六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴6

・・・「留寿都と赤い靴5」の続き。
 
 平民農場から去った3人は、その後にどの様な道を歩んだのでしょう。簡単に触れてみます。
◆深尾韶
 1905年8月下旬に一時的に帰京したまま、平民農場に戻りませんでした。結局、平民農場には3ヶ月程しかいませんでした。
 1905年秋、由分社入社。「家庭雑誌」の編集者をしながら、活発に文筆活動を始めます。
 1906年1月、堺利彦と共に日本社会党を結成。2月、西川光二郎と樋口伝が結成した日本平民党を合併し、日本初の合法的社会主義政党である日本社会党の評議員の一人となりました。
 3月、電車賃値上げ反対運動の事件(電車事件)で収監され、6月に保釈されます。
 1907年9月、肺結核にかかり、療養のため静岡に帰郷。その際、妻のみち(加瀬沢みち 明治24年生まれ)を実家に帰しました(1908年2月に正式に離婚)。韶の帰郷後、社会主義運動内部では直接行動派と議会政策派の対立抗争が激化していました。そんな中、韶の渡辺政太郎へ宛てた手紙が「社会新聞」で公表され、それが恩師のような存在の堺利彦の怒りを買い、堺から絶交されます。
 1909年2月、電車事件の控訴審で禁固1年6ヶ月、執行猶予5年の判決を受けました。この後、韶は社会主義運動からフェードアウトします。
 療養中、韶はボーイスカウトの存在を知り、ボーイスカウト運動の研究をしていました。「静岡公報」の記者になった韶は、1909年4月に静岡の少年向け投稿誌「少年時報」で少年軍団設立を呼びかけます。しかし、反応は皆無でした。
 「静岡公報」の解散を機に上京(1912年6月)。斯道会(国民道徳運動推進組織)の書記に就任し、文部省や軍に少年軍団の意義を説いて回ります。
 1914年2月、静岡市に戻って設立運動を開始し、8月に「静岡少年団」を結成。韶は「静岡新報」の記者をしながら、「少年軍団教範」を出版(1915年)します。静岡少年団は2年余り活動を続けるも、韶が静岡市を出たことで解散(1916年)しました。
 1917年10月、「万朝報」静岡支局記者として静岡市に戻ると、再建運動を開始。1918年6月に「静岡少年団」を結成して常任理事に就任しています。1922年、「少年団日本連盟」が結成されると理事に就任し、万朝報静岡支局閉鎖を機に上京し、連盟本部に勤務しました。本部では精力的に活動しますが、ベルギー行きを辞退したことにより退職し、1927年3月に静岡に帰りました。
 帰郷後、電力会社設立に動きましたが失敗。製糸製袋物製造卸業を始めて成功を収めます。事業家に転身した韶は、報恩会(小林幸太郎が創設した修養団体)に傾倒。静岡分会長を務め、亡くなるまで会のために尽力しました。
 ボーイスカウトとの関係も続いており、1953年にボーイスカウト日本連盟から「先達」の称号を送られ、ボーイスカウト静岡連盟の相談役も務めていました。
 1963年11月8日、肺炎で死去。84歳でした。
 
◆渡辺政太郎
 1906年、人手不足だった東京孤児院から協力を求められ、上京。東京孤児院に2年程勤めましたが、1908年3月に「東京社会新聞」が創刊するとそちらに移ります。しかし、10月に廃刊。11月には社会主義青年団を組織し、社会主義運動を続けました。
 1910年に大逆事件が起こると、社会主義運動は冬の時代を迎え、社会主義運動から脱落する者が多数出ました。この大逆事件以降、政太郎は無政府主義者になったとされています。
 1913年、中国で辛亥革命に続く第二革命の火の手が上がると、政太郎は5月に上海に渡り、革命軍都督・何海鳴の軍に参加して司令部付佐官待遇になりました。しかし、9月に南京が陥落すると日本領事館に逃げ込み、強制帰国させられます。
 帰国後、政太郎は雑誌「微光」や「近代思想」などに協力したり、足尾銅山鉱毒問題に取り組んだ田中正造に協力したりしていました。また、自宅で無政府主義の研究会を開催し、後進の養成に努めました。ここから、後に無政府主義運動で名を残すことになる人材が多数生まれています。
 1918年5月17日、自宅で病没。終生、貧乏暮らしだった46年の生涯を終えました。
 
※大逆事件(幸徳事件)は明治天皇爆殺計画を切っ掛けに、社会主義者が弾圧された事件。1910年5月に検挙が始まり、1911年1月の大審院で幸徳秋水ら24人に死刑、2人に有期刑判決が下され確定します。 24人の内、12人は特赦で無期に減刑されますが、12人は1週間ほどで死刑が執行されました。戦後、暗殺計画に関与したのは4人だけだったことが判明しています。
 
◆原子基
 平民農場が解散となり、北海道から帰京する途中の1908年3月、盛岡市で岩手平民会を結成。赤沢村に平民農場を作ろうとしましたが、失敗し、東京に戻ります。その頃、社会主義運動は幾つかに分派していましたが、基は特定の派には所属せず、幅広く交流する一方、貧民街の長屋に住み、屑屋などをして生計を立てながら、労働者のための活動を展開していました。
 1917年6月、原子一家は室蘭に渡り、基は輪西製鉄所の雑役夫に就職。同製鉄所に勤めていた鈴木志郎を頼ったものと思われます。原子一家と鈴木一家は隣り合わせの長屋に住んでいたそうです。
 何時の頃かハッキリしませんが、基は江差付近で住職をしていた叔父の寺で得度していたようです。室蘭では法衣を身に付け、経を唱えながら近所の家々を回っていたことがあったとのこと。
 1917年10月、基は家財整理のために一人上京し、半年以上も留ました。製鉄所の仕事に馴染めなかったようです。在京中は渡辺政太郎の会合に出席したり、雑誌に文章を寄せたりしていました。原子一家が何時帰京したか定かではありませんが、1921年末には東京で長屋生活をしていたようです。
 基は石水という僧号を名乗り、宗教活動(曹洞宗)を次第に本格化させます。基の活動は社会主義運動と仏教活動が混ざり合った状態でしたが、徐々に仏教活動に比重が置かれるようになったようです。
 1928年に北豊島郡南千住の中古住宅を買い、本堂(観自在講)を自宅横に建て、信者を集めてキリスト教と仏教を折衷した説教をしていたようです。
 1933年、説教中に倒れ、8月22日に病死。54歳でした。
 
 
 青森、山梨、静岡で生まれた3人の若者が同じ志を持って三人組を結成したにも拘わらず、平民農場入植から三人の歩む道が徐々に分かれて行きました。社会主義の冬の時代を経て、結局、深尾は社会主義から完全に離脱し、渡辺は無政府主義者になり、原子は僧侶になりました。渡辺と原子は死ぬまで貧民と向き合ったのに対し、深尾は貧民とは無縁の世界に生きました。この違いは幼い頃の家庭環境の違いもさることながら、社会主義者になる過程から生じたのではないでしょうか。
 渡辺と原子は貧困生活の中でキリスト教に救いを求め、社会主義に目覚めました。二人にとっては、キリスト教的博愛主義の延長線上に社会主義があったのでしょう。平等な社会を実現することが貧民救済になると信じたのだと思います。社会主義は貧民救済の手段であり、目的はあくまでも貧民救済にあったのではないでしょうか。ですから、形を変えながらも貧民と生涯を通じて関わっていたのでしょう。二人の根底に流れっていたものは、幼少の頃からの苦労に裏付けされた人間主義的なものだったように感じます。
 対して、深尾は教師という保障された生活の中に飽き足らず、理想を求めて社会主義に飛び込みました。アイデンティティの確立にもがきながら見つけたのが社会主義であったのでしょう。若者が青春時代に持つ一時的な理想主義が社会主義を魅力的に見せたのかもしれません。深尾にとって社会主義は目的である反面、頭の片隅には社会主義を世に頭角を現すための手段という考えがあったのかもしれません。だから、平民農場で苦労することに耐えられなかったのでしょうし、社会主義が冬の時代になると早々に見切りを付け、それまで批判してきた相手に取り入ることも出来たのではないでしょうか。深尾の根底に流れっていたものは、強烈な上昇志向だったような気がします。
 
 
 本エントリは「赤い靴」に関する周辺事情を書く予定だったのですが、かなり横道にそれました。なので、少しばかり岩崎きみに関することに触れます。
 岩崎きみは静岡に生まれ、母の平民農場入りには付いて行かず、東京のキリスト教系の孤児院で亡くなっています。「静岡」「平民農場」「キリスト教」「孤児院」というキーワードについては、渡辺と原子にも当てはまります。特に、原子については室蘭で鈴木志郎と再開していることから何らかの形(きみの死を伝えた?)で関与しているのかも知れません。
 最後に、新聞の名前が色々と出てきて分かりづらいと思いますので、参考までにその新聞について書き記します。
 
 
■社会主義系の新聞の変遷
1903年
 日露戦争前夜、日刊新聞「万朝報」が非戦論から主戦論に転向すると、それに反発した幸徳秋水や堺利彦らの記者が退社し、「平民社」を設立(10月23日)。
 11月15日、平民社は週刊「平民新聞」第1号を発行。戦争反対の主張を繰り広げる。
 社会主義協会の片山潜が渡米したことから、協会本部が平民社に置かれ、平民社が社会主義運動の中心組織になる。
1905年
 平民新聞の発禁処分が避けられない状況に追い込まれ、自ら廃刊することになり、1905年1月29日発行の第64号が最終号となった。
 翌月には平民新聞の後継紙・週刊「直言」が発行される。事実上、平民新聞から直言に名を変えただけでだった。
 9月、日比谷焼き討ち事件について政府批判をしたため、直言が無期発行停止になる。これが引き金になり、直言の廃刊と平民社が解散が決定され、10月9日に解散式が挙行された。
 平民社が解散すると木下尚江、石川三四郎らキリスト教社会主義派は月刊誌「新紀元」を創刊(11月10日)し、西川光二郎、山口義三らの唯物論派も月刊誌「光」を創刊(11月20日)した。これら2派に組しない者もいたため、社会主義運動は三陣営に分裂。
1906年
 6月23日、滞米していた幸徳秋水が帰国。幸徳の帰国が切っ掛けになり、日刊新聞を発行する計画が持ち上がり、各派の機関紙の「新紀元」と「光」が統合することになる。
 11月10日、第13号を最後に新紀元が廃刊。12月25日、第31号を最後に光が廃刊。
1907年
 1月15日、平民新聞社より日刊「平民新聞」が創刊される。
 2月19日付けの平民新聞が発売禁止となり、西園寺内閣が安寧秩序を害するとして日本社会党に解散命令を下す。
 日刊「平民新聞」が発行禁止になり、4月14日の第75号で廃刊。4月15日、平民新聞社解散
 6月1日、森近運平が大阪平民社より「大阪平民新聞」(後に「日本平民新聞」と改題)を創刊。6月2日、片山潜、西川光次郎らが社会新聞社より「社会新聞」を創刊。大阪平民新聞は議会政策派、社会新聞は直接行動派の機関紙の役割を果たすことになり、社会主義運動は議会政策派(軟派)と直接行動派(硬派)に再分裂。
1908年
 3月15日、西川らが片山と袂を分かち、東京社会新聞社より「東京社会新聞」を創刊。軟派は分裂した。
 東京社会新聞の中心メンバーの西川と赤羽が投獄され、東京社会新聞は廃刊に追い込まれる。東京社会新聞は9月15日の第15号で廃刊し、10月8日、渡辺政太郎が中心となり廃刊式が行なわれた。
1911年
 8月3日、社会新聞が第80号で廃刊。
 

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東京育成園の歴史・理念
http://homepage3.nifty.com/kyo-do-kodomonosono/toiku.html
回想の松島正儀(一)
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/68/1/shakaifukushi133_181-259.pdf
 

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留寿都と赤い靴5

 留寿都村に岩崎きみをモデルにした像が建てられることになったのは、きみの母・かよが平民農場に入植したためです。平民農場に入植しなければ、鈴木志郎と結婚することもなく、野口雨情と出会うことも無かったでしょう。
 そもそも、社会主義者だった原子基らが、何故、来道して農場を創めたのでしょうか。その辺の経緯が分かる本を見つけました。
 
大逆事件の周辺―平民社地方同志の人びと
柏木隆法 著  論創社 1980年出版
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E2%80%95%E5%B9%B3%E6%B0%91%E7%A4%BE%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%90%8C%E5%BF%97%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%B3%E3%81%A8-1980%E5%B9%B4-%E6%9F%8F%E6%9C%A8-%E9%9A%86%E6%B3%95/dp/B000J7PTUU/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1373993732&sr=8-1&keywords=%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA
 
 この本の「第二部 静岡県編 Ⅲ静岡の三人組」で平民農場に関与した深尾韶、原子基、渡辺政太郎が取り上げられています。以下、この章を参照しながら3人について記します。
 
 
 週刊誌「直言」(明治38年2月26日付)の「同志の運動」欄に次の文章が掲載されていました。
**********************
■三人組伝道行商
 吾々とても今現に主義のために働きつつあるのである、原子生は富士育児院の為めに各地を遊説しつつ到る処に主義を弘道せんと試み、渡辺生は「平民床」てふ理髪店を開きて昼も夜も絶間なく伝道をなしつつあるのではあるが、併しまだまだかようなマドロい事では到底駄目である、更に活発な更に有功な事業に取り掛らねばならぬ、さらば如何にして働かんか、山口、小田両君の範を示したる彼の伝道行商!彼こそ吾等の行くべき道ではあるまいか、ソコで吾々は将に十五円の資金を以て行商用の車を作り、書類と幻燈器械とを満載して東京の吾党本部を後にしようと目論んで居る、深尾生は現に小学教師であるが、此行商中教員間に勧誘して教員労働組合を作りたいと志して居ります、此際本部から相当の御指揮を仰ぎたく存じます(原子、渡辺、深尾三人組)
**********************
 平民農場に関与した深尾、原子、渡辺の3人の社会主義者は平民農場が設立される前に、静岡で三人組を結成して、伝道行商を始めようとしていました。
 伝道行商とは牛乳配達に用いていた小型の箱車(荷車に箱を取り付けたもの)を赤く塗り、平民新聞や社会主義書籍などを積み込み、「社会主義伝道行商」の幟を立てて、各地を回って書籍などを売り歩きながら、社会主義協会員を募ったり、署名運動を展開したりした宣伝活動です。多くの社会主義青年が試みていました。上記に出ている小田頼造と山口義三は、東京から下関までの1200kmを踏破しています。また、荒畑寒村が「社会主義伝道行商日記」という本を残しています。
 
 この3人はどの様な経緯で三人組結成に至ったのでしょうか。それぞれの人物について、結成に至るまでを書き出してみます。
 
◆渡辺政太郎
 1873年7月17日、山梨県中巨摩郡松島村(現・甲斐市)にて誕生。父は庄三、母はよね。7人兄弟の長男で、弟2人と妹4人がいました。生家は農業と雑貨商を兼業していましたが、生活は苦しかったようです。
 1887年、政太郎は数えの15歳で横須賀の洗濯屋に丁稚奉公に出ます。2年程して帰郷、甲府紡績会社の職工になりました。その後、理髪職人になるべく修業、理髪店を開業し、一家の生計を支えました。
 1894年、22歳の時、商業学校に入る目的で上京します。上京前に父は死亡していたため、政太郎の上京で一家は離散。母と妹は富士郡大宮町の親類(若林家)の世話になりました。
 上京後、政太郎は新聞配達などで収入を得ながら予備学校に通っていましたが、苦学生活に苦悩していました。そんな中、神田の基督教青年会館(東京YMCA)にある煩悶引受所を訪れたことを切っ掛けに熱心なクリスチャンになりました。それから間も無く、青年会館の紹介で岐阜の濃飛育児院に勤めることに。しかし、院長と対立し、数年で退職して東京に戻ったようです。
 1899年7月、青年会館で開催された活版工懇話会の労働問題演説会に参加したことにより、社会主義に目覚め、社会主義協会に入会。政太郎は後に「余が社会主義の戦闘線に入りしは、孤児を世の中から無くす為なり」と述べていることから、動機は孤児救済にあった模様です。
 1900年(若しくは1899年)、東京孤児院(後に東京育成園と改称)に勤めていた従兄妹の若林八代(1873年生まれ)と結婚。八代の実家は政太郎の母らが世話になっていた若林家でした。
 1903年、友人の渡辺代吉が孤児院を創設することになり、静岡県富士郡吉原町(現・富士市)に赴いて富士育児院の創設に協力しますが、1年足らずで育児院から手を引きます。
 育児院から離れた政太郎は、富士郡大宮町山本で山地を借りて農業を始めましたが、畑が大雨で流され失敗。理髪店「平民床」を開業(1904年2月の日露戦争開戦時には既に開業していた模様)し、客に社会主義を説いたり、演説会の開催、伝道行商者の支援など、静岡県で熱心に社会主義運動をしていました。
 
◆原子基(はらこもとい)
 1880年3月9日、青森県中津軽郡弘前駒越町(現・弘前市)にて父・常太郎、母・かねの長男として誕生。弟1人と妹2人がいます。生家は小録の士族でしたが、維新後に刀鍛冶を始め失敗。父・常太郎は寺子屋を開き糊口を凌いでいました。
 基はミッションスクール東奥義塾に在学していたようで、1897年4月に弘前教会(メソジスト系)で洗礼を受けています。
 1900年頃、両親を次々と亡くし、基は兄弟を引き連れて上京。妹2人は東京孤児院に預けました。
 1903年、渡辺政太郎と共に静岡に赴き、富士育児院の助務員になります。
 1905年、伝道行商のために富士育児院を退職。
 
◆深尾韶(ふかおしょう)
 1880年11月12日、静岡県静岡市城内の旗本屋敷にて誕生。父は信四郎、母はひさ。6人兄弟の長男で、弟3人と妹2人がいます。深尾家は旧幕臣で、維新後に徳川家と共に江戸から移住したようです。父・信四郎は県庁の税収吏を勤めた後、小学校教員になり、庵原郡小島村小河内(現・清水市)に転居。信四郎は後に校長になっています。
 韶は小島小学校を優秀な成績で卒業、補習科に進むも、教師になるのを嫌って、数えの13歳で静岡監獄の給仕になりました。給仕を2年程勤めた後、沼津区裁判所熱海出張所雇いになっています。
 1897年9月、庵原郡袖師小学校の代用教員になった後、1899年9月に北海道石狩郡当別小学校、1901年3月に静岡県庵原郡西奈小学校、1901年5月に北海道上川郡東旭川小学校、1903年9月に北海道松前郡福島小学校と、教員として各地の小学校を転々としました。
 1903年8月、理想団に加入していた韶は札幌で幸徳秋水の講演を聴き、社会主義者になったようです。1903年12月22日付の平民新聞で、韶は社会主義運動の高揚を訴えていました。ついでながら、1904年6月19日付の平民新聞では、偶然にも韶の文章と原子基の文章が並んで掲載されていました。
 1904年7月、韶と北海道に渡っていた弟・範二は両親の希望で静岡に戻ました。韶は庵原郡富士川小学校に勤務しながら、遊説に来た社会主義者を支援したり、演説会で弁士をしていたようです。
 
※東京孤児院は、明治29年三陸沖大津波で孤児となった子供達を収容していた孤児教育院を創立者が運営放棄したことから、北川波津が引継ぎ、運営したのが始まりです。北川波津がハリストス正教の信者だったことから、ハリストス正教から支援を受けていました。
 1898年に東京市牛込区原町三丁目に移転し、孤児教育院から東京孤児院に改称。1903年、赤坂区青山南町六丁目に移転。1907年、東京育成園に改称。1914年、荏原郡駒沢村上馬引沢字真中に駒沢分園完成。1925年、本園を駒沢分園に移転。1938年、北川波津死去。戦後、プロテスタント系に変更。
 東京孤児院幹事の桂木頼千代は奈良県の神官の子でしたが、上京して苦学生活をするうちに社会主義者と交流を持ち、東京孤児院に出入りするようになったとのこと。社会主義者と東京孤児院は何らかのつながりがあったようです。
 
※理想団は万朝報の社主黒岩涙香が結成した団体。腐敗・堕落した人心の改良をし、個人の修養を通じて社会改良することを主張していました。 
 
 
 原子と渡辺の接点は東京孤児院です。東京孤児院で出会ったのか、社会主義運動の中で出会ったのかは定かではありませんが、東京で強く結びついたのは確かでしょう。原子と渡辺にはキリスト教という共通点もあります。富士市の岩本教会(日本基督教団)の「教会日誌」には、原子の旧約聖書のスライドショー、渡辺の妻・八代の受洗(1905年4月)などが記録されており、原子と渡辺はこの地のキリスト教伝道にも助力していたことが分かります。
 この二人と深尾が交流を持ったのは静岡に戻ってからです。平民新聞(1904年11月6日付)には「~裾野座で社会主義の演説会を開いた、渡辺政太郎君が開会の辞を述べて~深尾韶君の演説限りで遺憾ながら散会した~」との一節があります。演説会などで顔を合わし、熱心な社会主義者の同志ということで意気投合したのでしょう。
 
※日本基督教団は日本政府の強い要請により、1941年に日本国内のプロテスタント33教派が合同した団体。メソヂスト、バプテスト、ルーテルなどが含まれる。
 
 3人は静岡に伝道行商に来た山口義三と小田頼造に刺激されたのでしょう。三人組を結成して伝道行商に乗り出すことになりましたが、実際に伝道行商を実行したのは原子と深尾の2人だけ。渡辺は母の病気や妻の反対で参加出来ませんでした。
 1905年3月31日、原子と深尾は列車で東京に向かい、平民社へ。原子らは東北北海道へのコースを予定していましたが、荒畑寒村が東北への伝道行商を計画していたことを平民社で知り、八王子→甲府→長野→直江津というコースに変更します。
 1905年4月10日、赤い箱車に幻灯機(スライド映写機)、書籍、檄ビラなどを積み込み、平民社を出発。原子は後々の喧伝活動にも幻灯機を多用していることから、幻灯機を使用するのが原子のスタイルだったようです。
 4月11日に北多摩郡の調布町、12日には府中町に到着します。13日の朝に八王子方面に出発すると、高等視察の巡査に府中警察署へ連れて行かれ、原子らの伝道行商が秩序維持の妨害とされてしまいます。原子と深尾は留置され、幻灯機などが30日間の押収処分になりました。翌14日、2人は警察官に伴われて平民社へ引き返しました。
 原子と深尾の伝道行商はわずか4日で終焉。伝道行商自体も上手く行かなかったようで、幻灯会2回、販売した書籍25冊という結果に終わりました。
 平民社に戻った2人は、平民社の居候になりながら今後のことを模索します。伝道行商の再開は状況的に無理と判断。苦し紛れに屯田事業を思いたち、碧川企救男らの小樽の同志の援助を受けて真狩村字八ノ原に入植地することに。1905年5月23日、2人は平民社を出発しました。
 
 平民農場でのことは概ね以前のエントリー「留寿都と赤い靴4」の記事の通りですが、幾つか補足します。
 記事では「原子基は宮川冬子と結婚」とありますが、原子が結婚したのは虻田郡役所で農業技術関係の仕事をしていた藤原子々松の娘・藤原ユキ(明治18年生まれ)とのこと。子々松が素人農業を見るに見かね、娘のユキを手伝いに行かせたのが切っ掛けとなったそうです。
 記事に「<二人を信ずるに足らずとせる者は援助を絶たれよ、二人は甘んじて討死する覚悟なり。>と新聞『光』の一隅(ぐう)に書いた」とあります。この文章が掲載されたのは1906年1月1日付の新聞「光」です。なので、鈴木志郎ら8名は1905年末にはすでに平民農場に居たということになります。また、「平民社という錨(イカリ)が切れても自立してゆかなければならぬと決意」とも書かれていますが、これは平民社が解散(1905年10月9日)してしまったので平民社を当てに出来なくなったということです。
 記事には無いですが、この本には「岩崎かよが私生児の娘を入植の際に米人宣教師の養女にした」「童謡『赤い靴』は彼女の身の上話を素材にして作られた」「岩崎かよの義父・岩崎安太郎の本名は佐野安吉で、かつて『天竺安』の異名をとった盗賊」との内容が書かれています。参考文献の中に菊地寛氏の「赤い靴はいてた女の子」が挙げられているので、ここから引用したものと思われます。
 
 平民農場の設立は伝道行商が失敗したことにより、苦し紛れに思いたったことでした。綿密な計画があった訳ではなく、行けば何とかなるだろう程度のことだったのでしょう。失敗したのも当然の成り行きだったのかもしれません。
 
・・・「留寿都と赤い靴6」に続く。

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スペイン脱線事故「電車でD」の現実版だったのか

 
 制限速度時速80kmの左カーブを時速190kmで侵入し、脱線大破したとのこと。当初の報道では、列車が5分程遅れていたことから遅れを取り戻すためにスピードを出しすぎた可能性を指摘していた。遅れを取り戻すために速度超過をして、カーブを曲がれず脱線大破した8年前のJR福知山線脱線事故と同様かと思った。
 しかし、新しい報道では列車の遅れが速度超過の原因とはみていないようだ。ロイターは「事故発生時刻は午後8時41分で、駅到着時刻の2分前だったことから遅れはなかったとみられている。」と報道し、遅延は無かったとしている。事故解析が進めば、遅延の有無がハッキリするだろうが、そもそも、遅延にそれ程厳しくないと聞いているヨーロッパ(南欧)の鉄道で、運転士が5分程の遅れを取り戻すために制限速度の2倍以上のスピードを出すものだろうか。
 
 今、注目されているのは、運転士が数カ月前に事故のあった区間で時速200キロに達したことを誇示する内容をフェイスブックに書き込んでいることから、運転士が最高速度にチャレンジしていたのではないかという疑惑だ。事故の発生したカーブ手前は直線区間が約80km続き、速度を制限する自動列車制御装置が設置されていないとのことなので、運転士が最高速度にチャレンジする環境は整っている。
 運転士は生存しているし、各種の記録も残っているので、事故調査によって速度超過の原因は明らかになるだろうが、もし、運転士が最高速度にチャレンジしていたなら、漫画のような話だ。「電車でD」という「頭文字D」のパロディがあるが、実際に行われていたなら笑えない。
 
 
 

 

 一昔前、ジャンボジェット機をハイジャックし、犯人が機長を殺害して機体を操縦するという事件があった。「全日空61便ハイジャック事件」と呼ばれるものだ。
 犯人は精神病院に通院していた男で、犯行動機はジャンボジェット機で宙返りやレインボーブリッジの下をくぐり抜けてみたかったというものだった。犯人はパソコンのフライトシミュレーションゲームでジャンボジェット機を操縦し、レインボーブリッジの下をくぐり抜けていることから、実際にやってみようとしたのだった。
 犯人は都内の進学校から、一浪して一橋大学商学部に入学。元々鉄道マニアであったが、大学在学中に航空機へと興味が移り、パイロットを志望して在学中にJAL、ANA、JASを受験するも、いずれも不合格。JR東日本JR西日本にも落ち、最終的にJR貨物に就職した。2年半後に無断欠勤を起こし、そのまま失踪。実家に戻り、精神病院に通院していた。
 この事件の報道で航空関係の人物が登場し、パイロット養成所の合格基準を解説していたことが記憶に残っている。その人物によると、出来過ぎる人間や探究心旺盛な人間はダメで、余計なことを考えず決められたことをキッチリこなす人間が合格するそうだ。前者のような人間は「これをしたらどうなるだろうか」「これをしたら新しい方法になるのではないか」という誘惑に駆られ易いから適正が無いとのこと。
 パイロットも列車の運転士も同じだろう。マニュアルに無いことが発生しているならともかく、通常時にマニュアルに無いことを勝手にやっては安全が保てない。マニュアル人間ではダメと巷で言われるが、職業によっては良し悪しだ。
 
//////////////////////////
Dramatic CCTV: Moment of Santiago high-speed train crash caught on tape .
http://www.youtube.com/watch?v=uFGs6hieZg4
同人ゲーム 電車でD LightningStage
http://www.youtube.com/watch?v=1p12ljkrsMQ
焦点:スペイン列車脱線、速度超過はなぜ起きたのか
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE96P04Z20130726?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0
全日空61便ハイジャック事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E7%A9%BA61%E4%BE%BF%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 

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<ショートショート>菅氏の処分

 8月某日、永田町の民主党本部の一室で両院議員総会が開催されていた。一時は400人を越える国

会議員で賑わっていたが、今は衆議院議員57人、参議院議員59人だけになってしまい、重苦しい空

気が支配していた。
 役員席に陣取る面々がうつむく中、細野豪志幹事長参議院選挙惨敗のお詫びの言葉が響く。今更、

やめる人間の敗戦の弁を聞いても仕方が無いと思っているのか、出席者は皆、うわの空で、まるで法事

の読経を聞いているような雰囲気を醸し出している。
 その空気を変える言葉が細野幹事長から発せられた。
「それでは鳩山由紀夫・菅直人両元代表の処分を発表します。」
 議員たちの背筋が伸びる。今日の両院議員総会は役員会の下した処分を承認するために開かれていた

のだった。
鳩山由紀夫元代表につきましては、既に離党されているため、党としては処分する手立てがありませ

んが、党として黙認することも出来ませんので、復党を認めないということになりました。」
 議員席からは次々と声が上がる。
「それで処分になるのか。」
「元民主党代表という肩書きを使わせないように出来ないのか。」
「言動を制限出来ないのか。」
「皆様のお怒りはよく分かりますが、党籍のない人に処分を下せないという現実をご理解下さい。鳩山

元代表の復党を認めないということに異議がある方は挙手をお願いします。」
 細野幹事長がそう言うと、議員たち黙り込んだ。
「異議なしと認めます。それでは次に菅顧問の処分を発表します。除名です。」
 話が終わらない内に、幾人かの議員から怒号が上がり、どよめきが広がった。
「お静かに。続けます。処分理由は党最高顧問という地位にありながら党の方針に従わず、再三の注意

を無視し、執行部に反旗を翻し無所属で出馬した大河原雅子氏を公然と応援したことです。公認候補の

鈴木寛氏の足を引っ張り、重要地域である東京での議席を失わせたという結果の重大性を重視しました

。重大な処分ですので、菅顧問に弁明があれば伺います。」
 菅氏は立ち上がり、役員席を睨め付けて怒鳴った。
「お前ら、俺を追い出すというのか。民主党は俺と鳩山が作った党だ。気に入らないならお前らが出て

行け。俺は出て行かないぞ。」
 議員席から次々と罵声が飛んだ。
民主党を私物化するな。」
「党の決定に従えない者は党にいる資格が無い。」
「お前のせいで何人の議員が落選したか分かっているのか。」
 声がした方に、菅氏は向き、見据える。
「誰だ。文句があるなら堂々と言え。」
 すると、若手議員が立ち上がった。
「ホォー、勇気がある奴だ。みどころがある。お前の選挙には俺が直接応援演説に行ってやる。」
「来ていただかなくとも結構です。そんな必要はありません。」
「何だと。お前が断っても俺は行くからな。お前の選挙区で、俺の後継者なれる優秀な人物だと褒めて

やる。」
 若手議員は青くなった。そんなことされたら票が減る。すかさず、菅氏がたたみ掛ける。
「俺が除名になったら、民主党から自由になるんだ。誰が何と言っても止められないんだ。分かってい

るのか。」
 菅氏は若手議員に近寄り、顔を覗き込みながら静かに言い放った。
「お前は俺の除名に賛成なのか。」
「いいえ。」
「聞こえない。ハッキリと言え。」
「除名に反対です。」
「除名に賛成する奴はいるか。俺に応援演説をして欲しい奴はいるか。」
 周囲を見渡しながら、菅氏はそう言うと、更に続けた。
「俺の除名に賛成する奴は手を上げろ。」
 議員たちは震え上がり、皆下を向いた。挙手する者はいなかった。
「見ろ、俺の除名に賛成する奴はいないだろう。除名処分は不承認だ。処分は無しだ、いいな。」
 そう細野幹事長に言い放つと、菅氏は部屋から出て行った。

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参議院選挙で鈴木宗男氏が大健闘

 参議院選挙は与党の圧勝に終わったが、そのために民主党はじめ複数の政党が泣いた。新党大地もその一つだ。新党大地は選挙区に2人、比例区に9人擁立したが、全員落選した。選挙前、参議院に1議席(横峯良郎参議院議員)あった議席も0になり、所属する国会議員は鈴木宗男代表の娘・鈴木貴子代議士1人のみとなった。
 残った鈴木貴子代議士は比例区で復活当選した石川代議士の辞職により、繰り上げ当選したばかりだ。選挙で勝てる力はないだろう。鈴木宗男代表の公民権停止は2017年4月に終わるが、時期国政選挙には間に合わない。新党大地は次の総選挙で消え去る運命か。
 
 今回の参議院選挙で、新党大地は鈴木宗男代表と同姓同名の千葉県の鈴木宗男氏を擁立するという前代未聞の戦法を取った。選挙民を愚弄するようなふざけた戦法に、逆効果だろうと思ったが、選挙結果をみるとそうでもなかったようだ。
 
新党大地比例区 得票数523146票 得票率1%
 政党名票398848票 候補者名票124298票
62,902(50.6%) 鈴木宗男 木工品製造業
38,721(31.2%) 松木謙公(元)農水政務官
 6,828 (5.5%) 内山 晃(元)総務政務官
 3,643 (2.9%) 橋本 勉(元)衆院議員
 3,313 (2.7%) 町川順子 党女性局長
 2,934 (2.4%) 萩原 仁(元)衆院議員
 2,647 (2.1%) 笹 節子(元)出版社役員
 1,834 (1.5%) 前川 光(元)外務省職員
 1,475 (1.2%) 田宮嘉一 経営指導会社長
 
 候補者名票は政党名票の1/3程度程度だったが、鈴木宗男氏の得票率は全得票数の12%、候補者名票に限れば50%を超えている。菅内閣不信任決議案に賛成票を投じて名を上げた松木謙公元代議士ですら大きく引き離されている。
 「悪名は無名に勝る」というが、「同姓同名も無名に勝る」ということか。こんなことで票が取れるなら真面目に政治に取り組む政治家はやってられないだろう。
 「国民のレベル以上の政治家は生まれない」ともいう。国民全体の政治に対する意識を変えなければならないということをこの結果は示しているのではないか。
 

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ベトナムの英雄がコンサドーレにキタァァァァ

******* Jリーグベトナム人選手獲得 *******
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130722/k10013196611000.html
 サッカーJリーグが東南アジアでの市場拡大を目指すなか、J2のコンサドーレ札幌がリーグで初めてとなるベトナム人の選手を獲得することになり、22日、現地で契約書の調印式が行われます。
 コンサドーレが獲得するのはベトナム代表のフォワ-ド、レコンビン選手(27)です。
 レコンビン選手は2004年からベトナム代表として国際試合に出場し、通算31ゴールを挙げているほか、2009年には、ベトナム人の選手としては初めて、ポルトガル1部リーグでプレーし「ベトナムの英雄」と呼ばれています。
 コンサドーレとレコンビン選手が現在所属しているベトナムのクラブは21日夜、レコンビン選手の移籍に基本合意し、日本時間の22日午後、ベトナムで契約書の調印式が行われます。
 Jリーグによりますと、加盟クラブがベトナム人の選手を獲得するのは初めてで、レコンビン選手は早ければ今月末にも来日する予定です。
 Jリーグでは、去年からタイやベトナムで試合中継の放送を始めるなど、サッカー熱が高まる東南アジアでの市場拡大を進めていて、コンサドーレのレコンビン選手獲得の背景には、チームの強化に加え、海外からの放送権料など新たな収入源を得たいという思惑があります。
**********************************
 
 1月にコンサドーレがレ・コン・ビン獲得に動いているというニュースがありましたが、2月にレ・コン・ビンがベトナムリーグのソンラム・ゲアンと年俸170万円で1年間の期限付き移籍契約を結んだことで立ち消えになっていました。それがここに来て急遽、移籍が現実になりました。チームからも発表がありました。
 
******* レ・コン・ビン選手(ベトナム ゲアン)コンサドーレ札幌へ期限付き移籍にて新加入のお知らせ *******
http://www.consadole-sapporo.jp/news/2013/07/015017.html
◆この度、レ・コン・ビン選手(ベトナム)がコンサドーレ札幌へ新加入することが決定いたしましたので、お知らせいたします。
なお、レ・コン・ビン選手は8月1日にチームに合流予定です。

レ・コン・ビン (Lê Công Vinh) 背番号 19
■生年月日 :1985年12月10日(27歳)
■ポジション :FW
■出身地 :ベトナム
■身長 :171cm
■経歴 :
2004年~2008年 ソンラム・ゲアン(ベトナム) ‐ 2008年~2009年 T&Tハノイ(ベトナム) ‐
2009年 レイションイスSC(ポルトガル) ‐ 2010年~2012年 T&Tハノイ(ベトナム) –
2013年 ソンラム・ゲアン(ベトナム

■契約期間 :2013年8月1日~2014年1月1日

■レ・コン・ビン選手のコメント
『日本でプレーするチャンスを与えてくれたクラブや関係者の皆さんに感謝します。
自分の特徴を生かしてチームの勝利に貢献できるように、トレーニングから必死にプレーし、早く北海道のサポーターの方に認められるよう努力します。』

■当クラブ 代表取締役社長 野々村芳和のコメント
『今回、レ・コン・ビン選手と正式に契約を結ぶことができて非常にうれしく思います。同選手にはベトナムという国を背負ってプレーするという強い思いが、ゲームで表現されることを期待しています。まずは日本の生活そしてサッカーに慣れるよう、クラブとしてもフォローしたいと思います。』
**********************************

 

 

 

 コンサドーレは5月にブラジル人FW・テレ選手(186cm23歳)を解雇して、7月にブラジル人FW・フェホ選手(197cm28歳)と契約したばかりです。枠は埋まってますので、韓国人GKのイ・ホスン選手を外すことになると思います。
 現在、コンサドーレは11勝12敗2分の9位。後半の巻き返しを図る戦力補強と考えたいですが、2008年に愛媛FCの入団テストをフィジカル不足という理由で不合格になった過去がありますので、一抹の不安があります。ベトナム代表で55試合31得点というのはどの程度の実力なのでしょう。
 
 有力スポンサーのサッポロビールは1年半程前にサッポロベトナムロンアン工場を建設し、ビール製造を開始しています。サッポロビールはベトナムを東南アジアの最重要市場としており、ベトナムで販売促進に力入れてるようです。
 もしかしたら、レ・コン・ビン選手の加入はサッポロビールの要請だったのかもしれません。ベトナムの英雄レ・コン・ビン選手が活躍すれば、コンサドーレ札幌に注目が集まり、スポンサーのサッポロビールの知名度も上がるでしょう。サッポロビールの普及に大きな効果が見込めます。
 
 レ・コン・ビン選手が途中加入で結果を残すのはかなり厳しいでしょう。しかし、成功したらJリーグにとってもアジア市場への拡大という面で大きなプラスになります。また、アジア市場を目指す企業やアジア企業がJリーグチームの新たなスポンサーになることも考えられます。
 アジア枠の目的は
1.Jリーグのゲームレベルの向上
2.アジア地域における新たな事業的可能性の開拓
3.アジア地域を対象とした国際交流、貢献の促進
です。しかし、現在は費用対効果から、アジア枠は韓国人選手枠のようになってしまっています。レ・コン・ビン選手の加入は本来、アジア枠が目的としていたことです。
 Jリーグによるアジアのサッカーマーケットの取り込みのためにも、レ・コン・ビン選手にはコンサドーレ優勝、もとい昇格枠に入れるよう頑張って欲しい。
 

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選挙に行きたくなければ行かなくてもよいではないか

 参議院選挙を前に、投票を呼びかけるCMやイベントが行われていた。今回からはネット選挙が解禁になったためか、ネットを利用した啓発活動もみられた。
 
 毎度のことながら、ニュース番組などでは若者の低投票率を憂い、投票を呼びかけている。
 
 「選挙に行こう」と啓発活動をすることは、予算を使ってまでやらないとならないことなのだろうか。投票率がアップさせることはそんなに必要なのか。
 日本では投票所が多く設けられ、投票所までそんなに遠くない。投票所も半日ほど開かれている。都合が悪ければ、期日前投票という手段もある。投票行動を阻害するような特段の不便は無い。それでも投票しない人は投票しないのだ。
 
 選挙に行かない理由は「選挙に行くのがめんどう」、「誰に投票していいかわからない」、「興味がない」、「自分の一票では何も変わらない」、「誰がなっても同じ」といったところだ。こうした人を投票所に連れて行ったところで、白票を投じるか、適当に候補者を選ぶだけだろう。それにどれ程の意味があるのか。多くの人が投票率が投票したから、選挙の正当性が上がったとでも言いたいのだろうか。
 投票しないということは白紙委任状を出すようなものだ。それで良いと思っているのだろうから、無理に投票をうながさなくともいいではないか。投票しないことを非難するのも理不尽だ。
 ただ、投票するしないに拘わらず、主権者は国民なのだから、選挙の結果、日本がどの様な道を歩んだとしてもその責任は最終的に国民一人一人が負わねばならない。それを忘れずに。
 

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留寿都と赤い靴4

 「留寿都と赤い靴3」のエントリーで、岡そのさんの投稿記事を掲載しました。その投稿記事には、「昭和43年5月24日からの本紙に『平民農場の興亡・・・北海道の新しき村』という題で2回に亘り発表されているのでここに重複をさける。しかしこの農場も明治40年に解散のやむなきに至っている。この間のいきさつも同教授の記事のなかに詳しく述べられているで一読して頂ければと思う。」と書かれています。「平民農場の興亡・・・北海道の新しき村」という記事にはどの様なことが書かれていたのでしょう。当時の新聞を探しました。
 

 
***** 北海道新聞夕刊 昭和43年5月24日 *****
平民農場の興亡 <北海道の新しき村> 上 山田昭夫
「半農・半伝道」旗に 明治38年、真狩村に誕生
 
 いわゆる歴史の曲がりかどについて私はこんな空想に誘われがちである。-武者小路実篤の作品『土地』の一節に書かれているように、もしもあの<新しき村>が九州の日向でなく北海道ののどこかに選定されていたならば、その後いかなる運命をたどったことだろうか、と。そしてまた、<新しき村>は狩太の有島農場の一角に出現する可能牲が全くなかったとはいえないのではないか、などと。これは、あながち我田引水の歴史へのないものねだりではない。かくもあり得たかもしれぬ歴史的仮像であり、それによって歴史的事実への脚光度をつよめることもできるのである。だが、いま私のいいたいことはそのことではない。
 
『新しき村』の先例
 
 実は<新しき村>の明治版の先例が北海道にあったのである。しかもそれは有島農場の近接地点に存在していた-それが平民農場だった。
 この風変わりな名称の農場のことは、従来ほとんど不詳だった。たとえば渡辺惣蔵氏の労作『北海道社会運動史』にもわずかな記述しか見られない。四年前に北海タイムスのコラムに中村還一氏が『平民農場』という観測気球的短文を書かれて以来、この農場のことが気にかかっていたが、明治時代の社会主義新聞九種を通覧し、高倉新一郎氏から演歌師・添田唖蝉坊の自伝「唖蝉坊生記」を拝借させていただいて卒読した結果、茫漠(ぼうばく)としたマボロシの平民農場のイメージがかなり鮮明化レてきたのである。私の調査の主目的は、有島農場や社会主義研究会のことだったが、この研究会の主カメンバーの一人、大石泰蔵なる学生が平民農場と接触していたのである。
 
その思想的発想源
 
 平民農場は、明治の言論界に重要な役割りをはたした社会主義者一統の平民新聞の発行所・平民社の有志が、明治三十八年四月に虻田郡真狩村字八ノ原(現在・留寿都町の近在)に十一町歩四反の土地を入手し、開拓事業をはじめた共同経営の<新しき村>のはしりだった。惜しむらくは明治四十年の末に早くも解散のやむなきに至ったが、北海道開発史における記録すべき農場の一ケースであると思う。いわば結社移民の縮小型で、十勝の有名な晩成社のそれにくらべると、はるかに小人数の小規模な実験農場だったといえる。農場の共同経営という着想は、もちろん平民社のかかげていた社会主義的テーゼに基因しているが、そのユートピア思想の実践的情熱にはただならぬ自負が感じられる。私はこの農場の思想的発想源として木下尚江の作品『良人の自白』(明治三十七年-三十九年)の後編・続編に見られる土地私有制否認の構想とをあげておきたい。系譜的に木下尚江は有島武郎の先輩格にあたるが、彼は地主を<神の盗賊>だと指弾し、小作人が地主との腐れ縁から解放されぬかぎり彼らの自由も独立もあり得ないのだと断じていたキリスト教社会主義の先覚者だった。
 
平民社の二人が核
 
 さて、平民農場の中心人物は、平民社の若手の原子基と深尾韶の二人だった。ただし、深尾韶は入地後まもなく家族の始末のために帰京し、そのまま東京に居残って同志の援助をたのむ交渉係ないしは外部からの相談役に終始している。したがって実質上の責任者は原子基だったといわなければならない。深尾は松前の福島村出身だという説がある。だが、それは彼の妻のことで、彼が一時道南地方で小学校の教員をしていたことから生じた浮説である。深尾は静岡県出身だった。ほかの入地者名を列記すれば、岩崎安太郎とその妻子三人、原子基の妹二人、鈴木志郎、豊田道之助、久保田種太郎、日笠与八、佐野安吉、古川啓一郎、以上合計十四名。在場者のもっとも多い時で十名前後、少ない時は五名である。岩崎以外は農業の無経験者、実働者はさらに下回る人数だから、ネコの手も借りたいほどに人手不足に悩んだにちがいない。なかには在場期間半年にみたぬ者もいるし、全員が平民社の同志であったかどうか。おそらく一、二名の季節労働者や流れ者が含まれていただろう。農場経営が順調にいった揚合、彼らの理想とした生活は半農半伝道の生活だったと思われる。また、彼らは東京の同志から相当な援助を受けているので、できれば収穫物を平民社の人々に送り届けたいものだと願っていただろう。だがそれは、いずれもはかない一場の夢でしかなかった。北方開拓の現実は、彼らにとってあまりにも過酷な試練だった。
 
同志的結合にき裂
 
 第一年目(明治三十八年)-最初の入植者たる原子・深尾・岩崎の三人は、事始めにます八坪の笹ぶき小屋を建てた。それから開墾に着手したが、一面樹林地帯なので、第一年目の成墾地は1.5町歩にとどまった。馬はなく、すべて人力による労働である。周辺の農民たちからは<東京からきた百姓でない百姓>だとズブの素人ぶりを笑われ、<主義者の物好き>だと白眼視された。思想伝道など思いもよらない。すでに警察の手が回っていて、近辺の農民たちが信用せず、不都合なことが絶えなかった。しかし、翌年になると<主義者>への誤解もとけ、逆にこんどは同情され、駐在巡査さえなにかと世話をやいてくれた。初年度の収穫は燕麦(エンバク)十俵、馬鈴しょ四俵、その他甘藍(らん)と豆類。しかし、自給自足するには足りなかった。夏場に上京したままていよく農場から逃げ出した深尾は、在場者の越冬用物資を準備するために同志から寄付をつのることに奔走していた。深尾の退場は原子との合意の行動だったが、再三の原子の督促を無視して農場にもどらなかったところを見れば、そこに当初からの同志的結合の亀(き)裂を指摘しないわけにいかない。深尾は中央の第一線で活躍したかったのである。
(藤女子大助教授)
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***** 北海道新聞夕刊 昭和43年5月25日 *****
平民農場の興亡 <北海道の新しき村> 下 山田昭夫
三年でついに解散 不運な失火、重なる借金
 
『討死する覚悟なり』
 
 第二年目(明治三十九年)-前年末に家族持ちは妻子を呼び寄せたので、一月現在の在場者は大沼の同志・鈴木志郎を加えて八名。冬揚はもっぱら伐木してまくら木を作り、それを金に替えて収穫期までの食糧確保につとめたが、資金難が切迫するばかりだった。原子基は<二人を信ずるに足らずとせる者は援助を絶たれよ、二人は甘んじて討死する覚悟なり。>と新聞『光』の一隅(ぐう)に書いた。たとえ平民社という錨(イカリ)が切れても目立してゆかなければならぬと決意していても、頼みの綱は平民社の同志以外にはな
かった。<何のその勇み励みて拓きなば野も 荒山も 明日は花園><うき事の多かる世なり物みなのつれなくばとて我は嘆かじ>この二首は農場の最年長者・岩崎安太郎の感懐の起伏である。この安太郎のむすこで二十一歳の辰三が四月二十日に肺疾で死亡した。
 
災厄に退場者続出
 
 辰三は北海道に死にに来たのも同然だった。<社会主義式>の無宗教の葬式が営まれたが、原子はこの時はじめて村民に社会主義の話をした。といっても、辰三の前歴が奉公人だったので、雇い主の圧制について説いた程度である。在京の深尾は、折りからの東京市電賃上げ反対闘争で〝兇徒聚衆罪〟に問われ、三月中旬いらい入獄していた。それもこれも原子たちの困惑に追い打ちをかけた出来事だった。深尾は六月に出獄して愁眉(び)をひらいたが、八月十日未明、強風下の失火で第二号家屋が丸焼けになってしまった。損害
約四百円。手のほどこしようのない不意の災厄だった。この失火が農場の致命的打撃に思われた。収穫期の十月、農場の再起不能を見越して数名の退場者が続出している。残る者は原子兄妹三人と岩崎夫婦の五名、一時は同志的結合さえ全くくずれてしまったのである。原子は借金と食糧欠乏に窮し、上京して同志の救援を頼まないわけにいかなかった。この年は日照つづきで天侯に恵まれなかったがそれでも燕麦(エンバク)二十五俵、ササゲ十五俵、粟(アワ)五俵、玉菜二千個、エンドウ三俵、麦二十七俵、馬鈴薯(しょ)二百俵の収穫があり、農場財産は千二百円と算出された。どうにか一息つけたのである。
 
ついに処分の決定
 
 第三年目(明治四十年)-四月、原子基は宮川冬子と結婚、岡山からの同志・日笠与八夫婦と獣医経験者の久保田種太郎が入地し、農場員は九名となった。農場の再起・自立可能の線が見えてきたかに思われるが、前年度の痛手が大きすぎた。上京した原子は、十月二十九日、神田三崎町の社会新聞での農場発起人相談会で農場処分の決定に同意せざるを得なかった。原子は十一月十七日に帰道し、一週間後に同志の渡辺政太郎が農揚にやってきた。農場処理に協力するためだった。なお、この年の農場員の動きとして特に注目したいのは、彼らが数次にわたって農場内および近村で幻灯会を開き、その時の篤志の金を足尾銅山の鉱毒被害地・谷中村の救援資金として送っている事実である。この幻灯会の世話役をしたのが大石泰蔵だった。その救援金額は微々たるものでも、自分たちのことをあと回しにした貧者の一灯の美挙だった。また、土地を買いとられた近村の移住者や小作人の無料宿泊を許していたことも、平民農場ならではのことであり、平民社の互助の精神の実践だった。
 
失敗の意識は希薄
 
 以上のごとく、北海道の<新しき村>は、第三年目のピンチを脱することができずに解散したのである。明治四十年十二月某日、久保田種太郎を立ち会い人とし、原子・渡辺の両人は、成墾地2.5町歩を日笠与八に売却、未墾地九町歩は原子・岩崎に分配、日笠の土地代金を出資者・安井有恒への返済にあて、他の逸見斧吉・大滝由太郎の出資金は寄付とすると決定した。
 三年間の成墾地が全面積の四分の一未満にすぎなかったことは、人手不足というより以上に、いかに開拓の事業が困難であるかを推測せしめる。失火とそれに伴う借金、これが致命傷だったのである。演歌師の唖蝉坊が平民農場から引き上げてきた渡辺政太郎と青森であったのは、四十年の歳末だった。原子基は翌年三月中旬に退道しているから、農場は日笠・岩崎両人の私有地と化した。原子は、帰京途中、函館で十四歳の妹・八千代を病で奪われている。原子八千代と岩崎辰三は、平民農場の尊い犠牲者だった。原子は盛岡の岩手平民会の人々と同地に平民農場の再興を企てたが具体化しなかった。さらに明治末年、唖蝉坊の兄とともに渡道し、農民たろうとしてついに土着することができなかったにせよ、この事実から考えて、明治四十一年に退道した時の原子には平民農場が失敗したという意識は希薄であったと思われる。失火と資金難さえなければ平民農場は存続し得たのだ-原子基とともに、私もそう思う。
 
有島とのすれ違い
 
 有島武郎を中心とする社会主義研究会の一員だった逢坂信■(■は「五」の下に「心」)氏によれば、大石泰蔵がいたにもかかわらず研究会で平民農場のことが話題になったことは一度もなかったという。アメリカから帰朝した有島は、明治四十年八月、父に同伴して有島農場にきている。ちょうど平民農場の再起が危ぶまれていた時である。そのころ有島は父に農場放棄の意向をもらして一しゅうされているが、もし平民農場のことを知ったならば、その行く末について無関心ではおられなかっただろう。平民農場がもう一年持ちこたえていたなら、あるいは有島の帰朝がもう一年早かったなら、有島は大石泰蔵を媒介として平民農場の存在を知り得たはずである。そして、きめわて小規僕ながら、自己の抱懐する農場経営の理想的原型をそこに見い出したかも知れないのである。
(藤女子大助教授)
**************************************************
 
 この記事からすると、平民農場に入植したことがある者は以下の14名。
深尾韶
原子基とその妹2人
岩崎安太郎とその妻子3人
鈴木志郎
豊田道之助
久保田種太郎
日笠与八
佐野安吉
古川啓一郎
 
 原子基の妹2人とはヒサ(姉)と八千代(妹)です。ヒサと八千代は4歳違いで、八千代は盲目でした。
 平民農場に居たはずの岩崎かよの名前は出ていませんが、岩崎かよの弟・岩崎辰三が岩崎安太郎の息子と書かれているため、岩崎かよは「その妻子3人」の中に含まれているのは間違いありません。ところが、かよ・辰三姉弟の両親は、岩崎清右衛門(父)とせき(母)で、かよらが平民農場に入植する以前に亡くなっているのです。かよらの親とされる岩崎安太郎とその妻とはどの様な人物なのでしょうか。
 「日本赤い靴の会」の資料(シナリオ)によると岩崎安太郎と佐野安吉は同一人物で、妻は佐野安吉が原篤胤の世話で娶った「きん」という女性だそうです。佐野安吉は殺人で北海道の監獄に収監されている時にキリスト教の教誨師だった原篤胤によって導かれ、キリスト教徒になって更生、出所後は入り婿の形で岩崎家に入り、かよと辰三を10年養ったともあります。ただ、根拠が示されていないので真偽の程は分かりません。上記記事では、岩崎安太郎は農業経験者となっています。岩崎安太郎と佐野安吉が同一人物なら、佐野安吉は農業経験者でなければなりません。佐野安吉はどこで農業経験を積んだのでしょうか。岩崎家の家業を手伝っていたということでしょうか。
 ただ、上記記事では岩崎安太郎と佐野安吉を別々に記述してありますし、在場者は合計14名となっています。岩崎安太郎と佐野安吉が同一人物だとすると入植した者の合計は13名でなければなりません。注釈も無しに岩崎安太郎と佐野安吉を別々に記述していること、合計人数が合わなくなることを考えると、岩崎安太郎と佐野安吉を同一人物と安易に判断する訳にはいきません。もしかしたら、岩崎安太郎はかよ・辰三姉弟の親類で、引き取ったのかもしれません。ただ、その場合でも戸籍に痕跡が残っていないようなので、正式な親子関係になった訳ではないでしょう。
 この佐野安吉という人物はきみの養父になっているのですが、よく分からない人物です。菊地寛氏の本では遊び人で、岩崎かよの母・せきと関係を持ちながらも、岩崎かよを妊娠させてきみを生ませた。つまり、きみの実父とされているようです。何を根拠にそう主張していたのか分かりませんが、「日本赤い靴の会」の佐野安吉像とは随分とかけ離れています。
 
 上記記事(下)の冒頭に「前年末に家族持ちは妻子を呼び寄せたので、一月現在の在場者は大沼の同志・鈴木志郎を加えて八名。」とあります。岡そのさんの投稿記事では、鈴木志郎は札幌でコックをした後、大沼に移住したとありました。どうやら、鈴木志郎は札幌→大沼→留寿都と移り住んだようです。岩崎かよと鈴木志郎は函館で出会って共に入植したとの説もありますが、これからすると平民農場で出会ったとするのが正しそうです。
 1906年1月の在場者は8名となっています。記述からするとこの8名は、原子基、原子ヒサ、原子八千代、岩崎安太郎、岩崎安太郎の妻、岩崎かよ、岩崎辰三、鈴木志郎です。佐野きみ(岩崎きみ)は居ません。岩崎かよが入植したのが前年の12月末ですから、初めから留寿都には連れて来ていなかったのでしょう。岩崎かよと娘・きみが別れたのは留寿都ではなく、それ以前のことだったことが分かりました。
 
 岡そのさんは投稿記事で、岡そのさんの出生地が真狩村字喜茂別となっていることから、鈴木志郎が小樽日報社を退職した後、帰農したのではないかと推測しています。
 平民農場は現在の留寿都村にあったのですが、当時は真狩村と呼ばれてました。岡そのさんの出生地と平民農場は同じ村内にあったのです。
 平民農場が解散した後、平民農場跡地は日笠・岩崎両人の私有地化したとありますので、岩崎安太郎夫妻はここで農業を続けていたのでしょう。鈴木志郎が失業したために、鈴木夫妻は岩崎安太郎を頼り、ここに戻ってきたということでしょうか。
 

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マンモスと北海道最初の住人

 昨日からパシフィコ横浜で特別展「マンモスYUKA」(読売新聞社など主催)が開幕しました。シベリアの永久凍土から発掘された冷凍マンモス「YUKA」(ユカ)が9月16日まで公開されるようです。
 
 自社主催ということで、数日前の読売新聞にはこの特別展の関連記事が載せられ、マンモス以外にナウマンゾウ、インドゾウ、アフリカゾウも若干取り上げられていました。
 
 

 横浜の特別展は冷凍マンモスが展示されているようですが、実は今、北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)ではマンモスとナウマンゾウの臼歯の化石が無料で展示されています。2013年度のトピック展として「野幌にもいた!ナウマンゾウとマンモスゾウ」と題し、「北海道の歴史ギャラリー」のコーナーで来年の3月31日まで展示されるようです。
 これらの化石は北広島市で発見された物で、これまで約110~70万年前に生息していた古型マンモスの化石とされていましたが、最新の研究で5~4万年前のナウマンゾウと4万2千年前のケナガマンモスゾウのものがあることが判明。この研究により、北海道の野幌丘陵で共存していた可能性が出てきたとのことです。
 
 現在、北海道は海に囲まれていますが、最後の氷期であるウルム氷期(またはヴェルム氷期 約7万年~1万年前)には海面が低く大陸と陸続きでした。
 

 間宮海峡と宗谷海峡は浅いので、シベリア沿岸、サハリン、北海道が陸続きになっていたということに異論はないようですが、津軽海峡は深いために陸続きになっていたかは説によって異なるようです。どちらにしろ、5~4万年以前は数十メートルしか海面が下がっていませんので、津軽海峡は陸続きになっていません。ナウマンゾウは狭くなった所を泳いで渡ったのでしょうか。それとも津軽海峡が氷結していて、歩いて渡れる状態だったのでしょうか。
 ちなみに、津軽海峡には動植物の分布境界線のブラキストン線が引かれていて、ここを境に生物相が分かれています。例えば、ツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンザルは北海道に棲息していませんが、ヒグマ、エゾシカ、エゾシマリスは本州に棲息していません。
 
 ナウマンゾウは南から北海道に渡ってきたと考えられていますが、マンモスはシベリアからサハリンを経由して北海道に渡ってきたと考えられています。このマンモスを追いかけて北海道にやって来た人達が北海道最初の住人と言われています。一説によると、シベリアのバイカル湖周辺から来たそうです。バイカル湖のマリタ遺跡から出土した石器と旧石器時代の石器に類似性があり、マリタ遺跡を残した人達の子孫と考えられるシベリア先住民のブリヤート人と日本の縄文人のDNAが類似しているとのこと。
 どの位前にやって来たのかは定かではありませんが、現在における北海道最古の遺跡は、約2万年前の千歳市祝梅の三角山遺跡や上士幌町の嶋木遺跡(共に旧石器時代の遺跡)ですから、少なくとも2万年以前のことでしょう。
 
 北海道における旧石器時代の特色は石器の原料に黒曜石が豊富に使われていることです。代表的な遺跡は遠軽町の白滝遺跡で、「白滝遺跡群」として国指定史跡になっています。近くにある赤石山は、日本有数の黒曜石産地(推定埋蔵量60億トン)であり、遺跡からは大量の細石刃などが見つかっていることから、石器の原料供給地であり、製作地であったのでしょう。
 白滝産の黒曜石は、道内各地の遺跡のみならず、サハリンの遺跡や大陸の遺跡からも出土しています。石器時代の人は意外と広範囲なネットワークを持っていたのかもしれませんね。ちなみに、白滝から大陸までのルートを「黒曜石の道」と呼ぶそうです。
 
 

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特別展マンモスYUKA
http://yuka2013.com/
「北海道の歴史ギャラリー」 2013年度トピック展
http://www.hmh.pref.hokkaido.jp/Tokuten/akarenga/akarenga2013/index.html
http://www.hmh.pref.hokkaido.jp/NEWS/News/zou2013.html
http://www.hmh.pref.hokkaido.jp/PDF/Dayori43/Dayori43-1.pdf
氷河時代の日本列島
http://www.kubota.co.jp/urban/pdf/11/pdf/11_2_1.pdf

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英国で散った花が函館近郊で違う実を結ぶ

 この花はある野菜の花ですが、その野菜は何でしょう。
 
 

 

 答え・・・「ジャガイモ」です。北海道は今、ジャガイモの開花時期なのです。
 
 ジャガイモは品種によって花の色が違います。白色系統と紫色系統があり、「紅丸」や「十勝こがね
」は白系で、「男爵」や「メークイン」は紫系です。写真の花は男爵いもの花でした。
 北海道産のジャガイモは全国生産量の8割程度を占めていて、ジャガイモ王国と言ってもいいでしょう。中でも男爵いもは代表的な品種で、明治時代に川田男爵が導入しました。川田男爵が導入したのは「アイリッシュ・コブラー」という品種でしたが、川田男爵にちなみ「男爵いも」と呼ばれるようになったのです。
 
 

 川田男爵こと川田龍吉(かわだ りょうきち)は安政3年(1856年)3月14日、川田小一郎の長男として、土佐の杓田村(ひしやくだむら・現高知市旭元町)に生まれました。川田家は郷士(基本的に農村に居住していた下級武士)の身分であり、藩士とはいえ半農半士の貧困生活だった様です。
 土佐郷士といえば、坂本龍馬や土佐勤王党の武市半平太(白札郷士)、「人斬り以蔵」こと岡田以蔵が有名ですが、岩崎弥太郎も郷士でした。ちなみに、岩崎家は地下浪人(郷士の株を売った者)でしたが、弥太郎が結婚前に郷士株を買い戻しています。
 
 平時ならば、郷士に出世の望みなど無かったのでしょうが、時代は幕末の動乱期。下級武士であっても才能のある若者には無限のチャンスが広がっていました。
 明治3年、岩崎弥太郎は土佐藩経営の海運業社・九十九商会を引き継ぎ、自分の個人企業にします。この時に幹部になったのが川田龍吉の父・川田小一郎でした。九十九商会は明治6年に社名を三菱商会に改め、政府の軍事輸送を一手に引き受けて躍進。三菱財閥へと発展していきます。この三菱の繁栄を支えたのが小一郎でした。
 明治初期、三菱商会は海運業が主要事業でしたので、父が三菱の幹部だった龍吉は造船技術を学ぶことになり、イギリスへ行くことに。明治10年、22歳のことでした。イギリスでは、龍吉はロブニッソ造船所で技術を修得し、グラスゴー大学で機械工学を学ぶかたわら、農村を訪れていたようです。一説にはここでジャガイモに出会ったと言われています。
 明治17年、龍吉は帰国すると三菱製鉄所に入社。日本郵船を経て、明治30年に横浜船渠(後の三菱重工業横浜造船所)の社長に就任しています。
 この間、父・川田小一郎は三菱を退き、第3代日本銀行総裁に就任していました。明治28年には政財界の発展に貢献した功により男爵に叙せられます。その喜びも束の間、爵位拝命の翌年、小一郎は日本銀行総裁のまま急死してしまいます。父の死により龍吉は男爵位を受け継ぎ、川田龍吉男爵となりました。41歳のことでした。
 
 明治36年、龍吉は横浜船渠の社長を辞任。企業経営から離れていましたが、日露戦争後の不況で経営危機に陥っていた函館船渠(後の函館どつく)の再建を財界の大物・渋沢栄一に託されます。龍吉は弟の川田豊吉と共に函館船渠の取締役(龍吉が専務取締役、豊吉が取締役)として、明治39年に函館に渡ってきました。社業のかたわら、龍吉は七飯村(現・七飯町)に9町歩(約9ヘクタール)あまりの農地を購入し、洋式農法を試みました。龍吉が試験農場(清香園)に七飯村を選んだのは、勤務地の函館に近いということが一番の理由でしょうが、明治維新前後にプロイセンの貿易商リヒャルト・ガルトネルが七飯村で開墾事業を行っていて(ガルトネル開墾条約事件)、西洋農業の遺産が残されていたということも理由だったのかもしれません。
 
 龍吉は明治41年から、アメリカイギリスから色々な西洋野菜の種を取り寄せ、試験栽培に着手。海外から取り寄せた種の中には数種類のジャガイモの種芋もあり、試作するとアメリカの「バーバンク種苗会社」より輸入した「アイリッシュ・コブラー」がこの地に最適であると確信します。以後、試作を重ね、普及を図りました。
 明治44年、龍吉は函館船渠の再建に目途をつけて辞任し、弟の豊吉が専務に昇進しました。造船事業から退いた龍吉は、北海道農業の近代化のために、当別(現・北斗市)に120町歩(約1200ヘクタール)の農場を建設し、アメリカから最新式の農機具を多数輸入して機械化農業を試みています。龍吉の努力もあり、男爵いもは北海道の奨励品種に指定(昭和3年)されたり、全道移出農産物品評会(昭和7年)で一位になったりします。昭和22年には、龍吉の偉業を讃えて清香園農場跡地(七飯町鳴川)に「男爵薯発祥の地」記念碑が建てられました。
 
 龍吉は92歳の時にトラピスト修道院で洗礼を受け、3年後(昭和26年)に当別の自宅で生涯を閉じました。龍吉が亡くなった後、金庫を開けると金髪と90通あまりのラブレターが大切に保管されていたそうです。龍吉はイギリス留学中にイギリス人女性で書店員のジェニー・イーディと出会い、恋愛の末、結婚の約束をして帰国。しかし、父・小一郎の大反対に遭い、ジェニーとの結婚は叶いませんでした。
 保管されていたラブレターはジェニーが龍吉に宛てた手紙で、龍吉が英国を離れるまでの物でした。龍吉は、生涯ジェニーのことを忘れることが出来なかったのでしょう。
 
 川田農場の跡地には、昭和58年に男爵資料館が開設され、農機具や生活用品などの資料が展示されています。
 
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じゃがいもの主要品種紹介(北海道)
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ns/nsk/potato/potato-hinnsyu.htm
vol.04 川田小一郎 (上)
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man04.html
ガルトネル開墾条約事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%8D%E3%83%AB%E9%96%8B%E5%A2%BE%E6%9D%A1%E7%B4%84%E4%BA%8B%E4%BB%B6
男爵資料館
http://www.danshakuimo.com/index.html
男爵薯発祥の地記念碑
http://www12.plala.or.jp/k-hirao/kankou/22_15.html
サムライに恋した英国娘[男爵いも、川田龍吉への恋文]
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%81%AB%E6%81%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E5%A8%98%E2%80%94%E7%94%B7%E7%88%B5%E3%81%84%E3%82%82%E3%80%81%E5%B7%9D%E7%94%B0%E9%BE%8D%E5%90%89%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%81%8B%E6%96%87-%E4%BC%8A%E4%B8%B9-%E6%94%BF%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4894344661
 

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