六丈記2

備忘録のようなもの

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串団子に歴史あり

 お茶請けに三色団子をいただいた。団子を食べながら、たわいも無い雑談をしていると面白い薀蓄を伺った。何でも、三色団子の赤は「桜」、白は「白酒」、緑は「青葉」を表しているそうで、それぞれ春、冬、夏を意味し、秋だけが無いので三色団子は「飽きない(秋無い)」とのこと。かなり眉唾の話だが、よく出来た話だ。
 
 三色団子は3色なので3つなのは当然だが、みたらし団子等を見ると4つ串刺しになっている。団子の数は地域性があるようで、関東は4つ刺し、関西は5つ刺しが主流のようだ。
 そういえば、10年程前に「だんご3兄弟」がブームになった時、4つ刺しになっている団子に「何で4つなんだ、3つじゃないのはおかしい」とクレームを付ける人が現れ、団子屋が4つから3つに減らしたとの報道があった。クレームだけではないだろうが、ブーム以降、3つ刺しの団子が増えたそうだ。
 
 串団子が現れたのは室町時代頃らしく、当初は5つ刺しが基本だった。それが変化したのは江戸時代中期。1768年に四文銭が発行され流通し始めると、江戸では5つ刺しを5文で売っていたのが1つ減らして4つ刺し4文で売られるようになった。ワンコインで支払いが済む便利さが江戸っ子に受けたのだろう。4つ刺しが広まり、主流となって今に続いている。
 東西で団子の数が異なるのは、この様な事情があるようだ。
 
 5つだったものが、江戸っ子によって1つ減らされ、更に流行歌によって1つ減らされて3つに。団子の数は減る一方だ。数百年後には串だけになっていたりして。

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四文銭は裏に青海波(せいがいは)模様が入っている。

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江戸時代の100円SHOP「十九文見世」

 夕方のニュースで、大阪の心斎橋界隈に大型低価格雑貨店が集中し、激戦になっていると報じていた。「ダイソー心斎橋店」、「ASOKO南堀江店」「タイガーコペンハーゲン アメリカ村ストア」が接近しているため、はしごをする客もいるそうだ。
 
 

 ダイソーはよく知っているが、ASOKOとタイガーコペンハーゲン名は初めて聞いた。
 調べてみると、ASOKOはファッションブランドの「YEVS」(イーブス)を主力事業にしている遊心クリエーションが新たに始めた低価格雑貨店で、まだ1店舗しかないとのこと。リーズナブルでデザイン性の高い商品展開を目指しているようだ。
 タイガーはデンマークのコペンハーゲンで1995年に誕生し、現在では17ヶ国に150店舗以上を展開しているとのこと。日本には昨年上陸し、こちらもまだ1店舗しかない。大半の商品が100円から300円位の低価格でカラフルでポップな北欧デザインが特徴のようだ。
 調べついでにダイソーのサイトを見てみると、1972年に創業(矢野商店)し、1982年から100円SHOPを始めていた。2012年5月の時点で、国内2680店舗、海外で28ヶ国658店舗をチェーン展開しているとのこと。国内だけでも現在の市町村数1719の1.5倍以上だ。
 
 これほどまでにダイソーが発展したのは、品質が低くても低価格であれば需要があったこと、品揃えが豊富、そして100円均一という分かりやすさが受け入れられたからではないだろうか。
 原価が違うものを一律同一価格で売るという発想はダイソーが始めてから、キャンドゥなどの後発組みが真似したので、こうした発想はダイソーが初めてと思われるかもしれない。しかし、一律同一価格で売るという商売は江戸時代からあった。
 「十九文見世(十九文屋)」と呼ばれるものがそれで、日用品などを19文一律で辻売りしていた。人通りの多い場所にゴザを敷いて、安物の雑貨を並べた露店だったが、目新しさが受けて繁盛したようだ。成功すると真似する者が現れるのは世の常で、次々と同じ商法で商売する者が増えた。中には18文や12文で売って安さを競ったり、逆に38文で売って差別化を図った者もいる。販売価格は違っていてもこういう商売は皆「十九文見世」と呼ばれたとのこと。
 二八そばが16文、串団子(4つ刺)が4文だったから、現在の価値にすると19文は500円位だっただろう。買う方は昼食一回分位の感覚だったのではないだろうか。江戸時代の均一ショップの商品は現代主流の均一ショップの商品ほど、安物ではなかったようだ。
 
 何故、19文という中途半端な価格設定にしたのだろうか。安く見せるために「198円」と値付けする発想と同じなのだろうか。案外、人の発想というものはそれ程進歩していないのかもしれない。
 
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ダイソー
http://www.daiso-sangyo.co.jp/
ASOKO
http://www.yushin-creation.com/brand/asoko/index.html
タイガーコペンハーゲン
http://www.tiger-stores.jp/
都道府県 市町村数ランキング
http://rnk.uub.jp/prnk.cgi?T=nctv
 

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正倉院御物の瑠璃杯はどこで作られた?

 10月27日から奈良国立博物館において、「第64回正倉院展」が開催されている。目玉は瑠璃杯(るりのつき)と呼ばれるグラスらしい。読売新聞社が特別協力をしているためだろう、10月31日の朝刊の文化面に正倉院展と瑠璃坏を取り上げた記事(第64回正倉院展に寄せて 関根俊一)が掲載されていた。所謂、「自社物」と呼ばれる、自社が関係した催し物を宣伝する記事だ。
 ところが、ネットサーフィンをしていると、催し物と無関係のはずの韓国のハンギョレ新聞も正倉院展と瑠璃杯を取り上げているのを知った。
 興味深いので、それぞれの記事を書き出してみる。
 
*******ハンギョレ新聞*******
日本王家の1級宝物、百済が作った?
正倉院所蔵コバルト色硝子杯 "百済金銅壷紋と似ている" 奈良博物館学芸官 論文発表 ‘西域系統’見解と異なり注目
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/13176.html
 高さ12㎝、優雅な円模様を本体にちりばめたコバルト色に輝く1300余年前の硝子杯の故郷はどこであろうか。 日本の古代の都、奈良にある日本王家の宝物倉庫、正倉院に所蔵された一級宝物 硝子杯の製作地と由来した経路を巡って韓国・日本の文化財学界の関心が集中している。 ひと目見ただけでも西域の風合いが感じられるこの遺物が百済で作られ日本に伝来したという日本現地専門家の研究結果が発表されたためだ。
 このような見解を発表した専門家は、去る27日からこの硝子杯を含む正倉院所蔵品特別展(11月12日まで)を開いている日本国立奈良博物館の学芸官である内藤栄だ。 彼は今回の展示図録に硝子杯を分析した論文を載せ、脚支えなどの模様と製作技法から見て百済で匠たちが加工して伝来した可能性が高いという見解を出した。 このコバルト色の杯はこれまで韓国・日本の学界で西域ペルシャ系統の様式を持った遺物として、シルクロード交流の産物として手に入ったという見解が有力だったが、百済加工説が提起されたことにより両国学界に少なからぬ波紋を起こすものと見られる。
 内藤が硝子杯の百済加工説を裏付ける根拠に挙げたのは独特の紋技法だ。 杯の下の金属支え部分の躍動的なうず巻き形の唐草紋(ツル紋)が2009年に全北(チョンブク)益山(イクサン)の弥勒寺(ミルクサ)跡の塔基壇部から発見されて世間の注目を浴びた7世紀百済末期の金銅製舎利壷の魚子紋(小さい魚卵形を満たして刻んだ紋)と瓜二つだったという点に注目している。 魚子紋は6~8世紀に唐と百済・統一新羅・日本などの地で共通的に現れる技法だが、小さな卵模様の魚子をぎっしりと満たさずに、まばらに満たすことで、あたかも怪獣の形のような唐草紋と似合うように構成した事例は百済の弥勒寺跡舎利壷の紋だけに見られるということだ。 また、硝子表面に丸い紋を付け加え装飾美を誇った技法は1958年に慶北(キョンブク)、漆谷(チルゴク)、松林(ソンニム)寺前塔内で華麗な舎利装飾具の中に納められているのが発見された円紋のついた舎利器とほとんどそっくりだ。 内藤は「百済と日本王室の密接な親交関係で匠たちが細工した多数の工芸品を日本に贈り物として送ったという点、百済滅亡後に多数の王族の匠たちが日本に渡って行ったという点等から類推して、この硝子杯は百済で加工されて伝来した可能性が高い」と主張した。
 これに対して韓国内学界の一部研究者たちも説得力があるという意見を示している。 仏教美術史学者ハン・ジョンホ東国(トングク)大教授は「当時、百済の匠たちは金属細工技術の側面で東アジア最高の技術力を保有していた」として「弥勒寺跡舎利壷の紋技法が韓半島だけの独創性を帯びているという点で非常に意味深い研究結果」と評価した。
 しかし大きな争点が解決したわけではない。硝子杯自体を百済で作ったか否かは、すっきりと解明されていない。内藤の論文も硝子杯の硝子は、硝子を発明した西域ペルシャ系統であり、百済は硝子杯を輸入して脚支えを加工した後に再び日本に渡したという推定で結んでいる。 しかし韓国国内の学者たちは松林寺舎利器や扶余出土の硝子玉などに見られる高度な金属・ガラス工芸接合技法などから見て硝子を自ら製作した可能性も少なくないと見ている。
 756年聖武日王の愛蔵品を本山の東大寺に捧げたことにより始まった正倉院の歴史で硝子杯はいつ誰がどんな経緯で持ってきたかの記録はない。 展示の主管社である<読売新聞>は硝子杯が義慈王が日本王室に送った木製碁盤のように百済王室の朝貢品だという推測記事を書きもした。
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*******読 売 新 聞*******
第64回正倉院展に寄せて 関根俊一
~略~
(日本人が濃い青を好む傾向が見られる。唐でも瑠璃は外国の青というイメージがあり、珍重されたとの内容。)
~略~
 瑠璃杯は、コバルトで発色させたアルカリ石灰ガラス。円環を貼り付けた類品は、韓国・松林寺せん塔出土の舎利容器、中国・陝西省何家村出土の杯など東アジアに僅かに残存するのみだが、いずれもササン朝ペルシャの製品と考える説が有力である。
 一方、瑠璃杯に付く銀製の脚部は、表面に線刻された「気」を吐く竜を表した模様や表現法に百済の特徴が見え、朝鮮半島で加えられた可能性も高く、伝来にはさらなる興味も伴う。
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 奈良国立博物館の学芸官・内藤栄氏が、瑠璃杯の脚部の模様が韓国・松林寺舎利器の模様に似ていることから、ペルシャで製作された瑠璃坏に百済が手を加えた(脚部の線刻)可能性に言及したところ、韓国・東国大教授がこの紋様が朝鮮半島独自のものと言い出し、更に他の韓国の学者がガラスも含めた瑠璃杯全体を百済が製作したと主張しているようだ。
 ハンギョレ新聞が瑠璃杯を取り上げたのは、瑠璃杯自体に興味があった訳ではなく、見出しの「日本王家の1級宝物、百済が作った?」に表れているように、朝鮮半島で正倉院宝物が製作されたと書きたかったのだろう。所謂、ホルホル記事だ。
 
 記事中に登場する宝物とはこの様な物だ。

■瑠璃杯
 
 

■弥勒寺金銅製舎利壷
 
 

■松林寺舎利器
  
 

■何家村出土瑠璃杯
  
 

 そして、上記宝物の発見場所はここだ。
 
 

 瑠璃杯の脚部の模様を見ると、不規則な魚子紋(ななこもん・小さな魚卵形で満たした紋)の地柄に竜が刻まれている。弥勒寺金銅製舎利壷の方は、写真では判りづらいが、こちらも魚子紋の地柄に竜らしき図柄が壷の肩付近にが刻まれている。そっくりという訳ではないが、螺旋状に巻いた表現が似ているか。
 記事中にあるように魚子紋は東アジアで広く使われていたし、竜を蔓のようにアレンジした表現方法も特別とは思えないのだが。この竜の表現方法は百済にだけ数多く残され、他ではほとんど見られないのであろうか。大陸では使われていなかったのであろうか。もし、百済でだけで多用されていたとしても、模倣したとは言えないのであろうか。
 ガラス杯の方は色が違うものの円環が貼り付けてあり、同一地域で製作した物と見られる。勾玉や管玉とは違い、透明度の高い装飾された器を作るには高い技術が必要で、当時の技術水準を考えると、ペルシャ以外のアジア地域で製作されたと考えるには無理がある。少なくとも、ガラス部分はペルシャで製作されたに違いない。たぶん、唐がペルシャからガラス器を輸入し、加工していたのだろう。何家村出土瑠璃杯は加工前の物か。
 当時、ガラスは貴重品だったことを考えると、これらの物は当時としても大変な宝物だったに違いない。唐の時代には権力のシンボルとして竜が皇帝の服を飾るようになっていたことを考慮すると、皇帝の下賜品の可能性もある。そう考えると、百済は弥勒寺金銅製舎利壷を、新羅は松林寺舎利器を朝貢貿易で入手し、日本は遣唐使が瑠璃杯を持ち帰ったと推測するのが妥当ではなかろうか。
 
 唐の金属工房で製作された物が朝鮮半島や日本に渡ったため、弥勒寺金銅製舎利壷と瑠璃杯の紋様が酷似していると考えた方が、朝鮮半島で加工が加えられたと考えるよりも適当だと思えるのだが、如何であろうか。
 

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長崎清国水兵事件の日

 126年前の今日(1886年[明治19年]8月13日)は「長崎事件(長崎清国水兵事件)」の発端となった事件が起こった日です。事件は清国水兵による乱暴、略奪に発展し、多くの死傷者が出ました。
 
 事件の前年、清はドイツから「東洋一の堅艦」と呼ばれた世界最大級の定遠、鎮遠(姉妹戦艦)を入手し、翌年には親善訪問を名目に朝鮮、ロシア、日本を歴訪して、示威行動を始めました。
 日本にやって来た清国海軍の艦隊(定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻)は修理を名目として、8月1日に長崎に寄港。入港してから2週間弱経過した8月13日、多数の清国水兵が上陸を開始し、長崎の街に繰り出します。数名の清国水兵が丸山遊廓の順番待ちをしていると、後から来た別の水兵が先に案内されます。これに、待たされていた清国水兵達は激怒し、手当たり次第に家財を壊したり、乱暴を始め、大暴れ。夜8時過ぎ、通報受けた丸山町巡査派出所の巡査2名が現場に駆けつけ、2人を逮捕しましたが他は逃亡。しばらくすると、遊郭で巡査に暴行して逃亡した水兵が十数名の仲間を伴って派出所に現れ、罵倒を始めます。巡査がその水兵を捕らえようとしたところ、その水兵は日本刀で巡査の頭を斬りつけました。巡査は手と頭を負傷しながらも、応援の巡査と共に取り押さえ、濱町警察署に連行後、清国領事館に引き渡しています。清国水兵達は逮捕された仲間を助け出そうとして警察署の門前に押しかけたようですが、その日は何事もなく引き上げたようです。
 ちなみに、水兵は非武装で外出するようにと丁汝昌提督から命令されていましたが、水兵は市内の道具屋で日本刀を購入していたようです。
 翌14日、日下義雄長崎県知事が清国長崎領事・蔡軒と会談し、集団で上陸しないこと、上陸する場合には監督として士官を付き添わすことを協定します。
 これで終わったかに見えましたが、15日に再燃します。午後5時頃、清国水兵達は協定を守らず、およそ300人が上陸しました。不穏の挙動に警戒して、常置の巡査1名の外に梅香崎警察署から2名の巡査が出張しています。
 1人の水兵が会話をしている巡査の間を割って通過し、再びその間を通過しようとしたので、両巡査は互いに密着して防いだところ、水兵はその後ろを通過しました。暫くして、1名の巡査がパトロールに出ると、前出の水兵が走って来て故意に巡査に衝突。巡査は耐えましたが、別の水兵がやって来て巡査の顔に向かって脅す態度に出ました。それでも巡査は耐え忍び諭そうとしましたが、水兵は巡査の警棒を奪おうとします。これに他の水兵が加わり、巡査は袋叩きにされました。巡査2名が救助に駆けつけると20数名の水兵に襲われ、巡査1名が殺され1名が重症を負いました。
 1人の巡査が辛くもその場を逃れ、梅香崎警察署に応援を求めました。当日はコレラ予防の為に巡査が各地に出払っていて、人員を集めるのが困難でしたが、それでも警察署から帯剣の監督巡査1名と8名程の警棒巡査が現場に急行。現場に到着した時には既に水兵は200名程に膨れ上がっていて、長崎市内の各地で略奪や暴行の真っ最中でした。駆けつけた巡査らに対して水兵は刀と棍棒で襲い掛かり、帯剣巡査も剣で防戦しましたが、多勢に無勢で重傷(翌日に入院先で死亡)を負います。やがて、追加の巡査が駆けつけて総勢30名程となりましたが、それでも人数的不利は変わらず、巡査らは不利な状況の中、水兵を捕らえ、住民や清国商人を救護し、鎮圧に努めました。この騒動に憤慨した住民の中には投石や刀で応戦する者もいて、住民も加わった大乱闘に。最後は水兵達が清国領事館内に逃げ込んだのでした。
 この暴動で、日本側は巡査が2名死亡し、26名の重軽傷者を出しました。住民も十数名負傷しています。清国側は士官1名が即死し、15名あまりの水兵が負傷しています。ただし、清国側は死亡8名、負傷42名と主張。
 
 8月20日、外交を握っていた李鴻章は天津領事の波多野章五郎を呼びつけ、尋問します。
 李鴻章は詳細を知らないとしながらも、買い物などに上陸した少数の水兵が長崎の巡査の乱暴狼藉によって殺傷されたと決めつけます。更に、水兵達は命令により武器を携帯しておらず、無防備の水兵を巡査が刀で殺傷したから40人あまりの死傷者が出たのだと非難。長崎の兵船帯兵官からは開戦の許可を求められているが、止めているとしながらも、長崎の艦隊の大砲は何時でも使用可能で、自由に開戦することが出来ると恫喝します。また、天津にいる日本人を苦しめるために人民を扇動するのは容易に出来るとも。
 この2日後、李鴻章は態度を一変しました。李鴻章は巡査と水兵の喧嘩だから日本が公平に処するのであれば、清国政府が出るまでも無いと言い出します。おそらく、李鴻章はその後に事件の詳細を知ったのでしょう。それでも、謝罪することはせずに、喧嘩として押し通そうとします。
 
 事件は一地方の出来事と見なして、日下長崎県知事とウィリアム・ラング水師副提督が談判して処理する予定でしたが、8月25日なって清国政府は在上海英国法律家英人ドラモンドを派遣することにしたため、日本政府も外務省雇いの米国人法律顧問のデニソンを派遣しします。
 9月6日、第1回委員会が長崎県庁で開かれましたが、決着しませんでした。日本側は治安を維持する警官の行為を喧嘩とするのは理に合わず、万国公法に準拠して事故の原因を調査し、公正を期すべきであると繰り返し主張。証拠を挙げて追求すると清国側はのらりくらりと逃げ、理論的に追い詰められても全権を委任されていないなどと答えていました。清国側からは見舞金を得ることなく妥協することはできないとか、軍艦を派遣すると脅迫めいた発言も。この様な案配でしたから、会議は40回も開かれましたが妥協は得られませんでした。
 交渉が遅々として進まなかったため、東京において井上外務大臣と徐公使との間で交渉が行われることになり、12月6日に長崎の調査委員会は解散しました。
 清国側は英独露などに働きかけ、日本に対して圧力を掛けて来ます。井上外務大臣は、日清両国の交誼を傷付けることは不本意であるから、英国の「賠償金ということではなく、両国が慈善基金を設立し、見舞い金を出し合い、互いの死傷者の為に配分する」という提案を受け入れ、政治的決着を図る事にしました。これを受け、清国政府では曽紀澤が反対論者を説得し、政治的決着を図ることを承知させます。
 合意に基づき1887年2月8日、井上馨外務大臣と徐承祖欽差全権大臣が条約を締結しました。これにより、清国は銀15500円を、日本は52500円を拠出しました。清国は死傷者を水増していましたから、日本は3.4倍の金を支払わされたのです。
 
 日清間には1871年に日清修好条規(平等条約であった)が結ばれていて、第13条には「両国の人民、若し開港場に於て兇徒を語合い盗賊悪事をなし、或は内地に潜み入り、火を付け、人を殺し、劫奪を為す者有らば、各港にては地方官より厳く捕え直に其次第を理事官に知らすべし。若し兇器を用て手向いせば、何れに於ても格殺して論なかるべし」とあります。
 この条文に依っても巡査の行為は正当なものでしたが、日本は不利な条件を飲み、喧嘩として処理するしかありませんでした。なぜなら、英独仏3国が清国を支援していたことにより、日本は孤立無援でしたし、清国の圧倒的な軍事力に抗えなかったからです。井上外務大臣は清国と事を構えれば、琉球を失ってしまうとの危機感があったそうです。
 所詮、当時の国際法も条約も清国の巨大な軍事力と列強の国益の前では無力でした。理不尽な清国の主張に平伏せざる得なかったことで、交渉によって清国との摩擦を解消しようとしていた日本の方針は揺らぎ、国防の重要さが叫ばれるようになりました。そして、清国は敵国であると認識されていきます。
 
 この事件は清国水兵が些細なことで逆上し、傍若無人の振る舞いをしたことが原因です。当時、清国に限らず、上陸した乗組員が住民や警察と揉め事を起こすという事件は珍しくはありませんでしたが、清国兵が陸海のへだてなく不条理な行動をするのは有名だったようです。清国兵は欧米の兵士にはおもねって無礼を働きませんでしたが、日本人や朝鮮人に対しては侮って我意を通そうとするのが常だったようです。朝鮮人は清国人を怖れて目をつぶっていたため、朝鮮では騒動が起きませんでしたが、日本では清国人の無礼な行為が看過されなかったため、騒動が起こりがちでした。
 だから、事件が起きたのは起こるべくして起きたのです。清国人が日本人を蔑視していたから、遊廓で大暴れしたのに止まらず、巡査を逆恨みし、執拗な嫌がらせした上で手当たり次第に暴行を重ねたのでしょう。華夷秩序意識がこの様な行為をさせたのだと思います。
 
 戦後は明治維新以降の日本が富国強兵に走り、一方的に弱い中国を侵略して中国人を差別的扱いをしたと喧伝されがちですが、日清戦争以前は立場が逆でした。清国は欧米列強の侵食に遭っていましたが、アジアでは依然強大な国で周辺国には横暴な振る舞いをしていたのです。
 
 21世紀になって、また大国になった中国は経済力を背景に海軍力の増強を急速に進めています。南シナ海や東シナ海で執拗な軍事行動を繰り返し、アジアでの海洋覇権を握ろうとして横暴な振る舞いを始めています。中国国内では、中国は強くなったのだから、各国は中国のルールに従うべきだとの声も見受けられるようになりました。また、華夷秩序意識が頭をもたげてきているのです。
 菅政権の時の尖閣沖衝突事件で、強硬姿勢に出れば、日本政府は腰砕けになるという教訓を得た中国は居丈高に振る舞い、自ら引くことは今の状況では無いでしょう。
 長崎事件で福沢諭吉は「軍備増強とは、開戦に備えるばかりでなく、開戦を回避できる抑止力ともなる」と主張しました。翻って、現在の日本を見ると如何でしょうか。日中の軍事バランスを均衡させる重要性を認識しているでしょうか。
 

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天下三肩衝 後編

 「天下三肩衝 前編」では天下三茄子と同様に、大名物の肩衝茶入3つを総称して天下三肩衝と呼ばれると書きました。
 今回は天下三肩衝(初花、楢柴肩衝、新田肩衝)がどの様な経過を辿り現在に至ったのか、順を追ってみます。
 
◆足利義政らから流出
 初花(以下、初花肩衝)、楢柴肩衝、新田肩衝とも中国で作られ、日本に輸入された物です。何時ごろ輸入され、どの様な経緯で伝わったか分かりませんが、室町時代中期には初花肩衝と楢柴肩衝を室町幕府第8代将軍・足利義政が所持していて、新田肩衝はわび茶の創始者とされる村田珠光が所持していました。
 
 初花肩衝は足利義政から村田珠光の高弟で茶の湯名人と言われた鳥居引拙(奈良の人とも、堺の商人とも)に渡り、鳥居引拙から京都の豪商・大文字屋の疋田宗観が買い取ります。
 楢柴肩衝は足利義政が村田珠光に下賜し、珠光から鳥居引拙に渡ります。鳥居引拙から直接買ったのかは分かりませんが、堺の豪商・天王寺屋宗伯(津田宗伯)が購入。その後、博多の豪商・神谷宗白が1000貫で宗伯から買い取ります。
 新田肩衝は村田珠光が茶人でもあった武将の三好政長に譲り渡していました。
 
◆信長の名物狩りと本能寺の変
 1568年、信長が上洛すると、松永久秀がつくもを献上、今井宗久からもルソン渡りの茶壷「松島」を献上されます。これが切っ掛けとなり、信長は名物茶道具の価値を思い知らされ、「茶の湯」の利用価値を悟ります。信長は「一国を支配する者は、一国の珍宝をも支配せねばならぬ」と思い定め、丹羽長秀と松井友閑に「京と堺にある名物を徴収せよ」と命じ、名物狩りを始めます。
 名物狩りにより、大文字屋宗観から初花肩衝を召し上げ(1569年)、三好政長(宗三)ゆかりの者から新田肩衝を入手します。
 
 新田肩衝の伝来には三好政長→織田信長となっているのですが、三好政長(1549年没)は名物狩りが始まった頃には既に亡くなっているため、政長から信長が直接入手するのは不可能です。よって、新田肩衝を譲った者は政長ゆかりの者だと推測されます。たぶん、それは政長の子・三好政勝(右衛門大夫)ではないでしょうか。
 政長は茶壷の「松島」も所持していたのですが、政勝はそれを武野紹鴎(政長の茶の湯の師匠)に売り渡しています。だから、政勝は松島だけではなく、新田肩衝も相続していたと思われます。1570年に、政勝は信長に降伏し、織田軍に加わっていますので、その時に献上したのかもしれません。
 
 1577年、信長は初花肩衝を嫡男・織田信忠に三位中将の昇進祝いと家督相続の印として、他の茶道具と共に贈ります。
 信長は3つの内2つを手に入れ、所持したことが無いのは楢柴肩衝だけになりました。
 楢柴肩衝は神谷宗白が所持していたのですが、宗白は事業に失敗して困窮し、楢柴肩衝を所持し続けることが出来なくなりました。そこで、大友宗麟や信長が目を付けだすのですが、それを知った天王寺屋道叱(津田宗室)は堺衆の面目にかけて、大名の手に渡ることを防ごうとします。ただ、道叱が所持すると信長に奪われてしまう恐れがあるため、道叱の弟子だった博多の豪商・島井宗室(宗叱)に買い取ることを勧め、島井が宗白から2000貫で買い取りました。
 
 島井は楢柴肩衝を守り手放さずにいたのですが、ついに信長から声が掛かります。本能寺で催される茶会に正客として招かれたのです。相客は神屋宗湛と数十人の公家達でした。公家を押しのけ、商人が主賓だったのです。
 天正10年6月1日(1582年6月30日)、島井は名物開きの席で披露される道具を記した「御茶湯道具目録」を受け取ります。そこには、つくも茄子、勢高肩衝、珠光茶碗、千鳥の香炉などなど38種の名物道具が記載され、茶壷の三日月や松島は大道具なので安土城に残してきたが、いずれ見せると書いてありました。初花肩衝と新田肩衝は持って来ていなかったのです。信長はあえてこの2つを外したものと考えられます。公家の上座に座らせられ、天下三肩衝が抜けた名物群を見せられる島井はどの様に感じるでしょうか。安土城に天下三肩衝が揃えば、揃った姿を見せてやると信長が暗示し、楢柴肩衝を譲れと遠まわしに迫っていると受け取ったのではないでしょうか。
 実際、この日に茶会があったのかは意見が分かれますが、少なくとも、この日、島井は神屋と共に本能寺に宿泊していたようです。
 翌日の夜明け前、明智軍が本能寺を包囲します。本能寺の変の勃発です。信長は自刃し、本能寺は焼け落ち、名物道具も焼けた灰の中に埋もれてしまいました。本能寺が焼け落ちる前に、島井は「弘法大師真蹟の千字文」を、神屋は「枯木絵」を持ち出したと言われています。
 
 信長の死により、島井は名物狩りをまぬがれ、楢柴肩衝を譲らずに済みました。安土城に残された初花肩衝と新田肩衝はどうなったのでしょうか。
 明智光秀は本能寺を焼き討ちした後、安土城に入り、残された財宝を朝廷や有力寺社に寄進しています。両肩衝も光秀によって誰かに贈答されたのか、混乱のどさくさに紛れて持ち出されたのか、判然としませんが、安土城から消えたのは確かです。
 新田肩衝の伝来は織田信長→大友宗麟となっています。光秀と宗麟には接点は無いので、安土城から流出した後、誰かが九州にいた宗麟に売り渡したのでしょう。実は、島井と宗麟は昵懇の間柄でした。博多の商人として、また、茶人としても親しくしていたようです。この関係を考慮すると、島井が光秀に取り入って新田肩衝を入手し、宗麟に売却したと推測するのが妥当ではないでしょうか。
 一方、初花肩衝の伝来には織田信忠→松平念誓となっています。松平念誓(親宅)は徳川家康の嫡男・信康に仕えていました。信康が切腹した後は出家して、茶の湯三昧の日々を送っていたようです。その念誓が何故、初花肩衝を手にすることが出来たのでしょうか。初花肩衝を贈られた相手から譲られたのか、本能寺の変の時、安土にいて混乱に乗じて奪取したのか。初花肩衝の価値を考えると容易に譲渡するとは思えないため、後者のような気がします
 
◆秀吉の元へ
 本能寺の変後、豊臣秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち取り、清洲会議で主導権を握ると織田家は分裂し、秀吉派と反秀吉派が争いが始まります。最終的に賤ヶ岳の戦い(1583年)で秀吉が柴田勝家に勝利し、秀吉は家臣第一の地位を確立。実質的に織田家中を牛耳ることになりました。
 
 秀吉と勝家が合戦をしている時、三河では初花肩衝を得た松平念誓が徳川家康に召し出されていました。念誓は浜松城で家康に謁見すると初花肩衝を献上します。それにより、念誓は諸役免除の特権を得て、三河額田郡で茶園の経営を始めることになります。
 秀吉勝利の報を聞いた家康は石川数正を使いに出し(1583年5月)、賤ヶ岳の戦いの戦勝祝いとして初花肩衝を秀吉へ贈ります。
 
 名物狩りをまぬがれた楢柴肩衝は依然、島井宗室が所持していましたが、2000貫で買い取ったことを知った宗麟から売却を求められていました。宗麟は島井の師匠である天王寺屋道叱を交渉役に仕立て、「6000貫を出してもよいから譲ってくれ」と頼んでいます。また、家老を遣わし、「いくらでも出す」とも伝えていました。それでも、島井は断り続けていました。
 宗麟が楢柴肩衝に執着していることを知った秋月種実はそれを横取りすることを思い付きます。種実の父や兄は大友軍の攻撃により自害していて、種実にとって宗麟は仇敵だったのです。
 種実は何度も家老を島井の元に遣わし、交渉しますが、断られ続けられました。宗麟でさえ断られているのに、種実に譲る訳はありませんでした。頑なな島井に対して種実はついに強談判に及びました。武力行使してでも強奪する他はないと脅迫。噂は博多中に流れ、商人達を怯えさせます。楢柴肩衝一つのために町を焼かれては商人として立ち行かなくなるため、島井は泣く泣く手放します。それも、無償で。宗麟に売らず、種実に売ったとあっては宗麟の顔に泥を塗ることになり、宗麟の恨みを買わないためにも、無償で譲り渡し、強奪されたことを示さなければなりませんでした。
 ウィキペディアの「楢柴肩衝」の頁には、この取引について「秋月氏から大豆百俵が送られている」と書いてありますが、若し、そうだとしても、楢柴肩衝の価値に見合うものではありません。文禄2(1593)年に名護屋で大豆40升が100文で取引されたという記録から、大豆100俵の価格を試算(1俵=4斗=40升換算)すると、10000文=10貫文になります。島井宗室は2000貫で買い取っているので、大損害です。やはり、強奪されたとするのが妥当でしょう。
 閑話休題。楢柴肩衝が種実に強奪されたことを知った宗麟は烈火のごとく怒りますが、種実を攻めることを躊躇います。秋月種実は龍造寺氏らと結び大友氏に対抗していたのですが、沖田畷の戦いで龍造寺氏に島津氏が勝つと、龍造寺氏と島津氏を和睦させ、島津氏に従属していたのでした。だから、軽々しく種実攻めを行う訳にはいかなかったのです。
 
 島津氏と大友氏の争いの中で種実は領地を広げる一方、大友氏は衰退の一途をたどり、島津氏に対抗する力は大友氏には残っていませんでした。このため、1586年に宗麟は新田肩衝を持参して大坂城の豊臣秀吉を訪ね、秀吉傘下になることと引き換えに軍事的支援を取り付けます。
 1587年、新田肩衝を献上された秀吉はわざわざ新田肩衝を携行し、茶頭の津田宗及をも伴って、九州征伐に出陣。各地で島津軍を撃破し、最後には島津義久の降伏させました。この過程で、島津氏に与していた秋月種実も籠城して抵抗を示しています。秀吉は新田肩衝の焼失を恐れ、城に火を掛けさせませんでしたが、結局、種実は秀吉の大軍を前にして抵抗を諦め、楢柴肩衝を差し出して降伏したのでした。これにより、秀吉はついに天下三肩衝を3つとも手に入れました。
 
◆秀吉から家康へ
 天下人になって栄華を極め、多くの名物を収集した秀吉ですが、1598年、病の床に就きます。余命がいくばくもないことを悟った秀吉は嫡男・秀頼の行く末が心配で、家康らに後見人を依頼して亡くなりました。この時、秀吉は家康に楢柴肩衝を贈ったとされています。残る2つの内、初花肩衝は形見分けで大老の宇喜多秀家に贈られ、新田肩衝は豊臣秀頼が相続しました。
 秀吉死後、豊臣政権内部の対立は激化し、1600年、関ヶ原戦いに至ります。西軍の副大将に就いた宇喜多秀家は敗北し、逃亡の末、八丈島へ島流し。初花肩衝は家康に渡ります。
 
 関ヶ原戦いに勝利した家康は将軍に就任し、江戸幕府を開きますが、大阪の地では依然豊臣家が力を誇っていました。将軍職を早々と嫡男・秀忠へ譲り、大御所として実権を握っていた家康はの幕府安泰のために豊臣家を滅ぼすことを決断。大坂の陣(1615年)で滅亡に追い込みます。大坂城は炎上、秀頼は淀とともに自害し、豊臣家秘蔵の宝物も焼失します。
 新田肩衝はつくも茄子と同様に家康が藤重藤元・藤巌父子に命じ、大坂城の焼跡より回収させ、漆で修復させました。つくも茄子は褒美として藤元に下賜されましたが、新田肩衝は家康が引き取り手元に置きます。これで、秀吉に続き家康も天下三肩衝を3つとも手に入れたのでした。
 
◆家康以降
 豊臣家を滅亡させると、家康は早々に武家諸法度、一国一城令を制定して大名統制を強化し、更に禁中並公家諸法度を制定して朝廷の行動を制約しました。
 信長や秀吉は茶の湯を積極的に政治利用しましたが、家康は茶の湯より法度による支配に重きを置いたようです。
 家康自身、茶の湯を好まなかったようで、茶道具に執着していませんでした。ただ、天下人の家康の元には要求せずとも、名物道具が多数集まり、これらの品は柳営御物と呼ばれるようになります。
 
 話を大坂夏の陣の後に戻します。夏の陣では北庄藩(後の福井藩)2代藩主だった松平忠直(結城秀康の嫡男、家康の孫)が真田幸村を討ち取るなどの戦功を挙げ、初花肩衝を恩賞として与えられました。しかし、忠直は領地の加増がかったことに不満を抱き、後々、幕府と険悪な関係に発展します。
 
 豊臣家を滅亡させた翌年の1616年、家康は駿府城で死去します。
 新田肩衝は家康から11男の松平頼房(水戸徳川家初代・徳川頼房)へ譲られているのですが、その時期までは分かりません。もしかしたら、家康の形見分けで貰い受けたのかもしれません。それとも、頼房が1611年に元服して駿府から水戸に入って家を興した時に譲られたのでしょうか。
 頼房が新田肩衝の所有者となってからは水戸徳川家に代々受け継がれ、水戸徳川家が手放すことはありませんでした。
 
 1623年、2代将軍・徳川秀忠によって、松平忠直が豊後にされて謹慎させられ、翌年に忠直の嫡男・仙千代(光長)が越後高田に国替えとなるという事態が発生。原因は一般的に忠直が幕府に反抗的(病を理由に江戸への参勤を怠る)で、乱行(将軍秀忠の娘だった正室・勝姫の付き人を殺害など)が目に余ったためとされます。このため、現代では忠直の悪行が強調され、日本史上最悪の暴君とまで言われています。ただ、鯖江市では名君として祭られていたり、忠直の乱行が書物(藩翰譜)に現れるのは忠直の死後半世紀も経った後からで、時代が進むにつれ話エスカレートし、側室を笑わせるために人を次々に殺したとか、妊婦のお腹を裂いて取り出した胎児に刀を突き刺したとか、後世に伝えられている乱行の数々は中国の故事を元にした作り話とみられることから、忠直を将軍に据えようとする大掛かりな陰謀を幕府が潰したとする興味深い説(杉原丈夫「忠直配流」)もあります。
 忠直の配流により、初花肩衝の消息は不明になります。忠直が豊後に携えて行き、死後(1650年没)に誰かに渡ったのか、改易の時に福井藩もしくは高田藩に受け継がれたのか、明らかになっていません。
 
 1657年、4代将軍・徳川家綱の治世の時に明暦の大火が起き、江戸城は天守閣を含む大半が焼失しました。将軍家に伝わっていた楢柴肩衝はこの大火の後、焼け跡から探し出され、修復されましたが、消息不明になり、以来不明のままです。
 
 1698年、奏者番の松平備前守(相模国玉縄藩主・松平正久)が初花肩衝を5代将軍・徳川綱吉に献上し、4万両を授かっています。
 松平忠直が所持していた初花肩衝を若年寄から奏者番に降格された小大名の松平正久が持っていたのでしょうか。
 正久の祖父・松平正綱は2代将軍・秀忠に重用され、幕府の財政政策や天領の管理を担当し、権勢を誇っていました。それから想像すると、忠直の嫡男・仙千代(松平光長)が新規に立藩できるよう、正綱に力添えを依頼して初花肩衝を贈り、正綱の家系に代々相続されたのかもしれません。
 それとも、この年、光長の養嗣子・松平長矩(松平宣富)が御家再興が許され、美作に10万石を貰い津山藩を立藩していることから、奏者番の正久を通してお礼として献上されたのでしょうか。ちなみに、忠直配流後、光長は高田藩主に納まっていたのですが、越後騒動で高田藩は取り潰され、光長は伊予松山藩へ配流されていました。
 正久から献上された初花肩衝は綱吉の所有となり、以後、将軍家に受け継がれます。
 
◆近年
 楢柴肩衝は江戸時代に消失してしまいましたが、新田肩衝は水戸徳川家が、初花肩衝は徳川宗家が明治以降も受け継いでいました。
 
 1967年、水戸徳川家13代当主徳川圀順氏が水戸徳川家に伝わる古文書や道具類及び西山荘を寄付し、財団法人水府明徳会を設立。新田肩衝も水府明徳会に寄付されました。
 現在は特例法人から公益財団法人へ移行した公益財団法人徳川ミュージアムに所蔵されてます。
 
 一方、初花肩衝の方は1959年に重要文化財に指定されます。
 その後、江戸開府400年に合わせ、2003年に徳川宗家18代当主徳川恒孝氏が将軍家に伝来した歴史資料を公のものとして一括して永久保存することを目的に、財団法人徳川記念文化財団を設立すると、初花肩衝も納められました。
 こちらも公益法人制度改革に伴い、公益財団法人に移行し、現在では公益財団法人徳川記念財団となっています。

 

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