六丈記2

備忘録のようなもの

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「日本解放第二期工作要綱」2

<<第五 在日華僑工作>>
(一)華僑の階級区分
 約五万三〇〇〇名に上る在日中国人は、現在の思想、言動を問わず、本質的には資産階級、小資産階級に属する階級の敵であって、無産階級も同志ではない。
 しかし、日本人民共和国成立以前においては、彼等を「階級の敵」と規定してはならず、統一戦線工作における「利用すべき敵」に属するものとして規定し、利用し尽くさなければならない。
 
(二)工作の第一歩---逃亡防止
 国交正常化が近づくにつれて、彼等は必然的に動揺し不安を感じる。
 不安の第一は、我が駐日大使館開設後、祖国へ帰国させられるのではないか?その際、在日資産を処分して得た携帯又は送金外貨を帰国後、中国銀行に預金させられ封鎖されるのではないか、との不安である。第二は、蒋介石一派の言動をとっていた者、及び「台湾独立運動」に従事していた者の罪を恐れる恐怖不安である。
 これに対し、「居住の許可、私有財産の保護は日本政府の保証する所であり、中共大使館の干渉し得ざる内政干渉があること。」
 「民主国日本においては、思想・言動の自由が保護されており、それが外国人に及ぶことは、国府大使館時代の実例で証明されていること」等を挙げて、第一期、第二期工作員と共に、彼らの不安解消に全力を挙げ、彼等に日本残留を決定せしめなければならない。
 対在日華僑対策の第一歩は、彼等を掌握して利用するために日本へ留めることであり、決して台湾又は東南アジア各地へ逃亡させてはならない。
 
(三)工作の第二歩---青少年把握
 工作の第二歩は、華僑の小・中・高校・大学等の生徒学生及び青年を、先ず掌握することである。
A)駐日大使館開設と同時に、大使自ら各地の華僑学校へ赴き、祖国からの贈物として、施設拡充に十分なる寄付金を無条件で与え使用させる。同時に、政治色のない図書館を大量に寄付する。
B)祖国から来日するスポーツ選手団の試合、各種の公演、展覧会に、青少年を無料で招待する。
C)華僑学校へ女性の中国教師一名を派遣する。この一切の費用は大使館で負担する。
  教師は初期においては一切、思想・政治教育を行わず、忠実熱心な教員として全生徒の信望を勝ちとることに全力を尽くす。続いて、語学教育を通じて、全生徒に祖国愛を抱かせること、及び生徒を通じて自然にその家族の状況を知ることの二点を任務に加える。教員数も、教員に与える任務も漸増するが、その時期を誤ってはならない。
D)祖国観光旅行。派遣教員による生徒の掌握が進んだ時点で、祖国観光旅行へ招待する。この後、次第に、政治・思想教育を行って青少年を完全に掌握する。
 
(四)国籍の取得
A)駐日大使館開設後直ちに、在日華僑の中国国籍の取得、パスポート発給申請の受理を開始するが、決して強制してはならず、且つ受理期間を制限してはならない。飽く迄も、彼等が個人の意志で決定し、自発的に申請するという形式を取らせねばならぬ。時間が掛かることは問題とするに足らない。
  掌握せる青少年に「中国人が中国の国籍を取るのは当然のことである」との考えが徹底すれば、彼等は自然に両親を説得する。これ青少年の自発行為であり、子供と共に行動する親の行為も又自発的行為であることは言う迄もない。
B)日本政府に対しては「在日中国人の国籍問題について」の秘密交渉申し入れ、下記を要求する。
①在日中国人の日本への帰化を認めてはならないこと。
②在日中国人で中国国籍を取得せず、無国籍者を自称する者に対しては、各地の在日居留期間が満期となる際、居留期間の政治延長許可を与えてはならないこと。
蒋介石一派が発給するパスポートを認めない。その所持者に、日本居住を許可してはならないし、旅行入国をも認めてはならない。中国人について、二種類のパスポートを認めることは、二つの中国を作る陰謀に該当する最も悪質な反中行為であることを認めること。
 
(五)中国銀行の使用を指定
A)在日華僑の大部分は商人であり、その年商総額は約一兆円に達している。駐日大使館開設と同時に、日本に進出して各地に支店を設ける中国銀行は、中国との貿易に従事する全ての日本商社に口座を開設せしめる他、華僑については、その大部分の資産を中国銀行へ預金せしめる如く工作せねばならない。
B)資産階級は狡滑無比で、資産を分散隠匿して保全を図る習性を持つ動物である。正面からの説得で、取引銀行を中国銀行一本に絞ることはあり得ない。
  青少年の掌握、国籍取得がゆきわたり、日本政府が我が方の国籍問題についての要求を入れ、最早我が大使館の意志に抗し移行することは困難となった段階で、下の諸点を実施する。
①「祖国の銀行を使おう」「事実で素朴への忠実を示そう」等のスローガンの元に「中国銀行への預金運動」を華僑自体に展開させる。青少年に運動の先鋒隊として宣伝、説得工作をなさしめると共に、父母の言動を監視せしめ、実行しない場合は摘発せしめる。
②預金を中央銀行一本に絞らなければ、パスポートの有効期限の延長申請を大使館は受理しないであろう、と意識的なデマを口から□へ伝えて、「延長申請が許可とならねば無国籍となって日本に居住できない」との不安を煽る。
③華僑仲間の密告を「祖国への忠誠行為」として奨励することを暗示する。
 
(六)政治・思想教育
 国籍を取得し、預金を中国銀行に集中せしめた後において、五万三〇〇〇の華僑を、日本解放の為の一戦力となすべく、政治教育、思想教育を開始する。
 
(七)「華僑工作部」で統轄
 本工作に「華僑工作部」を設け、全工作を統轄せしめる。
 
 
 
### C 統括事項 ###
(一)派遣員数・身分・組員の出身
 本工作員の組員は、組長以下約二〇〇〇名を以て組織する。
 大使館開設と同時に八○○名、乃至一〇〇〇名を派遣し、以後、漸増する。組長以下全員の公的身分は「大使館員」「新華社社員」「各紙特派員」「中国銀行員」「各種国営企業代表又は派遣員」「教員」の身分で赴任する。組員は、その公的身分の如何に拘らず、全て本工作組長のみの指揮を受け、工作組の工作に専従する。
 組員は、一部の責任者、及び特殊工作を行う者の他、全員「第四八党校」日本部の出身中より選抜する。
 
(二)経費
 本工作での必要経費は、全て中国銀行東京支店より支出される。中国銀行は、日本国内で華僑及び日本商社より吸収する資金中、銀行業務の維持に必要なる額を除き、残余は全額、本工作の為に支出する。
 華僑預金は、日本人民民主共和国成立後は、全額没収するものであるから、将来において預金者に返還することを考慮に入れておく必要はない。
 本工作組長は、常に中国銀行東京支店、党支部書記と密接に連絡し、資金運用の円滑を図らねばならない。
 
(三)指令・関係文献
A)本指令、及び工作組織系統表、工作員名簿等の下達は、組長、副組長のみに限定する。
B)関係文献は全て組長自ら保管する。
C)関係文献の複印、筆写は厳禁する。
D)工作組の各部責任者に対しては、訓練期問中に、組長より個別にその所管事項について、指令内容を伝え記憶せしめる。
E)組員に対しては、その所属する各部責任者が、その組員に担当せしめんとする事項についてのみ教育訓練する。
 
・・・以上・・・
 
 國民新聞のサイトからは「日本解放第二期工作要綱」の記事を見付けられなかったので、ペマ氏の著書から書き起こしたが、その後、アーカイブらしきものを見付けたのでリンク先を記しておく。
中国共産党 「日本解放第二期工作要綱」
http://web.archive.org/web/20080113143058/www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/S47/4708/470801china.html
 

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「日本解放第二期工作要綱」1

 ペマ・ギャルポ著『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』の資料として、「日本解放第二期工作要綱」が掲載されているので、それを載せる。
 
資料編 「日本解放第二期工作要綱」
 
### A 基本戦略・任務・手段 ###
(一)基本戦略
 我が党(中国共産党)の日本解放の当面の基本戦略は、日本が現在保有している国力の全てを、我が党の支配下に置き、我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある。
 
(二)解放工作組の任務
 日本の平和解放は、下の三段階を経て達成する。
第一期目標 我が国との国交正常化
第二期目標 民主連合政府の形成
第三期目標 日本人民民主共和国の樹立---天皇を戦犯の首魁として処刑
 田中内閣の成立以降の日本解放第二期工作組の任務は、右の第二項、すなわち「民主連合政府の形成」の準備工作を完成することにある。
 
(三)任務達成の手段
 本工作組の上記の任務は、工作員が個別に対象者に接触して、所定の言動を、その対象者に行わしめることによって達成される。すなわち工作者は最終行動者ではなく、隠れた使嗾(しそう)者、見えざる指揮者であらねばならない。以下に示す要領は、全て対象者になさしめる言動の原則を示すものである。
 本工作の成否は、終始、秘密を保持しうるかどうかに懸かっている。よって、工作員全員の日本入国身分の偽装、並びに工作上の秘密保持方法については、別途に細則を以て指示する。
 
 
### B 工作主点の行動要領 ###
<<第一 群衆掌握の心理戦>>
 駐日大使館開設と同時になされなければならないのは、全日本人に中国への好感、親近感をいだかせる、という、群衆掌握の心理戦である。好感、親近感をいだかせる目的は、我が党、我が国(中共)への警戒心を無意識の内に捨て去らせることにある。
 これは日本解放工作成功の絶好の温床となると共に、一部の日本人反動極右分子が発する「中共を警戒せよ!日本支配の謀略をやっている」との呼び掛けを一笑にふし、反動極右はますます孤立するという、二重の効果を生むものである。この為に、以下の各項を速やかに、且つ継続的に実施する。
 
(一)属示会・演劇・スポーツ
 中国の書画、美術品、民芸品等の展覧会、劇団、民族舞踊団、民謡団、雑技団、京劇団の公演、各種スポーツ選手団の派遣を行う。
 第一歩は、日本人大衆がシナ大陸に対し、今なお持っている「かがやかしい伝統文化を持っている国」「日本文化の来源」「文を重んじ、平和を愛する民族の国」というイメージをかきたて、更に高まらせることである。我が国の社会主義改造の誇るべき成果についての宣伝は、初期においては少ない方がよく、全然ふれなくてもかまわない。
 スポーツ選手団の派遣は、ピンポンのごとく、試合に勝ちうるものに限定してはならず、技術的に劣っている分野の選手団をも数多く派遣し、日本選手に学ぶという率直な態度を示して、好感を勝ち取るべきである。
 
(二)教育面での奉仕
①中国語学習センターの開設
 全国都道府県の主要都市の全てに「中国語学習センター」を開設し、教師を無報酬で派遣する。教師は、一名派遣の場合は女性教師、複数の場合は男、女半々とし、全て二〇歳代の工作員を派遣する。受講者資格は、もとより無制限とし、学費は無料又は極めて小額とする。
②大学への中国人中国語教師派遣
 中国語学習センターを開設し、日本人青年層に中国語学習熱が高まったところで、私立、公立の大学には個別に、国立大学については日本政府文部省へ中国人中国語教師の派遣を申し入れる。
 申し入れをえん曲に拒否した場合は「我が国の純然たる好意、奉仕の精神に対する非礼」を責めれば、日本のマスコミも大衆も、学生も許さないであろう。しかし、策一回で全勝を求める必要は無く全国大学の過半数が受け入れればそれで良い。後は自然に受け入れ校は増加していくものである。
③留学生奨学金
 毎年、二〇〇〇名の高校卒業生に対して、必要費用全額無条件給付の奨学金を発給し、わが国の大学へ留学せしめる。第一年度の応募状況により、第二年度の人数を五〇〇〇名以内まで増加してよい。
 
(三)「委員会」開設
 「中日文化交流協会」を拡充し、中日民間人の組織する「日中文化教育体育交流委員会」を開設して実施せしめ、我が大使館は、これを正式に支援する方式をとる。
 なお、本項の全ての項目は、初期においては、純然たる奉仕に終始し、いささかも政治工作、思想工作、宣伝工作、組織工作を行ってはならない。
 
 
<<第二 マスコミエ作>>
 大衆の中から自然発生的に沸き上がってきた声を世論と呼んだのは、遠い昔のことである。次の時代には、新聞・雑誌が世論を作った。今日では、新聞・雑誌を含め所謂「マスコミ」は、世論造成の不可欠の道具に過ぎない。マスコミを支配する集団の意思が世論を作り上げるのである。
 偉大なる毛主席は「およそ政権を転覆しようとするものは、必ずまず世論を作り上げ、まずイデオロギー面の活動を行う」と教えている。田中内閣成立までの日本解放(第一期)工作組は、事実でこの教えの正しさを証明した。
 日本の保守反動政府をいくえにも包囲して、我が国との国交正常化への道へと追い込んだのは、日本のマスコミではない。日本のマスコミを支配下に置いた我が党の鉄の意志とたゆまざる不断の工作とが、これを生んだのである。日本の保守反動の元凶たちに、彼等自身を埋葬する墓穴を、彼等みずからの手で掘らせたのは、第一期工作組員である。
 田中内閣成立以降の工作組の組員もまた、この輝かしい成果を継承して、更にこれを拡大して、日本解放の勝利を勝ち取らねばならない。
 
(一)新聞と雑誌
A)接触線の拡大
 新聞については、第一期工作組が設定した「三大紙」に重点を置く接触線を堅持強化すると共に、残余の中央紙及び地方紙と接触線を拡大する。雑誌、特に週刊誌については、過去の工作は極めて不十分であったことを反省し、十分な人員、経費を投入して掌握下に置かねばならない。
 接触対象の選定は「一〇人の記者よりは、一人の編集資任者を獲得せよ」との原則を守り、編集を主対象とする。
B)「民主連合政府」について
 「民主連合政府」樹立を大衆が許容する温床を作り上げること、このための世論造成、これが本工作を担当する者の任務である。
 「民主連合政府」反対の論調を上げさせてはならぬ。しかし、いかなる方式とを問わず、マスコミ自体に「民主連合政府」樹立の主張をなさしめてはならない。これは、敵の警戒心を呼び覚ます自殺行為に等しい。「民主連合政府」に関連ある事項を全く報道せず、大衆はこの問題について無知、無関心であることが最も望ましい状態である。
 本工作組の工作の進展につれて、日本の反動極右分子が何等の根拠も掴み得ないまま焦慮に耐え得ず「中共の支配する日本左派勢力は、日本赤化の第一歩として、連合政府樹立の陰謀を進めている」と絶叫するであろう。
 これは否定すべきであるか?もとより否定しなければならない。しかし、否定は真正面から大々的に行ってはならず、計画的な慎重な間接的な否定でなければならない。「極右の悪質なデマで、取り上げるにも値しない」という形の否定が望ましい。
C)強調せしむべき論調の方向
①大衆の親中感惰を全機能を挙げて更に高め、蒋介石一派との関係は完全に断つ方向へ向かわせる。
朝鮮民主主義人民共和国並びにベトナム民主共和国との国交樹立を、社説はもとより全紙面で取り上げて、強力な世論の圧力を形成し、政府にその実行を迫る。
③政府の内外政策には常に攻撃を加えて反対し、在野諸党の反政府活動を一貫して支援する。特に、在野党の反政府共闘には無条件で賛意を表明し、その成果を高く評価して鼓舞すべきである。大衆が異なる政党の共闘を怪しまず、これに馴染むことは、在野諸党の連合政府樹立を許容する最大の温床となることを銘記し、共闘賛美を強力になさしめるべきである。
④人間の尊重、自由、民主、平和、独立の強調。ここに言う「人間の尊重」とは、個の尊重、全の否定をいう。「自由」とは、旧道徳からの解放、本能の解放をいう。「民主」とは、国家権力の排除をいう。「平和」とは、反戦、不戦、思想の定着促進をいう。「独立」とは、米帝との提携の排除、社帝ソ連への接近阻止をいう。
 
(二)テレ・ラジオ等
A)これらは、資本主義国においては「娯楽」であって、政府の人民に対する意志伝達の媒介体ではない。この点に特に留意し、「娯楽」として利用することを主点とすべきである。
  具体的な方向を示せば、「性の解放」を高らかに調い上げる劇又は映画、本能を刺激する音楽、歌謡等は好ましい。
  反面、スポーツに名を借りた「根性もの」と称される劇、映画、映像、または歴史劇、映両、歌謡並びに「ふるさとの歌祭り」等の郷土愛、民族一体感を呼び醒ますものは好ましくない。前者をより多く、後者をより少なく取り上げさせるよう誘導せねばならない。
B)テレビのニュース速報、実況報道の利用価値は極めて高い。画面は事実を伝えるものではなく、作るものである。
  目的意識を持って画面を構成せねばならない。
C)時事解説・教養番組等については、新聞について述べた諸点がそのまま適用されるが、これは極めて徐々に、少しずつ注意深くなされねばならない。
 
(三)出版(単行本)
A)我が国への好感、親近感を抱かせるものを、第一に取り上げさせる。風物写真集、随筆、家庭の主婦が興味を抱く料理、育児所の紹介など、受け入れられ易いものを多面にわたって出版せしめる。
B)社会主義、毛沢東思想などに関する理論的著作も好ましい。しかし、我が国の社会主義建設の成果、現況については、極右分子の誹謗を困難ならしめるよう配慮させねばならない。
C)マスコミの主流から締め出された反動!極右の反中国の言動は、単行本に出路を求めているが、これは手段を尽くして粉砕せねばならない。特に、社会主義建設の途上で生じる、止むを得ない若干の歪み、欠点について、真実を伝えると称してなされる暴露報道を絶対に放置してはならない。
  これらについては、誹謗、デマで両国関係を破壊するものであるとして、日本政府に厳重に抗議すると共に、出版社主、編集責任者、著者を告訴して根絶を期すべきである。
D)一般娯楽面の出版については「デンマークの進歩を見習え」として、出版界における「性の解放」を大々的に主張せしむべきで、春画、春本のはんらんは望ましい。
E)単行本の出版についての今一つの利用法は「中間層文筆業者」の獲得である。「中間層」とは思想的に純正左派、または右派に属しない、中間の動揺分子を言い、「文筆業者」とは、凡そ文筆を以て世論作りにいささかでも影響を与え得る者全てを言う。
  彼らに対しては或いは原稿料を与え、或いは出版の支援をなして接近し、まず「政治的・思想的立場の明快さを欠く」中間的著作をなさしめ、徐々に我が陣営へと誘導する。
 
(四)本工作にマスコミ部を設けて、諸工作を統轄する
 
 
<<第三 政党工作>>
(一)運合政府は手段
 日本の内閣総理は、衆参両院の本会議で首班指名選挙を行って選出される。両院で議員総数の過半を掌握すれば、人民の意志とは関係なく、任意の者を総理となし得るのである。
 一九七二年七月の現況で言えば、自民党の両院議員中、衆議院では約六〇名、参議院では一〇余名を獲得して、在野党と同一行動を取らせるならば、野党連合政府は容易に実現する。
 しかし、この方式を取るならば、社会党、公明党の発言権を益するに留まり、且つ最大の単独多数党は依然として自民党であり、この二点は純正左派による「日本人民共和国」成立へと進む阻因となることは明らかである。
 自民党のみではなく、社会党、公明党、民主社会党もまた、無産階級の政党ではなく、最終的には打倒されるべき階級の敵の政党であることを忘れてはならない。
 本工作組に与える「艮主連合政府の樹立」という任務は、日本解放の第二期における工作目標に過ぎず、その実現は第三期の「日本人民民主共和国」樹立のための手段に過ぎない。
 共和国樹立へ直結した、一貫的計画の元に行われる連合政府工作でなければ、行う意義はまったくない。
 
(二)議員を個別に掌握
 下記により国会議員を個別に掌握して、秘密裏に本工作員の支配下におく。
A)第一期工作組がすでに獲得したものを除き、残余の議員全員に対し接触線を最少四線設定する。
B)右のほか、各党の役職者及び党内派閥の首長、有力者については、その秘書、家族、強い影響力を持つ者の三者に、個別に接触線を最少二線設定する。
C)右の接触線設定後、各線を経て知り得る全情報を整理して、「議員身上調査書」の拡充を期し、公私生活の全貌を細大漏らさず了解する。
D)右により各党ごとに議員を「掌握すべき者」と「打倒排除すべき者」に区別し、「掌握すべき者」については「連合政府の樹立にのみ利用しうる者」「連合政府樹立より共和国成立に至る過渡期においても利用し得る者」とに区別する。ここに言う「打倒・排除」とは、その議員の党内における勢力を削ぎ、発言権を低下せしめ、孤立に向かわせることを言う。
E)「掌握」又は「打倒」は調査によって明らかとなったその議員の弱点を利用する。
  金銭、権力、名声等、欲するものを与え、又は約束し、必要があれば中傷、離間、脅迫、秘している私事の暴露等、いかなる手段を使用してもよい。
  敵国の無血占領が、この一事に懸っていることを思い、いかなる困難、醜悪なる手段も厭うてはならず、神聖なる任務の遂行として、やり抜かねばならない。
 
(三)招待旅行
 右の接触線設置工作と並行して議員及び秘書を対象とする、我が国への招待旅行を下の如く行う。
A)各党別の旅行団
 団体の人数は固定せず、実情に応じて定める。但し、団体構成の基準を、「党内派閥」「序列」「年齢」「地域別」「その他」そのいずれかにおくかは慎重に検討を加え、工作員の主導の元に、我が方に有利になる方法をとらしむるよう、工作せねばならない。
B)党派を超えた議員旅行団
 議員の職業、当選回数、選挙区、選挙基盤団体、出身校を子細に考慮し、多種多様の旅行団を組織せしめる。
C)駐日大便館開設後一年以内に、全議員を最低一回、我が国へ旅行せしめねばならない
 自民党議員中の反動極右分子で招待旅行への参加を拒む者に対しては、費用自弁の個人旅行、議員旅行団以外の各種団体旅行への参加等、形式の如何を問わず、我が国へ一度旅行せしめるよう工作せねばならない。
 旅行で入国した議員、秘書の内、必要なる者に対して、国内で「C・H・工作」を極秘裏に行う。
 
(四)対自民党工作
A)基本方針
 自民党を解体し、多数の小党に分裂せしめる。自民党より、衆議院では六〇名前後、参議院では一〇余名を脱党せしめて、連合政府を樹立するというが如き、小策を取ってはならないことは先に述べた所であるが、右派、左派の二党に分裂せしめることも好ましくない。これは、一握りの反動右翼分子が民族派戦線結成の拠点として、右派自民党を利用する可能性が強いからである。
 従って、多数の小党に分裂する如く工作を進めねばならず、また表面的には思想、政策の不一致を口実としつつも、実質的には権力欲、利害による分裂であることが望ましく、少なくとも大衆の目にはそう見られるよう工作すべきである。
B)手段
自民党内派閥の対立を激化せしめる。自民党総裁選挙時における派閥の権力闘争は常に見られる現象で通常は総選挙を経て若干緩和され、一つの党として受けて曲りなりにも保持していく。今回はそれを許してならない。
 田中派と福田派の対立の継続と激化、田中派と大平派・三木派・三派の離間、中間五派の不満感の扇動等を主点として、第一期工作組は工作を展開中である。
 総選挙後、若干の変動があっても、派閥の対立を激化せしむるという工作の原則は変わらない。
②派閥対立を激化せしめる最も有効な方法は、党内の非主流派となって政治活動資金の調達に困難を生じている各派に個別に十分な政治資金を与えることである。
 政治献金は合法であり、これを拒む政治家はいない。間題は方法のみであり、工作員からAへ、AからBへ、BからCへ、CからDへ、Dから議員又は団体というがごとくに間接的に行うのはいうまでもない。
③先に述べた議員個人の掌握は、それ自体が連合政府樹立の有効な手段となるが、派閥対立激化についても活用するのはもとよりである。
 
(五)対社会・公明・民社各党工作
A)基本方針
①各党内の派閥闘争を激化せしめ、工作による操縦を容易ならしめる。派閥というに足る派閥なき場合は、派閥を形成せしめる工作を行う。但し、党を分裂せしめる必要はなく、分裂工作は行わない。
日本共産党を含めた野党共闘を促進する。
B)手段 自民党の項に同じ。
 
(六)「政党工作組」で統轄
 対政党工作は「連合政府樹立工作」の中心をなすものであり、本工作組に政党工作部を設け、その下部機構を、自民党班、社会党班、公明党班、民社党班の四班に分かち、各班毎に派閥名を冠した派閥小組を設ける。
 
 
<<第四 極右・極左団体工作>>
(一)対極右団体
 我が党は日本解放、日本人民共和国樹立工作を進めるに当たって、日本の極右団体に対する対策は必要であるか?必要だとすればいかなる対策をたてて工作を進めるべきか?第一に認識しなければならない彼我の関係は、彼等は利用し得べき中間層に属するものではなく、水火相容れざる敵であることである。
 では、彼等の現有勢力はどうか?東京における極右団体数は約一八○余。シンパも含めて人数は約四〇万、全国には一人一党的なものも含めれば約八○○団体、総数一〇〇万未満で問題にするには足りない。
 世論の動向はどうか?我が方は、逸早く「マスコミ」を掌握して、我に有利なる世論作りに成功した。
 敗戦日本を米帝が独占占領したことは悪質極まる罪悪であるが、米帝が日本の教育理念、制度を徹底的に破壊し、国家・民族を口にすることが、あの悲惨な敗戦を齎(もたら)した軍国主義に直結するものであると教育せしめたことは、高く評価されねばならない。
 極右は、かつて輝かしい成果を収めたように、「国家、民族」というスローガンで民衆に近づく道を封じられているである。否、彼等がそれを強調すればする程、民衆は彼等から離れていくのである。八○○に分裂し、マスコミを敵とし、直接に民衆へ呼び掛けても、効果が上がらぬ彼等は、翼なきタカであるか?工作の対象として取り上げるに値しないものであるか?
 ここで我々は、日本解放工作の最も困難なる点、即ち、我が方の弱点の所在を十分に承知しておかなければならない。
①国会議員の過半数を工作組の掌握下に置き、国会での首班指名選挙で、我が方の望む人物を選出させ、連合政府を成立させることは合法行為で可能である。
②右は日本人大衆の意志とは、関連なく行い得る。
③マスコミは右の工作が順調に進むよう、背後に隠れ全面的に支援する。
 右の三点から連合政府樹立については、極右勢力がその阻害の素因となる恐れは殆どない。もし彼等が連合政府樹立前に武装反革命戦を惹き起こせば、世論の総攻撃を受け、日本官憲によって弾圧粉砕されることは間違いない。
 問題は、連合政府樹立直後の民心の大変化にある。大衆は「連合政府共和国成立」という革命図式がデマでなく真実だと直感するであろう。彼等を騙し続けてきたマスコミヘの怒り、彼等の意志を完全に無視して首班指名選挙を行った議員への怒り、生活様式が一変するという恐怖感、これらが組織されて爆発したらどうなるのか?この時点で、統一された、組織を操る極右勢力が存在すれば、これ程大きな危険はない。彼等の微小な力「一」は、たちまちにして「百」「千」となろう。大衆は、彼等の武装決起に背を向けないどころか、それを望み、それに投じるであろう。もとより、最後の勝利は我が方に帰するが、一時的にせよ、内戦は避けられず、それは我々の利益とはならない。
 以上の分析に従えば、対策はおのずから決まってくる。
A)極右のマスコミ奪回の反激戦に対しては、常に先手をとって粉砕せねばならない。
B)極右団体の大同団結、乃至は連携工作を絶対に実現せしめてはならない。
  あらゆる離間、中傷工作を行って、彼等の感情的対立、利害の衝突を激化させねばならぬ。
C)各団体毎に、早期に爆発せしめる。
  彼らの危機感をあおり、怒りに油を注ぎ、行動者こそ英雄であるとたきつけ、日本の政界、マスコミ界、言論人等の進歩分子を対象とする暗殺、襲撃はもとより、我が大使館以下の公的機関の爆破等を決行するよう、接触線を通じて誘導する。わが公的機関の爆破は建物のみの損害に留め得るよう、準備しておけば実害はない。
  事後、日本政府に対して厳重抗議し、官憲をして、犯人の逮捕はもとより、背後団体の解散をなさしめ、賠償を要求し、マスコミには、全力を挙げて攻撃させ、人民の右派嫌悪を更に高め、定着させる。
D)右のため、必要な経費と少量の米製武器弾薬を与える。これは蒋介石一派が日本の極右に資金・武器を与えたのである、と日本官憲に信じ込ませる如く工作して、二重の効果を生むよう配慮せねばならない。
E)本工作は工作組長自ら指揮する直属機関「P・T・機関」をして実施せしめる。
 
(二)対極左団体
A)学生極左団体は、一定任務を与え得ない団体(または個人)と一定任務を与え得る者と区別して利用する。
B)前者には、資金・武器を与えて小規模な武装暴動を頻発せしめ、全国的な社会不安を高めると共に、日本官憲をして奔命に疲れせしめる。
  犯人及び直接関係者は、駐日大使館において保護し、必要ある場合は我が国の船舶で中国に逃亡せしめる。
C)後者には、各階層の極右分子中、我が工作の著しい阻害となる者に対しての暗殺・脅迫・一時的監禁等を使用する。その保護については前項に同じ。
D)前二項に関連して起きる、日本官憲による我が大使館への「犯人引き渡し要求」又は「捜査への協力要請は、その事実無し、必要無しとして断固拒否する。続いて、マスコミの全力を挙げて官憲の不当を攻撃せしめ、日本政府へは、国交断絶も辞せずと圧力を加え、官憲の要求を制約せしめる。
E)逮捕された犯人に対する援助は一切行ってはならない。又、その犯人との接触に使用した中間連絡者に対しては、直ちに「P・T・機関」をして必要、適切なる処置を構ぜしめ、官憲の追跡捜査を許してはならない。
F)本工作は、対概右工作と共に「P・T・機関」をして実施せしめる。
 

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最終目標は天皇の処刑(5)

最終目標は天皇の処刑(4)の続き。
 
チベットの反省点
 大人達はインドに亡命してからも、旧来の社会体制を守ろうとした。しかし、来日して現代社会の在り方を知ると、残念ながら中国の言うことにも一理あると思った。それが他国への侵略を正当化するものではないが、周囲が刻々と変化しているの対し、チベットは変わることができなかった。そこには間違いなく問題があったと思う。
 チベット宗教界のリーダー達の一部は国内の民主化、近代化によって自分たちの既得権益が侵されることを嫌った。1959年に中央政府がインドに亡命することを余儀なくされてから、中央政府や支配層の多くが「自分達が中国の侵略に抵抗した」と主張しているが、本当だろうか。私には自己保身を優先していたように見える。チベット中国に対する抵抗は無計画であり、個々が我慢しきれずに蜂起したことだと私は思う。もし、中央政府がしっかりしていて、チベット国民の意識が一枚岩であれば、中国の侵略を阻止できた筈(中国共産党は日本軍と国民党との連戦で疲弊していて、地の利はチベット側にあった)だが、出来なかった。結局、指導者達は、最終的に自分達の身に危機が降りかかってきて初めて、抵抗せざるを得なくなったのだ。つまり、59年になって、ダライ・ラマ法王が中国に拉致されそうになって、それだけは阻止しなければいけないということで立ち上がった。しかし、それ以前にも東
チベットなどでは武力衝突が起きていたのに対し、有効な手を打てなかった。最終段階で慌てて国連に訴えようとしたり、インドに助けを求めたり、ネパールに相互援助条約を守れと言ったりしますが、その時点では遅すぎたのだ。
 
◆プンツォク・ワンゲル
 元来遊牧民であったチベット人は20世紀になってからも国家という概念が希薄だった。そんな中、1930年代に世界無銭旅行を経験し、ヨーロッパ事情にも精通していたゲンドゥン・チョペル師(チベットを代表する芸術家であり大学者)は前近代的な政治システムに対し、危機感を持ち、帰国後、近代改革の必要性を訴えた。既存の政治体制に不満を持つ下級貴族の子弟達、国外の情勢を知る商人の多くが彼に共鳴し、改革を訴える社会運動が密かに起こる。
 ところが、宗教界の反発を受け、チベット政府はチョペル師を危険人物として投獄。しかし、彼の影響を受けた人達の中からプンツォク・ワンゲルなどのチベット改革派が誕生する。チベット改革派は最初、日本と協力していたが、日本が敗戦すると、改革を嫌った政府や寺院によってチベットを追放された。彼らは中国に向かい、劉少奇や周恩来に面会、共産革命に協力することになった。
 元々、共産主義運動は民族自決という題目を前面に打ち出していたので、中国共産党も、最初は民族自決権を認めていた。1922年の第2回中国共産党大会では「自由連邦制によって中国、モンゴルチベット、回族を統一して中華連邦共和国を建設する」と謳っていたし、1931年に定められた「中華ソビエト共和国憲法」では、各民族は自分達の意志によって参加するのも、分離独立するも構わないとなっていた。この方針を信じたプンツォク・ワンゲル達は、共産主義に最後の希望を託したのかもしれない。近代化から取り残されたチベットを改革したいという熱意が中国に利用されてしまったのである。
 プンツォク・ワンゲル達は民族主義者であり、結果として中国の先棒を担ぐ形になったが、国を裏切ろうと思って中国共産党に手を貸した訳ではないと思う。その表れとして、今も存命であるプンツォク・ワンゲルは、数年前にも胡錦濤に対して17箇条協定を守って欲しいとの嘆願書を提出している。
 もし、チベット政府が彼らを弾圧して追い出すようなことがなければ、彼らが中国共産党に頼るようなことはなかったかもしれない。追放がなければ、今日とは異なる状況があり得たかもしれないと思うと残念だ。チベットの歴史では、このような事実はまだタブー視される傾向にあるが、近代化を求める声をチベット自身が弾圧し、自分達の首を絞めたという面もあるのだ。その反省の意味もあり、法王はインドヘの亡命後、実権を握ると、チョペル師の名誉を回復した。
 
◆ダライ・ラマ法王の理想主義と信念
 法王の暴力を否定する姿勢が、結果として現在のチベットの状況を招いたのではないか、という見方もある。もちろん、当時10代の法王が実権を持っていたかは別として、東チベットで民衆が蜂起した時点で法王が徹底抗戦を呼びかけてくれれば、多少の犠牲者は出ても中国を食い止めて、120万人の人々が亡くなることはなかったかもしれないと考えた時期もあった。
 ただ、法王が語る平和主義は、裏表のない真実の言葉であり、理想的な解決策を提唱しているだけなのだ。その姿勢は「目的が正しいのはもちろん、手段も正しくなければならない」と語ったガンジーとまったく同じだ。法王は政治家である前に宗教者であり、「最後には真実が勝つ」という強い信念を持っているのだ。
 一方で、チベット人やチベット支援者までが法王のマネをすることで、問題の本質を有耶無耶にしている。現在、チベット問題は人権問題のような取り上げられ方になっていて、更に環境問題へと移りつつある。中国の不正を非難することだけを考えれば、人権問題でも環境問題でもいいだろう。しかし、チベット問題の本質は人権や環境を守る以前に、一つの国が他の国によって暴力的に侵略され、そこからあるべき自分達の国を取り戻すという民族自決権の問題なのだ。国際法に照らし合わせても、チベットは「占領下の国家」であり中国の一部ではない。ところが、問題の本質に触れようとすると、「ペマ・ギャルポは右翼だ」などと言われてしまう。それは中国政府や日本国内も含めた親中派平和主義者達が、法王の真の平和主義を逆手に取って、政治的な問題として語れないような空気を作り出しているからだと思う。
 法王は中国政府がチベットを支配することには正統性がないと明言する一方で、「私は防衛と外交を除く高度な政治的自決があれば、中国の一部でもいいと思っている」と語っている。何が何でも国家としての独立を求めている訳ではない。
 チベット人やウイグル人が、お互いのためになると自発的に思うのであれば、中華人民共和国と連邦国家を作っても、おかしなことではない。しかし、それはあくまでも対等と平等原則に基づくべきであり、現在のように中国が一方的に自分達の価値観を押しつけるという形であってはならない。法王の言う「高度の自由」を中国は「偽装独立」と決めつけるが、法王は誠心誠意、今のチベット問題を平和裡に解決しようとしているだけなのだ。
 
 チベットと私の個人史を述べたこの章で強調したいのは次の2点。
 一つ目は、チベットが易々と中国に侵略を許してしまったのは、2度の大戦という激動の時代に「一国平和主義」に陥っていたということ。国家の統治手法は宗教一点に集約されており、国防という概念は真剣に議論されていなかった。最初の侵略地となった東チベットは、日本の戦国時代の野武士のような集団が群雄割拠するだけで、全体の統一も図られず、中央政府の軍隊は装備の面でも兵員数においても、広人な国土を防衛するには不十分だった。段階的に人民解放軍の占領を許し、不平等極まりない「17箇条協定」を飲まざるを得ず、最終的に全土を蹂躙される結果となったのだ。中国は当初の進駐目的を「外国勢力の脅威からチベットを守る」としていた。しかし、当時、チベット国内には数人の外国人しか存在せず、それのどこが脅威なのだろう。いずれにしろ、一国平和主義の弊害は大きかったと言わざるを得ない。
 二つ目は、当時の知識層であった僧達が極端にキリスト教、西洋文明を忌避し、排外思想に走って、国連加盟というチャンスをみすみす逃してしまったこと。
 こうした事実は、現在の日本の「憲法九条」信仰と国防軽視という風潮と重なって見える。
 ちなみに、1997年の香港返還に際しサッチャー英首相と鄧小平が交わした共同声明文は「17箇条協定」そっくりで、「チベット」の文字を「香港」に入れ替えれば、そのまま通用するような代物だった。中国が盛んに喧伝する「一国二制度」なるものは、チベット占領で実験済みだったということだ。
 
・・・要約終わり。
 
 「最終目標は天皇の処刑」には巻末に資料として「日本解放第二期工作要綱」が掲載されているので、ついでにそれを次回エントリーに載せる予定。
 

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最終目標は天皇の処刑(4)

最終目標は天皇の処刑(3)の続き。
 
チベット再訪
 ギャロウ・トゥンドゥプ閣下(ダライ・ラマ法王の実兄で、後のチベット亡命政府主席大臣)と鄧小平氏が会談。鄧氏は「独立以外なら何でも話し合う用意がある」と言って、大きく妥協することを示唆した。それで、チベット亡命政府は話し合いと視察のために代表団を派遣することになり、私は第二次代表団の一員として1980年5月からの3ヶ月間、チベットと北京を訪問した。チベット視察で、胡耀邦総書記はその惨状を目の当たりにし、「チベットは1959年より貧しくなっている」と、落涙して共産党の失政を謝罪した月のことだった。
 北京では闊達な議論や意見交換が出来、非常に有意義に過ごした後、チベット本来の領土全てを視察した。出迎えた地方幹部は収穫高を自慢するのだが、実際に国民と話してみると食料が不足していた。チベット史上初めての大規模な飢饉が発生している地域もあった。また、驚いたことに、子供達には「九・二三」「キ・キャ(犬の糞という意味)」など、誕生日や侮蔑の意味を持った名前がつけられていた。チベット名は「反革命」だとして、中国当局が禁止していたのだ。
 バルカムやリタンでは、踏み絵を踏ませるように、お経を刻んだ石の上をチベットの人々に歩かせていた。ラサでは腕や頭を切られた仏像が無造作に積まれていた。しかし、人々の信仰は消えていなかった。ジョカン寺に向かう我々の周囲には4万人の大群衆が集まり、我々が読経を始めると、波が広がるように読経の声が広がった。教典を持つことを禁止されていた民衆は、暗記して守り伝えようとしていたのだ。
 また、故郷にも行ったのだが、緑溢れた光景はどこにも無く、大量の森林伐採によるものか、埃だらけで赤茶けた風景に変わっていた。ガラスの城も無かった。出会った故郷の人々の様子が変だったので話をよく聞くと、下の母が死んだことになっていた。下の母はゲリラ時代の活躍で伝説的な人物になっていたらしく、そこで中国は母の従姉妹を下の母だと称して、公開処刑して晒し首にしたらしい。
 北京に戻ると非公式ながら、中国当局から「我々は連邦制を研究している。新憲法を作るので案を出してほしい」と言われた。私も祖国を何とかしなければいけないと思い、連邦制の素案まで作ったのだが、1982年の憲法改正の時には何の連絡も無く、新憲法に連邦制などという言葉は全く無かった。中越戦争の失敗で、鄧小平の権力が一時低下したという面もあるが、彼らは経済力がついて自信がつくと話がどんどん変わってくるのだ。1990年になると「大チベットなんてとんでもない」と言い出し、2008年になると、「鄧小平同志がそんなことを約束した記録はどこにもない」と言う始末だ。中国人入植者の80%を引き上げるなど、胡耀邦が約束した政策も、彼が失脚すると撤回されてしまった。結局、中国が「微笑外交」を採った本出の理由は、文化大革命という国内混乱から回復するまでの時間稼ぎだったということだろう。
 
◆一国平和主義
 チベットは7世紀のソンツェン・ガンポ大王がチベット高原を統一して強大な帝国(唐朝からは『吐蕃』と呼ばれた)を築いた。吐蕃王朝は42代続いたが、王位継承争いで分裂。
 その後、チベットは地方豪族や仏教宗派の中で、その時々で強かった勢力が権力を握ってきたが、1642年にダライ・ラマ5世によって中央集権的な政府(ガンデンポタン)が成立。その時代からチベットは一国平和主義的な鎖国政策を始める。その頃はイギリスインドに進出し始めた時で、イエズス会も度々宣教師を送り込んできていた。
 西洋の植民地支配とキリスト教の布教は、いわば車の両輪。宣教師達は植民地化を正当化すると同時に、工作員でもあった。祖国への情報提供や土地の領主を懐柔するなど、植民地化の下地作りの役割を果たした。チベットでは異教徒の進出を嫌い、ダライ・ラマ7世の時代に入境者を完全に排除する方針になり、1820年頃まではほとんど外国人が入境することはなかった。
 鎖国政策は、仏画や仏像など宗教美術の発展、高度な仏教文化の成熟に大きく貢献。偉大な学僧が数生まれ、文化遺産として価値の高い寺院も多く建立された。また、天文学や医学などの学問をペルシャを始めとする周辺の国々から盛んに取り入れたりもした。
 帝国主義時代を迎えるまでは、こうした形の繁栄が許されていたが、チベットが外を見ない間に世界は変わりつつあった。日本で明治維新が起きたように、19世紀後半になると中央集権的な国民国家建設が時代の流れになっていた。平和が続くと内向きになるものだ。チベットは国土の大半が4000メートル以上の高地にあり、自然の要塞となって侵略されることが少なかった。国際社会の荒波に揉まれることがなかったことが、チベット社会に「平和ボケ」を生んだとも言える。チベットでは本格的な侵略がなかった分、帝国主義の怖さを実感できず、国内で権力争いを繰り返していたのだ。
 こうした状況が、ダライ・ラマ13世の治世にイギリスや清朝の侵略を受け、法王が亡命を繰り返すという事態に繋がった。ダライ・ラマ13世本人は、周辺状況の変化を鋭敏に読み取り、国民国家の建設、軍備増強、政治制度改革、多極外交など近代化に取り組むが、周囲の意識は低く、旧体制を一代で変革するのは容易なことではなかった。
 
◆シムラ条約
 チベットの鎖国政策は、インド支配を固めたいイギリスにとっても、またチベットを自分達の勢力圏と考える清朝にとっても、相互不干渉の緩衝地帯の役割を果たしていた。20世紀に入ると、南下政策を採るロシア、アジアで急速に力をつけた日本も、チベットに強く関係してきた。チベットヘの影響力を強めようとするイギリスと清を牽制するために、ダライ・ラマ13世も積極的に両国に接近を図った。このような動きを嫌ったイギリスは、ロシアとの協定の中でチベットの宗主権が清にあると言い出した。チベットをあえて哀退して脅威にはならなくなった清に属させることで、今度はロシアとの緩衝地帯としたのだ。
 しかし、1911年に辛亥革命によって清朝が倒れると、パワーバランスが崩れる。建国したばかりの中華民国がチベットにまで手が回らないことを見越し、イギリスは中央チベットにおける権益確保にでてきた。蔵・英・中の三カ国で会議が行われ、1914年にシムラ条約締結。この条約で一番の問題は、チベットを蚊帳の外にし、イギリス中華民国に対する妥協案として「内チベット」「外チベット」という概念を持ちだしたことだ。内チベットにだけ中華民国の宗主権を認め、外チベットはイギリスの勢力下に置く、いわば「チベット分割案」だった。
 これに対し、チベット代表団は本国と連絡を取ることもなく、わずか3日間で譲歩。いずれにしろ不平等条約を押しつけられる身のチベットにとっては、チベット全土の主権を主張する中華民国案よりはマシということだったのかもしれない。内容を不満として中国は最終的に批准せず、条約はイギリスチベットだけで調印。この条約は、他にもマクマホンラインで国土が削られるなど、チベットにとっては全くの不平等条約だが、唯一価値があるのは、この条約によって主権が確認されてことだ。
 しかし、この「内チベット」「外チベット」という概念は現在でも禍根を残している。この区分は現在のチベット自治区とそれ以外のチベット国土に相当し、中国は国際世論の動向により、最悪の場合はチベット自治区だけにダライ・ラマ法王が言うところの「高度な自治」を認め、それ以外は既成事実としてチベットから切り離すという意図があると思う。この案は国際社会で受け入れられる可能性がある。チベットに自立した政府が出来れば、インドは中国と直接国境を接せずに済み、軍事費削減というメリットがある。西欧諸国にとっても、自治区部分だけでも中国から離れることで、多少なりとも中国の力が削がれるならそれに越したことはない。また、アジアに火種を残しておくという目的にもかなっている。
 
国連加盟
 大国の思惑に翻弄されながらも、チベットが自立していくためには、近代国家になることが不可欠だというダライ・ラマ13世の考えは揺るがなかった。近代的軍隊を組織して、チベット全土を一元支配しなければならないと確信し、政府の人材登用も中央チベットだけではなく、広く人材を求めた。清朝が滅びるとモンゴルと同盟を結んだりネパールに同盟を持ちかけたりと、国際的な地位の確立を目指した。日本との仏教徒的な協力関係もその一環だ。
 ところが、1933年に13世が亡くなると、近代化の動きは停滞。例えば、13世の死後、今度はネパールが中心となって「ヒマラヤ王国連邦」の設立を提唱するが、政府は「チベットは大国であり、周辺の弱小国と結んでも何の利益もない」と、提案を蹴った。因果応報なのか、チベットが中国の侵略を受けた際に、それらの国々に助けを求めたが、彼らは支援することは出来なかった。
 近代化への抵抗は貴族、中でも高僧達によるものが大きかったと思う。例えば、20世紀になって風雲急を告げるようになってもなお、僧侶の間には平和志向があって、近代的軍隊の創設に抵抗があった。更に、僧侶達は国連加盟に反対するという大きなミスを犯した。僧侶が反対したことは記録として残されていないのだが、私は10代の頃から当時の情勢を知る関係者に話を聞く機会があり、彼らは具体的に話をしてくれたので間違いないと思う。これはチベットの指導者層にとって、表に出したくないタブーなのだ。
 中国に侵略された後も、チベット政府は独立を維持するための方策を模索していた。法王が亡命する以前の50年代後半、チベット政府はインドに「チベットハウス」という出先機関を持っていて、そこにいたシャガパ(後に外務大臣を務める)が国際社会との窓口役として奔走していた。その時に国連加盟のチャンスがあったのだ。国連加盟には2ヶ国の推薦が必要で、北アイルランドとマライ連邦(マレーシアの前身)の協力をシャガパが取り付けた。加盟合意書に必要事項を記入して、後は政府のサインだけだったのだが、最終段階で待ったをかけたのが三大寺院の僧達だった。国連とはキリスト教国の集団であって、そこに加盟することはキリスト教的価値観に縛られると危倶したのだ。
 1600年代から鎖国政策を続けていたチベットには、中世社会がそのまま残っていた。それはつまり、宗教が政治に強い影響力を持つ神権政治だった。そのため、政府が決めた方針でも、セラ、ガンデン、デプンという三大寺院の承認がないと実施できなかったのだ。
 加盟国が増えた現在は別にして、創設当初の国連の背景には、キリスト教思想があったのは確かだ。その頃は現在のような宗教間の対話も無く、共存共栄の考え方も一般的ではなかった。大航海時代以降の西洋人の目的の一環には、アジア各国の宗教を変えることも含まれ、特に、政教一致のチベット仏教に関しては、市民革命を経て政教分離が確立した西欧社会は、強く警戒心を持っていた。そうした誤解が解けたのは、ダライ・ラマ14世やカルマパ16世が国外に出て対話するようになった近年のことである。
 こうした西欧の思惑に危機感を覚えたことも理解できなくはないが、僧侶達は長らく安寧の時代に暮らして、視野が狭くなり過ぎていた。国難を排除してこそ、初めて仏教が繁栄の時代を迎えられることを忘れて、身の回りの権益だけを守ることに囚われていた。それに加えて、寺院には多数の中国工作員が送り込まれていたから、工作活動によって仏教界がそのように誘導されたこともあったと思う。
 
・・・続く。
 

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最終目標は天皇の処刑(3)

最終目標は天皇の処刑(2)の続き。
 
◆タムズィン
 ダライ・ラマ法王は「私たちは、名誉ある条約を締結しようという望みを抱いて、北京に代表団を送ったが、主権を放棄するための協定に無理矢理署名を強要された。我が政府は、この強制された協定を絶対に批准しようとしなかったけれども、もし、それを拒否すれば、より以上の流血と破壊が避けられないことは、すべてに明らかだった。わが国民を、一層ひどい災難から救うために、私と我が政府は、不法極まりない協定であっても、それを忠実に守ろうと努めた。にもかかわらず、中国は、その協定で誓った約束を、ことごとく破ったのである。」と「ダライ・ラマ自伝」で言っている。
 実の所、侵略は武力侵攻以前から始まっていたのだと思う。中国は人民解放軍の侵攻前に、チベットの各寺院内に多くの工作員を送り込み、「テンダ・アメリカ(宗教の敵、アメリカ)」というスローガンを広めていた。アメリカ帝国主義がキリスト教を通じてチベットを侵略しようとしているため、中国共産党チベットを守ろうとしていると喧伝し、チベット人に西側諸国に対する警戒心を抱かせて人民解放箪の進駐を受け入れ易い環境作りを始めていたのだ。17箇条協定でもダライ・ラマ制度を維持する等と謳い、懐柔しながら時間をかけて共産化を進める意図があったのだろう。
 ラサ蜂起を武力鎮圧してチベット全土を掌握した中国は、「民主改革」と称する民衆弾圧を開始。最初の標的はになったのが、中国が言うところの上位三階級(富裕層、地主、地域指導者)だ。地域指導者には僧侶も含まれる。国際司法委員会は現地の証言をまとめたレポートには「約300人の上位三階級に属する男たちが野原に招集された。中国人たちは『これらの者は改革への道を阻んでいる。彼らは宗教を信仰しており、撲滅すべき人間である』と宣言した。『この者たちは銃殺されることになる。また、下位二階級(中産階級、貧民階級)の者も、同じような考えの者ならば銃殺される』300人の者たちは整列させられ、一人一人、人々の目の前で銃殺された。」という記述がある。
 弾圧行為には地域社会で虐げられていた貧民層のチベット人がよく利用された。中国当局は金や食料を与え、「富裕層を撲滅することが、貧者にとって唯一のチャンスだ。君も彼らは貧しい者から搾取したと告発すべきだ」と吹き込んだ。また、弾圧行為において、チベット人同士の信頼関係を崩壊させるのに効果を発揮したのが、「密告制度」と「タムズィン(公衆の面前で個人を卑しめたり、その罪状を糾弾する人民裁判のこと)」だった。集会の場で、子供が両親の罪を、親が子供の罪を告発しなければならない。でっち上げだろうと誰かを密告しなければ、いつ自分が密告されるか分からないという恐怖感を生み出し、やがて誰もが隣人を信用できずに疑心暗鬼になる。
 処刑こそ無かったが、同様のことは私が逃避行を続けていた(1959年)頃から始まっていた。弾劾された人達は、紙の帽子を被らされ、村中を引き回された。「文化大革命」のチベット版が繰り広げられていたのだ。
 中国によるチベット支配の手法は、一方においては圧倒的な武力、そして人民闘争、階級闘争を通して内部分裂を図る。この二つを巧みに使い分けて、チベット人を肉体と精神の双方から殺していったのだ。
 
◆宗教破壊
 中国は宗教を撲滅することが、チベットに共産主義を浸透させるために不可欠と考え、僧侶の処刑と寺院の破壊にも着手した。
 ラサ蜂起当時、チベットには100万人以上の僧侶がいたが、中国による侵略過程でその9割が死亡、還俗、国外脱出のいずれかを余儀なくされた。寺院は私有財産(土地、食料、家畜など)を全て没収され、貴重な仏像や教典も持ち去られた。セラ、デプン、ガンデンの三大寺院のみならず、チベット全土で7000以上あった僧院の9割が完全に破壊された。
 この侵略過程で、ドゾルチェン・リンポチェ(カム地方で最も有名な高僧の一人)は四肢に杭を打たれ、腹を裂かれたという。また、高い場所から蹴り落とされた僧侶は中国人から「奇跡を起こせるなら皆の前で飛んでみせろ」、「自分の命さえ救えない者に、人民の命を救えるはずがないではないか」と言われたとも伝えられている。チュング・リンポチェ(ミンドリン寺の貫首)は殺されなかったが、タムズィンにかけられ、紙の帽子を被せられてラサ市内を引き回された後に清掃係をやらされた。僧侶の威厳を地に落とし、チベット人が僧侶に抱く尊敬と信頼の念を奪おうとしたのである。
 1960年代後半の文化大革命から1970年代のポル・ポト政権につながる暴政の系譜の原点はチベットにあったのだ。チベットで実験を行い、その効果を見て中国国内に持ち込んだのかもしれない。
 虐殺こそ少なくなったものの、仏教に対する弾圧は今日に至るまで執拗に続けられている。1980年代に鄧小平が改革開放政策を始めて以降は寺院が修復されるようになり、仏教の本も販売されているので、一見、宗教の自由が取り戻されたように見えるかもしれない。しかしながら、民衆が寺院に行ける曜日が決められていたり、昼は私服の公安警察、夜は武装警察、更には隠しカメラで24時間監視されている。5人以上集まると集会とみなされ検挙される可能性もある。政府によって完全に管理されている状態だ。また、寺院の修復にしても、観光資源としか考えていないのである。
 中国共産党憲法第36条で「信仰の自由」が保障されているが、この自由には様々な制限がある。中でも、「秩序を乱すようなものであってはならない」というのは中国共産党が一番重視しているものだろう。「秩序を乱すようなもの」の解釈は中国共産党が独断で決めているので、お経を唱えることは出来ても、教えを説くことは出来ない。教えを説くと、非進歩的な考え方で人民を誤った方向に導いているとして逮捕される。布教が出来ずに儀式だけとなると、かえって宗教の意味が失われてしまう。
 現在、北京政府から派遣された「工作隊」と呼ばれるプロパガンダ要員が、寺院内に常駐し、強制的に僧や尼僧に政治的・宗教的な「愛国再教育」を施していて、従わなければ、処罰される。また、ダライ・ラマ法王と法王が認定したパンチェン・ラマ11世を信奉することは禁じられ、市民が法王の写真を所持することすら、違法になっている。この様な現状だから、僧侶による抗議運動が頻繁に起きるのである。
 
◆経済的侵略
 チベット亡命政府は、1959年から79年までの間に中国による侵略の結果として亡くなったチベット人の数を120万人以上としている。ただし、この数字は4半世紀以上前のものであり、87年や89年、あるいは北京オリンピック直前の2008年に起こった大規模蜂起での犠牲者は含まれていない。また、今なお数
千人のチベット人が政治犯として獄に繋がれており、その中からも死亡者は出ていると思われるが、これも含まれていない。
●戦闘や蜂起によるもの_____432,705人
●餓死_____________342,970人
●刑務所、強制労働収容所での死_173,221人
●処刑_____________156,758人
●拷問死_____________92,731人
●自殺_______________9,002人
合計____________1,207,387人
 人的被害だけでも膨大な数になるが、さらに恐ろしいのは「文化的大虐殺」が今でも進められていることだ。現在のチベット人にとって、最も重大かつ差し迫った問題は、チベット人としてのアイデンティティが消滅する危機に瀕している。
 中国によるチベット侵略の歴史は大まかに3つの時期に分けることができる。1950年の人民解放軍の侵攻から始まる「軍事的侵略」、1965年にチベット自治区を作り、67年に共産党支部を設けた「政治的侵略」、21世紀になって中国の経済力が高まったことによる「経済的侵略」の3つだ。軍事的侵略では圧倒的な武力でチベット人を屈服させようとし、政治的侵略では思想統制、宗教弾圧に力を入れ、経済的侵略では大量の中国人を入植させ、同化させようとしている。
 この同化政策がかなりの効果を上げている。中国政府の西部大開発政策により、チベットに入植する中国人が飛躍的に増え、青蔵鉄道開通によって拍車がかかった。中国政府はチベットで事業を始める中国人に無利子融資をしたり、チベット行きを希望する軽犯罪者に特赦を与えたりして、中国人入植者を大量に増やしている。更には、あえてイスラム系民族(回族)も入植させている。チベット亡命政府によると、首都ラサの人口は55万人で、チベット人はその内の45%に過ぎず、かなり以前から中国人が優勢になっている。中国政府はそれを否定するが、その理由は大半が戸籍を中国に残しているので定住者ではないという理屈だ。長期に渡って住み着き、いつ帰るとも分からないのでは定住しているのと変わりない。
 言語教育も絶望的な状況にある。中国政府は公用語にチベット語を加え、使用や教育を禁止している訳ではないが、学校の試験は中国語で、仕事も中国語が話せなければ満足に出来ない。事実上、チベット語が衰退するような政策を実行している。
 同化政策は言語以外でも、様々な固有文化に及んでいる。例えば、チベット音楽を中国風に変えたり、民族衣装(帯を取れば布団にもなる長い作り)を作らせないために長い生地を売らないようにした。
 また、チベット人を増やさないため、チベット人男性と中国人女性が結婚する場合は政府からの許可が必要になる時もある。その逆の場合は何の障害も無い。
 中国政府はこの様な政策で仏教国チベットのアイデンティティ、生活様式、文化、伝統、自然環境など、全てを破壊しようとしているのだもはや同化政策というより、民族浄化政策といった方がいいかもしれない。
 
インドでの難民生活
 (ペマ氏の難民生活のことなので、割愛)
 
◆日本へ
 (ペマ氏が日本に来る事になった経緯や日本の生活のことなので、割愛)
 
◆チペット文化研究所
 (ペマ氏がチペット文化研究所を設立する経緯などのことなので、割愛)
 
・・・続く。

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最終目標は天皇の処刑(2)

最終目標は天皇の処刑(1) の続き。
 
◆脱出
 我が家の運命を一変する事件が起きたのは、1956年秋のある日の午後のことだった。父と上の母は中国政府の「招待」という名目で、成都においてオリエンテーションという名の思想教育を受けていたので不在(待遇は良かったが、事実上の人質状態)。我が家は下の母と数人のロンポ(直訳すれば大臣だが、家老のような立場の人)が留守を預かっていた。そこへ、人民解放軍の若い将校が通訳と部下を従えてやって来てきた。下の母は神聖な祈祷中で、中国人将校は無礼にも部屋に立ち入り、司令部への同行を求めたが、母は無視してお経を唱え続けていたため、しびれを切らした将校がピストルに手を掛けると、家臣が将校めがけて斧を振り上げたのだった。その気配を感じ、母が一喝すると二人とも引き下がった。それまでは用件があれば、中国の司令官の方が出向いて来ていたため、母が「突然立場を逆にするなど、中国軍に対するチベット人の心証が悪化するだけだ」と言うと、将校は不機嫌そうに帰った。
 後日談によると、駐屯する中国軍に水を届けていた(故郷には水道が無いため、川の水を生活用水に使っていた)若い娘の一人が数人の兵士から乱暴を受けたため、娘達が水を届けることを拒否するようになり、将校が文句を言いに来たのだった。中国軍には若い兵士が多く、このようなトラブルはあちこちで頻発していたようだ。
 この事件によって、村人の怒りに火が付き、銃撃戦が始まった。藩主の家族を守るために、我が家にも武装した村人が続々と集結。夜遅くなっても銃撃戦は終わらず、人民解放軍の反撃に備え、その夜の内に私達は家を脱出した。
 この様に、東チベットの抵抗は計画的というよりも圧政に我慢しきれず、偶発的かつ無計画に始まったものだと思う。中国に対する組織的な抵抗運動はゴンボ・タシが中心となって1958年に中央チベットで「チュシ・ガントゥク」という統一ゲリラ組織を立ち上げた時から始まるのである。このチュシ・ガントゥクは東チベットの人間を中心に組織されていたが、後に全チベットの組織に発展する。チュシ・ガントゥクのゲリラ活動はダライ・ラマ法王が亡命した後もCIAの支援を受けながら、ネパールのムスタンを根拠地として続けられた。しかし、この抵抗運動は米中接近で終焉を迎えることになる。
 
◆逃亡生活
 私達子供が山に隠れている間、下の母はゲリラ指導者や寺院の高僧と連絡を取り合い、中国軍駐屯地などへ攻撃を続けていた。武装した下の母は勇ましく見え、敵に捕まる危機に陥れば、私達と一緒に爆死する覚悟だったそうだ。
 数ヶ月後、下の母を説得させるために中国軍が連れて来た父と上の母も合流。本格的なゲリラ活動に入った。しばらくはニャロン周辺でゲリラ活動をしていたが、勝算が薄いために、中央政府に援助を求めるべくラサを目指すことになった。ただ、中央チベットに向かうと、ゲリラが余計なことをするから中国を怒らせているという雰囲気もあり、同胞といえども皆が協力的とは言えなかった。保護を求めて訪れた地方藩主に中国軍へ通報されることもあった。寺院にも中国軍のスパイが入り込み、味方と敵が分からない状態だったので、私達は集団巡礼者に扮装してラサに向かった。途中から別のゲリラ隊が合流したので最終的に200人以上になっていた。
 ラサヘの旅は想像以上に過酷だった。食糧不足、飲料不足に加え、「月病(吐き気がして痙攣を起こす。一種の高山病と思われる。)」にも悩まされた。
 ポタラ宮が見える峠の手前で、全員が馬から降り(ダライ・ラマ法王を尊ぶチベット人の作法)、ラサの町に入った。ラサは「黄金の都」だと思っていたのだが、町全体が埃っぽく、緑も無く、馬やロバは痩せこけていた。それでも、ポタラ宮の偉容には圧倒され、ダライ・ラマ法王への崇敬の念で「キキソソハギャロー(神に勝利あれ)」と叫んで、五体投地をして拝んだ。
 ラサでは嫌な経験もした。貴族の女性達が私達を見て、小馬鹿にするように笑うのだ。王族の血を継ぐ貴族達は藩主であろうと「田舎大名」くらいにしか思っていなかった。だからこそ、中央チベットの人々は、東チベットが人民解放箪に弾圧されて酷い目に遭っていても、何の痛痒も感じていなかった。それが結果として侵略に対する反応の遅れに繋がったのだと思う。
 私達はラサに長く留まることも出来なかった。一つ目の理由は幼い弟が中国人を見るたびに「キゲンギャミ(中国人の犬野郎)」と叫ぶので、目立ったこと。二つ目の理由は父がラサに潜入していることが中国当局に伝わり、ラジオでも放送されたからだ。
 私達は再び巡礼者となり、母の実家でもあるミンドリン寺に避難するなど、居場所を転々とする生活を送った。1959年のチベット歴での正月が過ぎた頃、ラサに残った偵察隊から「ラサは戦場となり、チベット民衆と中国人が戦っている。ダライ・ラマ法王は脱出し、インドヘ向かった。」と報告が届いた。
 チベットに正統性のある政府は無くり、私達もインドヘ向かう決意をした。父は法王を追う中国軍と戦っているチュシ・ガントゥクに合流するために途中で別れ、目立たないようにと女子供と数人の家来の20人程でインド国境を目指すことにした。法王が数日前に通った同じ道を進み、雪のヒマラヤ山脈を越え、インドまであと一山と迫った時、突然、中国軍機が現れ、しばらく上空を旋回していたが、やがて諦めたように去って行った。その夜の内に国境を越え、インドの地で朝を迎えることが出来た。2年以上に渡る逃避行は終わったものの、国を失い、亡命生活が始まった。
 後から聞いた話では、中国軍機が現れた時、法王も山を越えようとしていて、中国軍機は法王を捜索していたとのこと。また、毛沢東は「逃がしてやれ。どうせ路頭に迷うだけだ。もしそこでダライを殺せば、世界の非難を浴びるだけでなく、永遠にチベット民衆にその心が残ってしまう。」とパイロットに指示していたとも。
 
◆ラサ蜂起
 話しを法王が脱出する少し前に戻す。1959年になると、チベット国内のゲリラ活動は収拾がつかない状況になり、中国側はゲリラ活動封じ込めのために、チベットの最高指導者であり象徴でもあるダライ・ラマ法王の身柄を押さえようと画策する。法王を観劇に招待するという名目で誘い出し、ラサの人民解放軍駐屯地に拉致しようとした。護衡は不要との申し出に、周囲は中国側の意図に気付き、それを知ったラサの民衆は3月10日に立ち上がった。当時の市の人口の半分に相当する3万人が法王の夏の離宮であるノルブリンカ宮殿を取り囲み、法王が招待に応じないように叫びながら「チベット独立」「中国人は帰れ」とシュプレヒコールを続けた。法王は観劇を中止して、民衆に解散するよう説得したが、法王の身を案じて立ち去ろうとはしなかった。市内ではデモ蜂起などもあり、チベット軍及び民衆と中国軍との不穏な睨み合いが数日間続いた。人民解放軍は武力排除を示唆しながら、戦力増強を始め、19日、「血塗られた金曜日」と呼ばれる大虐殺が始まった。人民解放軍はノルブリンカ宮殿に向けて一斉砲撃。数十発の砲弾が撃ち込まれ、宮殿は周囲にいた民衆もろとも完全に吹き飛ばされた。同時に、セラ、ガンデン、デプンの三人寺院も砲撃され、壊滅的なダメージを受けた。この3日間の弾圧で1万~1万5千人のチベット人が殺されたという。
 中国側の攻撃は法王の命をも省みない過酷なものだったが、政府の判断で法王を3月10日に極秘裏に脱出させていた。4月20日、8万人の民衆と共に法王がインドに到着。この9日後にチベット亡命政府を樹立し、17箇条協定の破棄を宣言した。
 この破棄宣言について、国際司法委員会(ICJ)は法学的見地から、「中国が17箇条協定に違反したことで、この協定の拘束力は失効し、チベットは条約下で失われた独立国としての主権を回復したと見なすことができる。」と結論づけている。
 偽の国璽を使って結ばれた17箇条協定は、もともと国際法に照らせば明らかに非合法な条約だが、破棄宣言よって、チベットは法的に再独立したと言えると同時に、中国の完全な軍事占領下に置かれたということでもある。
 今日、アメリカをはじめ、数カ国の議会において、チベットは「occupationed county」あるいは「 nation under occupation」、つまり「占領下の国」であると定義づけられている。
 
・・・続く。
 

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最終目標は天皇の処刑(1)

 ペマ・ギャルポ氏。日本ではダライ・ラマ14世に次いで有名なチベット人だ。7年程前に帰化して

いるので、正確にはチベット系日本人と言うべきか。
 そのペマ氏が1年程前に「最終目標は天皇の処刑」という刺激的なタイトルの本を書いている。中国

共産党が作成されたとされる「日本解放第二期工作要綱」を中心として、中国の侵略工作に警告を発す

る内容だ。
 
最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌
ペマ・ギャルポ著  飛鳥新社 2012/1/20発売
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%9B%AE%E6%A8%99%E3%81%AF%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%

81%AE%E5%87%A6%E5%88%91-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A7%A3%E6%94%BE%E5%

B7%A5%E4%BD%9C%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%81%90%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8D%E5%85%A8%E8%B2%8C-%E3%

83%9A%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%9D/dp/4864101221/ref=sr_1_sc_1?

ie=UTF8&qid=1354572935&sr=8-1-spell
 
 この本で一番興味深かったのが、いかに中国がチベットを侵略したのかをペマ氏の体験を通して語ら

れている部分だ。 日本でも中国がチベットを侵略したと認識する人は増えていると思うが、その過程

まで知っている人はまだ少ないと思われる。ペマ氏の体験はチベット侵略の一面でしかないが、少しで

もその過程を知ることは現在進行形の尖閣諸島問題を考える上で大変参考になるだろう。なので、その

部分が記載されている第2章「私の故郷チベット」を要約することにした。
 一部分だけの要約のため、正確さに欠け、著者の意図しないまとめ方になっている可能性があるのは

ご了承頂きたい。本書をご一読頂き、確認して頂ければ幸いである。
 
 要約に入る前に、理解の助けとするため、簡単な年表を載せる。
1949年:チベットのアムド地方とカム地方の東部が中国共産党の支配下に入る。
1950年:中国人民解放軍がカム地方西部に侵入、チャムドを占領。
1951年:中国人民解放軍が中央チベットに進軍。ラサの無血開城。十七箇条協定の締結。
1953年:ペマ氏誕生。
1956年:チベット動乱の勃発。
1957年:統一抗中ゲリラ組織の結成。
1959年:ラサ市民の蜂起。ダライ・ラマ14世、ペマ氏らがインドへ亡命。
1965年:チベット自治区発足。ペマ氏来日。
1974年:統一抗中ゲリラ組織の武装解除。
 
<<<第2章「私の故郷チベット」の要約>>>
◆ガラスの城
 私は(ペマ氏)はチベット東部のカム地方にある二ャロンという場所の小さな村で生まれた。現在は

四川省に組み込まれ、「新龍」となっている。
 父のギャリー・ニマは、そのニャロンを治めるポンポ(日本語に当て嵌めれば藩主、あるいは地方領

主に相当)だった。私が生まれた当時は、中国により県長という名称に変えられてはいたが、まだ以前

と変わらぬ権限があり、領地には3、4万の人口があって九州程の面積があった。
 東チベットには父のような藩主が何人も存在していて、ダライ・ラマ法王の権威には服していたが、

中央政府の行政機構の下には入らず、自ら行政権や司法権も持って領地を治めていた。つまり、日本の

戦国時代と江戸時代の藩幕体制が入り混じったような状態だった。一方、中央や西部には、かつての王

族の流れをくむ貴族も多く存在していた。チベットはそうした地方権力者達が、ダライ・ラマ法王を権

威として尊び、ある時は争い、ある時は協力し含って宗教国家を成立させていたのである。
 
 私には母が二人いた(チベットでは一夫多妻、多夫一妻の場合もあった)。父に姉妹で嫁いでいて、

「上の母」「下の母」と呼んでいた。私は三男だが、2人の兄は活仏と認定されて寺に入っていたので

、跡継ぎとして甘やかされて育てられた。
 生家は領主の居館だけに、その地域では一番大きく、近代的な四階建ての建物で、数百人収容できる

ホールがあった。16枚のガラス窓があるだけだったが、周辺にはガラス窓のある家など一軒もなかっ

たので、ガラスの城と呼ばれていた。
 私はこんな環境で、家臣達に囲まれ、「若殿様」として何不自由のない生活をしていた。
 
 私が物心ついた頃には、すでに17箇条協定は結ばれていたが、協定が結ばれた後も、しばらくの間

は平穏を保っていた。チベット各地に人民解放軍が駐屯し始めたが、「チベット開発をする」という大

義名分で道路を造ったり、チベット人に農具を配ったりして、最初はチベット人も喜んでいたとのこと

。相当数の中国人入植者もチベットに入って来ていたが、友好的な交流があり、私も彼らに対して悪感

情は持っていなかった。
 しかし、子供の私にそう映っていただけで、すでにその頃にはかなりの軋櫟が生じており、東チベッ

ト各地で人民解放軍との衝突が起きていた。
 17箇条協定には「チベット人から針一本、糸一筋も取らない」と明記してあるのに守らなかったの

だ。チベット各地に駐屯する軍隊は食料供給が十分でないため、地元の村々に対して食料を要求。その

要求は徐々にエスカレートし、住民生活を圧迫していた。また、道路建設にも多くの労働力が駆り出さ

れた。農地はチベットの気候に合っていないのに、強制的に小麦畑に転換させられ、不作となって、チ

ベットでは一度もなかった飢蝕が発生していた。
 更に、東チベットカム地方の人々(東チベットの人間はカンパと呼ばれている)を怒らせたのが、

彼らが最も大切にする「銃」を取り上げようとしたことだった。東チベットには日本の戦国時代のよう

な空気が残っており、俗人はよき戦士になることが最も望まれていた気風で、カンパから銃を取り上げ

るのは、侍から刀を取り上げるのと同じことだった。
 今から考えれば、中国政府が何の見返りも求めずにチベット人に親切にするはずもなく、彼らの目的

は、土地地改革や農業の集団化、あるいは中国人の入植など共産主義政策を推し進めることだった。強

制的な共産主義教育、宗教への弾圧など、思想的な介入も徐々に始めていた。
 
===== 17箇条協定 =====
第一条
チベット人民は団結して、帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の

祖国の大家族の中に戻る。
第二条
チベット地方政府は、人民解放軍がチベットに進駐して、国防を強化することに積極的に協力援助する


第三条
中華人民政治協商会議共同綱領の民族政策に基づき、中華人民政府の統一的指導のもと、チベット人民

は民族区域自治を実行する権利を有する。
策四条
チベットの現行政治制度に対しては、中央は変更を加えない。ダライ・ラマの固有の地位および職権に

も中央は変更を加えない。各級官吏は従来どおりの職に就く。
第五条
パンチェン・エルデニの固有の地位および職権は維持されるべきである。
第六条
ダライ・ラマ、およびパンチェン・エルデニの固有の地位および職権とは、13世ダライ・ラマおよび

9世パンチェン・エルデニが互いに友好関係にあった時期の地位および職権を指す。
第七条
中国人民政治協商会議共同綱領が規定する宗教信仰自由の政策を実行し、チベット人民の宗教信仰と風

俗習慣を尊重し、ラマ寺廟を保護する。寺廟の収入には中央は変更を加えない。
第八条
チベット軍は逐次人民解放軍に改編し、中華人民共和国国防武装兵力の一部とする。
第九条
チベットの実際状況に基づき、チベット民族の言語、文字および学校教育を逐次発展させる。
第十条
チベットの実際状況に基づき、チベットの農・牧畜・商工業を逐次発展させ、人民の生活を改善する。
第十一条
チベットに関する各種の改革は、中央は強制しない。チベット地方政府はみずから進んで改革を進め、

人民が改革の要求を提出した場合、チベットの指導者と協議する方法によってこれを解決する。
第十二条
過去において帝国主義と親しかった官吏および国民党と親しかった官吏は、帝国主義および国民党との

関係を断固離脱し、破壊と反抗を行わない限り、そのまま職にあってよく、過去は問わない。
第十三条
チベットに進駐する人民解放軍は、前記各項の政策を遵守する。同時に取引は公正にし、人民の針一本

、糸一本といえども取らない。
第十四条
中央人民政府は、チベット地区のいっさいの渉外事項を統一して処理し、かつ平等、互恵、および領土

主権の相互尊重という基礎の上に隣邦と平和な関係を保ち、公平な通商貿易関係を樹立発展させる。
第十五条
本協約の施行を保証するため、中央人民政府はチベットに軍政委員会および軍区司令部を設立する。中

央人民政府が派遣する人員以外に、できるだけチベット地方の人員を吸収して工作に参加させる。
軍政委員会に参加するチベット地方の人員には、チベット地方政府および各地区・各主要寺廟の愛国分

子を含むことができ、中央人民政府が指定する代表と関係各方面が協議して名簿を提出し、中央人民政

府に任命を申請する。
第十六条
軍政委憤会、軍区司令部、およびチベット進駐人民解放軍の所要経費は、中央人民政麻が支給する。チ

ベット地方政府は、人民解放軍の食糧およびその他、日用品の購買と運輸に協力するものとする。
第十七条
本協約は署名捺印ののち、直ちに効力を発する。
==================
 
・・・続く。

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仰天トレードでファイターズの糸井外野手が移籍

 日本ハムオリックス間の複数トレードが発表されました。日本ハムからは糸井嘉男外野手(31)・八木智哉投手(29)、オリックスからは木佐貫洋投手(32)・大引啓次内野手(28)・赤田将吾外野手(32)が放出されます。
 八木投手はプロ1年目に12勝を挙げ、新人王になりましたが、その後は故障がちで、2011年のシーズン後は木田投手らと共に自由契約になりそうになりました。昨シーズンはダルビッシュ投手の穴を埋めるべく6勝し、復調の兆しを見せましたが、年俸は据え置きの2400万円で契約更改していました。
 一方、糸井外野手は投手として入団しましたが、2006年に外野手へ転向。2009年、レギュラーに定着してからは打率3割を維持し、ゴールデングラブ賞も毎年獲得しています。攻守に活躍する中心選手で、現状ではチームNo1の選手でしょう。今年の契約更改では、球団が提示する1000万円増の年俸2億円を保留し、チームでただ一人の契約未更改選手でした。交渉が長引き、今シーズン終了後にポスティング移籍でメジャーリーグ挑戦との報道が流れたばかりです。
 八木投手は、一度は解雇になりかけていましたから、トレードと聞いても驚きませんでしたが、糸井選手はチームを代表する選手ですから、まさか放出するとは思ってもいませんでした。あまりのことにファンは皆驚いています。元ファイターズのダルビッシュ投手も驚いたようで「糸井さんトレードとか、ありえん」とツイッターに書き込んだ様子です。
 日本ハムは年棒の高騰を嫌うチームですから、年棒を引き上げてまで選手を無理に引き止めない傾向にあります。ダルビッシュ投手なんか追い出されたようなものです。それにしても、糸井選手を放出するとは。しかも、同リーグのオリックスに。
 稲葉篤紀一塁手、金子誠遊撃手、小谷野栄一三塁手が衰えをみせてる中、田中賢介二塁手が抜け、更に糸井嘉男外野手まで抜けるとなると、今シーズンのファイターズは大丈夫なのでしょうか。若手が伸び悩んでいるだけに心配です。
 
 糸井選手はWBCの選手にも選ばれ、知名度は上がってきましたが、全国的には、まだまだ知られていないのではないでしょうか。糸井選手は筋力が強く、身体能力の高さから「サイボーグ」などとも呼ばれています。そして、少し変わった選手です。
 一例として。糸井選手は視力矯正のために、2008年のオフにレーシック手術を受け、右目が1.0から2.0に、左目が0.9から2.0になっています。視力が1.0もあったら、普通は手術を受けません。野球選手だから一般人と比べてはいけないとの意見もあるでしょう。だけど、糸井選手は2011年のオフにもレーシック手術を受けているのです。2度目の手術の前は若干視力が落ちたのか1.5になっていました。それでも手術を望む糸井選手に、医者も「本当に受けるんですか」と驚いたとのこと。結局、手術は行われ、視力2.0に戻りました。
 レーシック手術は「レーシック難民」という言葉があるように、深刻な後遺症が残る場合があります。十分見えるのに、選手生命が絶たれるリスクのある手術を2度も受けるなんて、普通では考えられません。
 これはほんの一例です。「糸井伝説」で検索すると数々のエピソードが出てきますので、幾つか取り上げてみます。
●ドラフト指名後、球団側との会食し、「どうでしたか?」と記者から問われ、「エビフライ」と答えた。
●ピッチング練習でロージンを触っている内にカーブを投げるのを忘れ、豪速球を投げてキャッチャーに怒られた。
●「何も考えないようにしてバットを振れ」とアドバイスされ、「何も考えないってなんだっけ?」と考えてる間に三振。
●野手に転向した日の試合で、打ったとたん、一塁じゃなく、三塁に向かって走り出した。
●プロ入り5年目に「左中間ってどこなんですか?」って真顔で聞いていた。
●コーチに「世界中の投手から打て」と檄を飛ばされ、「おれクビなんですか?」と聞き返した。
●オールスター出場時「セの選手で話してみたい人は」と聞かれ、「えっ、僕はセのベンチに入るんですか?」と聞き返した。
●レギュラー定着し始めたシーズンの七夕イベントで、短冊に「頭がもっとよくなりますように」と書いた。
●首位独走で迎えたシーズン終盤のお立ち台で「残り9試合。諦めずにがんばります」と発言。
●リーグ優勝が決まった試合の後、「1年間ありがとうございました」と叫び、他の選手から「シーズンまだ試合残ってるから」、「CSもあるから」と突っ込まれる。
●2008年の契約更改時、印鑑を押そうとポケットから出したらリップクリームだった。
●2009年の最終戦セレモニーで優勝旗を持ってグラウンドを一周した後、ファンに向けたコメントで「重いです」と優勝旗を持った感想を報告。
 

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靖国神社の放火犯は中国人? 続報18

 mikumiku39さんより劉強のアルバム(http://johnlew2008.i.sohu.com/album/photoset/29151660/photos/#1
)の存在を教えて頂いた。
 そのアルバムには「family」(「grandpa, parents, wife, daughter and me」という表記あり)と「初期設定のアルバム」という2つのフォルダーがあり、それぞれ12枚と17枚の写真が掲載されている。更新はされていないので、登録した後は放置している模様。
 
 このアルバムから何枚か抜き出してみる。
 
◆「family」という題名のアルバムから抜粋
 
 「祖父、両親、妻、娘、私」との表記があるけれども、写っているのは劉強、成人女性、赤ん坊、老婆の4人だけだ。
 中国の人肉検索の書き込みにも「家庭有り」となっていた(靖国神社の放火犯は中国人? 続報8 参照)し、釈放後の中央日報のインタビューでは4才の娘の誕生日が1月にあると明かしているため、おそらく、娘と妻と母親(鄭如妹)だと思う。アルバムの登録日時は2008年11月18日だから、誕生間もない娘を写したものを数ヵ月後にアップしたのだろう。
 
◆「初期設定のアルバム」という題名のアルバムから抜粋
 
 こちらの方には白人や子供の写真に混じって、劉新氏と劉別生氏の写真があった。
 アルバムの登録日時は2008年11月19日(上記アルバム登録の翌日)だが、写真自体が何時撮影されたのかは不明。大方、娘の誕生記念に家族のアルバムをネット上に登録しようと思い立ち、自分と祖父、両親、妻、娘の写真を載せようと考えたのだろう。娘の誕生間もない写真はかたまってあったので、そのまま登録し、劉新と劉別生の写真はセレクトする時間が必要だったので、翌日に廻したのではないだろうか。その際、枚数が足りないので、色々な写真も入れたのだと思う。
 以上の様に考えると、やはり、劉強は劉新の息子で間違いないのかもしれない。
 子供達は劉強とどの様な関係なのかサッパリ分からないが、親類か。白人の方も関係性は分からないが、劉強はNLPの心理学講師の肩書きを持っている(靖国神社の放火犯は中国人? 続報6 参照)ので、NLPの関係者なのかもしれない。
 
 
 劉強は多くの中国人から歓迎され、英雄気取りでいるだろう。しかし、ここに写っている家族はどう思っているのだろうか。
 劉強の母親(鄭如妹)は劉強が事件を起こすまで、自分の母(楊英 劉強の祖母)が従軍慰安婦だったなんて全く知らなかったと証言している。知らなかったと証言することは劉強の証言に疑義を生ませることになるのに、あえて知らなかったと言ったのは本当に知らなかったのだろう。息子が世間を騒がせる事件を起こした上に、突然、自分の母が慰安婦だったと突き付けられた時のショックはいかばかりか。
 元産経新聞中国駐在員の福島香織氏はインタビューで「売春を生業とする女性は600万人、潜在的に売春しうる水商売の女性まで含めると1,200万人に上ると言われています。日本では性風俗産業に従事する女性に対して比較的寛容ですが、中国では売春をしている女性はものすごく軽蔑される。売春で逮捕された女性は街中を引きずり回され、市民からヤジや石を投げつけられていました(「市中引き回し」は2010年禁止になった)。体を売った女性の家族は「恥だから故郷には帰ってくるな」と言いながら、彼女が稼いだお金で長男が住む家を建てる。中国では毎年25万人~30万人ほど自殺者がいますが、男性よりも女性、特に農村の女性が多いと言われています。原因は男女差別や生活苦です。」と述べている。
 中国人は売春婦に対して、日本人以上に差別的な感覚を持っているのだ。中国では、従軍慰安婦は日本軍に強制されて売春させられていた被害者との認識なのだろうが、それにしても、自分の母が売春婦だったなんて公にされて喜ぶ筈も無い。鄭如妹氏は劉強の言葉を鵜呑みにしているようであるが、心から受けられたのだろうか。
 劉強の父親はどうであろうか。戦争の英雄の息子と、持ち上げられていたのに、義理の母が身を売っていたと聞かされたのだ。何ともいえない複雑な心境になったのではないだろうか。
 
 劉強の祖母(楊英 1986年没)が従軍慰安婦だったという証拠は劉強の証言以外には無い。その証言も微妙に変化している。当初は「祖母が亡くなる2年前の1984年から慰安婦時代の話を聞き」(靖国神社の放火犯は中国人? 続報2 参照)と言っていたのに、後には「86年に死亡する前、劉強に『私は韓国人で、元日本軍慰安婦』と生涯の秘密を打ち明けたと」(靖国神社の放火犯は中国人? 続報14 参照)と言っている。
 劉強は1974年生まれだから、1984年は劉強10才の時、1986年は劉強12才の時だ。いずれにしろ、日本でいえば小学生の頃に聞いたということである。SEについてよく知らない小学生位の子供に対して従軍慰安婦のことを話しても理解できるとは思えないし、娘にも話さなかったのに年少の孫にだけに話したというのも不可解だ。
 そもそも、祖母は何故、従軍慰安婦だったことを話したのか。理由は何だったのか。中国で従軍慰安婦が話題になり、「実は私もそうだった」と告白しようと思い立っただとしたら、分からなくもない。しかし、中国で従軍慰安婦が一般的に知られるようになったのは、少なくとも1993年の河野談話以降のことだろう。日本でも一般的に知られるようになったのは、1991年の朝日新聞の記事によってである。楊英氏が亡くなった時には、従軍慰安婦はまだ知られていなかったのだ。従軍慰安婦を告白する切っ掛けが見当たらない。
 この様に劉強の「祖母が従軍慰安婦」との証言は信憑性が非常に疑わしい。それにも拘わらず、韓国の裁判所は事実確認もせずに受け入れ、知る限り、日中韓のマスコミは証言の信憑性を追求することもしなかった。よって、楊英氏が従軍慰安婦だったとの認識は(少なくとも中韓では)多くの人々に受け入れ、固定化している。
 
 帰国した劉強は家族と再会しただろうか。
 妻は何と言って迎えただろう。再会の喜びばかりではあるまい。手記に登場する福田河子や韓国に一緒に入国した日本人女性について追求しているのではないか。妻としては追求して当然だ。
 両親には会っただろうか。両親はどんな態度で迎えただろう。祖母が語ったことについて直接聞かずにはいられないのではないか。もし、それで嘘だと判明したとしても、公表出来ないに違いない。中国政府を挙げて擁護されたのに嘘でしたと公表したら、中国政府の面子を潰しことになるし、人民からもバッシングされるのは目に見えている。だから、家族としては嘘だと判明しても、従軍慰安婦だったと言い張らねばならず、甘んじて受け入れるしかない。
 中国人民は劉強を反日の英雄と持て囃すだろう。しかし、その一方で「祖母が身を売っていた家系の家族」と蔑むに違いない。娘が家族のために売春したとしても、家族から「恥だから故郷には帰ってくるな」と言われる社会なのだから。
 劉強の軽率な行動は日韓の間に大きなしこりを残したばかりでなく、自分の家族間にも大きなしこりを残してしまったのかもしれない。
 
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恕恩虎虎
http://johnlew2008.i.sohu.com/album/index.htm

靖国放火中国人「日本、慰安婦問題含む過去の歴史を再認識すべき」
http://japanese.joins.com/article/106/166106.html?servcode=400&sectcode=430

エイズ村、売春宿......男女差別と社会格差の中で生きる『中国の女』
http://www.cyzowoman.com/2011/04/post_3465.html
 

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靖国神社の放火犯は中国人? 続報17

前エントリーの続き・・・
  
 判断基準は問題ないとしても、認定は如何だろうか。それぞれの基準に沿って順番に検討してみる。
▲「犯行の動機が個人的なものではなく、政治的なのか」
 認定された動機は「日本軍慰安婦など、過去の歴史的事実に対する日本政府の認識と政策に怒りを感

じた結果」であった。劉強は「昨年12月の日韓首脳会談で、慰安婦問題を回避しようとする日本側の

誠意のない態度が不快で、靖国神社に放火し、今回の事件を起こした。」と語っていたから、それをそ

のまま認定した模様だ。
 劉強は従軍慰安婦について謝罪しない野田首相に怒りを感じたかもしれないが、それは中国国民とし

てより私人としての怒りだろう。劉強は従軍慰安婦の孫を自称し、ソウル高裁の最終陳述で「同じ血が

流れる裁判長が祖母と私の怒りを理解し正義を実現させてほしい」と訴えていた。明らかな私怨で、個

人的なものではないとするには無理がある。
 また、「個人的な利益を得ようとする動機もなかった」とも認定している。果たしてそうだろうか。

靖国神社放火事件後の劉強の行動を書き出すと次の通りになる。
 12月26日:韓国に入国。
 12月27日:韓国メディアに自ら連絡し、靖国神社の放火を告白。
1月3日~7日:中国のサイトに犯行告白や動画投稿を投稿。
        中国の友人(黄城)に電話して拡散以来。
  1月 8日:日本大使館に火炎瓶を投げつけ、逮捕。
 自ら靖国神社の放火をアピールし、広く知れ渡るように行動している。日本大使館への放火も注目を

集めるためとも思える。
 中国から憎悪されている靖国神社を攻撃すれば、尖閣漁船衝突事件の船長のように英雄扱いされるの

は容易に想像できる。事実、劉強は帰国後、政府やマスコミ、民衆から英雄扱いされている。本当の動

機は反日パフォーマンスで名声を上げることみるのが妥当ではないか。
 
▲犯行の目的が一国の政策を変化させようとしたものか
 ソウル高裁の決定には犯行の目的が明確に示されていない(記事に書かれていないだけかもしれない

が)。なので、判断のしようがない。
 しかし、「圧力を加えようとした犯行」とあるから、圧力を加えることが犯行目的だったと認定した

のかもしれない。ただ、誰に圧力を加えようとしたのかが分からない。日本政府なのか、宗教法人靖国

神社に対してなのか。それに、圧力を加えた結果、何を変化させようとしたものなのかも分からない。

仮に犯行目的が「日本政府に圧力を加えること」だとして、日本政府のどんな政策を変えさせようとし

たのか。
 劉強がアップした動画(靖国神社の放火犯は中国人? 続報3 参照)で「在日米軍の撤退」「靖国神

社の撤去」「従軍慰安婦に謝罪」の3つを要望していた。ソウル高裁の審理ではどの様に扱われたのだ

ろうか。この3つを実現させるために日本政府に圧力を加えることが目的だったとすると、「在日米軍

の撤退」と「従軍慰安婦に謝罪」は日本政府の政策を変化させようとするものと認められるだろう。し

かし、「靖国神社の撤去」は微妙なところだ。靖国神社が政府の管理下にないため、「靖国神社の撤去

」が政府の政策になるのかと疑問に思う。政府が撤去するためには一旦国有財産にする必要があるだろ

う。もし、「靖国神社を国家管理しろ」というのなら政策の変更になるとは思うが。
 
▲犯行対象が何を象徴するのか
 靖国神社に対して、戦犯が合祀されていて閣僚が参拝しているからと「法律上は宗教団体の財産であ

るが、国家施設に相応する政治的象徴性がある」と認定。
 かつて靖国神社は官社だったが、今は国家管理を離れて一宗教法人だ。政府が運営等に介入できる訳

ではない。それを国家施設とみなしたのは「国家の権力関係、および国家の機構に対する攻撃」でない

と政治犯罪と認定できないからだろう。
 閣僚の参拝は公務ではないし、戦犯とされた人物が祭られていることで国家施設とみなすことが出来

るとしたら、東條(英機)家の仏壇や菩提寺も国家施設扱いになってしまう。
 しかし、他の理由でなら国家施設とみなせる可能性もなくもない。各国の要人が参拝していることか

ら、アメリカのアーリントン国立墓地のような施設と各国から認識されていると示し、国家施設とみな

すことは可能かもしれない。少なくとも戦犯の合祀や閣僚の参拝を云々するより説得力はあるだろう。

ただ、韓国靖国神社を「国際的に国立戦没者墓地の様な存在と認識されている」とは間違っても認め

ないことだろうが。
 
▲犯行と政治的な目的が有機的に関連性があるか
 前述のように犯行の目的が明確に示されていないので、判断のしようがない。
 仮に「在日米軍の撤退」「靖国神社の撤去」「従軍慰安婦に謝罪」の実現のために日本政府に圧力を

掛けることが目的なら、靖国神社に放火しても日本政府に圧力が掛かる訳ではないから、関連性は認め

られない。
 ただ、「靖国神社の撤去」自体が目的なら、放火により靖国神社が焼失したとすると、「靖国神社

撤去」とも取れなくもないから関連性は認められると思う。
 
▲犯行の法的・実体的性格
 この基準の意味がよく分からないが、法的性格とは犯行によって追求される罪名(建造物等以外放火

犯罪)のことで、実体的性格とは犯行の性格(圧力を加えようとした犯行)ということだろうか。
 
▲犯行の残虐性
 「人的被害が発生せず、物的被害も少なく、反人倫的犯罪と見る余地もなかった」と認定している。

犯行による結果の重大性や建造物等以外放火という犯罪が、犯行よって追求された目的よりも軽いと判

断しているのは確かだが、犯行の目的が明示されていないので、その認定の妥当性について具体的に検

討をすることは出来ない。
 ただ、放火が「反人倫的犯罪と見る余地もない」犯罪としていることについては違和感がある。放火

はその程度の軽い犯罪なのか。犯罪の重軽の感覚はたぶんにその社会の価値観に左右されるものだが、

韓国人にとって放火は軽い罪と捉えているのだろうか。
 
 認定をみてみると、上記のようにかなり強引だ。とても妥当的な認定とは思えない。
 ソウル高裁の決定は「日本と韓国中国との間の歴史的背景、政治的状況、大多数の文明国の普遍的

価値を考慮し」結論を出したとある。純粋に法的に判断したのではなく、「政治的状況」が加味された

のである。「政治的状況」について説明はされていないが、過去に韓国紙が書いていたように「反日国

内世論」とか「中国政府の圧力」と理解するのが適切なのだろう。
 劉強の扱いに困っていた韓国政府は以前から「条約を履行するとは限らない」という態度を採り、難

民認定の可能性を探ったりしていたので、裁判所の判断という形を採り、中国に帰国させる方針だった

のだろう。予定通りということだ。
 
 ソウル高裁は「政治的な犯罪を行った劉元受刑者を日本に引き渡すことは、韓国の政治秩序と憲法理

念だけでなく、大多数の文明国の普遍的な価値を否認するもの」と説明したとの報道もある。
 劉強は昨年1月、ソウルの日本大使館に火炎瓶を投げつけて逮捕され、懲役10月の判決が確定し、

韓国で服役した。
 日本大使館は日本政府の対外代表機関だから、靖国神社放火よりも日本大使館放火の方がより政治犯

罪的だ。しかし、韓国政府は劉強を庇護せず、ソウル高裁も政治犯罪に言及することも無く判決を確定

させている。韓国は劉強を普通犯罪を犯した者として扱っていたのだ。
 同様の犯罪を犯しても、韓国でなら普通犯罪で、日本でなら政治犯罪になるなんておかしいだろう。

この捩れた判断こそが「大多数の文明国の普遍的な価値を否認するもの」ではないか。
 
 日韓犯罪人引き渡し条約では、被請求国が引渡しの請求を拒む場合には、条約中の関係規定を特定し

て理由を示さなければならず、いずれか一方の締約国の要請によって、この条約の解釈及び適用に関し

協議することが出来るとなっている。
 日本政府は協議の要請をしているのだろうか。慣例を尊重し、「個別の案件、措置について照会に応

じない」と情報公開を拒むだろうから、国民が納得できるような対応をしているのか知ることは出来な

いだろう。国民に知られないし、日韓関係は大事だからと配慮すると益々韓国に日本は軽く見られるこ

とになる。ここでキッチリ釘を刺しておかないと、こうした事例を助長することになる。
 
*****「犯罪人引渡しに関する日本国と大韓民国との間の条約」抜粋*****
第三条 引渡しを当然に拒むべき事由
この条約に基づく引渡しは、次のいずれかに該当する場合には、行われない。
(a)引渡しを求められている者が請求国において引渡しの請求に係る犯罪について有罪の判決を受け

ていない場合にあっては、被請求国の法令上当該犯罪をその者が行ったと疑うに足りる相当な理由がな

い場合
(b)引渡しを求められている者に裁判が行われることが十分に通知されておらず、又は法廷における

防御の機会を与えられておらず、かつ、自ら出席して再審を受ける機会を与えられておらず、又はその

ような機会を今後与えられることのない場合において、その者が請求国において引渡しの請求に係る犯

罪について欠席裁判により有罪の判決を受けているとき。
(c)引渡しの請求に係る犯罪が政治犯罪であると被請求国が認める場合又は引渡しの請求が引渡しを

求められている者を政治犯罪について訴追し、審判し、若しくはその者に対し刑罰を科する目的で行わ

れたものと被請求国が認める場合。この場合において、次の犯罪は、それ自体を政治犯罪と解してはな

らない。
(i)いずれかの締約国の元首若しくは政府の長若しくはそれらの家族に対し、そのような者であるこ

とを知りながら行った殺人その他故意に行う暴力的犯罪又はそれらの犯罪の未遂(当該未遂が犯罪とさ

れる場合に限る。)
(ii)両締約国が当事国である多数国間の条約により、引渡犯罪に含めることを両締約国が義務付けら

れている犯罪
(d)引渡しを求められている者が被請求国において引渡しの請求に係る犯罪について訴追されている

場合又は確定判決を受けた場合
(e)引渡しの請求に係る犯罪について、被請求国の法令によるならば時効の完成その他の事由によっ

て引渡しを求められている者に対し刑罰を科し又はこれを執行することができないと認められる場合(

当該犯罪についての管轄権を有しないことが理由である場合を除く。)
(f)引渡しを求められている者を人種、宗教、国籍、民族的出身、政治的意見若しくは性を理由に訴

追し若しくは刑罰を科する目的で引渡しの請求がなされていると、又はその者の地位がそれらの理由に

より害されるおそれがあると被請求国が認めるに足る十分な理由がある場合
第四条 引渡しを裁量により拒むことのできる事由
この条約に基づく引渡しは、次のいずれかに該当する場合には、拒むことができる。
(a)被請求国の法令により、引渡しの請求に係る犯罪の全部又は一部が被請求国の領域又は船舶若し

くは航空機において犯されたものと認められる場合
(b)引渡しを求められている者が第三国において引渡しの請求に係る犯罪について無罪の判決を受け

た場合又は有罪の判決を受け、科された刑罰の執行を終えているか若しくは執行を受けないこととなっ

た場合
(c)引渡しを求められている者の年齢、健康その他個人的な事情にかんがみ、引渡しを行うことが人

道上の考慮に反すると被請求国が認める場合
(d)引渡しを求められている者に関し、引渡しの請求に係る犯罪について訴追をしないこと又は訴え

を取り消すことを被請求国が決定した場合
第十二条 引渡しの決定及び実施
1 被請求国は、外交上の経路により、引渡しの請求についての決定を請求国に対し速やかに通知する

。引渡しの請求の全部又は一部を拒む場合には、この条約中の関係規定を特定して、理由を示すものと

する。
2 被請求国は、被請求国の領域内の、かつ、両締約国にとり受入れ可能な場所において、引渡しを求

められている者を請求国の適当な当局に引き渡す。
3 被請求国は、その権限のある当局が引渡状を発したにもかかわらず、引渡しを求められている者の

引渡しを被請求国の法令により定められた期限内に請求国が受けない場合には、その者を釈放し、その

後において当該引渡しに係る犯罪についてその者の引渡しを拒むことができる。請求国は、引き渡され

た者を、被請求国の領域から速やかに出国させる。
第十六条 協議
1 両締約国は、いずれか一方の締約国の要請により、この条約の解釈及び適用に関し協議する。
2 日本国の権限のある当局及び大韓民国法務部は、個別の事案の処理に関連して、並びにこの条約を

実施するための手続の維持及び改善を促進するため、直接に相互間の協議を行うことができる。
******************************************************************
 
///////////////////////////////////////////////////
<裁判所が靖国放火 "政治的犯罪"と見根拠は>
http://translate.google.co.jp/translate?sl=ko&tl=ja&js=n&prev=_t&hl=ja&ie=UTF-

8&eotf=1&u=http%3A%2F%2Fwww.yonhapnews.co.kr%2Fbulletin%2F2013%2F01%2F03%

2F0200000000AKR20130103191400004.HTML

靖国放火中国人の日本引き渡しを拒否=韓国高裁
http://japanese.joins.com/article/019/166019.html?servcode=A00&sectcode=A10

靖国神社放火は政治的抗議、日本に引き渡せば迫害受ける」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/01/04/2013010400824.html

犯罪人引渡しに関する日本国と大韓民国との間の条約
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty_020419.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/t_020419.pdf

はてなキーワード 政治犯
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%AF%BC%A3%C8%C8

政治犯罪概念の国際法的考察
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/6284/1/A05111951-00-021000001.pdf

「平成2(て)37 逃亡犯罪人引渡審査請求事件 平成2年04月20日 東京高等裁判所 第五特別部」
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/E6117D25373002FA49256CFA0007B700.pdf

 

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