六丈記2

備忘録のようなもの

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留寿都と赤い靴2

 定説の元となったドキュメンタリー番組のストーリーはどの様な内容だったのでしょうか。「日本赤い靴の会」というサイトにシナリオを再現した物(PDF)が公開されていますので、それを読むとどんなストーリーだったのかよく分かるのですが、長いのと時系列が入り組んでいるので、構成し直して要点を箇条書きにし、岡そのの発言を書き出します。
<<要点>>
●岩崎かよは静岡県不二見村に生まれ、6歳の時に父と死別。その後、母は再婚したが、うまく行かず、遊び人の佐野安吉を家に入れる。
●少女だったかよは山梨県の宿屋へ女中奉公に出され、妊娠して帰って来て(?)、不二見村できみを父を明かせない私生児として出産。かよは未婚の母になる。
●明治36(1903)年冬、かよ19歳と娘きみ1歳が北海道に渡った。渡った後、どの様な生活をしていたのかは不明。
●きみは数え年で4歳の時、函館在住の外国人宣教師夫妻の養女になる。
●これと前後して、かよは鈴木志郎と共に留寿都村の平民農場に入植。
●平民農場で働いていた時に、志郎とかよとの間に女の子が生まれる。
●宣教師に帰国命令が出され、きみは宣教師と共に出国。
●明治40年、平民農場解散
●志郎とかよは札幌に移住する。
●志郎は札幌で北鳴新報社の記者として働き、野口雨情と同僚になる。
●志郎一家と雨情一家は一軒家で同居することになり、かよは雨情の妻に身の上話をし、雨情は妻からきみの話を聞く。
●雨情は十数年後、かよの思い出を童謡(赤い靴)にまとめて発表した。
●宣教師は誰だったのか。明治39年に函館いた外国人宣教師夫妻ということを手掛かりに調べると、ヒュエット宣教師とバーティルス宣教師が候補に挙がる。
●アメリカで調査すると、バーティルス夫人の墓はあったが、バーティルス師の墓は無かった。夫妻に何があったのか分からず、きみに繋がる手掛かりも途切れた。
●一方、ヒュエット師の親族は見つかった。ヒュエット夫妻に子供はいなかったが、甥や姪が健在で、ヒュエット師が3、4歳の少女を養女にしたという証言を得る。岡そのにヒュエットとという名に聞き覚えが無いか確認すると、母からシュミットさんとかいう名前を聞いたことがあるとの返答。きみを養女にした宣教師はヒュエット師だったと確信する。
●ヒュエット夫妻の墓を探し当てるが、きみの墓は無い。ここで、きみへの手掛かりは途切れた。
●清水市役所で戸籍を調べると、意外な事実が判明する。きみは佐野安吉の養子になっており、佐野きみ、明治44年9月19日午後9時死亡となっていた。
●死亡届は麻布区で出されており、青山墓地の台帳にも佐野きみの名があり、戸籍簿と同じ死亡年月日で、死因結核性腹膜炎、満9歳となっていた。きみは鳥居坂教会の共同墓地に眠っていたのだった。
●きみは一度は渡米したが、ヒュエット夫妻が最後に日本を離れる時(ヒュエット師は2度来日している)、きみが病気で船旅に耐えられないと知って、鳥居坂教会の孤児院に預けたに違いない。
<<岡そのの発言部分>>
●「私には父違いの姉がおりまして、生きていると75歳になります。小さいとき養女として貰われていきまして、そのことを野口雨情さんが童謡に、赤い靴の女の子という題で、姉きみのことを書いて下さいました」
●「姉が貰われた方っていのは、函館に住んでいらっしゃった教会の、プロテスタントの教会の牧師さんで、子供のいない方で、ぜひその子供を養女に欲しいと望まれて、そして養女に上げたということを、父母から聞いております」
●「ちょうど父も雨情さんも苦境時代で、大変生活にも困っていたということで、ある大きな一軒の屋敷を借りまして、二人で出し合って同じ家に、その当時八円の家だったそうですが、半分ずつ出し合って、住んだということを聞いております。そこでうちの母と、雨情さんの奥さんと女同士で語ったこと、いろいろな話をして、それを雨情さんがまた奥さんから聞いたと言うことで、そのとき雨情さんも、鈴木君の細君は相当苦労したねと、必ずそのきみさんはアメリカで幸せに暮らしているでしょう、ということを一言言って慰めてくれたということを聞いております。」
●(やっぱり親だし、その、養女に出したってことを、後悔していたんでしょうね)
「まあ、してたでしょうね、と思いますよ。それは若いときと違って、年とともに、それは深く感じてくるでしょうと思いますね。さびしかったんでしょう。誰かに話したかったんでしょう、きっとね」
(なるほどねえ、きみちゃん、アメリカに渡ったかしら)
「わたしはねえ、父母のことを聞きますとね、やはり渡ってると思いますね」
(きみちゃん、幸せになれたかなあ」
「そうですね、私はそう思いたいですね。幸せになったと思いたい」
●「母は亡くなる前に、2、3日前でしたけど、私が枕元に付いておりましたら、ぽっかりと覚めまして、いま国に行ってきたんだよって。山を登ったり、谷を渡ったり、とっても怖かったの、と言って頭が汗でぐっしょりでした。そして、国の人に会って来たよ。きみちゃんにも会ってきたよって、ということを言って、わたしをびっくりさせています。それから2日後でしたか、夕方なくなりました」
●「きみちゃん、復活の日までここに安らかに眠っていてください。必ずまた会えるときが来ます。それまで楽しみにしています」
 
 実は「日本赤い靴の会」という会は「赤い靴の少女のモデルはきみ」という説を否定しています。設立趣意書には2つの目的が書かれています。
*************設立趣意書*************
 テレビ番組の捏造によって汚された、童謡『赤い靴』を元の清らかな姿に戻すために、会は作られました。
 『赤い靴』の女の子だとされる「きみちゃん」は実在しましたが、『赤い靴』とは無関係の少女でした。事実ではないお話によって、この20年間に4体の「きみちゃん」像が建てられました。(静岡県日本平・東京麻布十番・北海道留寿都村・小樽)
 童謡『赤い靴』は近代日本の精神が投影された、文化遺産です。テレビ番組は、この文化遺産を落書きで汚しました。『赤い靴』に塗りつけられた赤ペンキは、ときが経って、落としにくくなっていますが、やはりきれいに洗ってやらなくてはなりません。そのために、当面全国に4体の「きみちゃん像」に付された「これは赤い靴の女の子」という説明プレートを覆う活動を計画しました。これが会の目的です。
 いま北海道などで、さらにいくつかの像が計画されています。像は募金によって建てられます。新たに建てようとしている人々は、募金を集めています。なにも知らない純真な子どものお小遣いや、その親御さんたちの無垢な心とお金が吸い上げられようとしています。
 これは大きな問題です。けれども、見逃してはならない、もっと大きな問題は、偽の歴史が子どもたちに伝えられていくことです。これ以上像が作られるのを防ぐことが、会のもう一つ目的です。
************************************
 
 サイトを見てもらえば分かりますが、「日本赤い靴の会」は史実を細かく掘り起こし、具体的かつ論理的に反論しています。非常に説得力があり、「ドキュメント・赤い靴はいてた女の子」は故意に事実を歪曲し、捏造したと認めざる得ません。
 
 菊地寛氏の経歴を調べてみると、1964年に北海道大学法学部を卒業し、北海道新聞に入社。北海道新聞では社会部記者などを経験。1973年頃(HTBが開局5年目に転職しているので、1972/11/3~1973/11/2の間)に北海道テレビ放送(HTB)に入社し、番組制作にかかわる。HTBではプロデューサーを経て、常務で退社。2002年、北星学園大学文学部心理・応用コミュニケーション学科教授に就任し、2011年3月に退官。
 岡そのさんの投稿が掲載されたのが、1973年11月17日ですから、その時にはHTBの社員だったようです。菊地氏は番組制作に携わっていましたから、日頃から良い題材を探していたのでしょう。そんな時にメジャーな歌の意外な裏話というそのさんの話です。良い題材にめぐり合ったと思ったに違いありません。古巣の北海道新聞には人脈があるでしょうから好都合ということもあったのかもしれません。
 当時は、地方局が今ほど番組制作に力を入れていませんでしたから、菊地氏は4年程かけて、コツコツと調査を続けていたようです。それが、HTBの開局10周年番組になることに決まり、1年足らずで番組に仕上げなければならなくなりました。個人による調査から組織による調査になり、取材はアメリカまでにも広げることに。
 そこまで力を入れて取材したにも拘わらず、岩崎きみが「赤い靴」のモデルだったという証拠はおろか、外国人の養女になったという証拠も、海外に渡ったという証拠も見つけられませんでした。分かったのは孤児院で短い生涯を終えていたという悲しい事実。
 本来なら、岡そのさんが「赤い靴」のモデルは姉のきみだと思っていることを裏付けることは出来ませんでしたが、明治という時代に生きた市井の人々の姿が浮き上がってきましたとでもすべきです。しかし、それでは有名な童謡の知られざるエピソードにはなりません。開局記念番組としては失敗でしょう。それで、強引にきみと「赤い靴」を結びつけた上、短い生涯だったという悲しい意外性で終えることで、ドラマ性を持たせる演出をしたのではないでしょうか。その試みは成功し、話題作になったばかりか、今でも銅像が建てられたりしています。
 菊地氏は初めからドキュメンタリー性よりドラマ性を優先するつもりだったのでしょうか。長い年月を掛けて取材をしていたことから、初めは真面目にドキュメンタリー番組を作ろうとしていたのかもしれません。けれど、開局記念番組になったために、事実を重視するより、人間ドラマを作るという方向性になったのではないでしょうか。そのために様々な歪曲や演出を駆使して、人を引きつけるストーリーに仕上げたのでしょう。
 
 HTBのサイトを見ると、番組名は「開局記念ドキュメントドラマ『赤い靴はいてた女の子』」となっていました。これが正式名称なのでしょう。ドキュメンタリーと思っていましたが、ドキュメンタリードラマだったようです。
 ドキュメンタリードラマとは、一般的に「事実に沿って実写や再現映像を用いながら真実を分かりやすく表現する手法」というくらいの意味でしょう。ドラマとは違い、少なくとも主要部分がフィクションではない物を指すものだと思います。
 ところが、「赤い靴はいてた女の子」はきみについて、「1902年に私生児として生まれた」「佐野安吉の養子になっていた」「麻布区の孤児院で9歳の時に亡くなった」くらいしか判明しなかったのに上記のようなストーリーを作り出しました。はたして、「ドキュメント」という言葉を使うに値するのでしょうか。
 
<・・・続く>
//////////////////////////////
日本赤い靴の会
http://sky.geocities.jp/akaikutsunokai/index.html
学外広報誌 HOKUSEI@COM | 北星学園大学
http://www.hokusei.ac.jp/site_information/pdf/v9.pdf
HTB沿革
http://www.htb.co.jp/htb/information/history.html

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留寿都と赤い靴1

 以前のエントリーで「後方羊蹄山(羊蹄山)」を取り上げました。そこでも書きましたが、「後方」は「しりべ」と読み、たぶん現地での呼び名に漢字を当てたものです。ですから、「後方」は「後の方」という意味ではないのですが、後方羊蹄山の名が広まると、後方があるのに前方が無いのはおかしいという理由で「前方羊蹄」と呼ばれた山があります。羊蹄山の南東方向にある尻別岳(しりべつだけ、アイヌ語でピンネシリ)のことです。
 尻別岳は1町2村にまたがる山で、麓には留寿都村もあります。留寿都村には遊園地、ゴルフ場、スキー場があるルスツリゾートがあり、道民にはお馴染みのリゾート地です。ちなみに、留寿都の由来はアイヌ語の「ル・スツ」で、「道が山の麓にある」という意味になります。
 

 この留寿都村には場違いと思われる「赤い靴公園」という名の公園があり、女の子の像(母思像)が建てられています。童謡「赤い靴」の歌詞にある女の子をイメージして建てられたものだそうです。
 
 
***** 童謡「赤い靴」 野口雨情作詞・本居長世作曲 1922年(大正11年) *****
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
 
横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
 
今では 青い目に なっちゃって
異人さんのお国に いるんだろ
 
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに逢うたび 考える
**********************************************************

 

 歌詞から分かるように横浜港を舞台にした歌です。それが何故、北海道の片田舎の村が銅像を建てたりしているのでしょうか。調べてみると、北海道のテレビマンが関わっていたことが分かりました。
 1973年、北海道新聞夕刊に「赤い靴に書かれた女の子は、会ったこともない私の姉です」との投書が掲載されました。投書したのは「赤い靴の少女」の異父妹と名乗る「岡その」さんでした。
 この投書に注目した北海道テレビ放送の菊地寛氏が調査を開始。5年の歳月を掛けて「ドキュメント・赤い靴はいてた女の子」(1978年 北海道テレビ製作)というドキュメンタリー番組にまとめます。番組では、岩崎かよの娘・きみ(佐野きみ)がその赤い靴の少女のモデルであったと結論づけていました。
 菊地氏はこれを元にしてノンフィクション小説「赤い靴はいてた女の子」(1979年 現代評論社)を出版します。この本やドキュメンタリー番組の内容が世間に受け入れられ、「赤い靴の少女のモデルはきみ」ということが定着し、定説となったようです。
 
 この定説と留寿都村の関わりは、岩崎かよが留寿都村の平民農場で働いていた時期に、きみを養女に出したということです。それで、留寿都村が「赤い靴」のゆかりの地とされ、銅像が建てられることになったようです。
 留寿都村の他に、この定説に基づいて建てられた像が全国に5体あります(横浜の山下公園に「赤い靴はいてた女の子の像」がありますが、きみをモデルとしていませんので除外)。
●静岡県日本平「母子像」 (きみの生誕地)
●東京都港区麻布十番「きみちゃん像」 (きみの死没地)
●北海道留寿都村「母思像」 (きみの母・かよの入植地)
●北海道小樽市「赤い靴 親子の像」 (きみの親の死没地)
●北海道函館市「赤い靴の少女像」 (きみとかよの離別の地)
●青森県鯵ヶ沢町「赤い靴記念像」 (きみの義父・鈴木志郎の出身地)
 
 像が建てられたそれぞれの場所の説明文を読むと食い違いが見られます。
<日本平観光組合>
きみちゃんは赤ちゃんの時、いろいろな事情で母親に連れられて北海道へ渡ったのですが、母親に再婚の話がもちあがり、三才の時にアメリカ人宣教師のチャールズ・ヒュエット夫妻のもとへもらわれて行きました。
<函館市公式観光情報>
1903(明治36)年、きみちゃんは、お母さんのかよさんと一緒に静岡県から函館へと移り住みました。その後、母親は後志管内留寿都村の農場に入植しましたが、病弱だったきみちゃんはアメリカ人宣教師に預けられ、函館が母子の別れの地になったといわれています。
<おたる赤い靴の会>
母「岩崎かよ」の長女として誕生します。しかし貧困や他の事情により、未婚の母「かよ」は3才の娘「きみ」を連れて函館に渡り、そこで鈴木志郎と出会い結婚しました。
やがて夫婦は新天地を求めて開拓地真狩村(今の留寿都町)の平民社農場に入植します。その際に病弱な「きみ」を連れてゆけず、泣く泣く函館にいた外国人宣教師C.W.ヒュエット師夫妻に養女として預けるのです。
<留寿都村碑文>
物語は明治38年、幼い娘を抱いた未婚の母が木枯の吹く函館にたどり着いたことに始まる。母は静岡県有渡郡不二見村(現清水市)出身の岩崎かよ、娘はきみ。
当時台頭しつゝあった社会主義運動の一つ「平民農場」が原子基を指導者として留寿都村八の原に開かれ、運動に情熱を傾けた青森県出身の鈴木志郎がこの農場で岩崎かよと巡り会い、結婚する。厳しい開拓地へ幼な児を連れて行けなかったかよは、この子の養父安吉と相談の上、きみを函館の米人宣教師C・ヒュエット夫妻に預けた。
<麻布十番未知案内>
きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。
 
 相違する部分を比較してみます。
●岩崎かよときみが函館に渡った時期
函館:明治36年
留寿都:明治38年
●岩崎かよと鈴木志郎がであった場所
小樽:函館市
留寿都:平民農場
麻布:平民農場に入植する前にいた場所
●きみを養女に出した理由
日本平:岩崎かよの再婚
函館:きみが病弱だったため
小樽:きみが病弱だったため
留寿都:開拓生活が厳しいため
麻布:厳しい開拓生活にきみが耐えられなかったため?
●きみを養女に出した時期
日本平:岩崎かよの再婚前
小樽:岩崎かよの再婚後
留寿都:岩崎かよの再婚前
麻布:岩崎かよの再婚後?
 
 定説といっても細部になると色々と違いがあるようです。
 
<・・・続く>
//////////////////////////////
赤い靴はいてた女の子 菊地 寛 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%9F%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AD%90-1979%E5%B9%B4-%E8%8F%8A%E5%9C%B0-%E5%AF%9B/dp/B000J8EUGI/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1371493993&sr=8-1&keywords=%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%9F%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AD%90
赤い靴のふるさと
http://www.nihondairakankou.com/special/akaikutsu.html
赤い靴の女の子 きみちゃん
http://jin3.jp/index.htm
留寿都村の記念碑
http://www.vill.rusutsu.lg.jp/hotnews/detail/00000240.html
留寿都町名所旧跡
http://asobihorokeruyama.hp2.jp/rusuttu.htm
おたる赤い靴の会
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/akaikutu7772007/view/200705
赤い靴の少女像
http://www.hakobura.jp/db/db-view/2013/04/post-228.html
赤い靴記念像建立実行委員会
http://www.town.ajigasawa.lg.jp/akaikutsu/

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靖国神社の放火犯は中国人? 続報19

 劉強の帰国後、たまに中国のサイト「百度」などで劉強のことを検索したりしていたのだが、今に至るまで全く消息がつかめない。自己顕示欲が強い上、愛国者として名を馳せたのだから、何らかのアクションを起こしていてもおかしくないのに、そんな様子はうかがえない。中国政府の保護下に入った、というより、監視下に置かれたということだろうか。もう、劉強が表に出てくることは無いのかもしれない。
 
 今年の2月、ジパングの住人さんのブログ「黄金の国ジパングに生まれて」で靖國神社崇敬奉賛会誌「靖國」2月号(691号)に関する記事を見かけた。コラムの「靖濤」に劉強が神門への放火の前に近くにあった消火器も放火していたと書いていたとのこと。ジパングの住人さんから会誌の画像をいただいたので、掲載する。
 
 犯行の詳細が書いてある部分を拡大。
 
▼この事件は平成二十三年十二月二十六日の午前三時五十五分、劉強容疑者が夜陰に乗じて境内に侵入し、神門に液体燃料を撒いて放火。幸い着火直後に衛士が監視カメラで視認。大きく火柱が上がっていたものの、職員三人が対処し数分後には消し止めて延焼を免れたのである。驚愕すべきは、神門の消火作業を妨害する目的で直近の消火栓にも放火しており、計画的で極めて悪質な犯罪であった。
 
 劉強がネット上に公開した手記(靖国神社の放火犯は中国人? 続報5 参照)の該当部分を再掲する。
********************************
 3時57分、神門に近づいて10メートル離れた小木の下に隠れ、リュックサックを開け、ペットボトルとガラスコップを取り出し、中をガソリンで満たし、小走りを3回繰り返して神門に近づき、木の門の上にガソリンを注ぐ、神門は13メートルの高さがゆうにあり、1メートルの半分近くの厚さで、焼却するには100リットルのガソリンの半分を用いると短時間の内にすることも根本的に不可能ではない、それで今回はマークをするのみ、後に続く同志がまだあると信じる。神門の上方の金色の日本国章、恕恩は詰め込み用に清酒の小さいガラスコップを選択、上へ蒔くのに都合よい、やはり効果があり。
 4時ちょうど、抗日戦の勝利目前に戦死した新四軍抗日将軍である祖父を記念して、日本の軍国主義を完全な「死」に落とすために開始を同じにした(日本語の「4」と「死」は同音)。恕恩は手の中のライターを点ける、たちまち神門は一面の小さい火の海の中に陥り、しかも音も無く静かに上方へ広がる、やはり予想通りで、火は上へと燃えた。恕恩は小走で走る途中でついでに神門そばの消火栓の箱を燃やし、消火活動を防ぐのにあまりにも「タイミング」が良い。
 4時5分、恕恩は塀をよじ登り小さい通用門から出た、意外にも警察と通行人に出会わなかった、恕恩はひたすら小走で、走りながらリュックサックの中の火炎の瓶を用意した。1分後、恕恩は4つの大きい文字で「靖国神社」と書かれた高さ10メートル程の石碑の場所に駆け寄った、恕恩は燃焼瓶(火炎瓶のことか)に点火、力一杯石碑上方に投げつけた、「タン【訳者注:銅鑼の音の擬音】」の一音、「靖国神社」は燃え盛る火の中で溶解する。
********************************
 時系列にまとめると次のようになる。(靖国神社の放火犯は中国人? 続報10 参照)
03:57    神門から10メートル離れた小木の下に隠れる
03:58(推定)木の下でPETボトルから清酒の小さいガラスコップにガソリンを入れる
03:59(推定)神門にガソリンを上に向けて撒く
04:00    ライターで点火
04:02(推定)神門そばの消火栓の箱を燃やす
04:05    塀をよじ登り、木戸から出る
04:06    社号標に火炎瓶を投げつけ、燃やす
 
 会誌の記述と手記の内容を比較すると、点火した時間が5分ずれている。会誌が示した時間は靖国神社の防犯カメラの記録からのものだろうから、こちらの方が正確だと思われる。劉強の時計が進んでいたのか、後で「4」と「死」が同じ発音なのに気付き、時間をずらしたのか。
 次に消火栓について。劉強は消火栓へ放火したと書いていたが、消火栓への放火は報道されていなかった(と思う)ので、会誌によってその事実が確認された。一般には知られていなかったことを書いているということは、「秘密の暴露」と考えてもいいのではないか。今まで、劉強が犯行に関わっていたことは間違いない(事件を知った後に日本の旅館らしき場所で混合ガソリンを持った写真を撮る時間的余裕が無いため)が、実行犯ではない可能性もある(手記の記述に疑問があるため)と考えていた。しかし、消火栓への放火が秘密の暴露と考えられるため、やっぱり劉強が実行犯だったのかもしれない。
 劉強の手記には社号標への放火が書いてある。会誌には書いていないが、社号標へも放火されていたのだろうか。もし、社号標への放火もあったなら、ますます劉強が実行犯の可能性が強くなる。
 
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「黄金の国ジパングに生まれて」靖国神社を放火した犯人、中国へ送還される
http://ameblo.jp/asukasecondlife/entry-11463870911.html

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後方羊蹄

 
 

 

 

 

 この山の名前は何でしょう?
 答えは「羊蹄山(ようていざん)」。見ての通り富士山とよく似ています。だから、「蝦夷富士(えぞふじ)」と呼ばれることもあります。
 羊蹄山は北海道の後志(しりべし)地方にある標高1898mの活火山(約6000年前以降は活動していない)で、日本百名山の一つです。
 


 

 アイヌ民族はこの山を「マチネシリ」又は「マッカリヌプリ」と呼んでいました。マチネシリは、「マチネ」が女、「シリ」が山ですから「女山」という意味です。「マッカリヌプリ」は、「マク(後ろ)」+「カリ(回る)」+「ヌプリ(山)」となりますが、麓に真狩川(まっかりがわ)が流れていることから、真狩川の「マッカリ」と山の「ヌプリ」を組み合わせたものではないかと思います。ちなみに、真狩川の由来はアイヌ語の「マッカリベッ」で、「ベッ」が川を意味しますから、マッカリベッは「奥で曲がる川」という意味になります。
 明治になり、「後方羊蹄山(しりべしやま)」が正式な表記なりました。しかし、明治20年代になると、「後方羊蹄山」と「マッカリヌプリ」を巡って名称論争が発生します。更に、 明治38年に山麓にある倶知安村(現・倶知安町)に蝦夷富士登山会が発足すると、「蝦夷富士」の名称が一気に広まり、3つの名称が並存する状況になっていました。だけども、後方羊蹄山を「しりべしやま」と読むのは難しいことなどから、結局そのまま音で読んで「こうほうようていざん」、略して「ようていざん」という名称が一般化しました。
 昭和22年の測量時に、一般住民にわかりやすい名称にとの理由で、後方羊蹄山を羊蹄山に地名変更して欲しいという要望が倶知安町から出されます。昭和28年の測量時に調書を提出し、標準地名表は羊蹄山に変更されました。昭和44年には国土地理院の地形図が「羊蹄山(蝦夷富士)」と書き換えられています。日本百名山は未だに「後方羊蹄山」としていますが、現在では「羊蹄山」が定着しています。
 
 ついでながら、「後方羊蹄」は「しりべし」と読みますが、「後方」を「しりべ」と読み、「羊蹄」を「し」と読みます。「後」は「しり」とも読みますし、「方」も「へ」と読めるので分かりますが、「羊蹄」は漢字2字なのに1音。 無茶苦茶です。
 羊蹄とはタデ科の植物の「ギシギシ」の漢名で、和名は「し」です。ですから、「羊蹄」を「し」と読んだようです。
 
◆ギシギシ
学名:Rumex japonicus Houtt
英名:curly dock
日本全土に分布する多年草で、道ばたによく生えている雑草。
 
 

 マッカリヌプリや蝦夷富士は名称理由が分かり易いですが、後方羊蹄山の名称はどこから出てきたのでしょう。実は、後方羊蹄山の名称の由来は日本書紀に端を発しているのです。
 日本書紀には、斉明天皇4年(658年)から3度にわたり、越国守阿倍比羅夫(こしのくにのかみ あべのひらふ)が北方に遠征したと記されています。
 斉明天皇4年、比羅夫は180隻の軍船で齶田(あぎた、現・秋田)、渟代(ぬしろ、現・能代)へ遠征し、蝦夷(えみし)を服属させ、蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領(こおりのみやっこ)に任命しています。更に、有馬浜(ありまはま 青森県の深浦あるいは鯵ヶ沢あたりと推定されている)に進み、渡島蝦夷(わたりしまのえみし)を招集して饗応しました。
 斉明天皇5年、比羅夫は飽田、渟代、津軽、胆振?(いぶりさえ)の蝦夷を集めて饗応し、肉入籠(ししりこ)から後方羊蹄まで攻め入り、政所(郡庁)を設置して帰国。
 斉明天皇6年、比羅夫は陸奥の蝦夷を船に乗せ、大河のそばで1000人余りの渡島蝦夷と合流し、粛慎(みしはせ)と戦って幣賄弁島(へろべのしま)で打ち破ります。そして、捕虜にした粛慎を飛鳥に連れ帰りました。
 
 日本書紀のこの記述は古くから研究されていて、遠征が事実なのか、実際にどこまで軍勢が侵攻したか、多くの学説があるようです。
  遠征の真偽については、近年、奈良県明日香村の酒船石(さかふねいし)遺跡からこれを裏付ける王宮の関連施設が発見されたため、信憑性が増しているようです。比羅夫が粛鎮の捕虜を連れ帰った後、「王宮の池のそばに霊山を造り、捕虜を恐れさせたのちもてなした」とあるのですが、発見された大規模な石垣や石敷きの広場、導水施設(亀形水槽)が前記のもの可能性があるようです。
 次に、「渡島」は北海道のことだと思いますが、戦いの痕跡が北海道内で発見されておらず、大和朝廷の勢力範囲を考慮して、東北とする説もあります。ただ、斉明天皇4年の記述に生羆(いきひぐま)2匹と羆皮(ひぐまかわ)70枚を献上したとありますので、やはり北海道ではないでしょうか。
 この記述には肉入籠、後方羊蹄、幣賄弁島の地名が登場しますが、どこのことか分かっていません。
 ちなみに、粛慎は中国の周の時代の文書に登場する満州東部の民族を指しますが、日本書紀に登場する粛慎とは同一ではないようです。
 
 閑話休題。羊蹄山麓には尻別川が流れていますが、江戸時代には尻別川一帯をアイヌ語でシリベツ(山の川)と呼んでいたようです。このシリベツを日本書紀にある後方羊蹄と考えたのは新井白石です。白石は「蝦夷志」で羊蹄山麓のシリベツを「後方羊蹄」としました。「後方羊蹄」の読みを「しりべし」としたのも白石です。
 幕末に、松浦武四郎(伊勢出身、1818年生まれ)が蝦夷地探検の一環としてこの地を訪れ、羊蹄山を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けました。武四郎は阿倍比羅夫の後裔と信じていたため、富士山を連想させる山があるこの地域が、阿倍比羅夫が政庁を設置した後方羊蹄であって欲しいという心情が働いていたのかもしれません。
 明治2年、戊辰戦争の最後の戦闘である箱館戦争が終結すると、明治政府は蝦夷地に11ヶ国86郡を置くのですが、国名・郡名は開拓判官(従五位)に任命されていた武四郎の原案がほぼ採用されました。この時、余市町や倶知安町、岩内町などを含む地域(現在の後志総合振興局管内とは範囲が異なる)は後志国(しりべしのくに)とされたのです。武四郎は「後方羊蹄」を読み易い漢字に変えたのでした。ちなみに、「北海道」という名も武四郎が提案した「北加伊道」が元になっています。
 後志国は1882年の廃使置県(函館県・札幌県・根室県の設置)にともない函館県と札幌県に分割されます。その後、廃県置庁(1886年)により北海道庁が誕生し、1897年の支庁制移行により19支庁(札幌、函館、亀田、松前、檜山、寿都、岩内、小樽、空知、上川、増毛、宗谷、網走、室蘭、浦河、釧路、河西、根室、紗那)が設置されるのですが、旧国名は反映されませんでした。ところが、1910年の支庁統合により、寿都支庁・小樽支庁・岩内支庁が統合され後志支庁が誕生したことによって「後志(しりべし)」の名が復活するのです。しかも、支庁所在地は他の町と比べ繁栄していなかった羊蹄山麓の倶知安村に置かれました。
 この支庁統合が実施される以前に、比羅夫伝説に基づいて倶知安の初代郵便局長の河合篤叙が「後志地方の中心は倶知安であり、昔から政治はここで行われた」と主張して、3支庁を廃止して統合した支庁を新設することを説いたパンフレットを発行したり、当時札幌で発行していた「北海時事」にも自説を載せていました。また、倶知安初の新聞「新京報」を発行していた山田羊麓(本名実治)も日露戦争と道行政の再検討を結びつけ、「岩内、寿都支庁を廃止し、その中心地である倶知安町に支庁を設けよ」と新京報で主張していました。これらのことが支庁統合にどこまで影響したか定かではありませんが、何らかの形で影響を及ぼしたのかもしれません。
 2010年に後志支庁は廃止(支庁制から振興局に移行)されるのですが、後志総合振興局として今なお「しりべし」の名が続いています。
 
 蛇足ながら、比羅夫伝説は比羅夫神社や後方羊蹄神社を生み出し、遺跡の発掘調査の原動力にもなりました。また、JR函館本線のニセコ駅と倶知安駅の間に比羅夫駅があるのですが、この辺りの地名が「比羅夫」なのは阿倍比羅夫にちなんでいます。比羅夫の乗馬の蹄跡が残っていたと話もあるようです。
 

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静内の二十間道路桜並木

 季節遅れですが、桜のお話。
 北海道の桜名所には札幌の円山公園、北海道神宮、函館の五稜郭公園、旭川の旭山公園など多々ありますが、中でも有名なのは「さくら名所100選」に選ばれている松前町の松前公園と新ひだか町(旧静内町)の二十間道路桜並木でしょう。
 二十間道路桜並木は日本一の桜並木(新ひだか町談)で、約3000本の桜が7kmの直線道路の両脇に咲き誇ります。桜並木に挟まれた道幅がちょうど二十間(約36m)あったことから二十間道路と呼ばれるようになりました。
 北海道の片田舎なので、道民以外で知る人は少ないかもしれません。地図に示すと下図の様になります。赤の破線が二十間道路です。
 
 
 

 以下の写真は今年の二十間道路桜並木の写真なのですが、満開を過ぎた後に行ったため片側の桜がほとんど散っていました。
 
■二十間道路の山側の端から
 


■二十間道路の海側から 
 


■桜並木の間から日高山脈方向
 
 
 

 

 


 

 

 かってこの地には御用馬を生産する御料牧場が有りました。この二十間道路は視察する皇族のための行啓道路として造成され、大正5年から3年間の月日を費やして、近隣の山々からエゾヤマザクラなどを移植したため、桜並木が出来上がったのです。
 御料牧場でしたので、皇族のための貴賓舎も建設されました。二十間道路の端から少し離れた場所にある「龍雲閣」がそれです。
 
■龍雲閣正面
 


■龍雲閣裏面

 

■龍雲閣そばにある新冠御料牧場旧事務所
 
 龍雲閣は明治41年に着工、翌42年竣工で、建築金額は4939円17銭でした。当初は「凌雲閣」と名付けられていました。
 建築当初は楢柾葺きの屋根だったのですが、昭和47年の修復工事で復元する事が出来なかったため、今後の耐久性をも考慮し銅版葺きになりました。
 龍雲閣には数多くの名士高官が訪れているのですが、特に皇室関係のご来場を書き出すと次のようになります。
●明治42年8月、大韓帝国皇太子李良殿下が伊藤博文公爵随従で御臨場、御視察。
●明治44年9月、皇太子殿下(後の大正天皇)が凌雲閣に4日間の御滞在。産馬の改良、牧場作業全般の御視察、御騎乗、裸荒馬の補索騎乗等を台覧。
●大正6年7月、東久邇宮稔彦王殿下が御臨場。牧場事業の実況を台覧に供す。
●大正10年8月、北白川宮成久王殿下が御臨場。牧場事業の実況を台覧に供す。
●大正11年7月、皇太子殿下(後の昭和天皇)が龍雲閣に3日間の御滞在。放牧馬群の状況、牧場施設巡覧、各競馬、立乗競馬等を台覧。
●昭和7年8月、澄宮(現三笠宮)崇仁親王殿下が7日間の御滞在。場内をつぶさに御視察。
●昭和8年8月、伏見宮博英王殿下が2日間の御滞在。牧場事業の実況を台覧に供す。
●昭和28年8月、義宮(現常陸宮)正仁親王殿下が学習院高等科第3学年在学中に社会科見学旅行のため御臨場。場内各施設を御視察。
●昭和62年12月、三笠宮寛仁親王殿下、同妃殿下が御臨場。龍雲閣を御視察。
●平成元年9月、高円宮憲仁親王殿下、同妃殿下が御臨場。
●平成18年9月、天皇、皇后両陛下が御臨場。
 
 大正天皇陛下、昭和天皇陛下は皇太子時代に、今上天皇陛下は即位後にご来場なさっています。東京からみれば静内は辺境の地なのに、態々、いらっしゃっています。
 そもそも、どうして御料牧場が開設されたのでしょうか。歴史を遡ってみます。
 
明治 5 年 (1872年) 北海道開拓使長官黒田清隆により、北海道産馬の改良を目的として、日高管内の静内・新冠・沙流の三郡に及ぶ約7万ヘクタールの広大な用地に創設される。
明治10年 (1877年) 開拓使雇エドウィン・ダンの意見と設計に基づき、近代西洋式牧場として再編整備され「新冠牧馬場」と改称する。
明治17年 (1884年) 宮内省の所管に変更される。
明治21年 (1888年) 場名を「新冠御料牧場」と改称する。
明治36年 (1903年) 牧場事務所より目名地区に達する約7kmの新道(現、二十間道路)が開通する。
明治42年 (1909年) 貴賓客舎として木造1部2階建て楢茅葺建物(現、龍雲閣)が築造される。
大正 5 年 (1916年) 幹線道路(二十間道路)に、山桜(1,600本)、ドイツトウヒ(32万本)を植樹する。
昭和22年 (1947年) 4月1日付で農林省の所管に変更され、「新冠種畜牧場」と改称する。
昭和47年 (1972年) 創立百周年を迎える。記念事業として、龍雲閣の改修を行う。
平成 2 年 (1990年) 業務及び組織の見直しにより、10月1日付で「農林水産省家畜改良センター新冠牧場」に改組する。
平成13年 (2001年) 省庁再編に伴う組織の見直しにより、4月1日付で「独立行政法人家畜改良センター新冠牧場」と改組する。
 
 一説によると、江戸時代(1799年)に幕府が使役目的として日高地方南部に60頭の南部馬を導入したのが始まりのようです。使役以外の時は山野に放牧されていたらしく、自然繁殖により、江戸末期には数千頭の大群になったと伝わっているとのこと。
 明治になり、北海道開拓使が約7万ヘクタール(東京ドーム約14900個分、東京23区の約1.12倍)という広大な土地を囲い、繁殖した野生馬を追い込んだのが牧場の始まりです。
 宮内省の所管となってからは洋種牡馬が導入され、昭和22年までの間、皇室の御用馬や軍用馬の生産と改良が行われていたのでした。
 
 競馬ファンにはお馴染みでしょうが、日高地方の沿岸部は国内を代表するサラブレッドの産地です。映画「優駿」がヒットしてからは地域活性化のために、馬を活かした観光にも力を入れています。「優駿のふるさと」を前面に押し出し、国道235・236号に「サラブレッドロード優駿浪漫街道」という愛称まで付けています。
 この様にサラブレッド一色のこの地方ですが、この様になる起源は御料牧場だったのですね。
 

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尖閣諸島、返還直前の裏舞台

 日本新華僑報網が6月5日に尖閣諸島の主権についての評論記事を載せていたとヤフーニュースが掲載していた。
 
***日本が釣魚島主権の根拠をサンフランシスコ条約とするのは屁理屈に過ぎない―華字紙***
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130606-00000024-xinhua-cn
~前略~
 5月、中国の李克強総理はドイツを訪問した際、ポツダム会議の旧跡でスピーチを行い、「戦後の世界平和秩序は必ず守らなければならないものだ。日本はカイロ宣言とポツダム宣言で決められた原則に従い、窃取した中国領土を帰還しなければならない」と指摘した。これに対して日本の菅儀偉官房長官は「日本は中国側の主張を受け入れず、日本の立場にも影響しない。日本の領土は法的にサンフランシスコ条約で決められたものだ」と述べている。
 日本新華僑報網の評論記事によれば、日本がポツダム宣言を憚るのは公告の第8条が日本の主権範囲を限定するだけでなく、天皇がポツダム宣言を受け入れると表明した終戦の詔書で、日本が侵略戦争を否定する「自衛戦争論」「大東亜戦争解放論」についてはっきりと記述しているためだ。
 ポツダム宣言は「日本の主権は本州、北海道、九州、四国と、中国英国米国が決定するほかの小島に限る」としており、日本の主権範囲が釣魚島(日本語名称:尖閣諸島)を含まないと規定している。日本はポツダム宣言の法律的効力を否定するため、サンフランシスコ条約を後ろ盾に、その中の「米国による琉球受託管理」を「主権の根拠」としている。日本の理論では「米国の受託管理する琉球諸島」に釣魚島が含まれる。そのため、釣魚島は1970年代に沖縄と共に日本に「返還」されたというのだ。
 米国議会調査局は2012年9月25日、「釣魚島紛争:米国の条約義務」と題した報告書を公表し、「当時、釣魚島の管轄権を日本に渡したことは、主権の方向を意味するものではない」としている。米国務省の報道官は「われわれは釣魚島の主権帰属に関して特定の立場をとらない」との見解を示した。日本が釣魚島の主権の法的根拠をサンフランシスコ条約と指摘するのは、屁理屈に過ぎない。
(翻訳 李継東/編集翻訳 恩田有紀)

※日本新華僑報網
株式会社日本新華僑通信社(代表取締役  呉暁楽、東京都豊島区池袋2丁目)が運営するニュースサイト。主に日本のニュースを華僑や中国人に向けて中国語で発信しているメディア。
http://jp.jnocnews.jp/news/Newsinfo.aspx?id=73
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 サンフランシスコ平和条約で、日本は尖閣諸島を放棄していないのは明白。サンフランシスコ平和条約には中華民国中華人民共和国も調印していないが、中華民国とはサンフランシスコ平和条約の発行直前に日華平和条約を締結している。日華平和条約でも尖閣諸島を放棄していないのはハッキリしている。
 そもそも、中華人民共和国が建国したのは1949年であるから、終戦時にはまだ存在しておらず講和条約に調印する資格が無い。
 
■サンフランシスコ平和条約
第二章 領域
第二条
(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(d) 日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。
(e) 日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
(f) 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 
■日華平和条約
第二条
 日本国は、千九百五十一年九月八日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第二条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される。
 
 中国はサンフランシスコ平和条約に基づくと中国の領有権の主張が破綻するのを十分理解しているので、サンフランシスコ平和条約を無効にし、ポツダム宣言を根拠にしたいのであろうが、ポツダム宣言アメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名で出された対日共同宣言である。ポツダム宣言の受け入れを要求した中華民国が日本と平和条約を締結し、領土を確定しているのだから、中華人民共和国ポツダム宣言を理由に領有権の主張するのは理屈に合わない。
 記事では「日本の主権範囲が釣魚島(日本語名称:尖閣諸島)を含まないと規定している。」と、あたかもポツダム宣言で尖閣諸島が放棄される領土になっていると断言しているが、ポツダム宣言には尖閣諸島の名は一切出ていない。ただ、「カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。」とあるだけだ。周辺小諸島に尖閣諸島が含まれていることはサンフランシスコ平和条約や日華平和条約で明らかである。
 それに、最近中国は「日本は第2次大戦の戦後秩序を守れ」などと盛んに言い出しているが、戦後秩序の基礎となっているのはサンフランシスコ平和条約である。中国がそのサンフランシスコ平和条約を否定するなら、戦後秩序を破壊しようとしているのは中国である。戦後秩序を守れと言うのなら、中国こそサンフランシスコ平和条約を尊重して、日本が尖閣諸島を放棄していないことを認めるべきであろう。
 
 記事の終わりに、アメリカが「当時、釣魚島の管轄権を日本に渡したことは、主権の方向を意味するものではない」「われわれは釣魚島の主権帰属に関して特定の立場をとらない」と表明し、アメリカが日本の主権を認めている訳ではないから、サンフランシスコ平和条約が法的根拠にならないと結んでいる。
 アメリカが日本の主権を明確にしていないから、尖閣諸島の主権は中国にあると言いたいのだろうが、アメリカは主権の問題に関わりたくないだけであり、中国の主権を認めている訳ではない。むしろ、アメリカは中国の主権を認めることは出来ない立場だ。もし、主権が中国にあったとすると、アメリカは沖縄返還まで不法占領していたことになるばかりではなく、尖閣諸島を射爆場と使っていたのだから、他国の領土を軍事攻撃していたことになってしまう。
 それに、中国台湾は尖閣諸島をアメリカが不法占領していると、当然すべき抗議をしていない。沖縄返還間近になって日本に返すなと主張していただけだ。
 そもそも、アメリカが沖縄などを統治していたのはサンフランシスコ平和条約第三条によって信託統治下に置かれ、施政権を持っていたためである。アメリカに主権が移っていた訳ではなく、主権は日本に有ったのである。沖縄返還は主権の返還ではなく、施政権の返還であったのである。

 アメリカが主権の問題を曖昧にするようになったのは最近のことではない。NHKが6日に放送した「ニュースウォッチ9」で沖縄返還時に尖閣諸島の主権に関わることが討議されていたと報道していた。

******尖閣諸島の日本返還巡る米の録音記録******
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130607/k10015132821000.html
 沖縄県の尖閣諸島がアメリカから日本に返還される直前、アメリカ・ホワイトハウスで交わされていた議論の録音記録が新たに見つかりました。日本への返還に反対する意見に対し、安全保障担当の大統領補佐官が反論する様子などが克明に記録されており、専門家は、返還に至る経緯を示す史料として注目しています。

 尖閣諸島は、1972年5月、沖縄本島などとともにアメリカから日本へ返還されました。今回見つかったのは、その前年の1971年6月、日米両政府が「沖縄返還協定」に調印する直前に、ホワイトハウスで行われた議論の録音記録で、早稲田大学の春名幹男客員教授が、アメリカの「ニクソン大統領図書館」で発見しました。
 議論のメンバーは、ニクソン大統領と安全保障担当のキッシンジャー補佐官、国際経済担当のピーターソン補佐官の3人です。
 議論ではまず、ピーターソン補佐官が「日本にとって尖閣諸島はそんなに重要なものなのか、最優先の重要事項と言えるのか」と、返還に反対する意見を表明します。
 発言の背景にあったのが、当時、アメリカが中国の正統政府として外交関係を持っていた台湾の存在です。アメリカは、台湾からの安い繊維製品の流入を食い止めようと、当時、輸出削減を求める貿易交渉を行っていました。その台湾が、尖閣諸島を日本に返還しないよう求めていたのです。
 補佐官は台湾を念頭に置いて、「大統領、繊維問題を解決するのは日本ではない、その周辺の国だ」と述べ、台湾の要求を受け入れれば、貿易交渉が進むと進言しました。これに反論したのが、安全保障担当のキッシンジャー補佐官で、「尖閣諸島は日本に返されるべきものだ。返還しなければ日本が自分のものだと思っている島を、繊維を巡る交渉をまとめるために台湾に与えるように見られてしまう」と述べます。さらに、尖閣諸島を含めた沖縄をアメリカの統治下に置くことを決めた1951年のサンフランシスコ平和条約に触れ、「条約に関して具体的な境界線を宣言したとき、われわれは尖閣諸島を含めたが、それに対し異議は出なかった。その時点で話に決着はついている」と述べ、最終的にニクソン大統領も、この意見を取り入れました。
 この議論の10日後の1971年6月17日、日米両政府は沖縄返還協定に調印し、尖閣諸島は沖縄本島などとともに日本に返還されることになりました。
 日米外交史が専門で東洋英和女学院大学教授の増田弘さんは「尖閣諸島の返還に関して、キッシンジャー補佐官が、日本への返還に決定的な判断を下していた経緯を示す貴重な史料だ」と話しています。
**********************************************
 NHKのサイトに掲載されているニュースには載せられていないが、放送では主権を曖昧にしたのは台湾に対する配慮が働いたためとのことだった。
 
 ニュースウォッチ9は新発見のように伝えているが、調べてみると2011年のNHKニュースで、外交文書が見つかったとして上記と同様の内容を放送していた。

米文書に尖閣諸島返還の経緯 投稿者 samthavasa 
 NHKニュースでは録音記録には触れていないが、2012年10月7日に放送された「報道STATION SUNDAY」でこの録音記録のことを既に取り上げていたようだ。
 「テレビにだまされないぞぉ」というブログの「米 “極秘資料”に見る尖閣 固有の領土…知られざる“暗闘” (キッシンジャー・ニクソン・ピーターソン) 【報道STATION SUNDAY】」に放送内容がアップされている。読んでみるとこちらの方がニュースウォッチ9の放送より詳しい。
 報道STATION SUNDAYでは「テレビ朝日がアメリカで独自に入手した音声記録」としているが、どの報道も情報源は春名幹男客員教授だろう。
 
 どの報道でも繊維交渉の話が出てくるが、始まりは共和党の大統領候補の指名を受けたリチャード・ニクソンが繊維産業の中心地のノース・カロライナ州で、「繊維製品に関する国際貿易は一方的でアメリカの繊維産業が損害を受けている。ジョンソン政権はアメリカ市場を解放するばかりでなく、多くの国が障壁を築いているのを容認している。私の政策はこのような不公平な状態を是正する。」というようなことを公約したことだった。大統領選挙のために、民主党の牙城であった南部の票を狙ったものだった。
 この発言の背景にはアメリカ市場に安価な輸入繊維製品の増加していたため、アメリカ繊維産業業界が不満を持ち、輸入制限を主張していたことにある。
 ジョンソン政権は実態調査をしたが、報告書の内容は下記の通りだったので、自由貿易の堅持していたのである。
米国繊維産業はかつてない急成長を果たした
●国内他製造業に比べても繊維産業の企業利益は大きい
●安価な輸入品は低所得者の必需品購入を助けている
●輸入により、特定の製造業者の利益や雇用に影響が生じたという資料は得られなかった
 
 1969年に大統領に就任したニクソンは、アメリカの貿易政策の基調は基本的に自由貿易であるが、繊維だけは特別であると発言。5月にモーリス・スタンズ商務長官が来日し、自主規制を要請。7月の日米貿易経済合同委員会を切っ掛けにして本格的な日米繊維交渉が開始した。日本側はアメリカの提案は自由貿易の理念に反するものであり、もしアメリカの繊維業界が日本などから輸入増により被害を受けているのであれば、ガットの規定で対応すべきだと反論していたが、アメリカ側はあくまでも日米政府間での繊維協定の締結を迫っていた。
 1969年11月の日米首脳会談で沖縄返還が合意されたのだが、この時、佐藤首相はニクソン大統領に対米繊維輸出の自主規制を密約していた。(2012年に規制条件を記したとされる文書が確認されている)
 1970年6月、宮沢喜一通産大臣とスタンズ商務長官の会談で、日本側が1年間の暫定自主規制を主張したのに対し、アメリカ側は5年間の自主規制を主張し、交渉は決裂。
 1971年3月、日本の繊維業界はアメリカ下院のミルズ歳入委員長の年5%の伸び率の総枠規制という提案を受け入れ、韓国台湾、香港と同時に実施するという条件つきで、自主規制を受け入れる。だが、ニクソン大統領は納得せず、一方的に日本製品の輸入規制に踏み切る強行姿勢を示した。
 アメリカ側は4ヶ国政府に協定の締結を強く迫っており、日本側は潮時と判断し、繊維業界の損失を補填する方針に転換。1972年1月に日米繊維協定に調印したことにより決着をみる。
 
 一方、米台の繊維交渉も難航していた。台湾側は輸出高が日本に比べ非常に少ないので日本方式の自主規制はできないと述べていたが、1971年6月に繊維交渉を開始する。台湾の行政院会が対米繊維輸出自主規制に関するアメリカ提案を拒否したり、ジューリック米大統領特使との交渉が物別れに終るなど難航するが、アメリカが一方的な措置をとる前に台湾側が対米繊維輸出規制を開始。
 1971年12月30日、米台繊維協定調印。綿製品および非綿製品に関する2つの米台繊維協定がワシントンで調印された。両協定は最初3年間が平均対米輸出伸び率を9.5%とし、協定期間は5年間とされた。
 
 アメリカは制裁措置をちらつかせて日台を屈服させた形だが、強硬姿勢ばかりではなかった。日本には沖縄返還を、台湾には尖閣諸島の主権を曖昧にするということを取引材料に使っていた。
 ニクソンの大統領になりたいという野望が貿易摩擦を政治問題化させ、尖閣諸島が返還されない危険性があったことを忘れてはならない。

 
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米文書に尖閣諸島返還の経緯
http://www.dailymotion.com/video/xkxunm_%E7%B1%B3%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AB%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E8%BF%94%E9%82%84%E3%81%AE%E7%B5%8C%E7%B7%AF_news
 
テレビにだまされないぞぉ
米 “極秘資料”に見る尖閣 固有の領土…知られざる“暗闘” (キッシンジャー・ニクソン・ピーターソン) 【報道STATION SUNDAY】
http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-3de0.html
 
米中冷戦と日本: 激化するインテリジェンス戦争の内幕
http://books.google.co.jp/books?id=iXPG6CckcOwC&pg=PT28&lpg=PT28&dq=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%80%80%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%80%80%E7%B9%8A%E7%B6%AD%E4%BA%A4%E6%B8%89&source=bl&ots=IIV9wpJXom&sig=iPXOcC2KHMQIYslBDw6LNwd25GA&hl=ja&sa=X&ei=xkOzUYuYMcvCkQXgtIGoDQ&ved=0CDgQ6AEwAg#
 
日米繊維交渉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E7%B9%8A%E7%B6%AD%E4%BA%A4%E6%B8%89

 

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