議会の上院教育厚生委員会で可決された「東海」併記法案は来週、上院本会議で採決される予定だ。否決は厳しいとの観測もあり、韓国側の攻勢に日本は防戦を強いられている。全米における韓国系の「拠点」の一つを舞台にした攻防をルポする。(リッチモンド 青木伸行)

 州議会の「B室」。午前8時過ぎから始まった上院教育厚生委員会の審議で、法案提出者の一人、リチャード・ブラック議員(共和党)は「私は韓国系の人々と強い結びつきがある。法案への強い支持を望む」と、他の12人の委員に呼びかけた。これに対し、法案への異論が唱えられた。
 「連邦政府は、一つの呼称を採用するという方針であり、『日本海』と呼んでいる。従って、法案は政府の方針を覆すものだ」
 これに反論したのが、もう一人の法案提出者であるデイビッド・マースデン議員(民主党)である。
 「併記で、『日本海』の呼称と政府の方針を変えようとするものではない。韓国系市民には、彼らの文化、歴史が教科書に反映されることが重要なのだ」
 そして採決。韓国系団体の面々が、傍聴席で固唾をのんで見守る。一昨年に法案が提出されたときは、わずか1票差で否決されている。各委員が順番に指名され、賛否を告げた。
 結果は賛成9、反対4。団体の一行は、マースデン氏らと喜びに沸いていた。
 マースデン氏は「韓国系市民が議員に接触し、いかに併記が重要かを説明したからだ」と、ロビー活動の勝利だと率直に認める。
 法案の仕掛け人は、韓国系団体「韓国系アメリカ人の声」のピーター・キム会長だ。一昨年の法案提出を働きかけた同「バージニア韓国人会」のホン・イルソン会長と連携し、2017年3月までに、全米50州の全公立学校の教科書に「東海」を併記することを狙う。
 ロビー活動の武器はカネと票。キム氏の選挙資金提供先リストには、マースデン氏や、下院に同様の法案を提出しているティモシー・ヒューゴ議員(共和党)らの名が連なる。だが、金額は1千ドル(約10万円)から数百ドルと少ない。実際には、もっと多くの資金が提供されているとみられている。
 韓国系は全米で約120万人とされバージニア州のほかメリーランド、ニュージャージー各州にも多い。バージニア州ではとくに、マースデン氏のアナンデール選挙区などがそうで、韓国系は急増している。「地元の利益」を体現し、票をつなぎ留めることは政治の常だ。
 キム氏は「何もコメントできない」と取材に応じなかった。キム氏の事務所には、バージニア州上下両院の全議員の資料をとじ込んだ百数十冊のファイルが並び、接触内容や性格などの情報が網羅されているという。議員1人に対し、1千件以上のメールを送るよう、運動もしている。
 ホン氏は「この2年間、多大な努力を費やした」と話す。メリーランド州でも働きかけが奏功し、一部の郡で教育委員会が併記を決めている。
 米国を舞台にした「東海」併記の活動は、「慰安婦」像の設置運動と“車の両輪”で進められている。しかも中国系団体との連携拡大が指摘され近年、攻勢を増している背景として、日韓関係の悪化と韓中接近を指摘する関係者もいる。
 一方、日本側は今回、リッチモンドにある法律事務所に、ロビー活動を依頼するなどして対抗した。だが、極めて脆弱(ぜいじゃく)だ。日系団体も存在するが、政治とは距離を置く傾向が強く組織力も弱い。中韓の「官民一体」の態勢にはほど遠い。
***** 産経ニュース 2014.1.18 **********************************************

 東海併記法案は、今後、バージニア州の上院と下院で審議される。両院で可決されれば、法案は成立し、7月1日から施行され、バージニア州教育委員会が承認する全ての教科書に日本海と東海が併記される。

 「日本海」という名称は、国連をはじめとする多くの国際機関によって認められ、国際社会に定着している。「日本海」を「東海」と呼んでいるのは韓国だけだ。
●日 本→日本海
●韓 国→東海
●北朝鮮→朝鮮東海
●中 国→日本海
●ロシア→ヤポーンスコエ モーリェ(ロシア語で「日本海」の意味)
 地名などは、慣習により各国に独自の呼び方があり、国内だけで使用するのであれば何の問題も無いし、外国から強制されるものでもない。地中海は英語で「Mediterranean」だが、「大地の真ん中」ということを意味する。トルコ語では「Akdeniz」と言い、「白い海」という意味になる。アラビア語では「中央の白い海」という意味の言葉を使っている。だから、韓国が日本海を「東海」と呼ぶのはかまわないが、他国にまで押し付けるのは迷惑なだけだ。

 アメリカ政府は「Sea of Japan(日本海)」が唯一の公式的な名称であることを正式に決定している。なのにバージニア州のアメリカ人は「East Sea/Sea of Japan(東海/日本海)」と学ばなければならないのか。バージニア州の遥か西にある日本海を「East Sea」と呼ぶなど、一般のアメリカ人にしたら悪い冗談でしかないだろう。
 「East Sea」は方位に由来した名称であるから、「東の方の海」という意味の言葉を各国がそれぞれの海に使ってきた歴史がある。だから、「East Sea」と表記すると国によって異なる海を想像するであろう。また、「東海」という漢字表記は日本、朝鮮、中国、ベトナムが使っていたが、それぞれ違う海を指している。
●日  本→「東海」=東海地方の沖の海 (フィリピン海)
●朝  鮮→「東海」=日本海
●中  国→「東海」=東シナ海
●ベトナム→「東海」=南シナ海

 日本海を韓国の呼称に合わせて「East Sea」とするなら、少なくともフィリピン海、東シナ海、南シナ海も「East Sea」と表記しなければならないだろう。もし、それをしないのなら韓国だけを特別扱いし、韓国の方針に追従したことになる。韓国だけしか日本海を「East Sea」としていないのだから。
 バージニア州の東海併記法案が成立するか分からないが、フィリピン海、東シナ海、南シナ海についはこの先も「East Sea」と併記されることはないだろう。あるとしたら、日本海だけに「East Sea」を併記するだけだ。何故、バージニア州はアメリカ政府の方針に背いてまで韓国に従おうとするのか。バージニア州の議員は、呼称などどっちであろうと関係ない、金と票を多く出してもらえればそれでいいと軽く考えているのだろう。韓国のために、国際はおろか、アメリカ国内においても通用しない呼称をあたかも標準地名のように教えられる韓国系以外の学生のことは眼中にないらしい。だから、「韓国系市民には、彼らの文化、歴史が教科書に反映されることが重要なのだ」と言えるのだ。
 韓国系アメリカ人は、韓国系であろうとアメリカ人であるが、彼らはアメリカ人であろうとする前に韓国人(民族)であることを優先し、アメリカにあっても帰属意識は韓国だ。だから、彼らは韓国政府の意向に従って積極的に活動している。それは、ロビー活動を受けている議員達が誰よりも分かっている筈だ。
 客観的妥当性も無いのに、外国の主張する文化や歴史を言われるがままに受け入れ住民に強いるということは、宗主国に従属する属国がするようなことだ。バージニア州はアメリカ政府の方針に背いて韓国の方針を住民に強制しようとしているが、それでは韓国の属州ではないか。しかし、議員達にはそういう意識は働かないらしい。

・・・続く。
///////////////////
日本海呼称問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E5%91%BC%E7%A7%B0%E5%95%8F%E9%A1%8C

PageTop

都知事選、細川元首相が正式出馬表明前に苦境に立たされる

 脱原発を掲げてシングルイシューで都知事選勝利をもくろむ細川護煕元首相と小泉純一郎元首相のコンビだが、早くも暗雲が漂い始めている。

 福島や新潟、福井などの原発立地県の知事選挙なら脱原発を掲げて選挙戦を戦うということもありだと思うが、原発関連施設が無く、建設する予定も無い東京都で脱原発を争点にするのは無理がありすぎる。北海道や福岡県の知事からも疑問が投げかけられている。小泉元首相の目論見通りには進んでいない雰囲気だ。
 原発を今後どの様にするかは、国のエネルギー政策の問題であり、東京都の行政には関係無いことだ。日本から原発を無くしたいのであれば、国政で争うべきであり、原発に関係無い自治体が決めることではない。当たり前のことであるが、2人の元首相は理解していないらしい。
 もし、原発立地県で原発再稼動を認めた県が出てきたらどうするつもりなのだろうか。東京都の知事では何も出来まい。
 細川元首相と小泉元首相は首相在任中、地方分権を大きな政策の一つにしていた。地方分権とは、簡単に言えば、中央から地方に権限を委譲し、地域のことは地域で決めるということだろう。国全体に関わることは国で、地方に密接に関わることはそれぞれの地方で決定するということの筈だ。2人の元首相が言っていた地方分権とは何だったのかと思わざる得ない。

 細川元首相は「原発問題は知事として非常にやりがいのある仕事だ」と言っていた。もし、細川元首相が都知事になったら何をするつもりなのだろうか。マスコミには、具体的に何をするのか聞いて欲しい。
 もし、東電の大株主としての地位を利用するというなら疑義を抱かざる得ない。東京都は4位の大株主であるが、持ち株比率は1.2%(議決権ベース)にすぎない。株主構成比率を並べるとこうなっている。
原子力損害賠償支援機構 54.69%(B種優先株が議決権を持つ優先株に転換されると8割程になる)
東京電力従業員持株会   1.33%
クレディ・スイス系    1.23%
東京都          1.20%
三井住友銀行       1.01%
   以下1%未満
 原子力損害賠償支援機構が過半数を押さえているし、東京都の保有する株式は従業員持株会より少ない。こういう現状で、株主として東電の経営方針を変更させるのは到底無理だろう。原子力損害賠償支援機構から1兆円で優先株を取得して東電に影響力を行使するという方法もあるだろうが、現実的ではない。
 小泉元首相の話を聞いていると、「原発ゼロ」にすれば原発問題は終わると錯覚する。たとえ、原発を廃止にしても、既に大量に溜まっている放射性廃棄物は消えて無くなる訳ではない。原発問題は原発を存続させるか廃止するかだけではないのだ。
 細川元首相は「原発問題は知事として非常にやりがいのある仕事だ」と言っているのだから、放射性廃棄物の最終処分場を東京都に作ると公約したらいかがだろう。それなら原発問題を選挙の争点にしても筋が通る。


 猪瀬直樹前知事が辞職した後、次期都知事には「クリーンなイメージの人」、「有名人」、「オリンピックに繋がりがある人」がいいとして様々な人の名前が挙がった。この条件に一番当てはまるのは、旧皇族・竹田家の竹田恒泰慶應義塾大学講師ではないだろうか。旧皇族ということでイメージは良いし、テレビ出演もしていて知られている。それに父親はJOC会長の竹田恒和氏だ。橋下徹氏も知事になったのだから、竹田恒泰氏が知事になっても不思議は無い。大穴として名前くらいは挙がるかなと予想していたが、気配すらなかった。
 結局、主だった候補は、舛添要一元厚生労働大臣、細川護煕元首相、田母神俊雄元航空幕僚長、宇都宮健児日本弁護士連合会前会長となった。最初言われていた条件は何だったのだろうと思う。だが、細川元首相にとってはこの条件が足を引っ張っている。
 細川元首相が立候補を表明したとたん「猪瀬前知事は徳州会から提供された5千万円について納得できる説明ができずに辞職したのに、東京佐川急便からの1億円借り入れ問題を追求されて辞任した人が出馬するのか」と批判が起きた。猪瀬前知事はお粗末な借用書を公表したために事態を悪化させ辞職に追い込まれた。細川元首相も同じ様なものだった。正式に出馬表明をしたら、猪瀬前知事の5千万円に絡めて東京佐川急便からの1億円のことを質問されるだろう。何て答えるのだろうか。まさか、「倍返しだ」と答えるのか。

都知事選 猪瀬借用書
都知事選 細川領収書

***** 衆議院予算委員会 平成06年05月24日 *****
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=8513&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=7&DOC_ID=2790&DPAGE=1&DTOTAL=1&DPOS=1&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=10801
野中広務委員:
--略--
幾たびかこの場において細川さん自身の疑惑を追及されましたけれども、細川さんは、例えば東京佐川急便のあの一億円の借り入れや利子につきましても、自分はすべて返した、誠心誠意答えておると、そして資料もお出しになりました。
 領収書は、御承知のように、申し上げるまでもなく、コクヨの市販されておる領収書で、名前も、だれが発行したかもわからない、判も押してない、番号もない、そんな領収書を出されてみたり、あるいは金銭出入り帳に至りましては、六十一年の九月三十一日。私は、四年目に一遍二月二十九日という日があるのは知っておりますけれども、日本の暦の上で九月の三十一日というのは全くきょうまで知らないんですけれども、こんなものが出てきたり、あるいは六十一年の十二月の三十一日。
 東京佐川側に聞きましたら、幾ら佐川急便でも、十二月三十一日は一切の仕事をしておりませんと言う。だのに、十二月三十一日という日付で利息を入れたという出入り帳が出てきたり、あるいは昭和六十四年一月三十日、昭和六十四年六月三十日。昭和六十四年というのはもう一月の初めに終わって、平成になっているんです。
 それに、そんなのを、私が誠心誠意出しておる書類であります、信じてくださいと言って出してきて、とうとう自分で政治改革をやることなく、自分が疑惑を晴らすこともなく、何か、とにかく予算編成は政治改革を仕上げなければ、景気対策も何にもいいんだ、連立与党はもちろんのこと、さらに財界、官界を含めてそんな雰囲気になりまして、予算は年内編成ができないまま越年をし、昨日、深谷、衛藤両委員も指摘をいたしましたように、三月四日になって初めて国会に提案をされてまいりました。
--略--
************************************************

 細川元首相には、東京佐川急便事件こと以外にも適性を問われることが浮上している。ジャーナリストの池上彰氏のインタビューに対して 「2020年東京オリンピックだって、安倍さんが『オリンピックは原発問題があるから辞退する』と言ったら、日本に対する世界の評価は、もう格段に違ったものになっていたと思いますよ。指名を受けても辞退して、そう宣言していたら、『日本はやっぱりすごい国だ』という評価になったと思う。安倍さんには、そう言ってもらいたかった。それが総理のリーダーシップですよ」と発言していたことが発覚したのだ。
 青島幸男氏は世界都市博覧会中止を公約に掲げて都知事に当選し、開催を中止した。自分の発言を重んじるなら、東京オリンピック返上を覆す訳にはいかないが、東京オリンピックは都民だけではなく日本国民の多くが心待ちにしている。東京オリンピック返上を言い出したら袋叩きにされるのは目に見えている。青島氏と同じ様に中止を公約にすることは出来ないだろう。何とか言い訳をして東京オリンピック返上の発言は無かったことにするのだろうが、そうすると脱原発の本気度も疑われてしまう。細川元首相のブレーン達は頭を抱えてるに違いない。

 細川元首相は民主党の出馬要請を断っていた。それを小泉元首相が説得し、担ぎ出した形になっている。小泉元首相は細川元首相を担ぎ出すぐらいなら自分が出馬した方が良かったのではないか。当選確実だったろうし。何故、小泉元首相は細川元首相を押したのか。もしかしたら、小泉元首相にも徳州会マネーが渡っていたのか。
 神輿は軽い方がいいと言うが、軽過ぎたようだ。小泉元首相と民主党は担ぐ神輿を間違えたのではないか。

PageTop

JR北海道のドンと言われた元社長が自殺

【余市港で身元不明遺体、JR北海道坂本相談役か】
http://www.htb.co.jp/news/
 15日午前、余市町の港で身元不明の遺体がみつかりました。近くではJR北海道の坂本真一相談役の車が見つかり、社員が現地で遺体を確認したところ本人と思われるとJR本社に連絡があったということです。
 岡野記者「男性の遺体はこちらに停泊している船の十数メートル先でみつかりました」午前8時半頃、余市町港町の余市港の防波堤から100メートル沖合で、男性の遺体が見つかりました。男性は身長170センチから180センチくらい、紺色のニットベストに水色のワイシャツを着て、黒のズボンをはいていました。JR北海道によりますと元社長で現在、相談役の坂本真一さん73歳と15日朝から連絡が取れない状況になっていて現場近くでは坂本さんの車がみつかりました。JRの社員が現地に向かい、確認したところ本人と思われるという連絡がJR本社にあったということです。警察は、慎重に身元の確認を進めています。
2014/01/15(水) 19:14

JR北海道元社長自殺1
JR北海道元社長自殺2

 2年程前の2011年9月、余市の隣町の小樽で当時JR北海道社長だった中島尚俊氏が入水自殺をしている。今回、自殺したと見られる坂本眞一JR北海道相談役もJR北海道の社長だった。JR北海道の社長にとって、石狩湾は鬼門のようだ。

初 代 大森義弘 1987年 - 1996年
第2代 坂本眞一 1996年 - 2003年
第3代 小池明夫 2003年 - 2007年
第4代 中島尚俊 2007年 - 2011年
第5代 小池明夫 2011年 - 2013年
第6代 野島 誠 2013年 -

 JR北海道の経営陣には、2つの派閥があるとされている。一つはJR東日本の松田昌士元会長に近いとされるグループ(小池派)で、小池明夫会長 、栗原進前筆頭専務(現・北海道キヨスク社長)など。もう一つは、JR北海道のドンとも言われた坂本眞一相談役に近いとされるグループ(坂本派)で、中島尚俊元社長、野島誠社長など。
 特に坂本眞一相談役と中島尚俊元社長は、JR発足時に営業部長と営業課長だった関係だったことから、上司と部下の感覚が続いていたという。師弟が共に自殺するに至ったのは、どうしてだろうか。

 JR北海道の経営中枢は坂本眞一氏と1969年国鉄入社組の4人(小池明夫氏、柿沼博彦氏、中島尚俊氏、小池善明氏)が占めていたが、政府はJR北海道の経営陣を刷新させ、年度内にも新体制に移行させる意向だと昨年末に報じられている。野島誠社長、小池明夫会長が退任するばかりではなく、坂本真一相談役や柿沼博彦特別顧問も退任させられる予定だった。
 そう遠くない将来に身を引かなければならないということが、坂本眞一氏に屈辱感を抱かせ、自殺の動機になったのかとも思うが、今更という感じがぬぐえない上に、何故今なのかとも思う。

 JR北海道は、脱線事故以来、積もり積もった膿が噴出している。「財界さっぽろ」2014年1月号には、JR北海道の下請け会社の元社長がJR北海道の子会社幹部にリベートを要求され、JR北海道本社が隠蔽したと告白している。この件については、北海道テレビが「JR子会社 裏金問題を追及」と題して放送するようだ。
 坂本眞一氏も隠された問題を抱えていて、マスコミに嗅ぎ付かれたのだろうか。そうとでも考えなければ、この時期に自殺した理由が分からない。

20140116JR北海道のドンと言われた元社長が自殺

PageTop

留寿都と赤い靴10

 佐野安吉は、岩崎きみの養父になったり、かよ・辰蔵姉弟を平民農場に連れて行ったり、岩崎家に大きく関わった人物でした。その安吉に影響を及ぼしたのが原胤昭です。胤昭がどのような人物だったのでしょうか。胤昭の人生を振り返ります。
 
◆日本におけるプロテスタントの歴史(大正あたりまで)
 胤昭の人生にはプロテスタントの教派が色々と出てきますので、胤昭の人生を振り返る前に日本におけるプロテスタントの歴史に触れます。
 
 日本最初のキリスト教の伝来はカトリックでしたが、明治にキリスト教の主流となったのはプロテスタントでした。
 幕末、開国した日本にはキリスト教の宣教師達も入ってきました。米国聖公会のジョン・リギンズ、アメリカ合衆国長老教会のジェームス・カーティス・ヘボン、アメリカ・オランダ改革派教会のサミュエル・ブラウン、ジェームズ・バラ、バプテスト教会のジョナサン・ゴーブル、アメリカ伝道委員会(アメリカン・ボード)のダニエル・クロスビー・グリーンらが初期に来日しています。まだ、キリスト教の禁止が続いていた時代ですから、宣教師は外国人達が礼拝出来るように外国人居留地に会堂を建てるといった活動を開始します。宣教師達は外国人居留地で日本人に英語を教えるという活動もしていましたので、日本の若者が居留地に集まり、宣教師の影響を受けてキリスト教に入信する者もいました。宣教師ではないですが、札幌農学校のW.クラークや熊本洋学校のL.ゼーンズは生徒達に影響を与え、感化された生徒達がキリスト教の信者になっています。
 こうして生まれた信者のグループはバンドと呼ばれ、札幌バンド、熊本バンド、横浜バンドは日本のプロテスタントの三大源流とされています。
 
 上記のように、プロテスタント各教派の宣教師が来日していたのですが、初期の宣教師達は独自に教会を設立することを控えました。プロテスタント各教派の宣教師達が話し合い、日本に教会を設立するにあたっては、諸派分立の弊害を避け、伝道の方法を一定にし、名称や組織を同一にすると決議したのです。それで、1872年(キリスト教解禁の前年)に日本基督公会最初の教会として横浜公会が設立されました。続いて1873年に東京公会が、1874年に摂津第一基督公会、大阪梅本町公会が設立されます。
 この様に日本のプロテスタントは無教派主義で出発したのですが、話し合いに参加しなかったバプテスト派や米国監督教会、それにアメリカから帰国した新島襄が公会に反対しました。加えて、各教派の本国の本部も積極的に賛同をしていた訳ではなかったため、1875年頃から各教派は独自に伝道を始めるようになり、公会は衰退しました。
 
 プロテスタント各教派は教会を設立するばかりではなく、学校を設立したり、慈善事業をしたりして、上中流階級に浸透し、信者を増やしました。ところが、明治中期に大日本帝国憲法や教育勅語が発布されると、国家神道が強くなり、キリスト教に対する風当たりが強まります。こうした社会状況のためか、キリスト教的社会福祉事業や社会運動が盛んになりました。
 
◆プロテスタントの主要教派
赤い靴 プロテスタント系統概略図

◆原胤昭のキリスト教入信
 胤昭は嘉永6年(1853年)に江戸町奉行所与力・佐久間長与の四男として生まれ、原家に養子に入った後、江戸南町奉行所与力になりました。明治維新後に東京府職員になりますが、明治2年(1869年)に辞職し、築地でアメリカ人宣教師クリストファー・カロザースらが開いた英学塾(後の築地大学校)で学びました。
 カロザースはアメリカ長老教会(プロテスタント)に所属していた宣教師で、1869年に来日しています。幕末から様々なミッション(伝道局)の宣教師が日本にやって来たのですが、キリスト教は邪教扱いだったため、受け入れられる環境にありませんでした。そのため、宣教師達は医療活動や英語教育を伝道の糸口としていました。カロザースもそれに習って英語塾を開いたようです。
 
 1874年、胤昭はカロザーズから洗礼を受けてキリスト教に入信。胤昭と田村直臣、安川亨がカロザーズを仮牧師にして東京第一長老教会を設立しました。胤昭は、銀座に日本最初のキリスト教書出版社・十字屋を創業したり、カロザース夫人(ジュリア)が1970年に設立したA六番女学校を引き継いで原女学校(1878年に合併により消滅)を設立したりもしています。
 1876年、東京第一長老教会内の対立で、カロザーズが宣教師を辞任すると、胤昭はカロザーズ門下の信徒とともにカロザーズを仮牧師とする日本独立長老教会銀座教会(通称、銀座教会)を設立(1876年4月4日)し、信徒長老に就きました。銀座教会は、東京第一長老教会から分かれた独立教会でしたから、胤昭と戸田欽堂がその財政基盤を支えました。しかし、二人の財力では支えきれず、胤昭は1879年11月に放逐処分を受ける形で銀座教会を去ります。銀座教会は日本基督一致教会に加入し、翌年に田村直臣が牧師に就任しました。
 銀座教会を去った胤昭は、友人の北原義道の自宅に設立された日本基督一致教会に属する日本橋教会(1879年設立)の一信徒になりました。
 
 日本基督一致教会は、アメリカ長老教会の呼びかけで、アメリカオランダ改革派教会(プロテスタント)とアメリカ長老教会、スコットランド一致長老教会が合同し、1877年10月に設立された教会です。日本基督公会の4教会、日本長老公会の5教会が参加しました。1890年12月、日本人信徒の不満が表面化、改革が行われ、日本基督教会に改称しています。
 
◆福島事件
 1882年、福島県令・三島通庸が推進する会津三方道路建設に伴う負担に、住民が反発。自由党員や農民が団結して反対運動を展開しましたが、11月に中心となって活動していた佐治幸平らが逮捕されました。これをきっかけに数千人の人々が喜多方警察署に押し掛け、約2000人が逮捕される大事件になりました。所謂、福島事件(喜多方事件)です。
 
 胤昭はこの福島事件に共鳴し、反対運動の指導者・河野広中を賞賛する出版物を発行(1882年)しました。これにより、胤昭は翌1883年に出版条例違反で石川島監獄に収監されます。獄内で非人間的な扱いを体験し、チフスに罹患して生死の境をさまよったことから、胤昭は監獄改良の必要性を痛感、監獄改良事業を志しました。
 
 胤昭の監獄改良事業に協力したのが小崎弘道、長田時行、阪部寔ら組合教会に関連する人達でした。胤昭が残した文章には、次のように書かれています。「私が筆禍に罹り在獄の日、熱病に斃(たお)れ甦りて暫く此の世の人となり、初めて教有集団の席に臨んだ時、私の痩せこけた腕を擁して席に導き、私を介し且慰められたのは、長田兄であった。次で私は監獄改良を志し、出獄人保護に身を捧げんと決心した。其相談に与って下さったのが小崎兄で、私の当たらんとする仕事の中心人物が小崎兄の教会員阪部寔君であった。私は阪部典獄の下に職を執る獄吏の一員となり囚人教誨の職を任するのである」。
 
※教有集団の席とは、1884年1月に美以女学校で催されたキリスト教徒の親睦会。
※長田は、胤昭が学んだ築地の英学塾の学友で、阪部を紹介したとされます。
※阪部は、兵庫仮留監の初代典獄(現在の刑務所長に相当)であり、胤昭を兵庫仮留監の教誨師に就任させ、胤昭の上司として監獄改良事業を支えました。
※小崎は、1887年5月に設立された日本基督教青年会(YMCA)の前身組織である東京基督教青年会の会長でした。YMCAは1878年に植村正久らが銀座の原女学校(後の女子学院)で結成した「共成社」に由来しますが、その近くにあったキリスト教書店十字屋に集まっていたグループによって1880年5月、東京基督教青年会が結成されたことから始まったのでした。ですから、胤昭と小崎は旧知の間柄でした。この頃、小崎は東京第一基督教会の牧師を務めていました。
 小崎は、1879年6月に同志社を卒業した後、上京。新肴町教会(日本教会とが合併して東京第一基督教会となる)、赤坂霊南坂教会堂(後の霊南坂教会)、番町教会を設立。新島襄の死後に同志社の校長(1890年)ついで同志社第2代社長(1892年~1897年)を務めました。
 
 組合教会(日本組合基督教会)は、アメリカン・ボードから派遣されたアメリカ人宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンや新島襄(同志社大学設立者)らによって1886年に結成されたプロテスタントの会衆派に属した教会です。
 1874年4月に摂津第一公会(1886年に日本組合神戸基督教会に改称)が創立されると、以降、関西を中心として、アメリカン・ボードの宣教師達の影響の下、次々と教会が設立されることになります。この会衆派に連なる教会の信徒たちが自発的に日本基督伝道会社という伝道団体を作り(1877年)、諸教会からの献金によって各地に伝道者を派遣するに至ります。日本基督伝道会社設立後は、同志社の卒業生達が開拓伝道を行い始め、摂津第一公会と摂津三田公会を中心とする信徒は北海道開拓を志す株式会社赤心社を作って(1880年)開拓伝道を行っています。また、摂津第一公会は監獄係を創設し、監獄伝道を始めています(1877年)。
 各教会は自給自治を志向していたのですが、伝道のために集結した組織を設立することになりました。それが日本組合教会(1886年設立)です。
 
 胤昭が監獄改良事業をするにあたり教誨師になったのは、摂津第一公会が早くから監獄伝道を始めていたということが関係しているのでしょう。
 
◆教誨師時代
 1884年7月、胤昭は兵庫仮留監に赴任し、教誨師に就任しました。神戸に移り住んだ胤昭は、神戸公会(前身は摂津第一公会、後に神戸教会)の信徒になり、公私共に同教会の人々の支援を受けます。アメリカン・ボードの宣教師J.C.ベリーは、胤昭に欧米の監獄事情を教えていました。
 神戸での胤昭は教誨を行うだけではなく、山県有朋内務大臣や清浦警保局長の命令により全国の監獄視察をし、監獄の実情を報告していました。その一環として、釧路集治監にも出張し、硫黄採掘現場を視察したところ、現場の悲惨な現状を目の当たりにします。そして、その悲惨な現状を記録した報告は、清浦警保局長の他に釧路集治監典獄・大井上輝前にもされます。大井上釧路集治監典獄は、胤昭に釧路集治監の教誨師に就任することを要請し、胤昭も承諾。1888年4月に釧路監獄署教誨師に就任しました。
 
 標茶の釧路監獄署に赴任した胤昭は、精力的に囚人の処遇改善に取り組み、囚人による硫黄採掘労働を廃止させるという成果を上げ、また、「同情会」という組織を結成し、出版によって監獄改良の必要性と理解を訴えたりしていました。一方で、教誨活動も活発に行っており、釧路だけではなく、厚岸や網走へも足を運んでいました。胤昭の教誨は、大勢の囚人の前で行う時は道義を説き、希望する者に対してだけ、個別に宗教に基づく講話を話すというものでした。キリスト教を押し付けるのではなく、囚人の信教の自由を尊重していたようです。
 大井上典獄が空知監獄署に転任すると、一時的に胤昭が空知分監教誨師も兼務しますが、空知分監にも専任の教誨師を招聘することになりました。人選について大井上典獄が胤昭に相談、番町教会の金森通倫から同志社卒業生の留岡幸助を紹介され、空知分監教誨師に留岡が採用(1891年5月)されます。
 1891年7月に監獄の機構変更が行われると、大井上は北海道集治監(本監)典獄に就任し、教誨師を全てキリスト教徒にすることにしました。そのため、胤昭は同志社校長になった小崎に教誨師招聘のための協力を依頼。阿部政恒、篠宮拯吉、松尾音次郎などの同志社卒業生が次々に就任、北海道集治監の教誨師の多くが同志社卒業生になりました。
 胤昭の赴任地は釧路だったのですが、1892年11月に北海道集治監樺戸本監へ配転されました。その3年後の1895年7月に大井上典獄が退任。背景にキリスト教を元にした教化の施策に対する内部の反発があったといわれています。キリスト教教誨師に対する風当たりが強かったためでしょうか、11月に胤昭を含むキリスト教教誨師が一斉に辞職します。
 
 胤昭が北海道に渡ったのは、教誨師に就任するためですが、目的は他にもありました。
 胤昭は釧路監獄署赴任直後から組合教会の信徒(胤昭は標茶教会が設立されるまで神戸教会の教会員でした。)として伝道活動を開始します。職務の傍ら教会設立に奔走し、シベチャ組合教会(標茶教会)設立に漕ぎ着けました。1889年11月に釧路国上川郡標茶の地に開設された標茶教会の設立には、同志社の新島襄をはじめとする組合教会の人達が協力していましたので、標茶教会は組合教会の一教会として設立されたのでした。
 
◆東京出獄人保護所
 北海道集治監を辞任した胤昭は、1889年末に帰郷、東京市赤坂区青山南町六丁目百三十九番地に移り住み、友人の東京横浜毎日新聞社長・島田三郎によって毎日新聞社の事務長の職を得ました。
 胤昭は帰京した後も北海道の囚人と文通をしたり、出獄して訪ねて来る囚人の世話をしたりしていました。そんな中、英照皇太后の崩御に伴う恩赦で釈放される囚人の中に、胤昭の保護を希望する者が100名以上いると当局から聞かされます。自宅では対応しきれないため、胤昭は毎日新聞社を退社し、受け入れ施設を設立に乗り出します。しかし、元囚人を収容する施設に物件を貸す者などおらず、窮地に陥った胤昭は旧知の間柄だった青山学院院長・本多庸一に相談しました。すると、本多は牧師もしていた神田美以教会(現・九段教会)の建物を寄宿舎に用いることを提案、教会の執事達の反対を押し切って貸すことに決めました。このようにして東京市神田区南神保町八番地の神田美以教会に東京出獄人保護所原寄宿舎が開設されることになったのです。
 保護所設立に当たり、協議員が置かれ、本多庸一、岡部長職、小河滋次郎、清浦奎吾、三好退蔵、島田三郎、土方久元、鈴木眞一が協議員になりました。
 
※本多庸一:明治期のキリスト教指導者で日本メソジスト教会初代監督、教育者。1870年、横浜で英語を学び、アメリカ・オランダ改革派のアメリカ人宣教師ジェームス・ハミルトン・バラが開いたバラ塾に入学(1871年)。1872年、D・タムソンより受洗し、日本初のプロテスタント教会である横浜公会(日本基督公会)に参加。横浜バンド(横浜居留地でキリスト教に入信した人たちの集まりのこと)の一人に数えられています。
 1874年にメソジスト派の宣教師ジョン・イングを伴って弘前に帰郷し、東奥義塾塾頭を務めます。翌1875年10月には、弘前日本基督公会を設立し、初代牧師になりました。弘前公会は、イングの影響もあり、翌1876年12月に弘前美以教会と改名し、メソジスト派の教会に移行しています。
 1878年に府県会規則が制定され、青森県会が解説されると、初代議長に選出されています。1886年に議員を辞し、仙台美以教会に牧師として赴任。翌年、東京英和学校(青山学院の前身)校主兼教授および青山美以教会牧師に就任しました。
 1888年に渡米。列車事故を契機に伝道、教育に専心する決意をかため、ドルー神学校に学びます。1890年に帰国し、東京英和学校の校主(校長)に就任。1894年、東京英和学校が青山学院と改称すると、院長となり、1907年に辞職するまで学校経営に当たりました。この間にあった日清、日露戦争では戦地慰問団を組織するなど、戦争協力に励んでもいます。
 1907年、メソジスト3派が合同し、日本メソジスト教会が設立すると、初代監督に就任。1912年、内務省による神道、仏教、キリスト教の会議(三教会同)にキリスト教代表の一人として出席、進んで協力しました。1912年、死去。
 本多庸一は横浜バンドの一人であったことから、その頃から胤昭と交流がありました。
※岡部長職:和泉岸和田藩の最後の藩主で、明治大正期の外交官、政治家。1875年、留学のために渡米。アメリカでキリスト教信仰を持ち、新島襄らに故郷の岸和田でのキリスト教伝道を依頼している。岸和田教会(組合教会)の誕生(1885年)の切っ掛けとなった。欧米留学から帰国後は、三好退蔵を中心とした聖書研究会に参加し、三好退蔵らと共に東京第一基督教会(現・日本基督教団霊南坂教会)に合流。
 1886年、英国公使館臨時代理公使に就任。1889年、外務次官。1890年、貴族院議員。1891年、大津事件により外務次官辞任。1897年、東京府知事。1908年、司法大臣に就任し、大逆事件を処理。1916年、枢密顧問官に就任し、貴族院議員を辞職。晩年は大正天皇の側近として仕え、1925年に死去。
※小河滋次郎:明治大正期の監獄学者。ドイツ留学後に内務省で監獄行政を担当。1908年より東京帝大監獄学講師。1908年から2年間、清国に獄務顧問として滞在し、制度改革を指導。1917年、国立感化院初代所長に就任。
※清浦奎吾:明治から昭和の司法官僚、政治家。内務省警保局長、司法次官などを歴任。1891年、貴族院議員に勅選。法務大臣、農商務大臣を経験し、1906年に枢密顧問官、1922年に枢密院議長に就任。1924年、総理大臣に就任。
※三好退蔵:明治期の司法官。廃藩置県後にヨーロッパ遊学をし、帰国後は地方官や大蔵省官吏を歴任。1873年、司法省入りして判事となります。1882年、伊藤博文の憲法調査に随行し、渡欧。滞在中にキリスト教(プロテスタント)に入信。帰国後、司法次官に就任し、自宅で聖書研究会を開いていましたが、東京第一基督教会に合流しました。
 1890年、3度目のヨーロッパ遊学中に初代検事総長に任命されます。1891年の大津事件(ロシア帝国皇太子ニコライに対する殺人未遂事件)では、立場上政府の指示に従って職務を遂行しています。1893年、大審院院長となりますが、1896年に辞任。退官後は弁護士となり、東京弁護士会会長も務めました。
 1897年、貴族院議員に勅選されます。1903年に東京YMCAが財団法人になった時には、初代理事長も務めています。
※島田三郎:明治大正期の政治家、新聞人。維新後、ブラウン塾などで英語を学び、1874年に横浜毎日新聞社員総代・島田豊寛の養子となって、同紙の主筆になります。1875年に元老院書記官になり、後に文部権大書記官になるも明治14年の政変で下野。東京横浜毎日新聞社(1879年に買収されて名称変更)に戻り、1882年に立憲改進党の創立に参加し、神奈川県会議長に就任。
 1886年、植村正久から洗礼を受けて入信、一番町教会(プロテスタント教会 現・富士見町教会)に所属します。
 1888年、東京横浜毎日新聞社の社長就任。1890年に衆院議員当選、以降終生連続当選し、議長も務めています。
 1900年にユニテリアン協会に加わるも、後に植村に謝罪して復帰。
※土方久元:幕末の志士、明治の政治家。1868年、東京府判事に任命されます。その後、宮内少輔、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、宮中顧問官、元老院議官などを歴任。1885年、農商務大臣として入閣するも宮内大臣に転じ、11年間その職に留ました。1888年、枢密顧問官に任命されます。1898年、宮内大臣辞任。晩年は皇典講究所長などを経た後、教育関連の仕事に従事。国学院大学学長、東京女学館館長などを務めました。
 
 1897年1月31日に東京出獄人保護所が開設。東京集治監より30名(1月31日)、巣鴨監獄署より86名(2月5日)、北海道集治監より200名以上(2月下旬)の出獄者が訪れました。胤昭は全てを収容したわけではなく、出獄者の親族と連絡を取って、帰郷が可能な者には旅費や着物等を与えて帰し、更生の意志を持っていながらも受け入れ先の無い者を保護所に受け入れました。出獄者の世話は胤昭夫婦がしていましたが、大変だったようで、それを見兼ねて出獄者の世話を手伝ったのが片山潜、伊藤為吉、そして神田美以教会の岡田豊治と生江孝之でした。
 
※片山潜:明治から昭和期の社会主義者。米国留学中にキリスト教に入信。帰国(1896年)後、宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンの支援を受け、労働者のための地域福祉事業の拠点として「キングスレー館」を設立(1897年3月)しました。
 1898年、安部磯雄、幸徳秋水(平民新聞創刊者)らと社会主義理論の研究を目的として社会主義研究会(1900年に社会主義協会へと改組)を結成。1901年、社会民主党の発起者になります。
 1904年、第二インターナショナルの本部員に選出されます。アムステルダムで開催された万国社会党第六回大会に出席し、日露戦争の最中にありながら、ロシア代表のプレハーノフとともに反戦を訴えました。1906年、日本社会党結党に参加するも幸徳秋水らと対立。1914年に渡米し、北米で共産主義活動を行っています。1921年、ソ連に渡ってコミンテルン常任執行委員会幹部となり、コミンテルンの日本共産党指導に関与。1933年、モスクワで死去。
※伊藤為吉:明治から昭和期の建築家、発明家。片山潜とともに渡米後、修道会に住み込み、洗礼を受けました。学費捻出のため、建築設計事務所で働き、建築の実務を学んでいます。帰国後、伊藤組工作所を設立し、教会建築、耐震住宅の設計、建築労働者の教育などを手がけました。
 
 胤昭は保護所が開設にあたり、「長期受刑者は時代の変化に対応できず、社会に出ても生活が困難であり、犯罪を犯しかねないため、寄宿舎で社会生活に徐々に慣れさせると共に悪事に走らないような生活環境を整え、職を持たせて自立できるように支援する必要がある」という内容の保護所設立趣意を新聞や雑誌に発表し、資金援助などの協力を呼びかけたところ、多くの寄付が寄せられました。協議員や神田美以教会、番町教会の他に、福沢諭吉や植村正久も寄付をしていて、福沢諭吉は胤昭と出獄者を招いて供応もしています。
 胤昭の保護事業を支援するための演説会も開催され、協議員の他、留岡幸助、アメリカ総領事マガイヴォルらが協力しました。
 この様に保護所開設には、多くの人々の支援がありました。それは胤昭の人脈によるところが大きいのはもちろんですが、時代背景の後押しもあったようです。
 更生保護事業を最初に行ったのは、胤昭ではありませんでした。1881年の監獄則で定められた「別房留置」の制度が最初だったようです。「別房留置」とは、出獄しても行くあてのない者などに対して、本人の願い出があれば監獄内の別房に留まることを許す制度で、官営の更生保護会のようなものでした。しかしながら、この別房留置制度は、受刑者の急速な増大により監獄維持費が加速度的に膨脹したために、別房留置制度に対する批判的意見も強まり、1889年の改正監獄則によって廃止になりました。以後、政府は更生保護事業をもっぱら民間事業に頼ることとし、有志の慈善者を奨励して民間保護施設の設立を後押していたのでした。
 ちなみに、最初の民営の保護施設は金原明善が発足させた「静岡県出獄人保護会社」(1888年設立)であり、これに刺激されて全国各地に更生保護施設が設立されました。
 
※植村正久:明治大正期のキリスト教思想家、牧師であり、日本のプロテスタントの指導者。横浜でジェームス・バラ宣教師に師事し、横浜公会で受洗。1880年、下谷一致教会牧師。1887年、番町一致教会を設立し、終生その牧師を務めました。
 日本基督教団成立以前の最大教派だった日本基督教会(長老派)の初期の指導者でもあり、神学校の東京神学社を創設して伝道者の養成に尽力してもいました。
※留岡幸助:明治から昭和の牧師、社会事業家。同志社英学校を卒業後、北海道の空知集治監の教誨師。1899年、東京巣鴨に家庭学校を創立。後に北海道の北見にも分校を開設し、非行少年の救護に努めました。
 
 1898年、神田美以教会は九段坂上に新築移転し、九段美以教会と名称を変更、胤昭は借用していた神田美以教会の仮会堂である旧伊藤玄朴邸を安価で譲り受けました。ところが、1903年、九段坂通りの道路拡張により、東京出獄人保護所の敷地が道路用地に掛かり、神田元柳原町の国有地を貸与されて移転することになります。移転先の建物の造営はかつての被保護者達によって担われ、翌年に完成したのですが、多額の建築費が必要でした。その建築費の寄附金集めに協力したのが大隈重信でした。大隈は自邸で非常に高額な入場料を設定した「早稲田観菊慈善会」を開催し、入場料収入を寄附金としたのです。
 
 東京保護会は非常に多くの元受刑者を社会に復帰させました。社会復帰に成功し、保護所を出て行った元受刑者にも、胤昭はフォローアップを続けていました。それは、胤昭の保護の方針が被保護者の全生涯を通して保護するというものだったからです。
 東京保護会は出獄人保護事業に多大な影響を及ぼしましたが、胤昭は1938年10月31日付で解散させました。
 
◆保護所設立以降
 胤昭は1897年に東京出獄人保護所を設立しましたが、それだけに専念していたわけではありませんでした。保護所設立以降に、胤昭が関わった主な活動を並べると以下のようになります。
 1898年、兵庫県出獄者保護会神戸愛隣会の顧問に就任。大日本婦人教育会の賛助者に就任。
 1899年、岡山孤児院東京地方委員に就任。
 1900年、貧民研究会(後に庚子会と改称)に加入。
 1901年、愛国婦人会の設立事務の委託を受ける。
 1908年、中央慈善協会常務幹事に就任。
 1911年、内務省細民調査(貧困層の生活実態調査のようなもの)に調査員として参加。
 1912年、警視庁の委託で浮浪者・浮浪児の保護事業開始。
 1914年、労働者層のための小住宅事業開始。
 出獄人に限らず、困窮者保護について幅広い活動をしていたことが分かります。
 
 兵庫県出獄者保護会神戸愛隣会は、会主が佐久間芳蔵でしたが、実際に同会を設立して保護に携わったのは主事の村松浅四郎でした。村松は、救世軍(プロテスタントの一派)の出獄人保護施設・労作館の責任者を経て、神戸で貧民伝道に携わった後、神戸愛隣会を創立しました。胤昭が顧問に就任したのは、労作館の開所式に来賓として招かれるような立場であったこと、神戸愛隣会監督の長田時行が築地の英学塾の学友だったことが関連していたようです。
 
 大日本婦人教育会は、1886年に華族女学校教授・小鹿島筆子(石井筆子)、棚橋絢子、木村貞子らが女子教育の普及を主唱して組織した東京婦人談話会を、1887年に規模を拡大して発足しました。大日本婦人教育会は目的を「婦人教育ノ普及ヲ計リ其徳操ヲ養成スルコト」とし、総裁に皇族の閑院宮妃、会長に毛利安子が就任、名流夫人達が役員や会員に名を連ねましたが、実際の運営は女性教育家達が担っていました。賛助者には近衛篤麿公爵、毛利五郎男爵(1899年に顧問)、島田三郎、原胤昭が就任していますが、男性はこの4名だけでした。ほとんどが女性で構成されている大日本婦人教育会に胤昭が賛助者として加わったのは、「近衛公の知遇と信頼とを受けてゐた」と大日本婦人教育会の資料にあることから、近衛公爵が引き入れたものと思われます。ただ、胤昭は名目だけの存在では無く、会の運営に直接参画していたようで、後に功労者として称えられています。
 
 岡山孤児院は、石井十次が1887年に前身の孤児教育会を創設したのが始まりです。石井は孤児教育会を創設した翌年、孤児で犯罪を重ねた末に神戸監獄署でキリスト教の教えにより更生した渡辺亀吉を訪ね、教えを受けていました。この亀吉は神戸教会員で、胤昭とは胤昭が神戸に教誨師として赴任した時に出会っています。亀吉の更生の経緯は、胤昭の精神的な支柱になったようで、胤昭が釧路の教誨師に赴任した時には亀吉を呼び寄せ、教誨の補佐役にしていました。胤昭と石井を引き合わせたのは亀吉でした。
 孤児養育事業の重要性を胤昭も理解していました。胤昭が教誨した受刑者の中には孤児だった者が少なくなく、胤昭はその様な者に接する内に孤児の養育環境の悪さが犯罪を犯す主原因だと考えるようになりました。ですから、石井の孤児院にも積極的に協力しました。1899年に寄付金募集のために音楽幻燈隊が東京公演を行った際には、胤昭が教会や大日本婦人教育会の人脈を駆使し、プロモーターの役割を果たしています。この時、胤昭は石井を伴って渋沢栄一を訪ねていて、それが切っ掛けになったのかは分かりませんが、渋沢は1902年に東京出獄人保護所の協議員になっています。
 東京公演が契機となり、胤昭は岡山孤児院東京地方委員に就任、東京出獄人保護所を岡山孤児院支援のための東京における拠点としました。胤昭は東京地方委員として岡山孤児院に対する経済的支援を行う一方で、保護した孤児を岡山孤児院に送致することも行っていました。例えば、孤児になり乞食の手下となっていた6歳の男児を保護し、岡山孤児院に送ったことがありました。
 
※石井十次:明治期の社会事業家。1884年に岡山教会で金森通倫より受洗。1887年、孤児教育会を創設。1889年に医学の道を諦め、孤児教育に専念することを決心し、1890年、孤児教育会を岡山孤児院にします。1891年には濃尾地震による震災孤児を収容。1898年より岡山孤児院の財政安定のために音楽幻燈隊を編成し、全国巡回。1906年の東北大凶作では1000人以上の棄児を収容。1907年に岡山孤児院東京事務所及び大阪事務所を開設し、1909年~12年には院児を宮崎県茶臼原に移住させて理想郷の建設を試みています。
 
 愛国婦人会は、1901年に戦死者の遺族や傷痍軍人の救護を主な目的とし、奥村五百子が近衛篤麿公爵と共に創設しました。皇妃を総裁にいただき、海外にも拠点を持ち、最盛期には700万人の会員を持つ全国的規模の婦人団体でした。
 愛国婦人会は設立に当たり、設立事務を胤昭に委託しました。設立事務をどう進めていいのか分からなかったために、近衛公爵が信頼していた胤昭に白羽の矢が立ったようです。胤昭は2、3年の間、事務を取扱っていました。
 
※近衛篤麿:明治時代の華族、政治家。近衛家の家督を相続後、華族令の制定に伴い公爵となります。1890年に貴族院の公爵議員として政界入りし、1892年から貴族院議長を務めました。1895年に第7代学習院院長、1896年に帝国教育会初代会長に就任。1903年に枢密顧問官に任命され、1904年1月1日に死去。藩閥政治に批判的で、アジア主義を唱え、北海道開拓や教育制度問題など関係しました。
 
 中央慈善協会の始まりは、1903年に慈善事業家約200名が参加した全国慈善大会(大阪開催)でした。ここで、全国的連絡組織「日本慈善同盟会」設立が決定され、設立準備は慈善救済事業の研究会である庚子会に委託されました。庚子会は会の名称を「中央慈善協会」に改めるなど、具体的な検討を進めたのですが、日露戦争により発足は見送られます。しかし、1908年に国学院講堂で中央慈善協会が発会式が行われ、渋沢栄一が初代会長に就任しました。渋沢栄一は日本資本主義の父とも呼ばれる実業家ですが、福祉や教育などの慈善・社会事業にも熱心で、身寄りの無い子供や老人、路上生活者、障害者などを救済する日本初の公立救貧施設「東京養育院」の院長(1885年就任)なども務めていました。ですから、会長に相応しい人物として渋沢がなったのでしょう。
 胤昭は創立委員として中央慈善協会の発足に関わり、発足後は常務幹事に就任しています。中央慈善協会の本部事務所は胤昭の自宅に置かれ、胤昭は庶務や会計等の事務処理の他、機関雑誌「慈善」の編集発行に携わりました。中央慈善協会は僅かな会費以外に財源が無かったため、胤昭は協会のために運営資金調達も行っていて、しばしば胤昭は渋沢に資金を立て替えてもらっていたようです。
 胤昭は他にも協会の地方団体に対する巡回視察を行っていますが、これは渋沢の意向によるものでした。
 中央慈善協会は内務省主導で発足したのですが、民間の私設団体という位置付けでした。そのため、資金は自前で集めねばならず、発足時より運営資金不足に悩まされていました。それを打開するため、1917年から内務省の補助金の交付を受けます。これにより協会の会則が改正され、人事も変わり、本部事務所も胤昭の自宅から内務省地方局別室になりました。胤昭は常務幹事から委員及び評議員という立場になり、第一線から退きました。
 
 胤昭は生涯を通して幅広い活動を行いましたが、東京保護会解散の約3年半後の1942年2月23日、88歳で生涯を終えました。
 

################################
 胤昭の生涯を調べてみたのは、「平民社農場の人びと」の著者・小池喜孝氏が安吉と静岡三人組を結びつけたのは胤昭だったと推測していたため、その推測が正しいのか判断するためでした。
 胤昭は、福沢諭吉、大隈重信、渋沢栄一、新島襄という有名人から、総理大臣となる清浦奎吾や名門華族の近衛篤麿などの有力政治家、本多庸一、植村正久といったプロテスタントの有力者、社会主義者の片山潜など、プロテスタント関係者や上流階級の人物と関わっていたことが分かりました。ですが、静岡三人組との直接の接点は見つけられませんでした。胤昭と静岡三人組の生涯を見比べてみても、交わる様な点は無いように思えます。ですから、胤昭と静岡三人組の誰かが接触したことは無いのではないでしょうか。
 
 胤昭と関わった人物の中で、胤昭と静岡三人組の橋渡しをした人物がいる可能性を探ってみます。
 社会主義者の片山潜はどうでしょうか。静岡三人組の渡辺政太郎は片山の設立した社会主義協会に入会していましたし、片山は胤昭の東京出獄人保護所を手伝っていました。片山はアメリカから帰国後、キリスト教を基礎にした社会事業の展開を考えていたようで、それで保護所の手伝いをしたのでしょう。ですが、手伝った期間は短く、胤昭との関わりは薄かったように思えます。保護所開設の1ヶ月後には自らのキングスレー館を開設していますし、翌年の1898年からは社会主養に傾倒し、キリスト教会関係者とは疎遠になっていました。それに、平民農場が開設された1905年には、片山は日本にいませんでした。第二インターナショナルのアムステルダム大会に出席するため、1903年12月に出国し、1906年1月に帰国しています。以上のことから、片山が胤昭と静岡三人組の間に介在したということは、ほぼ無いでしょう。
 次にメソジスト派の本多庸一はどうでしょうか。渡辺政太郎と原子基は静岡の岩本教会(メソジスト派)に出入りしていましたし、本多はメソジスト派の有力者でした。それに、本多が塾頭を務めた東奥義塾に原子が在学していたようですし、原子が洗礼を受けた弘前美以美教会は1886年まで本多が在籍していた教会でした。ただ、原子が洗礼を受けたのは1897年4月ですので、面識があったとは言いきれません。原子は1900年頃から1903年まで東京にいました。本多も胤昭も東京にいましたから、本多の紹介で胤昭と原子が会う事は可能です。ですが、その可能性は薄いように感じます。
 小崎弘道についても考えてみます。小崎はYMCAの前身組織である東京基督教青年会の会長で、渡辺政太郎はYMCAを訪れたことを切っ掛けに熱心なクリスチャンになり、YMCAの紹介で岐阜の濃飛育児院に勤めています。ですから、小崎と渡辺に面識があった可能性があります。また、胤昭と小崎は旧知の間柄でした。とすると、孤児に関心があった胤昭と渡辺が小崎を介して接触したと考えることも可能ですが、これも可能性は薄いように感じます。
 胤昭と静岡三人組の原子や渡辺が人を介して知り合いになったと考えることも可能ですが、証拠がありません。それに、胤昭と原子や渡辺が知り合いだったとしても顔見知り程度で、何かを依頼するような間柄ではなかったでしょう。胤昭が安吉を静岡三人組に紹介した可能性は低いように思います。
 
 胤昭の生涯を調べた理由はもう一つありました。胤昭と鳥居坂教会の間に関係が無いか調べるためです。
 岩崎きみは鳥居坂教会の永坂孤女院に預けられていたと推測されますが、それに胤昭が関与していたのではないかと考えていました。ですから、胤昭の生涯を調べれば、鳥居坂教会が出てくるのではないかと思っていたのですが、胤昭と鳥居坂教会の間に直接的な関係は見出せませんでした。接点はメソジスト派ということくらいですが、メソジスト派といっても系統が違っています。
 胤昭が孤児院を世話するとしたら、永坂孤女院ではなく関係の深い岡山孤児院だったでしょう。実際に孤児を岡山孤児院に送っていたのですから。岩崎きみが孤児院に預けられたことについて、胤昭の関与は無かったと思います。
 
///////////////////
原胤昭の生涯とその事業――中央慈善協会における活動を中心として
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/5790_48762_ref.pdf
岡山孤児院東京地方委員としての原胤昭の活動
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/6038_50030_ref.pdf
釧路集治監教誨師時代の原胤昭 - 関西学院大学
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/5432_45659_ref.pdf
原胤昭の生涯とその事業
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/5587_46637_ref.pdf
日本キリスト教団弘前教会
http://www6.ocn.ne.jp/~akarenga/hirosakikyoukaireihaidou.htm
昭和35年版 犯罪白書 第三編/第一章/六 釈放者の保護
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/1/nfm/n_1_2_3_1_6_0.html
クリストファー・カロザース
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%B9
論文「日本の会衆派教会(組合教会)の歴史 その源流と発展(2)アメリカン・ボードの日本伝道から現代まで」
http://theologie.weblike.jp/jump2%20Theologie2009i.htm
教会の通ってきた道~プロテスタント開教から日本基督改革派教会設立へ~
http://www.calvin.org/rcjway1.htm
東京YMCA歴史130年
http://tokyo.ymca.or.jp/ymca/enkaku.html
日本組合基督教会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%84%E5%90%88%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E4%BC%9A

PageTop

CMのベタ踏み坂



 ダイハツ・タントカスタムのCMの「ベタ踏み坂」、てっきりCGだと思っていましたが、実在する橋だそうです。その橋は、島根県と鳥取県の間に架かる「江島大橋」。
江島大橋1

江島大橋2

◆江島大橋
区間:鳥取県境港市渡町~島根県松江市八束町江島
工事期間:平成9年度~平成16年度
事業費:約230億円
構造:橋脚と橋桁が一体となったPCラーメン構造
全長:1.7km(うち橋梁部1446.2m)
高さ:水面から約45m(中央部)
最大橋脚間隔:250m(中央部)
幅員:標準部11.3m、非常駐車帯部15.3m
縦断勾配:江島側6.1%、渡側5.1%
制限速度:40km/h

 CMに映っているのは江島側で、とんでもない傾斜に見えますが、勾配が6.1%ということは約3.5度の傾斜です。それ程でもないですね。別角度から見るとそれがよく分かります。
●CM映像
江島大橋3

●上空から(左が江島側)
江島大橋4

●海上から
江島大橋5

 道路構造令で規定されている道路最大勾配(普通道路)は9%で、設計速度が40km/hの場合は7%(普通道路)です。ですから、この程度の傾斜の坂道は珍しくもありません。天空に伸びて行っているような感じがインパクトを与えていますが、スキー場のゲレンデで言えば緩斜面です。周りに地面が無いために遠近感を狂わし、余計に急勾配に感じさせるのでしょう。

 この江島大橋から西側に直線距離で50km程行くと出雲大社があります。現在の出雲大社本殿は、1744年に造営され、高さ約24mですが、平安時代の出雲大社本殿は約48mもあったそうです。950年頃に書かれた「口遊(くちずさみ)」という本には、東大寺の大仏殿よりも高いとの記述があります。
 江島大橋の中央部の高さが約45mですから、平安時代の出雲大社本殿と同じくらいの高さです。昔の本殿は、江島大橋のように見えていたのかもしれませんね。

●平安時代の出雲大社本殿を再現したイメージ図
江島大橋 平安出雲大社


 FC2に慣れるため、写真や動画を載せたエントリをアップしてみましたが、イザ!とは勝手が違いなかなか大変です。

//////////////////////////
ダイハツ公式 タントカスタム 坂篇 30秒ver
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=xySyTUJujhQ
江島大橋の概要
http://www3.pref.shimane.jp/houdou/files/3FC68CB9-4F24-46E5-9718-24A993F9C804.pdf
道路最大勾配
http://www.geocities.jp/jitensha_tanken/road_slope.html

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。