六丈記2

備忘録のようなもの

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大通公園の桜

 4月24日の大通公園です。天気が悪かったのは残念でしたが、もう桜が咲いていました。
大通公園1

大通公園2

大通公園3

大通公園4

大通公園5

大通公園 場所

 大通公園は、南北の境界になっている大通の公園部分で、東西に約1.5kmの長さがあります。公園幅は65mで、公園の東端には札幌テレビ塔が立っています。
 道路に挟まれている公園があることや、テレビ塔があるからでしょうか、大通公園と名古屋の久屋大通公園は似ていると言われます。類似点を並べるとこの様になるでしょうか。
●都市の中心部を横切っている。
●通りの幅員が同じ位。
 大通は約105m、久屋大通は100m。
●通りの中央分離帯にあたる部分が公園。
 大通公園の幅は65m、久屋大通公園の幅は60m。
●公園の長さが長い。
 大通公園は約1.5km、久屋大通公園は約2km。
●地下街と地下駐車場がある。
●地下鉄が通っている。
●テレビ塔がある。
 札幌テレビ塔は高さ147.2m、1957年完成。名古屋テレビ塔は180m、1954年完成。設計者はどちらも内藤多仲。
大通公園6

大通公園7

 似ているといえば似ているのかもしれません。どちらも防火帯ですが、成り立ちが異なるようです。久屋大通は「戦災復興計画基本方針」で計画された「100m道路」に基づいて建設された道路なのに対し、大通は明治初期の都市計画に盛り込まれており、官地と民地を分ける道路として敷設されました。
 大通が完成したのは、札幌に開拓使庁が設置された年と同じ1871年のことです。完成当時、大通の中央部分は、雪捨て場などの多目的広場として利用されていたようですが、1876年に花壇(大通花草園)が作られ、1911年に大通逍遥地(大通逍遥園)として整備されたのが公園のはじまりとのことです。逍遥とは「気の向くままに、あちこち歩き回ること。行楽。遊覧。」との意味ですから、「逍遥園」を現代風に言い換えるなら「散策公園」となるでしょうか。
 市民の憩いの場となった逍遥園ですが、戦時中は食糧難から畑地にされていたようです。終戦後は進駐軍が大通周辺の拓銀など主要施設を接収したことから、進駐軍のための余暇施設を兼ねた野球場やテニスコートなどの体育施設が作られたのことですが、1950年に進駐軍から大通が返還された後は、徐々に花壇が復活しました。1980年には都市公園法に基づく特殊公園になり、2011年に開園100周年を迎えました。

◆大通逍遥園
大通公園 大通逍遥園1
大通公園 大通逍遥園2

◆1950年頃
大通公園 戦後地図

◆開園100周年
大通公園 100周年

/////////////////
大通公園
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%9A%E5%85%AC%E5%9C%92
久屋大通公園
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%B1%8B%E5%A4%A7%E9%80%9A%E5%85%AC%E5%9C%92
大通花壇史(その1)
http://www.sapporo-park.or.jp/odori/history/history_detail07/
札幌の昔の写真(16枚)
http://infocage.cocolog-nifty.com/photos/16/a_15.html

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新興住宅街の空き地

カリンバ遺跡
 原野を拓いて区画整理された一角にある空き地です。場所はJR恵庭駅から1km程離れたところです。
カリンバ遺跡 地図
 一見、何の変哲も無い空き地ですが、実は国指定史跡(平成17年3月2日指定)なのです。
カリンバ遺跡 看板
カリンバ遺跡 看板2
 カリンバ遺跡は、平成11年に区画整理事業に伴う発掘調査で発見され、旧カリンバ川にちなんで遺跡名が付けられました。カリンバとは、アイヌ語で「桜の木の皮」という意味です。
 この遺跡は、縄文時代からアイヌ時代にかけての遺跡で、竪穴住居跡、土坑墓、建物跡、炉跡、平地住居跡、壕状跡など多数の遺構が残されていました。中でも、縄文後期・晩期の土坑墓は300基近く発見されており、漆塗りの装身具や玉が多数副葬された土坑墓も多数見つかっています。漆製品の出土品は120点を超え、合葬墓3基(縄文時代後期約3000年前)から出土した副葬品(漆製品、玉、サメの歯、土器)は一括して国の重要文化財に指定(2006年)されてもいます。
カリンバ遺跡 土坑墓
カリンバ遺跡 漆塗り櫛
カリンバ遺跡 髪飾り注口土器

 レプリカながら、これらの出土品の数々はカリンバ遺跡から3.5km離れた恵庭市郷土資料館に展示されています。
カリンバ遺跡 郷土資料館
 ちなみに、漆塗りの櫛を復元するとこの様になるようです。漆は腐食に強いんですね。
カリンバ遺跡 漆塗りの櫛

 カリンバ遺跡からは、縄文時代の夥しい量の漆製品が出土していますが、最古という訳ではありません。北海道には、もっと古い漆遺物が出土した場所があります。それは、函館市にある垣ノ島遺跡(縄文時代早期[約9000年前]~後期[約3500年前])です。この遺跡からは、約9000年前の漆塗り装身具の副葬品6点(漆を塗った糸で作られた髪飾り、腕輪、肩当てなどの繊維が腐食して土の上に漆が残ったもの)が出土しています。残念ながら、2002年末の火事で焼けていますが、世界最古と言われています。
カリンバ遺跡 垣ノ島遺跡
カリンバ遺跡 垣ノ島遺跡漆製品の肩当て


 話しは変わりますが、サーチナが3月5日に掲載した「わが国から伝わった漆器、日本で『すごいこと』になっていた・・・中国驚愕
」という記事で、「人民網」が日本の漆工芸品を取り上げていたことを伝えていました。
*** わが国から伝わった漆器、日本で「すごいこと」になっていた・・・中国驚愕 ***
 中国では日本の伝統工芸品に対する関心も高まっている。多くの場合には中国で生み出された技術だとした上で、日本の「学習」と「改善」能力に改めて注目する論調も多い。漆器の場合にはネット通販でも出品されることが多くなった。
 中国共産党機関紙の人民日報系のニュースサイト「人民網」は2日、「組図:日本の漆器芸術鑑賞」の見出しの記事を配信した。西側国家が日本を「漆の国」と称するのは“誤解”と主張し、理由として中国では2000年前に、漆器が高い水準に達しており、日本には唐代に伝わったと紹介した。ただし日本が「中国から学んだものを消化吸収し、自らの民族的特徴がある芸術として深め、新たな領域を不断に開拓した」と、日本の漆器の水準の高さを全面的に認めた。
 江戸時代には「蒔絵(まきえ)」の完成により、日本の漆器は「世界最高」になったと紹介。明治以降は、日本の工芸技術は伝統と現代の間で「徘徊」することになり、経済性と生活への適応性も意識されたと説明し、日本の工芸品は中国など東方国家の文化を吸収し、西欧のデザイン文化も取り入れ、「極めて特徴的な『日本の風格』を形成することになった」と評価した。
 文章は「漆関連の仕事には、陶磁器関連についで多くの人が従事している。彼らは漆技術の芸術性や実用性だけでなく、歴史や科学技術を含めて総合的に研究をし続けている。彼らの不断の研究と更新が、日本の漆技術の発展を推進している」と紹介した。
--以下省略--
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 英語では、磁器を「china」、漆器を「japan」と呼ぶこともあり、欧米では日本の特産品と考えられているそうです。16世紀の大航海時代に、日本の優れた漆器がヨーロッパへ輸出され、明治初期にも漆器の輸出が盛んに行われていましたから、欧米で日本を「漆の国」と認識するのは無理もありません。
 ところが、人民網はそれは誤解だと言います。何故なら、唐の時代に漆器を伝えたからだと。何やら、韓国起源説を唱える韓国人のようです。
 人民網の記者は、日本は中国から学び、高度に発展させ、江戸時代に蒔絵を完成させたと思っているようですが、平安時代には既に高い水準に達していました。例えば、平安時代の漆工芸を代表する名品で国宝の「片輪車蒔絵螺鈿手箱」は蒔絵に螺鈿を組み合わせて作られています。また、平安時代に建立された中尊寺金色堂にも高い漆工芸技術が使われていました。
カリンバ遺跡 片輪車蒔絵螺鈿手箱
カリンバ遺跡 金色堂

 この記事からは、唐の時代に漆を日本へ伝えたと読めます。ですが、前述のように、日本では縄文時代に漆製品が作られていました。唐の時代に漆が日本に伝えられたとするのは、明らかな間違いですが、以前は漆工芸が仏教文化とともに伝来したというのが定説で、漆の技術と漆木が中国から日本へ伝わったと古くから考えられていたようです。
 戦後、日本の漆の歴史が仏教伝来以前に遡ることが分かるのですが、1973年に中国の浙江省余姚市で発見された河姆渡遺跡が大きな意味を持ちます。この遺跡から、中国最古の漆遺物が出土したのです。6400年前から5900年前の層で見つかった「赤漆塗りの木椀」が放射性炭素年代測定によって約6200年前の物と確認されました。ついでながら、7000年前までの層からも漆塗りとみられる筒が出土しているのですが、浙江省文物考古研究所によると、科学的分析はされていないとのこと。
カリンバ遺跡 河姆渡遺跡 赤漆塗りの木椀
 この発見により、漆は中国から伝播したとの大陸渡来説がより強化されました。ところが、垣ノ島遺跡から出土した漆塗りの副葬品が2001年に放射性炭素年代測定によって約9000年前の物であることが判明し、世界最古といわれていた河姆渡遺跡の出土品の最古記録を更新しました。
 また、福井県の鳥浜貝塚(縄文時代草創期から前期の集落遺跡 約12000~5000年前)から1984年に出土した木片が、2011年の東北大学の調査で世界最古の漆の枝であることが判明しました。放射性炭素年代測定により約12600年前の枝であると確認され、DNA分析で日本固有種であることが分かったのです。
 これらのことより、漆木が日本国内に自生していて、中国より古い時代から漆を利用していた可能性が高くなり、現在では、漆器の起源は日本であるという考え方が一般的になってきているようです。

 近年の考古学の成果により、縄文時代に漆が広い地域で利用されていたことや漆の歴史がかなり古いことが分かってきています。
 1972年に鳥浜貝塚から出土した重要文化財の「赤色漆塗り櫛」(約6000年前)が日本最古の漆塗りの櫛とされていましたが、1996年に三引遺跡で出土した漆塗りの竪櫛が測定で6800年前の物と判明し、形状のはっきり分かる漆製品としては最古の物となりました。
 2000年には、島根県の夫手遺跡から出土した漆液容器(内側一面に黒っぽい漆が付着、外側に漆の垂れ跡)が約6800年前の物と判明、西日本でも縄文早期に漆が精製加工されていたことが分かりました。
 その他縄文時代早期の物は、神奈川県の羽根尾遺跡から赤漆塗り櫛(約6000年前)、新潟県の大武遺跡から出土した漆をしみ込ませたひも(約6600年前)等も発見されています。
 また、静岡大学が青森県の三内丸山遺跡から出土した漆を分析したところ、中国の漆と日本の漆は異なる種類であることが判明(1999年発表)しました。
カリンバ遺跡 赤色漆塗り櫛
カリンバ遺跡 漆塗竪櫛

 縄文時代は、土器が出現して始まった時代ですが、同時に漆の文化が始まった時代でもあったようです。有史以来、大陸の文化の方が日本列島のの文化より高かったこともあり、文化は一方的に大陸からもたらされたと考えられがちですが、漆の文化の存在はそれを見直す契機になるのかもしれません。

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国指定史跡カリンバ遺跡
http://www.city.eniwa.hokkaido.jp/www/contents/1370228457011/index.html
カリンバ遺跡
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=140204
カリンバ遺跡の漆製品と玉類が国の重要文化財に指定
http://www.city.eniwa.hokkaido.jp/www/contents/1370226376812/index.html
垣 ノ 島 A・B 遺 跡 (函館市)
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/jomon/remains_is_kakinoshima01.htm
垣ノ島遺跡
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=147134&isHighlight=true&pageId=4
わが国から伝わった漆器、日本で「すごいこと」になっていた・・・中国驚愕
http://news.searchina.net/id/1563950?page=1
片輪車蒔絵螺鈿手箱
http://www.emuseum.jp/detail/100197/001/001?word=&d_lang=ja&s_lang=ja&class=8&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=3&mode=detail¢ury=
ウルシ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B7
漆について
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/0a1-03-01-04-08.htm
漆器
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%86%E5%99%A8
始動 是川ジャパンロード
https://www.toonippo.co.jp/rensai/ren2004/japanroad/index.html
縄文の華/漆-是川遺跡をめぐって
https://www.toonippo.co.jp/rensai/ren2004/joumonnnohana/index.html

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留寿都と赤い靴13

 岩崎きみは1911年9月15日に東京市麻布区で亡くなり、鳥居坂教会の共同墓地に埋葬(墓誌に「佐野きみ」の名があります)されました。鳥居坂教会は、カナダメソジスト教会(現・カナダ合同教会)の伝道により1883年に創立された教会で、1941年にプロテスタント諸派が合同して日本基督教団となるまでは「麻布メソヂスト教会」と呼ばれていました。
 カナダメソジスト教会は「永坂孤女院」という孤児院と密接な関係があり、そのために、きみは永坂孤女院に預けられていたと思われています。
 今回はこの辺を探ってみます。

◆メソジスト派
 メソジストは、18世紀のイギリスでジョン・ウェスレーが起こしたプロテスタントの教派です。イギリスではさほどの勢力になりませんでしたが、開拓期のアメリカ大陸で普及しました。ところが、様々な対立で次々と分裂を繰り返し、複数のメソジスト派教会が誕生することになります。
 幕末から明治にかけて様々なキリスト教団体が日本に宣教師を送り込みましたが、メソジスト派も同様でした。メソジスト派からは米国メソジスト監督教会、アメリカ南メソジスト監督教会、カナダメソジスト教会の宣教師が来日し、1907年にこの3派が合同して日本メソヂスト教会を設立するまでバラバラに伝道活動をしていました。米国メソジスト監督教会は東北・関東、アメリカ南メソジスト監督教会は関西、カナダメソジスト教会は東京・静岡を中心に伝道していたようです。
赤い靴 日米メソジスト教会合同図

◆カナダメソジスト教会の伝道
 明治維新後、静岡藩では旧幕臣のための学校である駿府学問所(後に静岡学問所に改称)が設立されます。勝海舟はこの学問所の教師にアメリカ人教師を招聘、牧師でもあったエドワード・ウォーレン・クラークがアメリカから来日(1871年)し、理化学や語学などを教える傍ら、日曜日に自宅でバイブル・クラスを開いていました。1872年、クラークの後任としてカナダメソジスト教会の宣教医デイヴィッドソン・マクドナルドが赴任。同年、静岡学問所は廃止されますが、「賤機舎」と改称して再出発し、マクドナルドも教師を続けます。マクドナルドも英語、化学、歴史などを教える傍ら毎週日曜日に牧師館で聖書講座を開催し、伝道に努めていました。キリスト教の布教は禁止されていましたが、黙認されていた模様です。1874年9月、マクドナルドは11名の学生らを洗礼し、日本における初めてのメソジスト教会となる静岡教会(現・日本基督教団静岡教会 静岡市葵区西草深町)が組織され、受洗した山中笑、土屋彦六、山路愛山、今井信郎らは「静岡バンド」と呼ばれています。この静岡バンドのメンバーらは、静岡教会を中心に精力的な伝道を行い、清水市、浜松市、藤枝市、島田市、川崎町、焼津市、掛川市、沼津市の各地に多数の教会を誕生させたそうです。
 カナダメソジスト教会はマクドナルドともに宣教師のジョージ・コクランも一緒に来日させていました。コクランは横浜で伝道を始めましたが、中村正直の開設した私塾「同人社」の教師になり東京に移動。1876年に牛込教会(現・日本キリスト教団 頌栄教会)を創立しています。
 1876年、チャールズ・イビー宣教師とジョージ・ミーチャム宣教師がカナダメソジスト教会から更に派遣されます。イビーは、甲府の英学塾の教師に就任し、山梨県下を巡回して多数の教会や講義所を設立します。ミーチャムは静岡県沼津で伝道し、沼津教会を設立した後、東京に戻り、下谷メソジスト教会を設立しました。
 カナダメソジスト教会は、この様にして伝道活動を開始し、東京で麻布メソジスト教会(現・鳥居坂教会)、東洋英和女学院と麻布孤女院を、静岡で静岡メソジスト教会、静岡英和女学院と静岡ホームを、山梨で甲府メソジスト教会、山梨英和学院と甲府YMCAを設立することになるのです。

◆東洋英和女学校と永坂孤女院
 メソジスト派は教育事業や社会福祉事業にも熱心で、日本でミッションスクールを開校するのですが、伝道と同様にバラバラに活動していましたので、3教派それぞれがミッションスクールを設立。米国メソジスト監督教会は青山学院、アメリカ南メソジスト監督教会は関西学院、カナダメソジスト教会は東洋英和となる学校を開校しています。

 1882年、カナダメソジスト教会婦人伝道会社から派遣された婦人宣教師マーサ・J・カートメルが学校設立のために来日します。カートメルは翌年に東京の麻布鳥居坂に土地を購入し、麻布メソジスト教会を設立。その翌年の1884年に、男子の東洋英和学校(現・麻布学園)と女子の東洋英和女学校(現・東洋英和女学院)を開校しました。
 東洋英和女学院には、生徒だけで奉仕活動を行う「王女会」(King's Daughter's Society)という1888年に発足した団体がありました。王女会のメンバーは、小学校に通学できない貧民児童の為の日曜学校の教師などをしていましたが、1893年に麻布地域で奉仕活動を始めた卒業生の吉田勇子が、身売りされようとしていた少女に出会ったことが切っ掛けで、この少女を孤児院で養育することをメンバー達が計画しました。これが永坂孤女院の始まりです。この孤女院は麻布一本松に在ったと推測されていて、1894年には13人の少女が収容されていたそうです。
 孤女院設立から約10年後、婦人伝道会社や在校生の父母、卒業生が出資し、麻布本村町に施設を建築(1904年12月)しますが、1908年に麻布永坂町50番地へ移転します。そのため、「永坂孤女院」と呼ばれました。建物はカーマン・ホールと呼ばれ、1階は日曜学校の校舎、2階が孤女院でした。
 永坂孤女院は1928年に「永坂ホーム」と改称しています。
赤い靴 永坂孤女院

 ちなみに、1911年10月4日の「キングスドオターズ会記事」(王女会の会誌?)には、佐野君子の葬儀に花輪一輪を贈ったとの記事があるそうです。佐野君子とは、佐野安吉の養女になった岩崎きみのことで間違いありません。
 王女会は麻布メソジスト教会で葬儀が行われる度に花輪を贈っていた訳ではないでしょうから、王女会がきみと係わり合いを持っていたことが推測されます。静岡出身の9歳の少女が王女会と係わり合いを持つとしたら、それは永坂孤女院しかないでしょう。やはり、きみは永坂孤女院に入居していたようです。
 きみは何故永坂孤女院に入居することになったのでしょうか。きみを養女にした佐野安吉は、北海道の監獄に収監されていた期間を除けば、1905年に平民農場へ入植するまで地元の静岡県で暮らしていました。また、岩崎家は貧農だったと思われ、岩崎家の人々が東京に縁があった様子はうかがわれません。ですから、安吉若しくは岩崎家の人々が、永坂孤女院又は麻布メソジスト教会と直接接点を持っていたとは思えません。安吉と永坂孤女院を仲介した組織や人物がいたと推測するのが妥当でしょう。それは誰でしょうか。

◆静岡ホーム
 カナダメソジスト教会には、静岡県に「静岡ホーム」という孤児院がありました。静岡ホームは、1907年4月に松井豊吉をホーム長にして設立されていますが、その前身は「出征軍人遺家族幼児保管所」でした。出征軍人遺家族幼児保管所は、カナダメソジスト教会の宣教師ロバート・エンバーソンが日露戦争に出征し、戦死した軍人の遺家族を支援するために作った施設で、1905年8月、静岡市鷹匠1丁目に設立されています。
 きみが静岡の岩崎家を離れたのは、1904年9月から間もなく、遅くとも1905年5月までと推測されます。この時期には、静岡ホームはおろか、前身の出征軍人遺家族幼児保管所も出来ていません。ですから、きみが施設に預けられたことに関して、静岡ホームは全く関与していないと判断されます。
 蛇足ながら、ロバート・エンバーソンの経歴は以下の通りです。
●1866年 英領カナダオンタリオ州ベンスフォード村にて生誕。
●1899年 トロント・ビクトリア大学を卒業。文学士、神学士の称号を得る。
●1901年 来日、静岡教会に着任。
●1907年 静岡ホームを創設。
●1910年 帰国。郷里にて永眠(43歳)。

◆江尻教会
 安吉の出身地である庵原郡江尻町(現・静岡市清水区江尻町の辺り)は東海道の18番目の宿場(江尻宿)があった場所で、静岡市と合併する前は清水市でした。岩崎家(有渡郡不二見村)があったのも後の清水市です。カナダメソジスト教会は、静岡教会を拠点に静岡県下で伝道活動を行っていて、清水市でも教会を設立したとあります。しかし、静岡教会や沼津教会(1877年創立)、掛川教会(1886年創立)、浜松教会(1884年創立)などは確認出来るのですが、清水市にカナダメソジスト教会が設立した教会は見つかりませんでした。ただ、「相良教会七十年史」に「三十年七月六日新任小出市太郎牧師を迎え、藤枝教会太田虎吉牧師を部長代理として、臨時四季会を開き予算を議している。小出牧師は江尻教会より来られ、三十一年に甲州河東教会に去られるまで、その間一ヶ年に過ぎなかったが、九月台風の被害のため会堂、牧師館の修理をしている。」との記述があることから、1897年以前に江尻町で江尻教会が設立されていたことは確かでしょう。
 ちなみに、江尻町には1900年に設立された江尻美普教会(現・日本基督教団清水教会)というメソジスト派の教会がありましたが、この教会は日本美普(メソヂスト・プロテスタント)教会が設立した教会ですので、カナダメソジスト教会とは違う系統に属していました。

 安吉は原胤昭の教誨を受け、プロテスタントになりました。原胤昭は教誨師の時、組合教会(日本組合基督教会)の信徒でしたから、安吉も教派的には会衆派ということになるのでしょうが、安吉が教派を重視していたかというと疑問です。原胤昭は東京に戻ってからは、メソジスト派(米国メソジスト監督教会)と大変親密な関係になっています。ですから、安吉が江尻町に帰った後、カナダメソジスト派の江尻教会に出入りしていたとしてもおかしくは無いでしょう。現に、安吉は北海道のメソジスト派教会で懺悔談を語っていたこともあるのですから。
 安吉が江尻教会に関係していたとすると、一つの仮説が出来上がります。岩崎家が生活苦できみを手放さなければならない状況に追い込まれ、養子先を探すことになった安吉は付き合いのあった江尻教会に相談。カナダメソジスト教会の傘下には、永坂孤女院があったので、ここに預けることを提案され、永坂孤女院に岩崎きみを預けた。根拠の弱い仮説ですが可能性はなくはないでしょう。

◆富士育児院
 静岡県には、渡辺代吉が開設した富士育児院という施設もありました。
 代吉は13歳で出家し、日蓮宗久遠寺の住職妙光院月海の下で得度。義海と名乗り、激しい苦行で肢体不自由の身となりました。それでも修行を止めず全国行脚をしていましたが、横浜でキリスト教宣教師のジェームス・バラ博士に出会ったことが転機になりました。代吉はキリスト教を折伏しようとジェームス・バラを訪問したのですが、逆に説き伏せられ、還俗して横浜市山下町のキリスト教伝道学校に入学し、布教に従事します。身体障害者でありながら真摯に求道する代吉の姿に、アメリカから同情金が送られ、それを元手に代吉は、故郷の静岡県に貧困家庭の学校に通えない児童約30人を集めて「子守学校」を設立(1901年)しました。子守学校では、造花の内職をする授産事業も始めたのですが、1年余で失敗に終わります。集まった児童は次々と去ったのですが、身体障害者の孤児が3人が行き場もなく残されました。自らも障害者の代吉は、この子供達を養育するために収容施設を開設させます。これが富士育児院の始まりでした。
 富士育児院は、1903年6月10日に静岡県富士郡吉原町137番地(現・富士市)の空き家を借りて創立され、1904年11月にジェームス・バラの援助によって民家を買収し、富士郡島田村依田原7番地(現・富士市)に移転しました。
 富士育児院の創設には、代吉の友人だった渡辺政太郎も協力していました。政太郎は、原子基を連れて東京から静岡に赴き、富士育児院の仕事を手伝っていましたが、創設から1年足らずで手を引きます。原子の方は、1905年に伝道行商を始めるために退職するまで助務員として働いていました。

 きみを手放すとしたら、養子先や育児施設を探さなくてはなりません。安吉は、刑務所帰りで人々から敬遠されていたようですから、養子先を見つけることは困難だったと思われます。養子先が見つからないとなれば、頼れるのは孤児院などの施設しかありません。
 富士育児院は富士郡長が名付親となるなど、県下では知られた存在でしたので、安吉もその存在を耳にしていたと思います。安吉がいた不二見村(現・静岡市清水区)と富士育児院のあった吉原町(現・富士市)は30km程離れていますが、非常に遠いという程でもありません。もしかしたら、安吉は富士育児院に行って、きみを預かってもらえないか相談していたかもしれません。ただ、富士育児院は「収容児童は主として心身障害児で、特に当時一般孤児院、育児院で収容を拒否された、重症肢体不自由児童を収容し、収容力に余力があれば、一般孤貧児を収容しております。」というスタンスを取っており、各市町村より送りこまれてきた孤児・精薄児の増加により資金や職員が不足していたようなので、安吉が2歳児のきみを引き取って欲しいと願い出ていたとしても断られていたのではないでしょうか。

 安吉が富士育児院を訪れていたとしたら、理由はきみの里子の件以外は考えられませんから、訪れた時期はきみが安吉の養子になる以前のことでしょう。つまり、1904年9月以前ということです。1904年9月には、まだ原子が富士育児院で働いており、9月の数ヶ月前なら政太郎もいたかもしれません。安吉は原子とここで出会ったのではないでしょうか。
 肝心のきみの件は、前述の通り、断られていたでしょう。ただ、原子の妹2人は東京孤児院に預けられていて、政太郎の妻の若林八代は結婚する前は東京孤児院に勤めていたことから、原子と政太郎には東京孤児院とつながりがありました。だから、富士育児院では受け入れられなかったとしても東京孤児院を紹介することも出来たはずです。しかし、そうした様子はみられません。東京孤児院では、1904年2月から始まった日露戦争で孤児や貧児の入居希望者が増え、対応しきれない状況になっていたそうです。もしかしたら、紹介したということもあったかもしれませんが、きみには母親がいてその親代わりの安吉もいたわけですから、断られたのかもしれません。
 安吉が富士育児院を訪れていたか否かは、資料が無いため分かりません。ですが、安吉が富士育児院を訪れていたと仮定すると、静岡三人組と安吉に接点が出来、安吉が平民牧場に入植することになった理由が説明できます。安吉が富士育児院を訪ねたことで原子や政太郎と面識が出来、安吉が新天地でやり直したいとの希望を持っていたことを知っていた原子や政太郎が、平民牧場に入植出来ない政太郎の代役として安吉に声を掛けた。こう考えると、静岡三人組の深尾韶と原子、そして安吉という組み合わせが出来たのが納得できるのですが。


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信 友 会 会 報Vol.61-No.06
http://www.asagaya-church.com/shinyuukai/kaihou201001T1.pdf
日本メソヂスト教会社会事業史の試み
http://wesley-methodism.com/pdf/gakkai2005/gakkai2005c.pdf
日本基督教団静岡教会
http://www.shizuoka-church.jp/guide
静岡バンド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89
社会福祉法人 静岡ホーム
http://www.shizuoka-home.or.jp/page10.html
日本基督教団相良教会七十年略史
http://church.ne.jp/saganan/html/history.html
美普教会史 1―日本におけるもうひとつのメソジスト教会―
http://wesley-methodism.com/pdf/gakkai2003/gakkai2003h.pdf
File03 渡辺 代吉 氏
http://www.shizuoka-wel.jp/michishirube/post-3.php
社会福祉法人 芙蓉会100年の歩み
http://migiwaen.com/public_information/fuyoukai_history_100.pdf
わが国における肢体不自由児施設の歴史的展開(上)
http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/5776/1/20021-8-007.pdf
「東京孤児院月報」復刻版カタログ
http://www.fujishuppan.co.jp/wordpress/wp-content/uploads/2011/11/tokyokojiingeppo.pdf

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留寿都と赤い靴12

 前エントリ「留寿都と赤い靴11」で取り上げた菊地寛氏の著書「赤い靴はいてた女の子」で、菊地寛氏が繰り広げた創作ストーリーには、明らかな間違いが幾つもあります。例えば、佐野安吉が鈴木志郎より後に平民農場に入場したなど。ですが、岩崎せきの再婚話や死亡場所などは具体的に書かれてますから、戸籍の情報を参考にしたのだと思います。ですから、それらの情報と以前調べた情報も加えて戸籍上のことを整理します。

◆岩崎家及び佐野安吉の戸籍上の情報
●岩崎清右衛門
弘化元(1844)年7月13日:誕生。
明治23(1890)年4月10日:死亡。

●岩崎せき<清右衛門の妻>
安政6(1859)年5月10日:誕生。
明治23(1890)年12月:小沢佐七と再婚。
明治24(1891)年:金作を出産(父は佐七)。
明治25(1892)年:佐七と離婚。金作は佐七が引き取る。佐七と金作は除籍。
明治35(1902)年5月:甲府で死亡。
※「赤い靴はいてた女の子」では、「せきもかよがお産をする2ヶ月前に他界」「(せきの)葬儀を済ませてからひと月後、かよは生み月を迎えた」と記述されています。以前のエントリ「留寿都と赤い靴9」では、せきの死を6月頃としましたが、前記述から5月に直しました。

●岩崎かよ<清右衛門の長女>
明治17(1884)年1月13日:誕生。
明治35(1902)年7月15日:きみを出産(私生児)。
大正4(1915)年9月:鈴木志郎と入籍。
昭和23(1948)年:小樽市で死亡。

●岩崎辰蔵<清右衛門の長男>
明治19(1886)年1月18日:誕生
明治23(1890)年:父の死後、戸主となる。
明治39(1906)年4月20日:虻田郡真狩村字八ノ原で肺疾により死亡
※「赤い靴はいてた女の子」には、「三月も半ばを過ぎると、~略~辰蔵は、自らを励ますようにかよや、志郎に言った。~略~早くマチの医者に見せねばと顔を曇らせた。激しい風が吹き荒れた翌朝、辰蔵は冷たい骸に変わっていた。」と記述されていたので、前エントリ「留寿都と赤い靴11」では、辰蔵の死を「3月半ば過ぎ」としました。しかし、「顔を曇らせた」日の翌日が「激しい風が吹き荒れた」日ではないとも読めます。ですから、「平民農場の興亡 <北海道の新しき村> 下」(留寿都と赤い靴4参照)の記述、「明治三十九年二十一歳の辰三が四月二十日に肺疾で死亡した」に従いました。

●岩崎きみ<かよの長女>
明治35(1902)年7月15日:誕生(私生児)。
明治37(1904)年9月19日:戸主・佐野恒吉(安吉の弟)の戸籍に姪として入籍。安吉の養子。
明治44(1911)年9月15日:午後9時、東京麻布区で死亡。

●佐野安吉<佐野菊蔵の長男>
嘉永3(1850)年5月8日:誕生。
明治XX年:結婚。
明治XX年:妻と離婚若しくは死別。
明治15(1882)年1月10日:廃嫡。
明治XX年:戸主が佐野恒吉になり、戸籍に兄として記載される。
明治37(1904)年9月19日:きみを養子にする。
昭和XX年:戸主が佐野静司になり、戸籍に伯父として記載される。
昭和32(1957)年12月25日:年月及ぴ場所不詳死亡の許可が下り、除籍


◆岩崎せきの死について
 「赤い靴はいてた女の子」で菊地寛氏は、せきが安産祈願のために身延山に参拝し、甲府に立ち寄ったところで亡くなったとしていました。身延山というのは、日蓮宗総本山の久遠寺のことでしょう。また、せきが甲府で亡くなったとしたのは、菊地寛氏が創作する意味はありませんから、戸籍にそう記載してあったからでしょう。
 地図で位置関係を確認します。Aは清水、Bは身延(久遠寺)、Cは甲府です。
赤い靴 身延道

 清水-身延間は約50km、身延-甲府間も約50kmです。
 清水からみると、甲府は身延の先にあり、祈願のついでに立ち寄るような距離ではありません。ですから、せきは安産祈願のために旅立ったのではなく、甲府若しくはその先の地に行こうとしていたのです。せきが身延山に参拝したという記録が残っているとは思えませんし、菊地寛氏も調べた様子はありません。身延山に参拝したという話は、せきが甲府で亡くなったことを説明するために創作したのでしょう。
 ちなみに、「赤い靴はいてた女の子」には、岩崎家の菩提寺は清水にある臨済宗の東向寺で、過去帳に清右衛門、せき、辰蔵の名があったと書かれています。岩崎家は日蓮宗ではなく、臨済宗の檀家だったようです。

 せきは何故、かよの臨月近くになって、甲府若しくはその先の地に行こうとし(若しくは目的地から戻る途中で)、43歳で亡くなったのでしょうか。もしかしたら、「子供が産まれるので、かよを妊娠させた相手に会いに行った」「出産費用を親類などに借りに行った」ということだったのかのしれません。
 せきが亡くなった頃の女性の平均寿命は45歳位でしたが、40歳の平均余命は約28歳でした。つまり、せきが平均余命をまっとうしたら、68歳位まで生きる計算になります。清右衛門が45歳で亡くなっていますので、せきが43歳で亡くなっても不思議は無いのですが、死亡原因が気になります。病死や事故死なのか、それとも犯罪死だったのか。
 せきの旅の目的と死亡原因は、今となっては知る由もありませんが、きみの出生と関わり合いがあるような気もします。


◆佐野安吉がきみを養子にしたことについて
 きみは、佐野家の戸籍に入籍していました。入籍日は明治37年ですので、既に明治31年式戸籍(明治31年7月16日から大正3年12月31日)の様式に切り替わっていたでしょう。その様式で戸籍を再現すると下図のような感じになるのではないでしょうか。ただし、佐野恒吉の妻ついては適当に作成し、佐野静司を除く子ついては存在するか分からないので省きました。
赤い靴 佐野恒吉戸籍1

赤い靴 佐野恒吉戸籍2

 きみの養子縁組が行われた時、各人の年齢は以下の通りでした。
●岩崎きみ  2歳
●岩崎かよ 20歳
●岩崎辰蔵 18歳(戸主)
●佐野安吉 54歳
●佐野恒吉 40歳(戸主)

 明治31年に制定された旧民法(明治民法)よって家制度が確立し、戸主が家族の統率のために様々な権利義務(戸主権)が定められました。戸主権には、家族の婚姻または養子縁組に対する同意権(旧民法第750条)や家族の入籍又は去家に対する同意権(旧民法第737条)がありましたから、安吉ときみの養子縁組ときみの佐野家への入籍に関し、岩崎家戸主の辰蔵はもとより、佐野家戸主の恒吉も同意していたのでしょう。また、きみの親権はかよにありましたから、かよも当然同意していたはずです。
 ただ、ここで問題になるのは、辰蔵がまだ未成年(旧民法第3条)だったことです。母のせきが存命中は、せきが代行(旧民法第895条)することが出来たので問題はありませんでしたが、この時には既に亡くなっていました。親権者のいない未成年者には、後見人を定めることになっていました(旧民法第900条)が、辰蔵に後見人はいたのでしょうか。安吉はせきと内縁関係で、せきの死後も安吉はかよと辰蔵に家族のように接していましたから、安吉が後見人になっていたとしてもおかしくはありません。ですが、菊地寛氏の戸籍調査には一切後見人の記述がありませんでした。後見人がいたとしたら、戸籍に記載されているはずです。重要な手掛かりとなる後見人の情報を菊地寛氏があえて無視したとも思えませんので、後見人はいなかったと考えるのが妥当なのかもしれません。しかし、後見人がいなかった場合、養子縁組の手続きや岩崎家の戸籍からきみを除籍する時に問題にならなかったのかという疑問も生じます。この辺のことはよく分かりませんが、実際に養子縁組が行われ、籍が移っているのですから、後見人の有無に関わらず、問題は生じなかったと考えるしかないのかもしれません。

 この年の1月、かよは成人しています。ですから、もし、生活苦できみを育てられなくなり育児院などに預けるとしても、かよが自ら手続き可能でした。それにも拘らず、態々養子縁組をしたのは何故でしょうか。
●きみを施設に預けるに当たって、家族に対する居所指定権(旧民法第749条)を持つ戸主の同意を求められ、未成年の辰蔵では法律行為が行えなえず(旧民法第4条)、養子縁組をすることできみの親権と籍を移すことで問題をクリアした。
●きみを施設に預けるために、若いかよが様々な手続きをするのは困難と安吉が判断し、安吉が一括して手続きをするために養子縁組をした。
●安吉がかよの将来を考え、子持ちでいるよりも身軽になった方がいいと判断し、安吉が自分の子にしてから施設に預けることにした。
 養子縁組をした理由としては以上のようなことが考えられますが、本当の事は分かりません。ただ、安吉とかよが死ぬまで強い絆を結んでいたことを考えると、岩崎一家が困窮してきみを育てられなくなり、姉弟の保護者のような立場だった安吉が孤児院を探し出し、かよの将来を憂慮してきみを自らの子とし、施設に預けたのではないかと思えます。

*************************
●第七百五十条 家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
 2 家族カ前項ノ規定ニ違反シテ婚姻又ハ養子縁組ヲ為シタルトキハ戸主ハ其婚姻又ハ養子縁組ノ日ヨリ一年内ニ離籍ヲ為シ又ハ復籍ヲ拒ムコトヲ得
 3 家族カ養子ヲ為シタル場合ニ於テ前項ノ規定ニ従ヒ離籍セラレタルトキハ其養子ハ養親ニ随ヒテ其家ニ入ル
●第七百三十七条 戸主ノ親族ニシテ他家ニ在ル者ハ戸主ノ同意ヲ得テ其家族ト為ルコトヲ得但其者カ他家ノ家族タルトキハ其家ノ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
 2 前項ニ掲ケタル者カ未成年者ナルトキハ親権ヲ行フ父若クハ母又ハ後見人ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
●第三条 満二十年ヲ以テ成年トス
●第八百九十五条 親権ヲ行フ父又ハ母ハ其未成年ノ子ニ代ハリテ戸主権及ヒ親権ヲ行フ
●第九百条 後見ハ左ノ場合ニ於テ開始ス
 1 未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者ナキトキ又ハ親権ヲ行フ者カ管理権ヲ有セサルトキ
 2 禁治産ノ宣告アリタルトキ
●第四条 未成年者カ法律行為ヲ為スニハ其法定代理人ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス但単ニ権利ヲ得又ハ義務ヲ免ルヘキ行為ハ此限ニ在ラス
 2 前項ノ規定ニ反スル行為ハ之ヲ取消スコトヲ得
●第七百四十九条 家族ハ戸主ノ意ニ反シテ其居所ヲ定ムルコトヲ得ス
 2 家族カ前項ノ規定ニ違反シテ戸主ノ指定シタル居所ニ在ラサル間ハ戸主ハ之ニ対シテ扶養ノ義務ヲ免ル
 3 前項ノ場合ニ於テ戸主ハ相当ノ期間ヲ定メ其指定シタル場所ニ居所ヲ転スヘキ旨ヲ催告スルコトヲ得若シ家族カ正当ノ理由ナクシテ其催告ニ応セサルトキハ戸主ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ離籍スルコトヲ得但其家族カ未成年者ナルトキハ此限ニ在ラス
*************************

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3. 第19回生命表について
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/19th/gaiyo.html#3
家制度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E5%88%B6%E5%BA%A6
旧民法の親権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%A8%A9#.E6.97.A7.E6.B0.91.E6.B3.95.E3.81.AE.E8.A6.AA.E6.A8.A9
民法第四編(民法旧規定、明治31年法律第9号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/m4_o.htm

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留寿都と赤い靴11

 北海道テレビ放送のプロデューサーとして「開局記念ドキュメントドラマ『赤い靴はいてた女の子』」を制作した菊地寛氏は、番組の取材で得られた情報を基に本を書いていました。

◆菊地寛氏の著書
赤い靴はいてた女の子
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%9F%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AD%90-1979%E5%B9%B4-%E8%8F%8A%E5%9C%B0-%E5%AF%9B/dp/B000J8EUGI/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1395584956&sr=8-1&keywords=%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9D%B4%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%9F%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AD%90
著 者:菊地寛
出版社:現代評論社
発売日:1979年3月
=目次=
まえがき
私の姉は「赤い靴」はいてた女の子
 海鳴りは出逢いの旋律 11
 雨情忌のざわめきに老女の悲歌 16
十勝の山懐から不二見の里へ
 ひと目逢いたい幻の姉に 23
 村にも残る細い航跡 29
戸籍簿に写し出された明治のドラマ
 η片親ない子は門で泣く 39
 時代に流され海山千里 45
透かし出された母・かよの青春
 謎の男“天竺安”の面影 55
 里の日々に波だつ女の生 62
閉塞の時代を切り拓く魂の槌音
 非戦の願い新天地にも 74
 海渡る津軽青年鈴木志郎 79
よりをなせ、縦横の糸よ
 かよと志郎の出逢い 95
 教誨師・原胤昭と本多庸一と 101
 女か母か、安吉との別れ 108
私生児をもつ母親のせつない想い
 この子は天からの授かりものです 113
 きみのゆき先は決まった 118
平民社一統と開拓移民悲話
 理想郷をめざす小さな群れ 127
 平民農場にみる開拓裏面史 134
鈴木夫妻と雨情、啄木の友情
 一つ屋根の下で育まれたものは 143
 雨情、啄木との別れと放浪 150
札幌、函館、青山、横浜の邂逅
 メソジスト宣教師の軌跡 163
 「赤い靴」取材ロケのスタート 172
アメリカヘ渡った「赤い靴」
 本居姉妹の演奏旅行 179
 里親はヒュエット宣教師夫妻 183
動かすことのできない事実
 妹の願い一片の詩に 194
 幸せ薄かった九歳の生涯 198
※庵点が表示できないため、ηで代用しました。

◆「赤い靴はいてた女の子」について
 この本は菊地寛氏の想像による創作物語の間に取材過程を入れ込むという構成になっています。例えるなら、ドラマの合間に実際の映像を織り交ぜているような感じです。
 「創作物語」と書きましたが、理解し辛いでしょうから、一部を引用して見ます。
*** 「η片親ない子は門で泣く」の節の冒頭部分 ***
 富士山は、その目もどっしりとした雲の彼方に姿を隠していた。かよは街道を小走りに駆け、家路を急いだ。新茶の季節にはまだ間があるが、道端の緑はすでに胸を突くような濃い匂いを漂わせていた。
 おとう、死んじゃいやだ。
 昨夜から、何度この言葉を繰り返しただろう。村の尋常小学校に上がったばかりのかよだったが、今朝方突然倒れた父親の岩崎清右衛門が、もう間もなくこの世の人間でなくなることが、妙によく理解できた。
 「おとうが危いって、江尻の安吉おじさんのところへ伝えにいっておくれ」
 と、母親のせきに言いつけられたかよが、学校を休んで朝早く家を飛び出してから、かれこれ四時間近くもたっていた。目ざす安吉おじさんこと、佐野安吉は、博打に出かけたとかで四、五日前から家には帰っていなかった。
 「あんなひと、どこにいってるかわかったもんじゃないんだよ」
 家人からののしるような声を背に浴びせられ、かよは何も言えずもときた道を引き返すところだった。すり切れた草履は小石を踏むと柔らかい足の裏に堅い痛みを走らせる。チチ、チチと頭の上でさえずる小鳥たちが、別世界の生き物のように見えた。
**************************************************
 この様に見てきたような記述が、この本の多くを占めています。実話を題材にした小説と表現するのが適切なのかもしれません。だからと言って、資料的価値が無い訳ではありません。取材過程で得られた情報が記載されているからです。例えば、戸籍に関しては、菊地寛氏しか調べていなく、その情報が得られるのは貴重だと思います。


◆取材などによる情報
 本書に書かれている証拠や証言を整理してみます。
●菊地寛氏は、岡そのさんの投稿記事を切っ掛けに2年間手紙のやり取りをしていて、岡そのさんから「━お便りうれしく思います 私も姉の事は父母の話でほんのわずかですが覚えています姉は明治時代にアメリカにいった後は便りが一度か二度あったと父母から聞いています でもそれは私の生まれる10年も前のことであり 誰によって何処へ連れてゆかれたのかは知りません━」という葉書を貰っている。

●菊地寛氏が岡そのさん宅を初めて訪ねた時の会話。
-きみについて。
「実はお姉さんのことを詳しく聞かせていただきたいのです」
「はあ。でも父や母が昔話をしていたのを何とはなしに小耳にはさんでいたていどですから、お役に立てるかどうか」
「母には、父と結婚する前に生んだ子が一人いたんです。きみちゃんと呼んでいました」
-父母について。
「父母がどのようにして如り合ったのか。昔はあまりそんなことを両親に聞けなかったのではっきりしたことはわかりません。ただ、ふたりの言葉の端々から考えてみると、函館で知り合っていっしょになったんではないかと思いますよ」
「でも、お父さんは青森の人だし、お母さんは静岡の方ですね。どうして、二人は函館で出逢ったのでしょう」
「さあ、人の縁というものは不思議なものですからねえ」
-父母が札幌の山鼻に住んでいた頃について。
「当時の写真とか、そのことを示す記録なんかは残っていませんか」
「写真なんてありませんよ。とにかく貧乏だったんでしょう。写真を撮ることなんて考えもしなかったでしょうし、たとえ撮りたくてもなかなか撮れなかったでしょうねえ」
「そうですか・・・」
「でも、父母は雨情さんや奥さんとはずいぶん親しくしていただいたようです。よく身の上話をし合ったそうです。そんなおり、母は鈴木と結婚する前に自分のお腹痛めた女の子を外人さんの養女に出した、と問わず語りに話したんでしょう。後になって母は、“雨情さんが、
アメリカ人に貰われていったきみちゃんのことを歌にしてくれたんだよ”とつぶやきながら“赤い靴はいてた女の子”といつも歌っていましたよ」
「なるほど。それではきみちゃんを養女にした外人さんというのはどんな方ですか」
「何しろ昔のことですからはっきり覚えていないのです。でも、これだけは間違いありません。子供のいない新教の宣教師さん夫妻だったそうです。アメリカから手紙がきていたといってましたから、きっとアメリカ人だったんですね」

●菊地寛氏が清水市役所で見つけた戸籍。
 戸主 岩崎清右衛門
    弘化元年七月十三日生
 妻  せき
    安政六年五月十日生
 長女 かよ
    明治十七年一月十三日生
 長男 辰蔵
    明治十九年一月十八日生
※せきは、きみ誕生の2ヶ月前に他界。

 戸主 岩崎辰蔵
 姉  かよ
 姪  姉かよ口□□女(口は白く塗りつぶしてあり、復元すると私生子)
    きみ
    出生明治三十五年七月十五日

 戸主 佐野恒吉
    元治元年四月九日生
 兄  安吉
    嘉永参年五月八日生
※佐野安吉は佐野菊蔵の長男として江尻宿で生まれ、明治一五年一月一〇日付で廃嫡。佐野恒吉は安吉の弟。

 戸主 佐野恒吉
 姪  きみ
    兄安吉養子
 明治四拾四年九月拾五日午後九時死亡東京麻布区届出
※きみの父母の欄は
 父 佐(“佐”と書いたが斜線で訂正)
 母 岩崎かよ
となっていた。

 戸主 佐野静司
 伯父 安吉
 年月及ぴ場所不詳死亡昭和参拾弐年拾弐月弐拾参日附許可を得て同月弐拾五日除籍
※佐野静司は佐野恒吉の長男。

●菊地寛氏が、清水市の調査で老人から佐野安吉について「あん人は、人を殺ったという噂もあった。それで北海道へいったらしい。何でも網走の監獄にもぶち込まれたっていう話じゃ。たまに、村へ帰ってくることもあったが、誰も喜ばんかった。むしろ、迷惑がられたようだなあ」と聞いている。

●菊地寛氏が清水での戸籍調査の結果を報告した時、岡そのさんは姉の名前が平仮名できみと書くことも、明治35年7月生まれであることも、私生児として戸籍に記入されていることも知らなかった。

●菊地寛氏が岡そのさんに清水での戸籍調査の結果を報告した時の会話。
-きみについて。
「きみさんは私生児として届けられていますが、この子の父親はいったい誰だったんでしょう。お母さんのかよさんは、その人の名前を口にしたことはなかったでしょうか」
首を横に振り、「きっと、誰にも言えない事情があったんでしょうねえ」
「そうですか。ところで、きみさんは、2歳になったときに、佐野安吉という人と養子縁組しています。これはどういう意味だと思いますか」
「さあ・・・」
「驚かないでください。実はきみさんは、東京で、佐野きみという名前で死亡届けが出されているんです」
「えっ」
「そんなはずはありません。それは何かの間違いではないでしょうか。姉はアメリカ人の宣教師に貰われて、アメリカヘいったんだと母はいつも言ってました。アメリカから、手紙も二、三度きていたということですし・・・」
「もちろん急には信じられないことと思います。でも、戸籍では、ちゃんとそういう届けが出されているんです」
「でも、母からはそんな話は聞いておりません。昔のことですから、戸籍の方が事実と違っていることだってあるんじゃないですか」
-佐野恒吉について。
「安吉という名前には覚えがありますよ。でも、姉がその人の養女になったとは聞いていませんが」
「母から聞いている安吉という人は、ほれ昔よくいたでしょ、鼠小僧みたいな。ええ、いわゆる義賊ですね。悪徳金持ちから盗みを働いて、貧しい人に施しをした人らしいんです。天竺安とか、静岡小僧とか呼ばれて、そう刑務所暮らしも長かったようですよ」
「そうそう、そう言えぱ安吉さんが刑務所に入ったとき“ハラタネアキ”という人物に世話になったそうだ、と母が言ってましたよ」
「ハラタネアキ。タネアキとはどんな字ですか」
「さあ、そこまでは」
「どこに住んでいた人でしょう」
「それも知りません。ただ熱心なクリスチャンだと聞かされたような気がします」
「確か子供の頃、私も安吉さんに会ってるんです」
「えっ、それはどこですか」
「樺太の豊原にいた頃です。安吉さんの臨終のときに居合わせました」

●父・鈴木志郎についての岡そのさんの発言。
「父・志郎の実家は、漁師か、大工だったらしいです。母方の兄弟を頬って父は、若い頃に北海道の漁場を歩き、札幌では豊平館のコックをしていたこともあったそうです。その後、函館の大沼へ出たと聞いています」

●菊地寛氏が豊平館食堂部の杉山正次社長を取材した時の会話。
「ええ、私がここで初めて仕事についた頃は食堂関係は20人そこそこでしたから、よく覚えていますが、鈴木志郎という名前には記憶がありません。ただ、明治の頃は、人手がなくて、臨時雇いの若い者もずいぶん使われていたらしいです。その中に、鈴木志郎さんという方
がいた、ということも考えられますナ」
「明治の頃の西洋料理のコックというのは、外国航路の船に乗り組んで料理を覚えたり、外人宣教師の家庭に雇われて、宣教師夫婦から、料理を手ほどきされた方が多いんですよ」
「ほう、外人宣教師にですか」
「はあ、明治の30年代には、岩井徳松という人がおりましたが、米人宣教師について横浜や仙台を廻り、札幌にきたところで一本立ちしたそうです」
「岩井さんがついたという宣教師の名前はご存じでしょうか」
「はい、それはヒュエットという名前だったようです。明治32年から37年頃まで札幌にきていた宣教師さんらしいですよ」
※杉山正次は大正8年から豊平館でコックをしていた。

●青山学院の大学宗教主任・佐藤元洋氏の調査により、原子基の名が上原教会の記録に残っていることが判明。

●ヒュエット宣教師について、アメリカのメソジストの本部へ照会したところ「ヒュエット宣教師夫妻には自分たちの子供はいなかったが、日本人の女の子を養女にしたとの記録はない」との回答を得る。

●デンバー大学にヒュエット宣教師の日本でのことに触れた資料は無かった。

●菊地寛氏とヒュエット宣教師の甥・フレッド氏及びその兄妹の間で交わされた会話。
-ヒュエット宣教師の養女について
「ヒュエット宣教師が、日本人の女の子を養女にしたという話を知りませんか」
「オウ、もちろん聞いているさ」
「そうそうヒュエット叔父さんたちは子供が生まれなかったからね」
「養女にしたのは、えーと、三歳か四歳の女の子だったようだ」
「なるほど。それでヒュエット宣教師が養女にした日本の女の子はその後どうしてるでしょか」
「さてと・・・」
「それなんですが、私たちは話には聞いて知っているのだが、その女の子に直接会ったことはない。だから、これ以上は何とも言えない」
-ヒュエット宣教師夫人・エンマについて
「ええ、エンマは日本語が上手で、自分は子供がいなかったが、どこでも子供をよく世話をしたらしいね」
「そうそう、叔父夫婦が日本にいった頃、貧しい人たちが多く、赤ちゃんに乳を飲ませることのできない母親もいた。それを見かねて、アメリカ本国の家庭に呼びかけて、粉乳を集めて日本に送る運動をしたこともあったそうだよ」
「パサディナへいってからは、養老院のお年寄りの世話に精を出していた。と聞いているよ」

●ヒュエット宣教師夫妻が晩年に暮らしたパサディナの養老院にいるメツガーという老婆の話。
「エンマは日本の北の島で暮らしたことがあると言っていたよ。そうそうリンゴがとれるんだってねえ。足を暖めるのに使った、という鉄びんを私にくれたんだけど、いい人だった。年をとってこの養老院にきてからも、からだの不自由な人の面倒をよくみていましたよ。さあ、日本の子供を貰って育てたという話は記憶のないねえ」

●帰国した菊地寛氏が岡そのさんにアメリカでの調査結果を報告した時の会話。
「実は、きみちゃんの行方は結局、はっきりしなかったんです。アメリカで生存していたという証拠はありませんでした」
「やっぱりそうでしたか。古い話ですからねえ」
「でも、でもひとつだけはっきりしたことがあるんですよ。それはチャールス・ヒュエットという宣教師が日本にいるとき、日本人の女の子を養女にしていることなんです。アメリカでその女の子が生活していたかどうかは何ともいえませんが、僕はきみちゃんはおそらくヒュエット宣教師の養女になったのではないか、と思うんです」
「ねえ私、いま大事な事を思い出しました。母が昔、シュミットさんとかいう外人さんの名前を口にしていたことがあるんです。シュミットさんとは、ヒュエットさんのことではないでしょうか」

●青山墓地の埋葬者台帳に記載されている内容。
 佐野きみ 静岡県平民
 明治四十四年九月十五日死亡
 死因 結核性腹膜炎
 墓番号 二等一二ノニニノ三
※墓は鳥居坂教会の共同墓地。


◆菊地寛氏が作り上げたストーリー
 菊地寛氏は取材で得られた情報を十分精査せず、不明なことは想像で補ってストーリーを作っています。詳しくは本書を読めば分かるのですが、既に絶版になっているため、読む機会はなかなか得られないでしょう。なので、そのストーリーを箇条書きで簡単に記すことにします。
●明治時代、静岡県不二見村に貧しい小作の一家が住んでいた。一家は、岩崎清右衛門と妻・せき、長女・かよ、長男・辰蔵の4人。
●岩崎清右衛門は遊び人の佐野安吉と仲が良かった。安吉はきみを可愛がっていた。
●1890年4月10日、清右衛門が死去。
●30歳を過ぎたばかりのせきは、1890年12月に同じ村の農家の次男だった小沢佐七と再婚。佐七は婿養子だった。
●母の再婚に反発するかよは安吉に慰められる。
●1891年の秋、せきと佐七の間に金作という男児が生まれる。
●年が明けた頃から、せきと佐七の仲が悪くなり、佐七は金作を連れて実家に戻る。金作は佐七の実家の養子になった。
●離婚後、せきは懸命に働くが、不作続きで小作料が払えなくなり、地主に畑を取り上げられる。出面仕事や内職で糊口を凌ぐも貧しくなる一方だった。
●かよの成績は良かったが、進学する余裕は無い。小学校を卒業すると甲府の宿屋に女中奉公に出ることになった。
●旅立ちの日、安吉が現れ、かよに餞別を握らせ、はなむけの言葉を掛けて去って行く。1896年の春のことだった。
●1901年の春、成長したかよが甲府の奉公先から不二見村に帰ってくる。実家では、せきと辰蔵が出面仕事に励んでいた。
●かよ実家を離れている間、せきと安吉が夫婦同然の関係になったが、安吉が捕まったらしく、それっきりになった。安吉は北海道の監獄送りになったとの噂だった。
●夏祭りの日、偶然出会ったかよと安吉は肉体関係を持ってしまう。かよは、優しかった安吉を慕っていた。安吉との関係は秋頃まで続く。安吉がまた捕まって北海道の監獄送りになったとの噂話が発っていた。
●かよは安吉の子を身篭った。
●臨月が近づくと、せきは安産祈願のために身延山に参拝し、甲府に立ち寄ったところで亡くなる。
●1902年7月15日、かよは女児を生んだ。「きみ」と名付け、私生児として届ける。
●肩身の狭い思いをしたかよは、1903年の初冬、きみを背負って村を出た。
●鈴木志郎は船大工の二男坊だった。父の金兵衛は船宿の仕事もしていたが、暮らしは辛うじて成り立っているありさまだった。
●少年だった志郎は、近所に住む医者の所に出入りしていたカトリックの神父に感化される。
●志郎には向学心があったが、家が貧しいため、小学校を卒業した後は家を出なければならなかった。
●志郎は北海道の積丹でヤクザの親分をしていた母方の叔父・種田幸次郎を頼り、津軽海峡を渡った。志郎は賭場の手伝いをしていたが、志郎にヤクザは合わなかった。
●1896年、積丹を出て札幌に来た志郎は、豊平館に職を得た。ここで働いている時にメソジスト派の宣教師・ヒュエットを見かける。●豊平館には5年程勤めるが、新聞記者になりたいと思うようになり、故郷に戻って出直すことにする。
●故郷では、新聞記者になることを反対されるが、「平民新聞」の創刊号を読んで意思を固める。1903年、志郎は再び北海道へ渡った。
●函館で荷役の仕事などをしていた12月、開拓移住民達が志郎の前を通り過ぎていった。その中にいた赤子を背負った若い女が転び、志郎は思わず手を差し出した。女と子は不二見村からやって来た岩崎かよときみだった。
●函館に渡ってから10ヶ月になった志郎は、大沼の遠い親戚の商家に住み込み、商売を手伝っていた。
●仕事で函館に来ていた志郎は、偶然、かよを見かける。おもわず声を掛けると、かよも志郎を覚えていた。2人は氷屋で話し込み、かよは、両親が他界していること、今は土産物屋で売り子をしていること、弟もこちらに呼びたいこと、そして子供がいて結婚していないことを打ち明ける。
●店を出て2人で話をしていると、かよに声を男がいた。偶然、かよを見かけた佐野安吉だった。安吉は、かよに何故ここにいるのか尋ね、函館で稼いだら内地に帰るつもりなのだと伝えて去っていった。かよは志郎に親戚みたいな人だと語る。
●志郎とかよが再開したのは8月末のことだった。その数日後、志郎はかよに、仲間と大きな農場を開くために話し合っているので、一緒に来て欲しいと結婚を申し込んでいた。志郎は、きみも一緒に引き取ると言ったが、かよは返事を躊躇う。かよは佐野安吉に相談したかったが、子供が生まれたことを伝えていなかった。
●かよが土産物屋で働いていると、安吉がやって来た。安吉は、志郎が訪ねて来て結婚を申し込んだことを聞かされ、かよに子供がいることを知った。安吉はかよに結婚を勧め、きみのことは任せろと言い、原胤昭に相談するために東京へ向かった。
●かよは、誰に父親のことを聞かれても「この子は天からの授かりものです。わたしが、父親のぶんも面倒をみるつもりです」と言っていた。志郎にも詳しい事情は話していなかった。
●かよが結婚を申し込まれてから半年以上経過し、一冬を越した頃、安吉が函館に戻ってきた。安吉はきみを養女に出すことを考え、原胤昭に養子先を探してもらい、来日して5、6年になるキリスト教のアメリカ人宣教師夫婦の養女にすることにして帰ってきたのだった。
●安吉は、きみが自分の子であることを悟っていた。かよを説得し、養女に出すことを認めさせる。安吉はかよに未練があり、かよも安吉への想いが残っていたが、安吉はかよの幸せのために志郎との結婚を勧め、かよも結婚を決心する。
●安吉はかよに、アメリカ人宣教師が札幌にいることを教えたが、未練が残るといけないからと、名前は教えなかった。また、安吉の養子にしている方が好都合だったので、すでにきみの養子縁組を役場に届けていると伝える。
●翌朝、安吉はきみを連れてアメリカ人宣教師のいる札幌行きの汽車に乗り、志郎とかよが見送った。
●仲間内でささやかな祝言を挙げた志郎とかよは、平民農場への準備をしていた。志郎は、開拓には人手があった方がいいと、静岡で奉公人をしていた辰蔵と定職の無い安吉を同志に迎え入れることをかよに提案。辰蔵と安吉は申し出を受け入れた。
●平民農場に入植した志郎と辰蔵は、原子基らと小屋を建てたり、開墾仕事をするなど、重労働に耐えていた。かよもきみへの想いを断ち切るかのように力仕事もいとわず働いた。
●平民農場は、秋の収穫を終えても金策に走り回る状態だったが、入植者が増え、1906年1月末には8人になっていた。安吉もかよ達を追いかけるように入植した。
●辰蔵が肺を悪くして倒れる。3月半ば過ぎに平民農場で、辰蔵が亡くなる。
●その年の夏、第2号家屋が焼失。農場にとって致命的損失になった。秋になると、平民農場に見切りを付けて出て行くものが続出、安吉も農場を去った。
●年が明けた1907年1月、平民農場には原子基を始め、志郎かよ夫婦らが残っていた。
●2月、かよは女児を出産、「のぶ」と名付ける。
●平民農場の経営は苦しいままで、志郎は平民農場を出て、札幌に行く決心をする。緑の萌え始めた頃、鈴木一家3人は農場を後にした。●この年の暮れ、平民農場は解散した。
●札幌に出てきた志郎は、北鳴新報社の事務の職を得る。志郎が入社して間もなく、野口雨情も入社。
●親しくなった2人は、郊外の山鼻に一軒家を借り、二家族で住み始めた。鈴木一家は志郎、かよ、のぶの3人。野口一家も雨情、ひろ(妻)、雅夫(長男)の3人だった。
●家族ぐるみの付き合いで親密になったひろに、かよはふときみのことを洩らし、志郎の子ではないこと、アメリカ人宣教師へ養女に出したを話す。妻からそれを聞いた雨情は、かよを慰めた。
●1907年10月、志郎と雨情、そして北門新報社の石川啄木の3人が新設された小樽日報へ転職。雨情と啄木は記者として、志郎は事務として働き始める。
●早々に社内の内紛が始まり、雨情が退職した。内紛は続き、主筆の岩泉江東も去った。
●新体制になり、志郎は念願の記者なったが、啄木は事務長と揉めて自ら退職。
●不況で会社の経営も傾いていて、1908年4月18日に発行停止になり、小樽日報は廃刊になる。志郎は職を失った。
●志郎とかよは真狩村に戻り、平民農場近くに再入植。郵便配達をしながら畑を耕すという生活をする。
●1913年、「その」が生まれる。
●志郎は第一次世界大戦の軍需景気で賑わう室蘭の製鉄所に就職する。しかし、終戦と共に行われた人員整理で失職。
●夕張の炭鉱で働くも、志郎は炭鉱の仕事になじめなかった。
●室蘭で知り合いになったカトリック教会のヨセビョ・ブライトン神父の世話によって、樺太の豊原の教会の伝道師として赴任することになる。1923年、鈴木一家は樺太に渡った。
●1925年の秋の夜、豊原の鈴木家に安吉が訪ねてくる。安吉は話をする間もなく倒れ込み、看護の甲斐もなく、1週間後、「かよさん。きみちゃんはなあ・・・」と言葉を残し、安吉は亡くなった。
●ヒュエット夫妻に預けられたきみは、横浜からサンフランシスコヘ向かい異国土を踏んだこともあったかも。
●再来日したヒュエット宣教師が帰国命令を受けた時、きみは結核に罹っていた。ヒュエット夫妻は悩み、同じメソジストの鳥居坂教会の永坂孤児院にきみを預け、治ったらアメリカに来るように言い残して帰国した。
●きみの病状は悪化し、9歳の生涯を閉じた。

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